およそ9ヶ月半ぶりの初海外旅行シリーズ記事;;は、プラハ滞在2日目の朝、宿泊している郊外の団地の「プライベート・ルーム(今風に言えば、「民泊」でしょうかw)」から地下鉄でプラハ都心へと赴き、プラハのとある街角を、気ままにそぞろ歩くことからスタート。
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-04>
日曜日の朝ということもあったのか、都心に程近い街角にもかかわらず、往来する人も車も疎らな、閑散とした街路を、特定の目的地もなく、気の赴くままに歩き回っていました。
正直、日中の街中は、日本とは比べ物にならない位に、車の排気ガスの猛烈な悪臭が鼻について閉口していたので、爽やかな朝の空気を、ノンビリとした朝の都会の静けさと共に堪能しながら、飾らないプラハの下町?散策を楽しみました。
プラハ(Praha)都心に程近いビノフラディ(Vinohrady)という地区にある、平和広場(Náměstí Míru)に建つ、聖ルドミラ教会(Kostel sv. Ludmily)。
このような巨大で荘厳なゴシック様式の教会を実際に目にするのも、初めてであったので、唯々圧倒されるばかりでした。
日曜日の朝(といっても、10時を回っていましたが)で、扉から中の様子を窺うと、ミサの最中でした。
大きなロータリーとなっていた、平和広場。
広場は、カラフルな建物に取り囲まれていました。
この辺りの地形は、西にあるブルタバ(モルダウ)川(Vltava)へ向けて下っていく、緩やかな傾斜となっているのですが、それを織り込んで、建物は綺麗に高さを揃えていたのが、印象的な景観でした。
平和広場に面して建っていた、ビノフラディ劇場(Divadlo na Vinohradech)。
1990年当時のプラハは、共産党独裁政権が崩壊したビロード革命直後で、街中の至る所で建物の化粧直しに取り掛かったばかりの頃。
長年放置されてきた建物の老朽化や大気汚染等による外壁の劣化で、立派な建物群もくすんだ色合い(これはこれで、年月を経てきた古都の雰囲気を感じたものでしたが)のものが多かったのですが、そんな中で純白の外壁をしたこの劇場の存在感が、目を引きました。
平和広場から南東方向へと延びる、フランス通り(フランツォウスカー/Francouzská)を、望みます。
プラハの街中に路線を張り巡らせているトラムの一路線が、この通りもずっと貫いています。
トラムの良く似合う街、プラハです。
フランス通りをしばらく進んでいくと、ロシア通り(ルスカー/Ruská)という通り名に変わります。
因みに、平和広場を挟んで、フランス通りと対象の方向(北西)へと延びる通りは、イギリス通り(アングリツカー/Anglická)という名が付けられていました。
聖ルドミラ教会、角度を変えて眺めると、随分と印象が変わります。
西から真正面を眺めた先程は、2つの尖塔もどっしりとした重みと威厳を感じさせられましたが、こうして、正面のファサードの後ろ側の様子も窺ってみると、側面にも人の出入りする出入口らしきものがあったり…と、日常の生活感を感じ取ることができるものですね。
道路を走行する自動車に、まだ共産主義時代が終わったばかりという、時代を感じます。
巨大ロータリーも珍しくてw、平和広場で撮影しまくっています(^^;)
道路上の、右矢印の方向へと進むと、フランス通りへと入ります。
この画像に写っている建物も今日、グーグルマップのストリートビューで見てみると、見違えるように綺麗にお化粧直ししていて、驚いてしまいます。
建物自体は、全く変わっていないので、面影はしっかりと残っていて、懐かしい気持ちも蘇ってきました。
プラハの、通り名標識。
街中にこうしたプレートがあるので、地図を片手にあてもなくブラブラ歩いていても、道に迷うことはありませんでした。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この場所、ストリートビューで確認してみたら…1階がピッツェリアになって、外壁もすっかり綺麗に!
