「頑張っている人が報われない社会はおかしい」という文言。
「努力しなかった人と、努力した人の最低基準が同じなのはおかしい。」
というAと
「いやいや、いまはホントに努力している人が報われない。だからこそ最低基準をレベルアップして報われない人もなんとか暮らせる社会にしましょう。」
というBがいる。すると
「では、努力しなかった人間も努力した人間と同じレベルの生活が保障されるというのか、それはおかしい。」
とAの反論。
今朝の朝ズバで時給500万円のみのもんたがAのようなことを発言した。
「頑張る」とか「努力」の基準って何なのかなぁ。
ひとはそれぞれに特性があり、能力が異なっている。
しかし私たちは一定基準のもとで競い合って優劣をつけていく社会に生きている。その基準だから劣っているかもしれないが、別の基準では「優れている」ことも多々あるのだが、生産性の低い特性には、あまり目は向けられない。
しかもこのごろは社会全体に鷹揚さがなくなり、「利益を生み出している人」へのシフトがどんどん強くなっている。社会的に利益を生み出すために「努力している」人から上位に格付けされている。
イチローのようにトップで努力を怠らない人は大絶賛され、中のところ、劣の分野で努力を続けている人たちは「敢闘賞」「努力賞」という感じ。
しかも、その「努力賞」枠がぐんと小さくなっている。
なので報われない、仕事をしても手ごたえがない、認められない、単純労働だからと尊重されていない、そんな感覚が「頑張ってもこの暮らしから抜け出せないのなら気楽にやりたい」という人々を生み出していく。
果たして、こうした人々は「努力していない人」なのだろうか、それとも「報われない人」なのだろうか。
努力しなくても遊び暮らしていける人と、力いっぱい頑張っていても社会の中では評価が低くて排除されて自暴自棄になっていく人がいる。
いったい誰が努力しない人で、誰が報われないけれど努力している人なんだろう。努力していたけれど社会の要求が高くて疲れて諦めてしまった人はどうなんだろう?
生産性の高い人、利益を上げていく人、努力してひたすら利益生産に尽くす人から見て努力しない人を決めていくというのはどうなのかなぁ。
時給500万円のみのもんたは自分は努力してその地位を築き、自分自身が多くの人々から選ばれている人間だという自負があるだろう。そんな彼の感覚に基づいた報われない人と努力しない人と、厳しいところにいる人たちが目にしている「報われない人」と「努力しない人」はちがうのではないか。
立ち位置がちがうと見えてくるもの、感じるものは違う。
だから議論がとっても難しい。
こんなふうに書いてる私だって、みのもんたのことを決してえらそうには言えない。その感覚がみのもんたの「いまの実感」なんだろうなぁ。
「努力しなかった人と、努力した人の最低基準が同じなのはおかしい。」
というAと
「いやいや、いまはホントに努力している人が報われない。だからこそ最低基準をレベルアップして報われない人もなんとか暮らせる社会にしましょう。」
というBがいる。すると
「では、努力しなかった人間も努力した人間と同じレベルの生活が保障されるというのか、それはおかしい。」
とAの反論。
今朝の朝ズバで時給500万円のみのもんたがAのようなことを発言した。
「頑張る」とか「努力」の基準って何なのかなぁ。
ひとはそれぞれに特性があり、能力が異なっている。
しかし私たちは一定基準のもとで競い合って優劣をつけていく社会に生きている。その基準だから劣っているかもしれないが、別の基準では「優れている」ことも多々あるのだが、生産性の低い特性には、あまり目は向けられない。
しかもこのごろは社会全体に鷹揚さがなくなり、「利益を生み出している人」へのシフトがどんどん強くなっている。社会的に利益を生み出すために「努力している」人から上位に格付けされている。
イチローのようにトップで努力を怠らない人は大絶賛され、中のところ、劣の分野で努力を続けている人たちは「敢闘賞」「努力賞」という感じ。
しかも、その「努力賞」枠がぐんと小さくなっている。
なので報われない、仕事をしても手ごたえがない、認められない、単純労働だからと尊重されていない、そんな感覚が「頑張ってもこの暮らしから抜け出せないのなら気楽にやりたい」という人々を生み出していく。
果たして、こうした人々は「努力していない人」なのだろうか、それとも「報われない人」なのだろうか。
努力しなくても遊び暮らしていける人と、力いっぱい頑張っていても社会の中では評価が低くて排除されて自暴自棄になっていく人がいる。
いったい誰が努力しない人で、誰が報われないけれど努力している人なんだろう。努力していたけれど社会の要求が高くて疲れて諦めてしまった人はどうなんだろう?
生産性の高い人、利益を上げていく人、努力してひたすら利益生産に尽くす人から見て努力しない人を決めていくというのはどうなのかなぁ。
時給500万円のみのもんたは自分は努力してその地位を築き、自分自身が多くの人々から選ばれている人間だという自負があるだろう。そんな彼の感覚に基づいた報われない人と努力しない人と、厳しいところにいる人たちが目にしている「報われない人」と「努力しない人」はちがうのではないか。
立ち位置がちがうと見えてくるもの、感じるものは違う。
だから議論がとっても難しい。
こんなふうに書いてる私だって、みのもんたのことを決してえらそうには言えない。その感覚がみのもんたの「いまの実感」なんだろうなぁ。