書きたいことを書くブログ

わたくしT.Nが気になったことを記事にします。
コメント受付中(承認制です)

しんじろう

2013-11-30 22:11:31 | ニュース
ー引用開始ー

ZAKZAK(夕刊フジ) 2013年11月30日17時12分
進次郎氏、意外な集金力 収支報告で判明「若手議員では異例の額」
http://news.livedoor.com/article/detail/8303337/



写真拡大
資金力でも存在感を示した進次郎氏。宰相への道も着々と?

 「将来の首相候補」と目される小泉進次郎内閣府兼復興政務官が、人気だけでなく集金力でも実力を伸ばしていることが分かった。総務省が29日に公表した2012年分政治資金収支報告書によると、進次郎氏の資金管理団体の収入は3695万円。「ポスト安倍」を狙う石破茂自民党幹事長を上回っており、宰相の椅子に向けた準備は着々と進んでいるようだ。

 国会議員の1位は生活の党の小沢一郎代表の3億6728万円。進次郎氏はこれに遠く及ばないものの、「若手議員としては異例の額」(自民党関係者)といえる。

 安倍晋三首相の後継に取り沙汰される“ポスト安倍”の8人と比較しても、石破氏(3037万円)、谷垣禎一法相(3498万円)を押さえて6位に躍進した。

 進次郎氏は父・小泉純一郎元首相のカリスマ性を引き継ぎ、抜群の人気を誇っている。7月の参院選では応援演説に引っ張りだことなり、31道県を訪問。9月に政務官に就任した際は、世論調査で進次郎氏に「期待する」との回答が75・6%に達した。

 進次郎氏の集金力は、こうした人気を背景にしたもので、個人献金や都内のホテルで開くセミナー収入などによるものだ。

 首相を目指すためには人気、集金力に加えて人脈も必要だが、その点でもぬかりはない。自民党青年局長時代は月に1回、同僚議員と東日本大震災の被災地を訪れて交流を深めたほか、9月には青年局120人を率いて台湾を訪問し、脚光を浴びた。

 首相になったときに部下となる官僚との人脈づくりも進む。「定期的に各省庁の有望な官僚と勉強会を開いている」(進次郎氏周辺)といい、23日には東京大学で講演し、将来の官僚にこう呼びかけて“青田買い”を行った。

 「もしかしたら官僚になる皆さんと仕事をするときが来るかもしれない。今までにない発想での活躍を期待したい」

ー引用終わりー

MDヱ……、いえ、何でも御座いません。w

またJR北海道

2013-11-30 22:06:16 | ニュース
またJR北海道ですか…。うーん。

ー引用開始ー

読売新聞 2013年11月30日19時54分
運転士が考え事…列車が400mオーバーラン
http://news.livedoor.com/article/detail/8303606/


 29日午後11時30分頃、北海道旭川市のJR宗谷線旭川四条駅で、名寄発旭川行きの普通列車(1両編成)が、停止位置から約400メートルオーバーランして停車した。

 列車は同駅に戻らずに約2分遅れで運転を再開。同駅で降りるはずだった乗客1人は旭川駅に到着後、自費でタクシーに乗って目的地まで向かったという。

 JR北海道によると、オーバーランの原因は、列車の運転士(27)が一時的に考え事をしていて、停車駅と認識しないまま駅に進入したためとしている。JR北海道では今月26日、根室線の稲士別駅(幕別町)でもオーバーランが発生している。

ー引用終わりー

東久邇宮稔彦王関連情報

2013-11-30 21:49:00 | ニュース
ー引用開始ー

世界連邦運動
http://ja.wikipedia.org/wiki/世界連邦運動


世界連邦運動(せかいれんぽううんどう、World Federalist Movement、WFM)は、世界の全ての国家を統合した世界連邦の成立を目指す国際的な非政府組織である。