それでも、この標識のプレートは寸分違わぬ同じ位置に、同じ意匠で取り付けられているとは、感慨深いですねぇ。
この広場周囲には、国の名前が付けられた通りが多いですが、プラハの通りも他のヨーロッパの都市同様、他に人名や日付、歴史的事件等、様々な通り名が存在しています。
1990年当時は、共産主義時代に付けられたままの通り名も多かったですね。
いかにも!な通り名を挙げると、例えば、勝利の2月通り(ビチェズネーホ・ウーノラ/Vitězného Února/共産党が独裁政権を樹立した政変(二月事件)の発生した1948年2月を記念して命名)とか、国家安全保障隊通り(スボル・ナーロドニー・ベスペチノスチ/Sboru národní bezpečnosti/内務省国家安全保障隊(SNB)に因んだ名称で、このSNBの秘密警察部門が当時のチェコスロバキア版КГБ(KGB)、国家保安部(StB/Sbor státní bezpečnost)でした)なんて名称の通りもありました。
もちろん、今日では、前者はウィルソン通り(ビルソノバ/Wilsonova)、後者はブルショビツェ通り(ブルショビツカー/Vršovická)と改称されています。
また、テニスの人と同名である、「Navrátilova」なんて名称の通りもありますね(こちらは現存)。
フランス通りに面したアパートの入口。
普通の街中のアパートメントで、実際に普通の人々が生活している建物であるとは、当時は信じられませんでしたw
こうした、「目に見えるヨーロッパの歴史」を実感したくて、わざわざ初海外旅行の行き先にプラハを選んだ甲斐があったと、目に入るものに片っ端からカメラを向けていたのを、今でも憶えています。
因みに、こちらが現在の姿。
…何というか、軽やかな印象に様変わりしていますね…!!
平和広場から東の方向へと延びている、スレスカー通り(Slezská)。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この辺りは、街中の住宅地といったエリアなのですが、建ち並ぶ建物にはしゃれた装飾が施されていて、初めてヨーロッパの都市を訪れた東洋人の目には、その煤け具合共々、現代に脈々と息づく歴史を感じ取ったものでした。
こちらも、今昔の様変わりぶりには、ビックリでしたw
平和広場からブルタバ川へと至る、西の方向へ少し歩いた、ケ・カルロフ通り(Ke Karlovu)。
普通の通りを歩いていても、こうした凝った装飾を施した建物に出会うことができるプラハ、流石は建築様式の博物館の異名を持つ街です。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
施されている装飾も、過度にけばけばしくなく、スッキリとした印象を与えるのも、プラハの都会的なセンスなのでしょうね。
例によって、グーグルマップで今日との比較を確認してみると、今日では手前の道路部分は、アスファルトの舗装となっていますね。
ケ・カルロフ通りから分岐していた、ナ・ボイシュチ通り(Na bojišti)。
石畳の美しさに、思わず貴重なフィルムを1枚消費w
そういえば、デジカメのデの字の知る由もなかった当時、かなり大量のフィルムを持ち込み、国境通過の度に難癖を付けられないか、ドキドキしたものでした。。。
今日では、うらぶれた感じは、全く無くなっていますね。
駐車車両の車種も、見事に一変!
プラハ滞在中、この通りにあるビアレストランで夕食を摂ったのですが、料理の画像が1枚もありません!
