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鮎川義助とコロムビア、ビクター6

2014-01-24 10:34:33 | 音楽
http://diamond.jp/articles/-/47645?page=6

じつは36年10月に関東軍参謀長、板垣征四郎(1885-1948)から招請され、鮎川は満州開発のための視察旅行に赴いている。陸軍の要請にこたえて満州開発のプランをプレゼンテーションし、それが軍部に受け入れられて大コンツェルンを丸ごと移駐させることになった。丸ごとといっても、もちろん日本にもグループ各社の拠点はある。鮎川は1週間に2度、日本と満州を往復することもあったという。

鮎川が手放した1年半後の1939年9月、日本ビクターは国産テレビの第1号機を完成させた。目標は1940年に予定されていた東京オリンピックと万国博覧会だった。両方とも第2次大戦の勃発で中止となった。戦後の1964年と1970年に実現した。

 日本ビクターのテレビ技術は浜松高等工業学校助教授、高柳健次郎(1899-1990)によるものだった。高柳はブラウン管による受像機の実験に世界で初めて成功した人物であり、戦後、日本ビクターに入社し、副社長までつとめている。

テレビのイノベーションを予見していた鮎川義介はなぜ、日産コンツェルンの大電機メーカー、日立製作所へ移管せずに東京電気にレコード2社を売却したのだろうか。東京電気とはどのような会社だったのだろう。

★参考文献★

『日蓄(コロムビア)三十年史』(日本蓄音器商会、1940)
堀内敬三『音楽五十年史』(新版、鱒書房、1948)
コロムビア五十年史編集委員会編『コロムビア五十年史』(日本コロムビア、1961)
『鮎川義介先生追想録』(鮎川義介先生追想録編纂刊行会、1968)
鮎川義介「日産コンツェルンの成立」(安藤良雄編『昭和政治経済史への証言《上》』所収、毎日新聞社、1972)
日本ビクター50年史編集委員会編『日本ビクター50年史』(日本ビクター、1977)
森川英正『日本財閥史』(教育社、1978)
鮎川義介「私の履歴書」(『私の履歴書・経済人9』(日本経済新聞社、1980)
岡俊雄『レコードの世界史――SPからCDまで』(音楽之友社、1986)
倉田喜弘『日本レコード文化史』(東京書籍、1992)
團伊玖磨『私の日本音楽史』(NHKライブラリー、1999)
加藤玄生『蓄音機の時代』(ショパン、2006)
生明俊雄「日本レコード産業の生成期の牽引車=日本蓄音器商会の特質と役割」(「広島経済大学経済研究論集」第30巻第1・2号所収、2007年10月)
志甫哲夫『SPレコード――そのかぎりない魅惑の世界』(ショパン、2008)
菊地浩之『日本の15大財閥――現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009)
和田登『唄の旅人 中山晋平』(岩波書店、2010)
大東英祐「関説 外国レコード会社のマーケティング」(佐々木聡、中林真幸編『組織と戦略の時代 1914-1937』講座日本経営史第3巻所収、ミネルヴァ書房、2010)

おわり

鮎川義助とコロムビア、ビクター5

2014-01-24 10:21:39 | 音楽
http://diamond.jp/articles/-/47645?page=5

忘れることの出来ないことは、昭和二十三年の暮、同氏の熱烈な勧めによって、私が日本で始めてテレビ放送事業を興す決意をした出来事である。(略)鮎川さんは戦前古くからアメリカで出来たテレビジョンに深く興味を持っておられて、将来は日本で之を実現させる為にその研究機関として、日産コンツェルンの全盛時分に、現在のビクターとコロムビアの両レコード会社を買収して、その傘下に入れて両社を中心にテレビの計画と研究を立てて居られた」(正力松太郎、前掲書、1968)。

 清水与七郎と正力松太郎の回顧によると、戦後のテレビ放送創始時代に鮎川がこの2人を説得して日本テレビ放送網を設立させた、と読める。敗戦を挟んで鮎川はテレビというイノベーションに執着していたわけだ。まったく驚くほかはない。