目次 [非表示]
1 歴史
2 現状
3 日本での活動
3.1 世界連邦日本国会委員会の歴代会長
4 関連項目
5 外部リンク


歴史[編集]

第二次世界大戦末期において成立した国際連合が戦争抑止力の低いことを痛感した世界の科学者・文化人たちがより強力な世界連邦の形成をすすめることで、世界から戦争を無くしていこうと決意し1946年ルクセンブルクにおいて「世界連邦政府のための世界運動」を起こした。この運動にはバートランド・ラッセル、アルベルト・アインシュタイン、アルベルト・シュバイツァー、ウィンストン・チャーチル、湯川秀樹などのノーベル賞受賞者が賛同した。そして、現在まで名前を変えて続いている。


現状[編集]

世界連邦運動は1947年のモントルー宣言に基づき以下をその活動原則としている。


1.全世界の諸国、諸民族を全部加盟させる。

2.世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する。

3.世界連邦法は「国家」に対してではなく、1人1人の「個人」を対象として適用される。

4.各国の軍備は全廃し、世界警察軍を設置する。

5.原子力は世界連邦政府のみが所有し、管理する。

6.世界連邦の経費は各国政府の供出ではなく、個人からの税金でまかなう。



すなわち現在国単位で参加している国連の参加資格を個人単位に移すことを主眼としている。

事務局はニューヨークにあり、60カ国・地域に地域団体が設立されている。また国際連合経済社会理事会との協議資格を有し、国連の権限強化へ積極的に提言している。1991年以来、会長は英国俳優のピーター・ユスチノフ卿(Sir Peter Alexander Ustinov)が務めたが、2004年に同氏が急逝してから2007年迄はカナダ選出の上院議員ロイス・ウィルソン(Lois Wilson)が会長代行を務めた。ウィルソン会長代行は2008年の理事会で代行退任を決め、現在WFMは新会長を選考中である。尚、新会長下の体制は2007年の世界大会(World Congress)の決定を踏まえ、共同会長制(co-presidency)へと移行することになっている。

ただし高邁な理想主義ゆえ世界連邦が現実に実現に向かっているといった動きはほとんど見られない。


日本での活動[編集]

日本では終戦直後に尾崎行雄ら有志の議員が「世界連邦建設に関する決議案」を国会に提出。1948年には世界連邦建設同盟が結成され尾崎行雄が会長に、賀川豊彦が副会長となって活動を開始した。また、名誉会長には戦後初の総理大臣東久邇稔彦が、第五代会長には湯川秀樹が就任している。世界連邦建設同盟は現在世界連邦運動協会と名を変えて活動している。また、協会の活動を推進するために以下の団体がある。

世界連邦日本国会委員会
世界連邦日本宗教委員会
世界連邦日本仏教徒協議会

世界連邦全国婦人協議会
世界連邦宣言自治体全国協議会
世界連邦推進日本協議会



世界連邦日本国会委員会の歴代会長[編集]

初代 松岡駒吉
第2代 片山哲
第3代 北村徳太郎
第4代 笹森順造
第5代 清瀬一郎
第6代 益谷秀次
第7代 船田中
第8代 福田篤泰
第9代 櫻内義雄
第10代 植木光教
第11代 村田敬次郎
第12代 石川要三
第13代 森山眞弓
第14代 中野寛成(現職)


関連項目[編集]

コスモポリタニズム
グローバリズム
世界憲法予備草案
地球連邦
永遠平和のために
南俊夫 - 「世界連邦推進委員会」などの団体名で、各種選挙に出馬。


外部リンク[編集]

公式サイト - 国際本部
世界連邦運動協会 - 日本の世界連邦運動
世界連邦日本仏教徒協議会 - 世界連邦日本仏教徒協議会
世界連邦21世紀フォーラム - 世界連邦21世紀フォーラム

ー引用終わりー

つまり「ワンワールド思想」ってことですよね??

