「やっぱり男なのかなぁ」。
少し前に友人がつぶやいた。
若い女性が恋人の存在で自信を得てエンパワーメントするのは悪いことじゃないのに、受け入れられない・・・・と。
なんだか、わかる気がする。
話す人を間違えると「女の嫉妬」だと片付けられてしまいそうな言葉だけれど、そうじゃない。
恋人によって居場所を獲得し、そこから得た自信が刃になる。
あるいは「しなやかな女性らしさ」をウリにしながらビジネスの世界で勝ち抜いてきた女性たちが男性(POWER)の承認を得ることで獲得した居場所から「男と対等の立場で道を拓いてきた私たちこそ男女共同参画のお手本」と言う女たちのイキオイが暴力になる。
その人が上っている階段、獲得した居場所、自信は「おおきな力の承認」(当事者は信頼関係というけれど)なしには存在しない。
有能な女性、協力的な女性から引き上げてもらえるという構造の中で自己の存在価値を確認し、自己肯定感を高めてさらなる自信を生み出していく。「男性はもはや私たちの敵ではない。対等なパートナーよ」と高らかに謳うけれど。
おおきな力の中に存在する「わたし」。じぶんの力で居場所を獲得したことがうれしくて仕方がない。わたしは立ち上がった、動いた、努力をした。その成果を得たのだ、と。
しかし「はじめに力ありき」のところに女性が参入し、承認を得ることが男女共同参画なのだろうか、と、ふと思うことがある。
もちろんこれは女性の権利を獲得するために力の社会で奮闘している女性たちのことではない。力の承認によって自尊感情を高めようとする人たちについて感じることであり、実は私の中にも潜んでいる。地べたにいると、そうしたことがよく見えるのでありがたい。
「ボーイズ・オン・ザ・サイト」は黒人でゲイ、エイズ、アディクションという「力の社会に協力的でない」3人の女性が互いを受けとめあいながら幸福な居場所をみつけいく。向上心でも、闘いでもなく、弱いことを前提につながりあっていく女性たちのやさしさが胸に沁みていく。
人はどうか分からないけれど、少なくとも私の幸福は権力構造や闘争の中にはなさそうな気がする。
少し前に友人がつぶやいた。
若い女性が恋人の存在で自信を得てエンパワーメントするのは悪いことじゃないのに、受け入れられない・・・・と。
なんだか、わかる気がする。
話す人を間違えると「女の嫉妬」だと片付けられてしまいそうな言葉だけれど、そうじゃない。
恋人によって居場所を獲得し、そこから得た自信が刃になる。
あるいは「しなやかな女性らしさ」をウリにしながらビジネスの世界で勝ち抜いてきた女性たちが男性(POWER)の承認を得ることで獲得した居場所から「男と対等の立場で道を拓いてきた私たちこそ男女共同参画のお手本」と言う女たちのイキオイが暴力になる。
その人が上っている階段、獲得した居場所、自信は「おおきな力の承認」(当事者は信頼関係というけれど)なしには存在しない。
有能な女性、協力的な女性から引き上げてもらえるという構造の中で自己の存在価値を確認し、自己肯定感を高めてさらなる自信を生み出していく。「男性はもはや私たちの敵ではない。対等なパートナーよ」と高らかに謳うけれど。
おおきな力の中に存在する「わたし」。じぶんの力で居場所を獲得したことがうれしくて仕方がない。わたしは立ち上がった、動いた、努力をした。その成果を得たのだ、と。
しかし「はじめに力ありき」のところに女性が参入し、承認を得ることが男女共同参画なのだろうか、と、ふと思うことがある。
もちろんこれは女性の権利を獲得するために力の社会で奮闘している女性たちのことではない。力の承認によって自尊感情を高めようとする人たちについて感じることであり、実は私の中にも潜んでいる。地べたにいると、そうしたことがよく見えるのでありがたい。
「ボーイズ・オン・ザ・サイト」は黒人でゲイ、エイズ、アディクションという「力の社会に協力的でない」3人の女性が互いを受けとめあいながら幸福な居場所をみつけいく。向上心でも、闘いでもなく、弱いことを前提につながりあっていく女性たちのやさしさが胸に沁みていく。
人はどうか分からないけれど、少なくとも私の幸福は権力構造や闘争の中にはなさそうな気がする。