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ごろごろローリング

それと、

2005-08-31 | まいにち
「てんごくへいってきたひとのはなし」
そこはもうきれいでたのしくてうつくしくてやさしくて、不満を言うひとはいないし不正を働こうとするひともいないし、だからとてもいいところで、ぼくはそこでねそべりながらねむくないのに何日間もうとうとしたり、雲をひきちぎって首をしめてみたり、怠惰な顔をしてる動物のかおをなでまわしてみたり、とにかくもうなにもかもが無意味なんだけどなにもかもが無意味でも許されるようなくうかんのなかでなにもかもが無意味になっていくじぶんにあまくあまくしていたんだよな、でもそれでいいのかっていったらよくないだろうって思ってしまう自分がいて、でもそこじゃあそれがよくないだなんて考えるひとなんていなくて、そのしゅんかんにあぁここには人間なんてひとりもいないんだって気付く、ぼくはまだ人間なのにここにいるのはなぜだろう?願ってしまったのは一体なんだったのかわからなくなって、溶け出してすかすかになったのうみそをずいぶんくろうして探し出して、くびすじにまとわりついた雲をすっかりとってからきづいたんだ、ああここにいるべきではないんじゃないんだ、ここにいたくないんだ、いこう、そうおもったんだ、。



たとえばここにあるすべてが自分の期待に沿わないものだとして、わたしはどうするだろう、きっとどうもしないだろう。相対評価のみで生きていけるのがいまの人間だとしたら、うん、でもそれはすごいかなしい。わたしがかなしんでもどうにもならないんだけど、そこでどうにもならないからって感情をとめてしまったらそれこそ、考えるのも気持ち悪いことになっちゃいそう。
唇がかわいてかさかさと音をたてて流されていった。

うーん

2005-08-30 | まいにち
なんか合宿のときに先生ほとんどみんなごはんのあとに煙草すってたりして、それてけっこうすきな先生がけっこうすきなマルメンすってたりして、うーんいいないいなって思う。それでかえってきてあー吸いたい吸いたいって思ってさぐってみたんだけどなんか一箱もみつかんなくて、これはもうかみさまが吸うなっていってんだなぁって思ってあきらめてみたんだけどなんかおちつかなくて、飴とかひたすらがりがりかんだ。お酒はあんまり飲みたいとおもわない(でも飲み会あればたのしいから飲むけれど)けど煙草はなんかとつぜん吸いたくなる。血中のニコチン濃度を増加させたくなるよ。肺がまっくろになったってどっかの小学校の先生はやめなって言う指導をするだろうけどいくらきれいな肺もってたっていっしょうイライラかりかり消化できない気分もつのとかいやだっておもう自分が若いとおもう。ああこれでほんとうに将来肺がんになったら自分結構後悔するんだろうなぁって。そもそも自分の将来を中年すぎまであつかましくも想像できるようになってしまった自分にもびっくりするんだけど。はーたばこすいたい。かいにいくきりょくもない。いえからでたくないけどきょう塾。

どんなばしょにおりたっても結局うらとおもてをはがして作っちゃって、しょうがないんだなぁって思う。なんかもうそれって悲しきかな人間の性 って感じのもんで、だったらあがいてもしょうがないじゃんかって もう何度も何度もくりかえすことなんだけどね、なんでこうなんどもおなじことばっかりいってるんだろうじぶん。写真、とりにいこう。

しみ

2005-08-30 | まいにち
おしつぶされるみたい。
さからえないなにかが用意されている。神をしんじるのも、人をしんじるのも、おなじくらいやさしい。むずかしい。さわれるものを信じるのも、さわれないものを夢見るのも、おなじように、残酷なように。
少しずつずれた、やっと大きな溝が出来た。これでわたしは救われるだろうか。でも、きっと救われる。そうでないわけがない。
すべてがいまこの場所に導かれるように、ここに立ったときにすべてがすらりと繋がるように、あるべき場所であるべき時間になされたのだとおもう。
わたしというにんげんがつくられて、吐き出されて、立ち上がって、そしてこれからまた死ぬまで、あとなんかいおなじことを繰り返して、あたらしいことを学ぶんだろう。おそろしいくらい予想できない未来が気の遠くなるくらい積み重ねられているのだと、なんの疑いもなく想像できる自分を、でも、誇りに思う。

