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ごろごろローリング

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2005-08-25 | まいにち
からだじゅうがしおれるほど泣いて、それから信じられないくらい遠くまでほんとうに遠くまで行って、それで帰ってこないなんてことにはならないで。
帰ってこられないよりも、帰ってこない ってことのほうがずうっとおそろしいよ。
なにも留めて置けない無力さをしっているから自分も逃げていこうとするのは、でも、きっと、間違いなんかではなくて。
そうだ、たぶん、うまれてからいままで、だれかが何かを決定的に間違いだと指摘することなんて不可能なんだ。
わたしがしっていることは、無力さとか、無能さとか、非力さとか、なにかをしようとしてもできないときの虚無感とかそういうあきらめるしかないようなことについてばかりで、だから、たくさんのひとびとがうつくしいものをいくつも取り出して見せてくれる。わたしはでも、しってる、せかいが、ほんとうはきちんとうつくしくあることを。だから、そういうきれいなものをちゃんと綺麗だと思えるし、感動することも、がっかりすることも日常的にある。
でも、それでもそういうもののうつくしさはたぶん永遠にちかいのに、それを見るひとびとが、取り巻くものごとが永遠なんかじゃなくて、基準がどんどんかわっていくからそのものがうつくしくなくなっちゃうみたいにおもえてきてしまう、そういうことだって、もうちゃんとしってる。
なにかを一途に思い続けることが、難しいとはおもわない。ただそれを、その気持ちをほんとうにだれかと共有することが、物凄く難しいことだと思う。わたしは、きっと、かなしくなる。わたしのめにうつる輝きを誰かにやんわりとでも否定されてしまったら。だから、うつくしいものはすべて留めておけないのだと思い込めて、そこまでたどりついてしまった自分も、ひとびとも、せかいも、すべて無力だって、おもう。

うつくしい傷を持ちたいとおもってた。
それで、そうできたとおもってた。
いつかはきっと、だれかが愛してくれると、おもってる。すべてをまだ信じている。信じているのに、そんな瞬間は一生来ないんじゃないかと疑ってしまって、疑う自分がいるってことは信じてなんかいないんじゃないかって思うと、途方もなくなる。
堂々巡り、わたしはどこへもいけなくなる。
わりきるということなのか、わからないけれど、ほかになにかがなければわりきるしかないんだろう。
どこへむかうかわからないまま歩き続けて、ゴールなんてあるわけないのに、あったら絶望するにきまっているのに、ゴールを風景のなかに探してしまう。どうしてだろう。終わりを望まないから、終わりを予期してしまう。
こわい。
飛んでいってしまえばいいとおもったものが手の中から消えたときに、それがどうして自分の責任じゃないと言い切れるんだろう。なにもかもあやふやで輪郭がきまってるものなんてないのに、それを伝って歩けといわれれば、わたしはそれをさがして手をのばしつづけるしかない。
きっとひとびとはわたしが乞うてるとおもうだろう。それはどれだけ惨めだろうか。
だれのやくにもたたないからだなら、いっそちりぢりになればいいのに。
思ってもおもっても、ぎちりとした細胞は互いの手を離そうとしないから、だから、わたしだってここにあるせかいから手を離してなんかやらないって、おもう。