日本ビクター蓄音器の親会社、RCAは1939年にテレビ受像機を発売した会社である。また、放送局のNBCを1926年に設立していた。米国コロムビアは大恐慌のさなかに経営危機に陥り、1938年に子会社の放送局CBSに逆買収されている。英国コロムビアは1931年に英国グラモフォンと合併し、EMIとなっていた。

 本田美奈子さんの生前最後の3年間(2003-05年)は日本コロムビアと契約していた。デビューした1985年から90年までは東芝EMIと契約していたが、そのEMIである。1930年代、日産が買収するまで、日蓄=コロムビアの親会社は英EMIと米国コロムビアになっていたのである。

 非常に複雑な企業統合史でわかりにくいが、EMIは英国コロムビアと英国グラモフォンの合併会社で、合併時に英米コロムビアの資本関係はなくなっている。英国グラモフォンはその名のとおり、米国ベルリナー・グラモフォンが設立した英国法人だ。ベルリナー・グラモフォンはビクター・トーキングマシンに改名しているので、1930年代の英EMIと米RCAビクターの源流は同じエミール・ベルリナーにたどり着くことになる。

日蓄=コロムビアは英米コロムビアと資本関係がなくなっても業務提携は続けている。日本ビクター蓄音器は、日産が買収したあとも、RCAビクターは出資を続けていた。鮎川義介のねらいどおり、最先端のテレビジョン技術は、日蓄と日本ビクターにも入ってくることになる。ところが、事態は急変した。

日産は満州へ移駐、レコード2社は売却

 日産コンツェルンの傘下に入った日蓄=コロムビアとビクターだが、鮎川が日本ビクター蓄音器会長に就任してからわずか半年後、1937年12月30日にビクター会長を退任し、38年1月20日に日本蓄音器商会会長も退任、両社を東京電気に売却してしまう。

鮎川は満州国総務庁と関東軍の依頼を受けて満州開発に乗り出したのである。その要諦は、日産コンツェルンの満州移転だった。

 状況は短期間で動き、37年11月6日に日本産業が移駐、11月12日付で満州重工業開発と改称、鮎川は総裁に就任する。満州国政府も出資して半官半民となったため、「社長」ではなく「総裁」である。
「重工業開発」にレコード事業は入らず、2社を売却することにしたというわけだ。

つづく

鮎川義助とコロムビア、ビクター4

2014-01-24 10:10:02 | 音楽
 次は、矢野一郎(1899-1995)。

 第一生命の創業者、矢野恒太郎の実子。東大卒業後、三菱銀行を経て1923年に第一生命に入社、47年に石坂泰三の後継社長へ就任、59年から会長。

(鮎川さんは)我国でいち早くテレビジョンの将来というものに着目されたことである。昭和の初め頃には日本に於ける蓄音器やレコードの製造会社としては、米国のRCA系のビクターと、英国のEMI系の日本蓄音器(商会)の二社が主なものだった。前者はRCAが六割、住友、三菱が四割という株主構成、後者は英国コロムビアが大株主で、その他は外人日本人の個人名義の株が少しあったように記憶する。何れにせよ、鮎川さんはこの両社を日産の傘下に入れる決心をされて、第一生命をパートナーにしようとして説得された。

 お話の要点は、『日産が六割、第一生命が四割の比例でこの両者の株を占有して、安定した形で育成したい。狙うところは決してレコードや蓄音器ではない。実はテレビジョンというものだ。(略)英国も米国もすでに巨大な研究費を投じて開発に取り組んでいるが、残念乍ら貧乏な日本ではその真似は出来ない。と言ってつんぼ桟敷に坐っていては世界の進歩から取り残されてしまう。/そこで考えついたのがこの両社だ。これを手に入れれば自然両方の親会社がやっているテレビ研究の情報も手に入るだろう。それも頼りにし乍ら、身分相応な研究をやって行きたい。/幸いなことに両社共今非常に高い利益率を上げているから、その一部を割愛して研究費の財源にすることが可能だ。』(矢野一郎「創意に満ちた若さ」、前掲書、1968)