口の中が気持ち悪くて、しつこいくらい歯をみがく、うがいをする。
胸がときどきずしんとつぶされるようにおもくなる。
左腕が痺れたみたいになって、ぶよぶよした手袋をぶらさげているようだとおもう。
これもやっぱりずれなのかな。
違和感がない。そのことに違和感を抱く。何かをばかみたいに掘り下げて、しあわせのなかに疑問の赤いしみをみつけなきゃ気がすまないみたい。
唐突に、ほんとうに唐突に、自分がやっぱりいなきゃいいんだっておもう。涙をこらえて飲み込む息が生臭く感じられて、おぞましいおぞましいおぞましい、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、何が、何が?自分が。存在が、せかいとつながれない、否定される、おちていく、足元の空間だけがぽかりと黒く口を開いて、わたしだけがひきずりこまれる、砕かれる、なくなる、そんざいしなくなる、そうおもう。
だれかに助けを求めようとして顔をあげて、ああ誰もいない、こんなにたくさんひとがいるのにどうしてだれもいない、ひとりぼっちだったことなんて今までにないのに、だれもいない、なみだがからだの内側を際限なく冷やして、自意識を覚まそうとするのに無理で、ばかみたい、ばかみたいほんとうにばかだ、そう思ってもあたまのなかで鐘はいつまでも打ち鳴らされる。
どこからずれた。
どこまで、ずれてしまった。埋められないっておもう。もうほんとうに。そんなにとおくまで、ふかくまできてしまったわけではない。それでも、もう戻れるわけがないって。絶望でも失望でも快感でもなく、事実としてそこにある「もどれない」ということばを、どう扱ったらいいのかがわからない。感情が自然についてこない、そのことこそが、なんていうか、「しょうこ」。

きっとだれでもいいわけじゃない。
それでもとうとつにくるなにか、それが来るとわたしは、目の前にいるひとびとのなかで自分がおもういちばん「すき」なひとに、手を伸ばしそうになってしまう。たすけて、たすけて、いま。
そのときにだきしめてくれたり殴り飛ばしてくれなければ意味なんてないのに、感情はあとにのこってだれかへの恋のきもちにすりかわってゆく。
間違いって、だれがきめることだ。
感情を定義付けられるひとなんているのか。
手を伸ばすわたしが持つ感情がなんであれ、わたしのすくないボキャブラリーがそれを恋というなら、恋なんだとおもう。むなしさをひきずって、ばからしさを身に染みて、学習しない自分を何度も何度も恥じたとしても、変わらない、きっと、変われない部分がある。だったら抱きしめていこうって、それもやっぱり何度もおもって、そのたびに、ほんとうはわたしはすこしだけしあわせになる。
手を伸ばす、さきに、目標とするだれかがいるなら、いまはそれを楽しめばいい。

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2005-08-25 | まいにち
からだじゅうがしおれるほど泣いて、それから信じられないくらい遠くまでほんとうに遠くまで行って、それで帰ってこないなんてことにはならないで。
帰ってこられないよりも、帰ってこない ってことのほうがずうっとおそろしいよ。
なにも留めて置けない無力さをしっているから自分も逃げていこうとするのは、でも、きっと、間違いなんかではなくて。
そうだ、たぶん、うまれてからいままで、だれかが何かを決定的に間違いだと指摘することなんて不可能なんだ。
わたしがしっていることは、無力さとか、無能さとか、非力さとか、なにかをしようとしてもできないときの虚無感とかそういうあきらめるしかないようなことについてばかりで、だから、たくさんのひとびとがうつくしいものをいくつも取り出して見せてくれる。わたしはでも、しってる、せかいが、ほんとうはきちんとうつくしくあることを。だから、そういうきれいなものをちゃんと綺麗だと思えるし、感動することも、がっかりすることも日常的にある。
でも、それでもそういうもののうつくしさはたぶん永遠にちかいのに、それを見るひとびとが、取り巻くものごとが永遠なんかじゃなくて、基準がどんどんかわっていくからそのものがうつくしくなくなっちゃうみたいにおもえてきてしまう、そういうことだって、もうちゃんとしってる。
なにかを一途に思い続けることが、難しいとはおもわない。ただそれを、その気持ちをほんとうにだれかと共有することが、物凄く難しいことだと思う。わたしは、きっと、かなしくなる。わたしのめにうつる輝きを誰かにやんわりとでも否定されてしまったら。だから、うつくしいものはすべて留めておけないのだと思い込めて、そこまでたどりついてしまった自分も、ひとびとも、せかいも、すべて無力だって、おもう。

