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玄洋社とは

2013-11-26 23:40:56 | ニュース
ー引用開始ー

玄洋社
http://ja.wikipedia.org/wiki/玄洋社


玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。

目次 [表示]

概要[編集]

当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散を命令した。 実際は、解散されなかった。

主な活動[編集]

1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、旧福岡藩士らが中心となり、杉山茂丸、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画し、新聞「福陵新報」を創刊し、吉田磯吉といった侠客や、「二六新報」の主筆・鈴木天眼もしばしば関係した。

戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を強力に支援した。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じた。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を躊躇していたためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。


他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。

玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の親日開花運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。

1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。

日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。

また、日韓問題については、内田良平は一進会の領袖李容九と、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動した。

昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。

新聞発刊[編集]

新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)には新聞統制に伴い「福岡日日新聞」に合併されて「西日本新聞」となり現在に至っている。

政治との関連[編集]

進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一馬は福岡市長となった。

多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館は、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となった。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和61年)から1998年(平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である。

また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国士舘はその名称を変更させられていた時期もあった。


記念館・記念碑[編集]



玄洋社跡



玄洋社墓地

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して建てられた雑居ビル「玄洋ビル」内に、玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」があった。1978年11月に開館したが、2008年5月末をもって閉館され、資料は福岡市博物館に寄託される。[1]
なお、玄洋ビルは後に解体されたが、同ビル跡の隣にあるNTTドコモ舞鶴ビルの一角に記念碑が設置されている[2]。
また、博多区の崇福寺には頭山満や来島恒喜など社員の墓がある。

歴代社長[編集]

平岡浩太郎
進藤喜平太
阿部武三郎
箱田六輔
進藤喜平太(再任)
喜多嶋淳
月成勲
美和作次郎
吉田庾
進藤一馬

輩出した著名な人物[編集]

川上音二郎
須永元
杉山茂丸
寺田栄(鳩山由紀夫の曾祖父
明石元二郎
中野正剛
緒方竹虎
月成功太郎
中村天風
内田良平
末永節
来島恒喜
広田弘毅[3]
小野(三木)隆助
堀川辰吉郎(孫文の辛亥革命に助力)

関連人物[編集]

夢野久作
犬養毅
松岡洋右
真藤慎太郎
安川敬一郎
安川第五郎
山崎和三郎(山崎拓の祖父
深作清次郎
宮崎滔天

関連項目[編集]

閔妃
黒龍会
東方会
自剛天真流
青年大民團
国士舘大学

参考文献[編集]

頭山統一『筑前玄洋社』(葦書房) ISBN 9784751200353
葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所) ISBN 9784901577090
宮崎滔天・萱野長知・北一輝著『アジア主義者たちの声』書肆心水、2008年。ISBN 9784902854428

脚注[編集]

^ 玄洋社記念館 月末で閉館 政治結社の足跡伝え30年 資料、市立博物館に寄託へ - 西日本新聞(2008年5月25日)
^ 玄洋社跡碑 - 地域情報サイト ZAQ(2012年9月26日閲覧)
^ 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』どでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されている。しかし玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から服部龍二は広田が正式な社員になったとしている(服部、4-6、16p)。また東京裁判開廷前の尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している(服部、229-230p、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)。服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』  中央公論新社〈中公新書〉、2008年、ISBN 4121019512)

外部リンク[編集]

玄洋社史概観
[表示]
表・話・編・歴
日本の右翼団体
ウィキメディア・コモンズには、玄洋社に関連するメディアがあります。
カテゴリ: 戦前日本の政治団体戦前日本の右翼団体日本のアジア主義

ー引用終わりー

またまたクレーン車横転

2013-11-26 21:06:06 | ニュース
また「クレーン車」の横転ですか。怪しいなあ…。

ー引用開始ー

共同通信 2013年11月26日18時21分
横浜で1・8トン電柱幼稚園直撃 園児ら全員無事
http://news.livedoor.com/article/detail/8289821/




写真拡大
 電柱の交換作業中に横転したクレーン車と、電柱が直撃した野庭聖佳幼稚園の園舎=26日午前、横浜市港南区

 26日午前11時15分ごろ、横浜市港南区野庭町の市道で、電柱の交換作業をしていたクレーン車が横転、クレーンでつるされていた長さ約15メートル、重さ約1・8トンの電柱が近くの野庭聖佳幼稚園に倒れて2階建て園舎を直撃、2階ベランダなどを壊した。

 敷地内の屋外運動場では当時、園児約70人と職員約20人が卒園記念アルバムで使う写真を撮影していたが、全員無事だった。港南署はクレーン車がバランスを崩したのが原因とみて調べている。