 技術者出身の鮎川らしい発想であり、一挙に市場を占有しようというM&A経営戦略は現代的である。矢野の回想は具体的であり、真相はここにありそうだ。

 次は、清水与七郎(1885-1983)。

 第四高等学校を経て東大電気工学科卒業後、逓信省技官から1919年に東京電気へ入社。31年、副社長に就任。戦後は52年に日本テレビ放送網の設立から関与し、専務に。55年から67年まで社長。

「鮎川さんはずっと以前、アメリカでもまだ実用化されていないころから、テレビジョンの将来について強い関心を持っておられ、やがて日本でもテレビジョンを開始するときの準備として、テレビジョンともっとも関係の深い音楽工業に着目せられ、ビクター、コロムビア両会社の株式の大半を獲得された」(清水与七郎「飽くまで筋を通す鮎川さん」、前掲書、1968)

 4人目は、正力松太郎(1885-1969)。

第四高等学校を経て東大法学部卒業後、内閣統計局、警視庁へ。四高で清水与七郎と同期のはずである。1924年に虎の門事件で免官。読売新聞社を買収し社長に就任。戦後は52年に日本テレビ放送網社長、55年に衆議院議員当選、56年原子力委員長、科学技術庁長官。58年読売新聞社社主、読売テレビ放送会長。警察官僚から読売新聞社、日本テレビ・グループの盟主となった超大物である。

鮎川義助とコロムビア、ビクター3

2014-01-24 09:57:45 | 音楽
http://diamond.jp/articles/-/47645?page=3

 ビクターも日蓄=コロムビアも欧米のマスター音源を国内プレスした。都市の中間層を中心に、伝統的な邦楽のほか、クラシックなどの洋楽を大量に販売している。ビクターは流行歌(歌謡曲)の大量販売に早くから乗り出し、設立の翌1928年には佐藤千夜子の歌唱で「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)を発売し、数十万枚を売り上げたそうだ(藤原義江も吹き込んでおり、後年の合計数)。

 ビクターは1929年に再び佐藤千夜子の「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)で25万枚という大ヒットを飛ばしている。日蓄=コロムビアも流行歌へ本格的に乗り出し、ビクターとコロムビアの戦いが昭和初期に続くことになる。これは稿を改めて報告しよう。

この1929年に、三菱と住友の出資を仰ぎ、米国ビクターとの合弁会社に変えている。これはビクター本社による現地化の方策だったようだ。同時期にRCAがビクター・トーキングマシンを買収し、RCAビクターと社名変更している。RCAはもともとゼネラル・エレクトリック(GE)からスピンアウトした会社で、NBCの親会社でもある。CBSを持つ米国コロムビアと双璧だった。この時点で日本ビクター蓄音器の親会社はRCAビクターとなっている。

レコード2社買収はテレビ開発のためだった

そして10年後、鮎川義介の日産はRCAビクターと交渉し、株の譲渡契約を結ぶ。1937年6月、ついにコロムビアに続いてビクターも日産の傘下に入った。出資比率は、日産42.5%、第一生命32.0%、RCA25.5%となっている(『日本ビクター50年史』1977)。第一生命は日産の要請により、三菱と住友から株を買い、大株主となった。この点は後述する。

 1937年3月に鮎川は日本蓄音器商会(コロムビア)取締役会長に就任している。ビクターのほうは、買収の翌7月に代表取締役会長に就任した。


 鮎川本人が経営の枢要な地位についたわけで、部下が適当に買収したわけではない。「新産業からの独占利潤」(「ダイヤモンド」前掲)を追求したのである。

 鮎川が何を考えていたのか、4人の当事者が証言を残していた。

 まず、石坂泰三(1886-1975)。

 逓信省官僚を経て1915年に第一生命に入社し、創業社長、矢野恒太郎の秘書となる。その後、38年に社長へ就任、戦後49年に東京芝浦電気(東芝)社長、56年から68年まで経団連会長をつとめている。