東久邇宮記念会とsage

2013-11-30 21:04:46 | ニュース
東久邇宮記念会とsage

ー引用開始ー

東久邇宮記念会
http://ja.wikipedia.org/wiki/東久邇宮記念会

東久邇宮記念会(ひがしくにのみやきねんかい)は、1963年(昭和38年)に設立された非営利団体。2002年に豊沢豊雄によって設立された[1]NPO法人発明知的財産研究会が運営している[2]。
目次 [非表示]
1 概要
2 事業
3 脚注
4 外部リンク
概要[編集]

1947年(昭和22年)に皇籍離脱した東久邇盛厚と、発明学会の初代会長などを務めた豊澤豊雄が1963年(昭和38年)に設立した団体である。宮内庁や他の国の機関とは一切関係がない[2]。

設立者のひとりである東久邇盛厚は、東久邇宮稔彦王の第一皇子であるが、東久邇宮を継承しておらず、皇籍離脱は東久邇姓を名乗った。このため、東久邇宮盛厚という呼び名は通称であって正式な名称ではない。東久邇盛厚は、本会設立から6年後の1969年(昭和44年)に逝去している。

また、豊澤豊雄は2010年に没しており、その後は特許管理士の吉村靖弘が会長を務めている。

所在地は、東京都新宿区大久保。

事業[編集]

毎年、発明の日(4月18日)に東久邇宮記念賞、文化の日(11月3日)に東久邇宮文化褒賞の授与を行っている。2012年の受賞者は、東久邇宮記念賞が87名、東久邇宮文化褒賞が109名にのぼる。

脚注[編集]

^ 豊澤 豊雄 経歴紹介 東久邇宮記念会
^ a b 東久邇宮記念会

外部リンク[編集]

東久邇宮記念会
カテゴリ: 日本の非営利組織大久保 (新宿区)

ー引用終わりー

ー引用開始ー



http://www.sagegroup.jp/news2010.11.htm

ー引用終わりー

『「東久邇宮」という名称はあるが、すでに東久邇宮家の手から離れており、変な奴らの銭儲けのために利用されている』ということか??

最新の役員は以下の通り。















うーん、香ばしい方ばかりのような気が、、、。

〈参考〉
東久邇宮記念会ホームページ
http://e-chiteki.com/higashikuni.htm


東久邇宮稔彦王

2013-11-30 20:20:52 | ニュース
ー引用開始ー

東久邇宮稔彦王
http://ja.wikipedia.org/wiki/東久邇宮稔彦王


日本の政治家
東久邇宮 稔彦王
ひがしくにのみや なるひこおう


東久邇宮稔彦王の肖像写真

生年月日 1887年12月3日
出生地 日本 京都府
没年月日 1990年1月20日(満102歳没)
出身校 陸軍大学校卒業
前職 防衛総司令官
称号 陸軍大将
従二位
大勲位菊花大綬章
功一級金鵄勲章
配偶者 稔彦王妃聡子内親王

サイン
第43代 内閣総理大臣
内閣 東久邇宮内閣
任期 1945年8月17日 - 1945年10月9日
天皇 昭和天皇
第34代 陸軍大臣
内閣 東久邇宮内閣
任期 1945年8月17日 - 1945年8月23日
貴族院議員
選挙区 貴族院皇族議員
任期 1907年12月3日 - 1946年5月23日

テンプレートを表示

東久邇宮稔彦王
続柄 久邇宮朝彦親王第九男子
身位 王→皇籍離脱
敬称 殿下→皇籍離脱
出生 1887年12月3日
死去 1990年1月20日(満102歳没)
配偶者 泰宮聡子内親王
父親 久邇宮朝彦親王
母親 寺尾宇多子
役職 大日本帝国陸軍(最終階級:大将)
内閣総理大臣など

テンプレートを表示


東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。

貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。

第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。組閣すると本土決戦(一億総玉砕)一色に染まっていた日本の国内世論を無血開城に導き、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、GHQによる内政干渉に抵抗の意思を表すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。尚、この組織的抵抗は、日本占領下時代を通じて日本政府がまとまって抵抗の意思を表した唯一の事例である。



