時には、旅の日常

管理人:taろう/旅先で撮ったスナップにコメントを添えて、他にも気の向いた事を綴っていきます。

初海外1990 チェコスロバキア&DDR-20~プラハ滞在最終日 街角&夜景スナップ

2019-07-07 10:11:40 | チェコスロバキア
 カルルシュテインからプラハへと戻ったのは、プラハ滞在6日目の夕刻近く…街中をあてもなく歩き回っていたら、いつしか夜になっていました。

 <<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-19>

 午後の陽射しの下で、印象的に映った(趣味丸出しですがw)プラハの街角と、ブルタバ川越しに眺めたプラハ城の夜景…翌朝にはお別れとなる、プラハの素敵な眺めを、心に焼き付けてきました。
 宿泊したプライベート・ルームから眺めた、プラハ郊外の夜景も今一度心に留めるべく、スナップに収めます。

 記事中の画像クリックで、別ウィンドウが開きます。


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 郊外のカルルシュテイン(Karlštejn)から、プラハの街中へと、戻ってきました。
 表通りすら路地の如く複雑に入り組んで、地区全体が巨大な迷宮のような、プラハ城(Pražský hrad)の城下に広がるマラー・ストラナ(Malá Strana)の街並みの雰囲気に浸りながら、ブラブラと散策します。

 レテンスカー通り(Letenská)を跨いだ建物には、歩行者、自動車、そしてトラムが通り抜けできるように、3つのトンネル状の通路が穿たれていました。
 手前から、歩行者用、自動車用、トラム用の通路で、ちょうどトラムが、軌道の敷かれた通路から走り出てきました。
 通路の形状は三者三様で、面白いですね。

 トラムの背後は、聖トマーシュ教会(Kostel svatého Tomáše)で、画像右側の建物は現在、チェコ建築家協会(Česká Komora Architektů)となっている模様。
 撮影方向は違いますが、2017年6月のストリートビュー(画像の左方向からの眺め)でも、1990年とは建物の色が異なる位で、当時の面影を偲ぶことができますね。
 記事の画像は、ストリートビューの右側方向から撮影しています。
 駐車車両が、時の経過を物語っていますね。
 窓の鉄格子や建物の装飾等もそのままで、つい見入ってしまい、記事が中々書き進みませんw



 トラムの通路の反対側から、上の画像の方向を覗き込んでいます。
 トラムの軌道は、この通路の両側ではそれぞれすれ違い可能な伏線となっていますが、この通路の部分だけスペースの関係で、2つの軌道が1つに重なって敷かれています。
 2つの軌道を重ね合わせただけで、ポイントで2軌道が1つに繋がり単線となっている訳ではないことが、分かりますね。
 ちょうど通路の向こうから、こちらへ向けて走って来るトラムの姿が、見えています。

 画像の左端すぐ外側に、車道と歩道のトンネルがあります。
 上のストリートビューをそのまま通路の方向に進めて、通路を抜けたところで振り返った、この画像と同じアングルのストリートビュー(2019年6月)からは、やはり当時の思い出に浸ってしまいます(^^;)
 こうして当時と今日とを見比べられるのも、面白いものですね!

 小刻みにカーブしながら、古い建物の間をかすめて走り抜けていくトラム…ヨーロッパ気分wを、満喫していました。



 マラー・ストラナから、ブルタバ川(Vltava/ドイツ語:モルダウ(Moldau)川)に架かる、プラハのランドマークの1つでもあるカレル橋(Karlův most)を旧市街(Staré město)へと渡った袂の交差点では、警官が交通整理をしていました。
 カレル橋の袂は広場になっていて、交差する通りと共に、「十字軍」の名称を付けられていました。
 (十字軍広場/Křižovnické náměstí、十字軍通り/Křižovnická)

 民主化直後の当時は、地元市民と思われる服装の人々が、カレル橋付近でも、観光客よりも圧倒的に多かったように見受けられました。

 旧市街の川沿いを走る表通りは、トラムや車の通行も多いうえに、カレル橋の袂近くでは道幅も狭くて、結構なスピードで走り抜ける車やトラムと接触スレスレにもかかわらず、涼しい顔で通行を捌く警官が印象的でした。
 警官の制服も、1990年当時はまだ共産主義時代のままで、共産圏では一般的であった色合いの軍服調ですが、交通整理用と思われる白の制帽や手袋&手甲?にベルトの、制服とのコントラストも素晴らしく、ダブルの外套もピシッとキマっていた、長身の警官氏でした。
 制帽の腰や階級章の赤も、スマートなアクセントとなっていて、格好良かったです。