鮎川さんは特に満州にいらっしゃる前に、コロムビアとか、ビクターとかいうような蓄音機会社、レコード会社が全部、外国人の手によって経営されておりましたが、ああいう宣伝的の機能をもつものは、どうしても外国人だけの手においておくのはいかんというお話でございましたため、私、その当時、ちょうど第一生命におりましたので、鮎川さんと二人、両方で両者の株を半分ずつ持って、まったく日本人の手に入ったのでございます」(石坂泰三「常に国家的見地から」(速記)、『鮎川義介先生追想録』所収、1968)

 さもありなん、という話だが、「独占利潤」を追う鮎川義介が、外国資本から情報産業を買収することだけを考えていたとは思えない。

つづく

鮎川義助とコロムビア、ビクター2

2014-01-24 09:37:31 | 音楽
http://diamond.jp/articles/-/47645?page=2

これで17社だが、さらに日本食料工業には数十社、日本水産には13社の関係会社があり、ほかの子会社、孫会社を加えれば三井、三菱を超える巨大なコンツェルンを形成しているという。「ダイヤモンド」は「目下さらに調査中」としていた。

財閥と異なるのは、株の所有者がファミリーではないことと、大金融機関がないことである。したがって公開持株会社が最適なスタイルとなったわけで、鮎川義介は戦略としてこの方策をとった。

鮎川義介は新分野の独占利潤を追求した

 当時の「ダイヤモンド」はこう分析している。

「(略)他より資本を仰がなければならぬ。が、巨額に亘って是を金融資本に求めるには、どうしてもそれに隷属しなければならず、結局、株式公開によって群小資本家の資本を掻き集めるより外に途がない。(略)日産が多数株主に依存することが大であればあるほど、日産はどうしても配当偏重に陥りやすく、ことに資本を集積する過程にあっては高配当の維持は絶対に必要である。(略)日産が目覚ましい活動を見せている根源は、日本鉱業の収益著増に起因し、日本鉱業の躍進は金再禁止に伴う金価格の暴騰、銅、銀の昂騰からである。(略)各種の産業部門に投資し、新興事業に着目することは烈しい時代の変動を一時に受ける危険を回避せしめるとしても、利潤率低減の法則を破ることは困難であり、ここに日産コンツェルンの独占利潤への追求が必然の一路たらざるを得なくなる」(「ダイヤモンド」1935年2月11日号)

 鮎川は「ダイヤモンド」の分析記事の8ヵ月後に日蓄=コロムビアを買収する。2年後の1937年6月、日本ビクター蓄音器も買収した。つまり、レコード業界最大手の2社を手中におさめ、独占利潤を得るM&Aを実現したのである。

 ちなみに、記事中にある「利潤率低減の法則」はマルクス経済学の主要原理で、資本主義体制では競争による利潤率の低下が不可避で、やがて独占段階に至る、というものである。当時の「ダイヤモンド」記者も当時主流だったマルクス経済学を学んでいたことがわかる。

1927年、日本ビクター設立

 日蓄=コロムビアの初代社長、F.W.ホーンは明治末にホーン商会で米国製蓄音器を輸入していた。1896年には米国からグラフォフォン(?管蓄音器)を輸入している。

 1887年に円盤型蓄音器を発明したエミール・ベルリナーは、1901年にベルリナー・グラモフォンをビクター・トーキングマシンへと社名変更している。ホーン商会はこのビクター製品の輸入を行なっていた。ビクター製品についてはその後、ホーン商会が輸入し、横浜のセール・フレーザー商会が独占的に販売するようになった。

 関東大震災後、1927(昭和2)年に輸入品へ奢侈税100%が課された。価格が2倍になるわけで、競争力はなくなる。日本市場を有望とみるビクター本社は日本に直接投資することになり、9月13日に日本ビクター蓄音器が設立された。同時期に英米コロムビアが日蓄の株式の過半を買い、日蓄の別会社として日本コロムビア蓄音器を設立している。ブランドはコロムビアとなる。

つづく