目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 留学
1.3 軍人生活
1.4 内閣総理大臣として
1.5 皇籍離脱後
2 エピソード
3 名言
4 家族
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク


生涯[編集]

生い立ち[編集]
久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。学習院初等科の同期生に、有栖川宮栽仁王、北白川宮成久王、北白川宮輝久王(のちに臣籍降下し侯爵小松輝久)、朝香宮鳩彦王がいた。また、のちの小説家里見もいて親友となる。

1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。陸軍に入り、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校(20期)、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。


留学[編集]
1915年(大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)からフランスに留学。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリティクで、政治、外交について広く学んだ。留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、アジアの技術力の向上を目指し、興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)の創設に尽力している。

後述するように、この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネやクレマンソーと親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。


軍人生活[編集]
帰国後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。

日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。

日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がる。皇族であり対米戦争回避派である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、日米交渉妥結を志向する近衛文麿、広田弘毅、海軍ら穏健派以外にも、強硬派の東條英機も東久邇宮が陸軍出身であることから賛成した。しかし皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。

日中の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係(中・英・米)を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索するも開戦に至る[1]。1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。

太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く。大戦中は海軍の高松宮宣仁親王と共に大戦終結のために奔走した。大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、私邸を焼き討ちされている。


内閣総理大臣として[編集]



東久邇宮首相


東久邇宮稔彦王(最前列)と内閣の閣僚


ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。

副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には米内光政元首相が留任している。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した九月半ばに、後任外相として吉田茂を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日-23日)東久邇宮が兼任した。

新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇総理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ[2]。

日本の降伏が告知されたものの依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で降伏文書の調印式が行われ、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。

在任中の東久邇宮の発言として特に有名なものは、9月5日に国会で行われた施政方針演説の以下のくだりである。

敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります

このいわゆる「一億総懺悔論」が東久邇宮首相の主要な政治理念とみなされた。ある意味では首脳部と戦争を支持した国民の戦争責任を曖昧にする論理と言える。すでに敗戦直前の時期に内務省情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない。」との通達がなされた。また、敗戦後、各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを防ぐため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。

一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを使い「一億総懺悔論」の伸張を抑え[3]、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判の準備にとりかかっている。

首相は、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら内務省の反対により政治犯釈放は実現せず、その民主化を阻害する姿勢に対し、GHQから1945年10月4日に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、治安維持法・特別高等警察等の廃止、政治犯・思想犯の釈放、自由化・民主化に抵抗する内務省幹部の更迭などを命じられた。また内務省は、マッカーサーと天皇の会見写真の新聞公表を(「現人神」の天皇が平服で軍服のアメリカ人と肩を並べて写真に写るというのはこの時期には驚愕のことであった)取り締まろうとし、東久邇宮も同意したが、これがGHQの逆鱗に触れた。これにより、戦前的な意味でのリベラリストに過ぎなかった東久邇宮と、ラディカルな日本の国体変革を推進しようとする占領軍の対立が露呈する。内務大臣山崎巌は治安維持法なしでは治安維持に責任が持てないとして辞意を表明し、首相もこれを支持するかたちで内閣は翌日総辞職した。


皇籍離脱後[編集]
1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。

1948年、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎、湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現世界連邦運動協会)を創設した。

1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。 1957年6月、東京の友愛ロッジにてフリーメイソンに入会[4]。

1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山、片山哲とともに三元首相の連名で時の首相・岸信介に退陣を勧告。

1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。

1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。

1979年(昭和54年)、聡子夫人と死別。同年暮れ頃から、「東久邇の妻」を自称する女性がいるとの噂があったため戸籍を調べたところ、知らぬ間に入籍されていたことが判明。「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)を相手取り、結婚無効の調停を起こした。調停が不調であったため民事裁判となったが、一審判決は婚姻は有効、高裁判決は無効とし、1987年(昭和62年)最高裁が上告を棄却したため婚姻の無効が確定した。