うつくしい傷を持ちたいとおもってた。
それで、そうできたとおもってた。
いつかはきっと、だれかが愛してくれると、おもってる。すべてをまだ信じている。信じているのに、そんな瞬間は一生来ないんじゃないかと疑ってしまって、疑う自分がいるってことは信じてなんかいないんじゃないかって思うと、途方もなくなる。
堂々巡り、わたしはどこへもいけなくなる。
わりきるということなのか、わからないけれど、ほかになにかがなければわりきるしかないんだろう。
どこへむかうかわからないまま歩き続けて、ゴールなんてあるわけないのに、あったら絶望するにきまっているのに、ゴールを風景のなかに探してしまう。どうしてだろう。終わりを望まないから、終わりを予期してしまう。
こわい。
飛んでいってしまえばいいとおもったものが手の中から消えたときに、それがどうして自分の責任じゃないと言い切れるんだろう。なにもかもあやふやで輪郭がきまってるものなんてないのに、それを伝って歩けといわれれば、わたしはそれをさがして手をのばしつづけるしかない。
きっとひとびとはわたしが乞うてるとおもうだろう。それはどれだけ惨めだろうか。
だれのやくにもたたないからだなら、いっそちりぢりになればいいのに。
思ってもおもっても、ぎちりとした細胞は互いの手を離そうとしないから、だから、わたしだってここにあるせかいから手を離してなんかやらないって、おもう。

++

2005-08-17 | まいにち
いやでも。いえない
いえない
ことばがみずに、飲み込まれるので、窒息しそうなわたしは、きちんといきをつむぐのにせいいっぱいになる、そのときあのひとはとてもとても不思議そうなかおして、どうしたの?
ねえわかる?
いやなんじゃないの、なにもかも、いつも、どこでだって、わたしにはやさしい。
せかいから拒まれているわけじゃない。
あらかじめそこに存在する問題につまづいたことなんて一度だってなくて、わたしがじぶんで置いた石のうえを、一周してころぶ。ころんだあとでしっかりとその石を拾い上げるんだけどね わたしのどこもかしこもあなだらけだからさまた落としてしまう。意味ないとおもわない。意味ないことってない。
ただどうしても、またおなじみちをあるいてしまうんだよ。石を、ぜんぶ、あつめたいんだとおもう。
それでもね、ちょっとずつちょっとずつずれた道が、一年前よりかはどこかへ進んでいればいいっておもう。信じないときがおかしくなりそうだから。
前とか、うしろとかじゃないんだと思う。
「さき」があるだけ。「まえ」には戻れない。にげることも、できない、じっさいには。
わたしはただね、時間をもどれないってわかった。頭の中でいがいは。かなしかった。

じぶんがやっぱりよわくて、よわいってわるいとイコールじゃないのに厭がる自分それが、やだ。
いきをするだけでいいよ。
でも泣けるばしょなんてたくさんはない。いきてるということ。保健室がたくさんあったらわたしのからだはきっとおきあがることをやめてしまう。

あいたいひと。
やさしいひと。
でもだけど、みんな、やっぱりいつでもやさしい。
わたしはもうきずつけることさえしない。
つかれたよ。
一年後のじぶんが、三ヶ月後のじぶんがいまをみてばかだなぁってあきれてもはずかしいとおもわない。「さき」へすすめた自分が今をかわいらしく思えるようないきかたをするの。それいがいの「さき」は考えられない。
考えられるいきかたしかできないじぶんでいいのかとはおもうのだけど。
あー 

だめかも


みんなきっとね
きずがなければわかってくれない
かんがえながらする痛みはものすごいものかもしれない
最終手段によっかかってそれでも にげたさきをいきるのは、きっともっともっとつらいよ