ケ・カルロフ通りに建つ、アントニーン・ドボルザーク博物館(Muzeum Antonína Dvořáka)。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
チェコの著名な音楽家の一人である、アントニーン・ドボルザーク(Antonín Dvořák/チェコ語では「ドゥボジャーク」という感じに発音)の博物館です。
プラハ国立博物館(Národní muzeum v Praze)を構成する、チェコ音楽博物館(Muzeum české hudby)の施設で、月曜日を除く毎日10時~17時オープン、とあります。
こじんまりとしていながら、瀟洒な外観をした館、といった印象の建物でした。
当時のプラハの建物の御多分に漏れず、こちらもまた、いささかくたびれた感を纏った壁面で、かえって長年使われてきた建物のリアルな雰囲気を、感じることができました。
当然、入館したのですが、展示などの印象は憶えていません;
アントニーン・ドボルザーク博物館から更に西へと進み、再び表通り(イェチナー通り/Ječná)へと合流。
通りに面して、大きな教会が建っていました。
教会の名は、聖イグナチウス教会(Kostel sv. Ignáce)です。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
自分的には、リアルなくすみ具合が、プラハの落ち着いた風情を醸し出しているように感じられて、好きな情感なのですが、やはり今日では、見違えるまでに化粧直しをされて、ピッカピカになっているのでしょうね。
街が綺麗になるのを否定している訳ではありませんが、長きにわたり、人々が利用してきた証としての「ヨゴレ」を、戦禍を免れた趣きある街角に見出せたこの時期に訪れ、直に感じ取れたこの旅の機会は、今でも貴重な体験であったと、この記事を書きながら、強く思いました。
それから、観光スポットではない、人々が日常生活を営んでいる、普段着のプラハの、朝の街角の爽やかさを少しだけお裾分けしてもらったような、ちょっと得した気分になれた、そぞろ歩きでした。
この辺りは、平和広場から、ほぼ真西へ一直線に1km程進んだ場所にあたります。
ブルタバ河畔までは、更に西へ600m程。
悠然とした流れの、雄大な眺めに、再び会いに行きます。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-06>>
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-04>
日曜日の朝ということもあったのか、都心に程近い街角にもかかわらず、往来する人も車も疎らな、閑散とした街路を、特定の目的地もなく、気の赴くままに歩き回っていました。
正直、日中の街中は、日本とは比べ物にならない位に、車の排気ガスの猛烈な悪臭が鼻について閉口していたので、爽やかな朝の空気を、ノンビリとした朝の都会の静けさと共に堪能しながら、飾らないプラハの下町?散策を楽しみました。
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プラハ(Praha)都心に程近いビノフラディ(Vinohrady)という地区にある、平和広場(Náměstí Míru)に建つ、聖ルドミラ教会(Kostel sv. Ludmily)。
このような巨大で荘厳なゴシック様式の教会を実際に目にするのも、初めてであったので、唯々圧倒されるばかりでした。
日曜日の朝(といっても、10時を回っていましたが)で、扉から中の様子を窺うと、ミサの最中でした。
大きなロータリーとなっていた、平和広場。
広場は、カラフルな建物に取り囲まれていました。
この辺りの地形は、西にあるブルタバ(モルダウ)川(Vltava)へ向けて下っていく、緩やかな傾斜となっているのですが、それを織り込んで、建物は綺麗に高さを揃えていたのが、印象的な景観でした。
平和広場に面して建っていた、ビノフラディ劇場(Divadlo na Vinohradech)。
1990年当時のプラハは、共産党独裁政権が崩壊したビロード革命直後で、街中の至る所で建物の化粧直しに取り掛かったばかりの頃。
長年放置されてきた建物の老朽化や大気汚染等による外壁の劣化で、立派な建物群もくすんだ色合い(これはこれで、年月を経てきた古都の雰囲気を感じたものでしたが)のものが多かったのですが、そんな中で純白の外壁をしたこの劇場の存在感が、目を引きました。
平和広場から南東方向へと延びる、フランス通り(フランツォウスカー/Francouzská)を、望みます。
プラハの街中に路線を張り巡らせているトラムの一路線が、この通りもずっと貫いています。
トラムの良く似合う街、プラハです。
フランス通りをしばらく進んでいくと、ロシア通り(ルスカー/Ruská)という通り名に変わります。