1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。従二位に叙せられ、特例として豊島岡墓地に葬られる。


エピソード[編集]

陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ小説家山中峯太郎が一級上にいて、その影響から内田魯庵訳のトルストイの『復活』を読んで物議をかもした。これが明治天皇の耳に達したため一時は臣籍降下まで検討された。

陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。

フランス留学前に自動車の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。そのフランス留学中に同じ留学中だった北白川宮成久王からドライブに誘われたが、「ロンドンに行く用がある」という理由で断った。代わりに朝香宮鳩彦王を誘ったが、北白川宮の運転する車はスピードの出し過ぎで立ち木に激突して、北白川宮は即死、朝香宮も重傷を負った。

パリ留学中には愛人との生活に耽溺し、[5]たびたびの帰国命令を拒み続けた。結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、おりからロンドンに留学中だった小松輝久侯爵がパリに乗り込んで直談判し、[6]ようやく帰国した。帰国した時には皇族のなかでも自由主義者として知られるようになっていた。

1941年(昭和16年)夏、アジア主義の大御所である頭山満に対して、日中和平の実現のため蒋介石との間で、和平会談を依頼した。蒋の承諾を得て実行に移そうとするも、途中で東条英機首相に止められ、会談は実現に至らなかった。

フランス留学中に、画家のクロード・モネについて絵筆をとった。モネに親友のジョルジュ・クレマンソーを紹介され親交を深めた。フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東條英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した[7]。

フランス留学中に東久邇宮は「自分は画家である」と老婆の手相見に言ったが、手相見は「あなたは日本の首相になる」と言った。東久邇宮は身分を明かして「私は日本の皇族でしかも軍人である。日本では皇族や軍人が政治をやることは禁じられているから、首相にはなれない」と反論したが、「いや、日本に大革命か大動乱が起きる。その時に必ずあなたは首相になる」と言い切った。実際に首相に就任してからこの話を思い出し、「老婆の予言が当たったので、薄気味悪く感じた。私は迷信が大嫌いだったが、占いもバカにならぬと思った。」と、日記に書いた[8]。

武装解除の際、小園安名海軍大佐率いる第三〇二海軍航空隊(神奈川県・厚木飛行場駐留)は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなどの反乱状態に陥った(厚木航空隊事件)。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎海軍大佐などが説得にあたったが、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。東久邇宮内閣は小園大佐を拘束し、野比海軍病院の精神科へ強制収容された。この時のことを宮は「もし、米軍先遣隊が厚木飛行場に進駐した時、わが方がこれを攻撃でもしたら、将来アメリカに行動の自由を許す口実を与えることになる。厚木飛行隊は最も優秀な防空飛行隊で私は同飛行隊将校に同情をしたが大局から見て許すことができなかった。こうして24日夕までに完全にわが飛行機は飛べないことになった。まったく、毎日毎日剣の刃渡りをしている気持ちである」と日記に記している。

米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣が時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。また、当時は帝國内閣だったにも関わらず、敗戦で大混乱に直面していた国民に対し「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけ、国民から毎日数百通に上る手紙が舞い込んできたという。

ダグラス・マッカーサー元帥に面会した際「アメリカは封建的遺風の打倒を叫ぶが、私はその封建的遺物の皇族だ。もし、元帥が不適当とみるなら、私は明日にも首相を辞める」 と述べた。これに対し、マッカーサー元帥は「皇族は封建的遺物ではあるが、米国人が封建的遺物とか、非民主主義と言うのは、その人の生まれた家柄を言うので、あなたの思想・行動は非民主主義とは思わない」と対応した。

戦後の日本の状況を見た東久邇宮は、内閣を組織したことについて振り返り「あの際、私が出なかった方がよかったと思う。誰か若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」とも書き記している。