 署によると、クレーン車はアーム部が最長約10メートル。

ー引用終わりー

オーム関連ニュース

2013-11-26 20:11:41 | ニュース
オーム関連ニュース

ー引用開始ー

共同通信 2013年11月26日17時49分
オウム・井上死刑囚「真実話す」 平田被告公判で自ら希望
http://news.livedoor.com/article/detail/8289773/


 来年1月に始まるオウム真理教元幹部平田信被告(48)の裁判員裁判で、証人尋問の実施が決まっている元幹部井上嘉浩死刑囚(43)が、東京地裁に上申書を提出し、尋問方法について「公開の法廷に出て真実を話したい」と希望を伝えていたことが26日、関係者への取材で分かった。

 関係者によると、井上死刑囚は2012年1月に平田被告が逮捕された直後から「裁判に呼ばれたら協力したい」と口にしていた。

 法廷で傍聴席の視線を遮る壁を設置するなど尋問は希望せず、「通常通りの尋問で堂々と証言したい」と話しているという。

ー引用終わりー

資料

2013-11-26 19:40:59 | ニュース
頭山満関連

ー引用開始ー

http://www.kuretakekai.jp/information/index.html

役員体制

会長 頭山 興助

顧問 岩井 達
行徳 哲男
ペマ・ギャルボ

代表幹事
藤井 厳喜
幹事(五十音順)
池田 憲彦
石川 多聞
木村 三浩
小礒 明
末綱 和征
高木 清光
原 大輔
廣瀬 義道
茂木 弘道
柳 毅一郎
山田 脩

事務局長
廣瀬 義道

事務局(五十音順)
折本 龍則
杉本 登茂子

ー引用終わりー

ー引用開始ー

http://www.kuretakekai.jp/asia_forums/index.html

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次回の呉竹会・アジアフォーラム

第38回 呉竹会・アジアフォーラム開催のお知らせ

今回の呉竹会・アジアフォーラムは衆議院議員園田博之先生による『参議院選挙と日本の行方』について、参議院選挙を間近に控えこれからの日本はどうあるべきかをご講演いただく予定です。
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第31回 平沼赳夫(衆議院議員) 平成23年4月6日
第30回 石破茂(衆議院議員) 平成22年12月16日
第29回 田原総一朗(ジャーナリスト) 平成22年9月22日
第28回 樋泉克夫(愛知県立大学教授) 平成22年4月23日
第27回 平沼赳夫(衆議院議員) 平成21年12月9日
第26回 石平(評論家) 平成21年6月24日
第25回 長谷川周人(ジャーナリスト) 平成21年4月24日
第24回 田母神俊雄(軍事評論家) 平成21年2月20日
第23回 花岡信昭(ジャーナリスト・呉竹会代表幹事) 平成20年11月18日
第22回 篠原文也(政治解説者) 平成19年12月15日
第21回 岡田武史(サッカー日本代表監督) 平成19年9月12日
第20回 エリ・コーヘン(駐日イスラエル大使) 平成19年5月18日
第19回 鈴木宗男(衆議院議員) 平成19年2月21日
第18回 塩川正十郎(元財務大臣) 平成18年10月25日
第17回 西部邁(評論家) 平成18年8月8日
第16回 頭山満150年祭 平成18年2月17日
第15回 平沢勝栄(衆議院議員) 平成17年11月29日
第14回 岡野俊一郎 (日本サッカー協会名誉会長) 平成17年9月8日
第13回 マニラ・トリパティ(駐日インド大使) 平成17年6月14日
第12回 八木秀次(政治評論家) 平成17年4月6日
第11回 加瀬英明(外交評論家) 平成17年2月4日
第10回 西村眞悟(衆議院議員) 平成16年11月24日
第9回 黄文雄(評論家) 平成16年10月20日
第8回 一周年記念パーティ 平成16年9月8日
第7回 中村慶一郎(政治評論家) 平成16年7月7日
第6回 佐藤行雄(元国連大使) 平成16年5月12日
第5回 平沼赳夫(衆議院議員) 平成16年3月10日
第4回 宮崎正弘(評論家) 平成16年1月20日
第3回 勉強会 平成15年12月8日
第2回 ペマ・ギャルポ(政治学者) 平成15年10月23日
第1回 呉竹会発会式 平成15年8月8日
呉竹会準備会 平成15年7月7日
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ー引用終わりー

ー引用開始ー





( http://www.takaoinc.co.jp/touyama.pdf#search='頭山満+pdf' )





( http://www.kuretakekai.jp/toyamamitsuru/hokki.pdf#search='頭山満+pdf' )

ー引用終わりー