 …もっとも、共産国の警察(警察の前に「秘密」の文字がどうしてもチラつくイメージ)と関わり合いになるのはちょっと…遠慮したいところでしたが;;
 まぁ、民主化後だからかは分かりませんが、警官の表情も柔らかいように、感じられました。。。



 プラハの目抜き通り、バーツラフ広場(Václavské náměstí)へと、やってきました。

 広場というより、幅の広い大通り、といった感じのバーツラフ広場。
 通りに面して建つ建物群も、他の通り沿いのものよりもどっしりと構えて、大きな「ビル」然とした佇まいです。

 意外なことに?!、チェコスロバキア国旗を掲げた建物を、この旅で初めて目にしました。
 青の三角が印象的なチェコスロバキア国旗は今日、チェコスロバキア連邦を解消して独立したチェコ共和国(Česká republika)の国旗となっています。

 国旗を掲げた建物の屋根には、「自由な言葉(Svobodné Slovo)」の文字が。
 当時この国が恐らく、最も希求し続けてきてようやく手にすることが叶ったであろう、貴重な思いであったことでしょう。
 その意味の重みを感じ取ることもできた、1990年当時のプラハ(Praha)の空気でした。



 プラハ中心部を散策しながら、いつしか日も暮れ何処かで夕食を摂り(やはり記憶、写真共になし;)、再びブルタバ河畔へ。

 漆黒の川面越しに、セピア色に浮かび上がったプラハ城のライトアップ夜景は、圧巻の一言!
 幅のあるライトアップのパノラマは、威風堂々たる荘厳さに満ちて聳え建ち、一目で記憶に深く焼き付けられました。
 この優雅な、品のある風景は、30年近くが経過した2019年の今日でも、ハッキリと憶えています!
 これからも、この印象が薄れることはないと思います。

 画像の中央から右端へと転々と続く光点は、先程渡ったカレル橋の照明。
 こちらも、プラハ城のライトアップとトーンを統一された、格調高い光景に見とれます。

 プラハ城とカレル橋双方の光は、ブルタバ川にも垂直に伸びて、川の流れに揺らめく幻想的な眺めは、正に絶景。
 プラハ滞在最後の夜にプラハがプレゼントしてくれた、素晴らしいランドマークの風景に感動しどおしであった、ブルタバ河畔で過ごしたひと時でした。

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 プラハ都心からメトロC線で、ブドバテルー駅(Budovatelů/現ホドフ(Chodov)駅)へと赴き、駅近くのプライベート・ルームへ戻りました。
 部屋で、どこで買ったのか記憶にないオレンジジュース(と思う)を飲み、一息つきます。
 (この画像は、別ウィンドウへのリンクはありません)

 普通に売っていたジュースも瓶詰めというのも、時代を感じさせますね。

 この部屋で過ごすのも、この夜で最後。
 6泊も連泊すると、名残惜しくなるものですね。
 普通の民家であったためか、本当に「我が家」感覚で、心から寛いで過ごせた居心地の良いプライベート・ルームに大感謝です^^
 ここでの滞在も、やはり今でもありありと思い出すことができます。




 プライベート・ルームから、周辺の夜景も、カメラに収めます♪

 街灯に照らし出された大きなロータリーが、建物にさえぎられることもなく、セピアを帯びた街灯の色に染められています。
 新興の住宅地でも照明の色がセピア調であったのが、当時は新鮮な驚きでしたw

 住宅地とはいえ、まだまだ開発は緒に就いたばかりといった雰囲気のプライベート・ルーム周辺の様子は、低い場所の灯りが遥か彼方まで見渡せたことからも、窺い知れました。
 開発初期の新興団地の雰囲気という、一風変わったプラハの表情も体感することができた上首尾ぶりにもすっかり満足して、最後の夜を過ごしたプラハ滞在の締め括りでした。