名言[編集]

事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。 この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる

目の前の小さな現象に目を奪われて、遠い目標を見失ってはならない

戦時中、日本は小さなことに、こせこせしたが、大きなことにはぬかっていた。全体と部分との混同が、至るところに見られた。部分的には実に立派なものであるが、全体的に総合すると、てんでんばらばらのものばかりで役にはたたなかった


家族[編集]

父:久邇宮朝彦親王
母:寺尾宇多子
兄弟:男子:邦憲王 - 邦彦王 - 守正王 - 多嘉王 -暢王 - 鳩彦王 - 稔彦王
兄弟:女子:智當宮 - 栄子女王 - 安喜子女王 - 飛呂子女王 - 絢子女王 - 素子女王 - 懐子女王 - 篶子女王 - 純子女王
妻:聰子内親王
子:
盛厚王(1917年 - 69年)
師正王(1918年 - 23年) - 関東大震災により薨去。
彰常王(1920年 - 2006年) - 1940年10月25日、臣籍降下し粟田侯爵となった。
俊彦王(1929年 - ) - 1947年、多羅間キヌの養子となりブラジルに移住。


脚注[編集]

^ 『やんちゃ孤独』155頁
^ 宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣 稔彦王」と表記されていた。
^ 朝日新聞夕刊連載『新聞と戦争』「写真を処分せよ」シリーズ、特に2007年6月26日付の第8回。
^ “七人の有名な日本人メィーソン”. 東京メソニックセンター. 2009年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月30日閲覧。
^ 佐野眞一『枢密院議長の日記』講談社現代新書p.184,2007。
^ 浅見雅男『伏見宮―もう一つの天皇家』講談社p.289,2012。
^ 『やんちゃ孤独』101-108頁、159-162頁
^ 広岡裕児『皇族』読売新聞社281-282頁


参考文献[編集]

東久邇稔彦 『東久邇日記 日本激動期の秘録』 徳間書店, 1968
東久邇稔彦 『一皇族の戦争日記』 日本週報社, 1957
東久邇稔彦 『やんちゃ孤独』 読売新聞社, 1955
東久邇宮稔彦王 『私の記録』 東方書房, 1947
長谷川峻著 『東久邇政権・五十日 終戦内閣』行研出版局,1987
外務省編 『終戦史録(全6巻)』、解説江藤淳、北洋社 1978
外務省編 『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録(上中下)』、山手書房新社,1990
江藤淳編 『占領史録』 波多野澄雄解題、講談社全4巻, 1982
講談社学術文庫全4巻, 1989、同文庫新版全2巻, 1995
江藤淳編 『もう一つの戦後史』講談社、1978年-インタビュー集
佐藤元英、黒沢文貴編 『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料』
上.下 <明治百年史叢書> 原書房 2002
林茂、辻清明編 『日本内閣史録.5巻』 第一法規 ,1981
鈴木九萬一監修 『日本外交史.26巻 終戦から講和まで』 鹿島研究所出版会,1973
荒敬編 『日本占領・外交関係資料集 第1巻』 柏書房,1991
広岡裕児 『皇族』 読売新聞社, 1998 ISBN 4643980745、中公文庫, 2002 ISBN 4122039606
鹿島茂編 『宮家の時代』 朝日新聞社, 2006 ISBN 4-02-250226-6
大久保利謙監修 『日本の肖像.第12巻 旧皇族 閑院家 東久邇家 梨本家』
社団法人霞会館後援、毎日新聞社, 1991


関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、東久邇宮稔彦王に関連するメディアがあります。

第二次世界大戦前の日本の政治家一覧
東久邇宮
連合国軍占領下の日本
江戸無血開城・勝海舟


外部リンク[編集]

第88回帝國議会(臨時会)戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説(1945年9月5日)
東久邇宮家御家族の写真アルバム
百年の遺産-日本近代外交史

ー引用終わりー