因みに、平和広場を挟んで、フランス通りと対象の方向(北西)へと延びる通りは、イギリス通り(アングリツカー/Anglická)という名が付けられていました。
聖ルドミラ教会、角度を変えて眺めると、随分と印象が変わります。
西から真正面を眺めた先程は、2つの尖塔もどっしりとした重みと威厳を感じさせられましたが、こうして、正面のファサードの後ろ側の様子も窺ってみると、側面にも人の出入りする出入口らしきものがあったり…と、日常の生活感を感じ取ることができるものですね。
道路を走行する自動車に、まだ共産主義時代が終わったばかりという、時代を感じます。
巨大ロータリーも珍しくてw、平和広場で撮影しまくっています(^^;)
道路上の、右矢印の方向へと進むと、フランス通りへと入ります。
この画像に写っている建物も今日、グーグルマップのストリートビューで見てみると、見違えるように綺麗にお化粧直ししていて、驚いてしまいます。
建物自体は、全く変わっていないので、面影はしっかりと残っていて、懐かしい気持ちも蘇ってきました。
プラハの、通り名標識。
街中にこうしたプレートがあるので、地図を片手にあてもなくブラブラ歩いていても、道に迷うことはありませんでした。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この場所、ストリートビューで確認してみたら…1階がピッツェリアになって、外壁もすっかり綺麗に!
それでも、この標識のプレートは寸分違わぬ同じ位置に、同じ意匠で取り付けられているとは、感慨深いですねぇ。
この広場周囲には、国の名前が付けられた通りが多いですが、プラハの通りも他のヨーロッパの都市同様、他に人名や日付、歴史的事件等、様々な通り名が存在しています。
1990年当時は、共産主義時代に付けられたままの通り名も多かったですね。
いかにも!な通り名を挙げると、例えば、勝利の2月通り(ビチェズネーホ・ウーノラ/Vitězného Února/共産党が独裁政権を樹立した政変(二月事件)の発生した1948年2月を記念して命名)とか、国家安全保障隊通り(スボル・ナーロドニー・ベスペチノスチ/Sboru národní bezpečnosti/内務省国家安全保障隊(SNB)に因んだ名称で、このSNBの秘密警察部門が当時のチェコスロバキア版КГБ(KGB)、国家保安部(StB/Sbor státní bezpečnost)でした)なんて名称の通りもありました。
もちろん、今日では、前者はウィルソン通り(ビルソノバ/Wilsonova)、後者はブルショビツェ通り(ブルショビツカー/Vršovická)と改称されています。
また、テニスの人と同名である、「Navrátilova」なんて名称の通りもありますね(こちらは現存)。
フランス通りに面したアパートの入口。
普通の街中のアパートメントで、実際に普通の人々が生活している建物であるとは、当時は信じられませんでしたw
こうした、「目に見えるヨーロッパの歴史」を実感したくて、わざわざ初海外旅行の行き先にプラハを選んだ甲斐があったと、目に入るものに片っ端からカメラを向けていたのを、今でも憶えています。
因みに、こちらが現在の姿。
…何というか、軽やかな印象に様変わりしていますね…!!
平和広場から東の方向へと延びている、スレスカー通り(Slezská)。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この辺りは、街中の住宅地といったエリアなのですが、建ち並ぶ建物にはしゃれた装飾が施されていて、初めてヨーロッパの都市を訪れた東洋人の目には、その煤け具合共々、現代に脈々と息づく歴史を感じ取ったものでした。
こちらも、今昔の様変わりぶりには、ビックリでしたw
平和広場からブルタバ川へと至る、西の方向へ少し歩いた、ケ・カルロフ通り(Ke Karlovu)。
普通の通りを歩いていても、こうした凝った装飾を施した建物に出会うことができるプラハ、流石は建築様式の博物館の異名を持つ街です。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
施されている装飾も、過度にけばけばしくなく、スッキリとした印象を与えるのも、プラハの都会的なセンスなのでしょうね。
例によって、グーグルマップで今日との比較を確認してみると、今日では手前の道路部分は、アスファルトの舗装となっていますね。
ケ・カルロフ通りから分岐していた、ナ・ボイシュチ通り(Na bojišti)。
石畳の美しさに、思わず貴重なフィルムを1枚消費w
そういえば、デジカメのデの字の知る由もなかった当時、かなり大量のフィルムを持ち込み、国境通過の度に難癖を付けられないか、ドキドキしたものでした。。。
今日では、うらぶれた感じは、全く無くなっていますね。
駐車車両の車種も、見事に一変!