 <初海外1990 チェコスロバキア&DDR-21>>



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (タヌ子)
2019-07-15 06:04:51
旅の記憶って面白いですよね。
私はどんなことでも(本でも映画でも)流れとして記憶するのが凄く苦手なのですが、旅は更に記憶がピンポイント化して、強く印象に残った場所や物が画像として記憶されています。
強く記憶に残るものは凄く強烈なイメージではなく、些細な場面であったりすることも多いですよね。
長身のスマートな警察官が素敵ですね。
チェコスロバキアの国歌はどんな曲だったのかなと思ってYoutubeで探してみたら、チェコの国歌と曲調が殆ど同じでした。
タヌ子さん。 (taろう)
2019-07-15 22:04:19
脳は記憶の引き出しのようなものという説明を、どこかで聞いたことがあります。
長いこと忘れていたことも、それと関係したことが脳内で信号となって、脳にしまわれた記憶の回路が繋がり思い出す…といった仕組みであったかと思います。
私も、この旅行記では、アルバムに記したメモや写真を目にすることで、思いの外、当時のことがありありと脳裏に甦ってきたことに驚き、記事に纏めようと思い至りました。
長身のチェコの交通警官、制服のダブルの外套と、紅白のコントラストが、強く印象的でした!
チェコスロバキアの国歌は、チェコ国歌に続けてスロバキア国歌を繋げたもので、途中で曲調が変わりました。
チェコとスロバキアとの分離で、国歌も前半部がチェコ国歌に、後半部がスロバキア国歌に、そのまま分離しました。
Unknown (プー太郎)
2019-07-25 19:07:13
トラムのデザインが渋くていいですね。幼い時の夫の夢はトラムの運転手さんになることだったそうです。
当時からAirB&Bのような民宿があったのですね。現在、知り合いが旧市街にあるアパートに住んでいるのですが、多くの部屋が旅行者に貸し出され、人の出入りの激しさにいやけがさして郊外へ引っ越すことを真剣に考えているようです。
プラハのホテルはお値段が高いのでAirB&Bがはやるのは仕方ないのかもしれません。
11月そして1月ー3月まではホテルのお値段も低めです(12月はクリスマスマーケットがあるのでハイシーズンとなり人が多いいです)。
3月半ばになると寒さもやわらぎ、旅行するには良い時期かもしれません。でも第4週目から旅行客がグンと増えるような気がします。11月に訪れたこともあるのですが、人も少なめでよかったのですが、とにかく凍えそうに寒かったです。
夫の両親が以前住んでいたアパートは戦前に建てられたもので、正面玄関の小さめのロビーの床と壁全体に大理石が使われていて、年代は経っていても立派な物でした。
チェコとスロバキアが分離した時、スロバキア出身の義母はチェコの市民権を選んだようです。
貴重な体験をされたtaろうさん、やはりプラハに再訪されないほうがよいかもしれません!
プー太郎さん。 (taろう)
2019-07-25 23:33:30
プラハのトラムの丸みを帯びた、愛嬌のあるフロントデザインが、私も気に入っています。
プー太郎さんの仰るように、プライベート・ルームは、今日のAirB&Bのはしり的な存在でしたね。
共に、一般人が勝手に空き部屋を宿に貸すスタイルで、直接街で客引きするか、ネットで予約するかの違い位ですね。
プラハ同様、観光都市である京都も今や、雨後の筍の如く、民泊が至る所に建ち続けていて、ホテル不足とホテル代の高騰は、観光地共通の悩みのようですね。
訪問に良い季節を選ぶか、季節は悪いが人手の少ない時期を最優先するか…これからは旅に出る時期選びにも、悩むことが多くなりそうな予感がします;
今に残る古い建物は、元々の造りが良くて、かつメンテも行き届いてきたからこそ現存して、日々使い込まれた渋さを増して、益々魅力的になるのだろうと思います。
チェコスロバキア分離の際には、市民権が選択できたのですね…やはり、スロバキアよりもチェコの方が、人気があったのでしょうか。
体制の変わり目に訪れることができたのは、本当に僥倖といえるもので、一生の宝となる体験であったと思います。
もし再訪する機会があるとするなら、当時のプラハを理想的に思い描かないほうがよさそうですね。。。

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