プラハ滞在中、この通りにあるビアレストランで夕食を摂ったのですが、料理の画像が1枚もありません!
ケ・カルロフ通りに建つ、アントニーン・ドボルザーク博物館(Muzeum Antonína Dvořáka)。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
チェコの著名な音楽家の一人である、アントニーン・ドボルザーク(Antonín Dvořák/チェコ語では「ドゥボジャーク」という感じに発音)の博物館です。
プラハ国立博物館(Národní muzeum v Praze)を構成する、チェコ音楽博物館(Muzeum české hudby)の施設で、月曜日を除く毎日10時~17時オープン、とあります。
こじんまりとしていながら、瀟洒な外観をした館、といった印象の建物でした。
当時のプラハの建物の御多分に漏れず、こちらもまた、いささかくたびれた感を纏った壁面で、かえって長年使われてきた建物のリアルな雰囲気を、感じることができました。
当然、入館したのですが、展示などの印象は憶えていません;
アントニーン・ドボルザーク博物館から更に西へと進み、再び表通り(イェチナー通り/Ječná)へと合流。
通りに面して、大きな教会が建っていました。
教会の名は、聖イグナチウス教会(Kostel sv. Ignáce)です。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
自分的には、リアルなくすみ具合が、プラハの落ち着いた風情を醸し出しているように感じられて、好きな情感なのですが、やはり今日では、見違えるまでに化粧直しをされて、ピッカピカになっているのでしょうね。
街が綺麗になるのを否定している訳ではありませんが、長きにわたり、人々が利用してきた証としての「ヨゴレ」を、戦禍を免れた趣きある街角に見出せたこの時期に訪れ、直に感じ取れたこの旅の機会は、今でも貴重な体験であったと、この記事を書きながら、強く思いました。
それから、観光スポットではない、人々が日常生活を営んでいる、普段着のプラハの、朝の街角の爽やかさを少しだけお裾分けしてもらったような、ちょっと得した気分になれた、そぞろ歩きでした。
この辺りは、平和広場から、ほぼ真西へ一直線に1km程進んだ場所にあたります。
ブルタバ河畔までは、更に西へ600m程。
悠然とした流れの、雄大な眺めに、再び会いに行きます。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-06>>
同じような好天の日に撮られた写真なのに、現在とは随分印象が異なりますね。
やはり建物の色が明るくなると町も明るくなりますね。
でも、薄汚れていたからこそ魅力があるとおっしゃる気持ち、よくわかります。
以前ノートルダム寺院がお化粧直しをして真っ白になった時に、重みがなくなったなと感じました。
フランスも石畳が少なくなりましたが、車社会では石畳は傷みやすくて修理が大変だから仕方がないのかもしれませんね。
当時残したメモのお蔭もあるけれど、画像を見る度、当時のことが不思議な位に思いだされて、自分でも驚きながら、ノンビリ記事を書いています♪
それにしても、28年前に訪ねた正にその場所を、部屋に居ながらにして再確認できるようになるとは…Google様々ですね!
街はすっかり明るく綺麗に、垢抜けましたが、建物や街路自体はそのままで、28年前に自分が立っていた場所を、感慨深くディスプレイ越しに眺めていました。
アンティーク同様に、街の建物もまた、使い込まれて味が出てくるように、思えます。
ヨーロッパの街の情感を豊かに演出してくれる石畳、維持管理は大変そうですが、是非共末永く保存していただきたいものです。