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sanctuary

てま・ひま・くらし。ていねいな毎日。

女にとって“女友達”ほど、すてきな関係はない

2007-06-27 10:00:52 | 哲学
「やっぱり男なのかなぁ」。
少し前に友人がつぶやいた。

若い女性が恋人の存在で自信を得てエンパワーメントするのは悪いことじゃないのに、受け入れられない・・・・と。

なんだか、わかる気がする。

話す人を間違えると「女の嫉妬」だと片付けられてしまいそうな言葉だけれど、そうじゃない。

恋人によって居場所を獲得し、そこから得た自信が刃になる。

あるいは「しなやかな女性らしさ」をウリにしながらビジネスの世界で勝ち抜いてきた女性たちが男性(POWER)の承認を得ることで獲得した居場所から「男と対等の立場で道を拓いてきた私たちこそ男女共同参画のお手本」と言う女たちのイキオイが暴力になる。

その人が上っている階段、獲得した居場所、自信は「おおきな力の承認」(当事者は信頼関係というけれど)なしには存在しない。

有能な女性、協力的な女性から引き上げてもらえるという構造の中で自己の存在価値を確認し、自己肯定感を高めてさらなる自信を生み出していく。「男性はもはや私たちの敵ではない。対等なパートナーよ」と高らかに謳うけれど。

おおきな力の中に存在する「わたし」。じぶんの力で居場所を獲得したことがうれしくて仕方がない。わたしは立ち上がった、動いた、努力をした。その成果を得たのだ、と。

しかし「はじめに力ありき」のところに女性が参入し、承認を得ることが男女共同参画なのだろうか、と、ふと思うことがある。

もちろんこれは女性の権利を獲得するために力の社会で奮闘している女性たちのことではない。力の承認によって自尊感情を高めようとする人たちについて感じることであり、実は私の中にも潜んでいる。地べたにいると、そうしたことがよく見えるのでありがたい。

「ボーイズ・オン・ザ・サイト」は黒人でゲイ、エイズ、アディクションという「力の社会に協力的でない」3人の女性が互いを受けとめあいながら幸福な居場所をみつけいく。向上心でも、闘いでもなく、弱いことを前提につながりあっていく女性たちのやさしさが胸に沁みていく。

人はどうか分からないけれど、少なくとも私の幸福は権力構造や闘争の中にはなさそうな気がする。


じぶんがみえるとき

2007-06-04 15:19:06 | 哲学
「人の為と書くと偽になるんですね」。
ちょっと前に格闘家の角田信明さんがこんなことを言っていた。

ほんまに、そうなのよねぇ。
その人のためによかれと思ってやったこと、そうすることがいいことだと分かっていても間違っていることもある。

支配とか抑圧を最も嫌っていたわたしが、傲慢にも無理強いしようとしていた。
ある人が私の親切ごかしな姿をみせてくれた。

支配されてきた人間は支配しようとする
権威に抑圧されると権威で抑圧する
脅されてきたひとは脅す
怒られてきた者は怒りをぶつける
強要された人間は強要する

ネガティブな心の記憶に要注意。




もっているものしか出せない、もっているものしか受け取れない

2007-02-01 10:55:35 | 哲学
お金がない!仕事が・・・。どうしましょ、と嘆いても仕方がない。
いい習慣を身につけることなんだな、などと目の前の解決すべき課題に焦りつつも、回り道していろいろ考えるこのごろ。

そんな中でずっと考え続けていたのが、みょうがさんからいただいた

もっているものしか出せない、もっているものしか受け取れない

というお言葉。
深いですなぁ。

あれこれ考えて見えてきたのは「狭量なわたし」。

そうそう、わたしは間口の狭い、小さな家にひとりで住んでいる。
その家には長所も短所もあって小くて身軽なことは快適
でも小さい割に雑なつくりを認めたくない私もいて、なかなか難しい。


出したものしか返ってこない。出されたものしか返せない

というのは、私の狭量さから出たことなんだなぁ、と。

たとえば親切なフリして本音は自分のため、というような欲の部分を
実は私も持っているのだけれど、だから損したくなくて(これも欲ですね)、
結局また相手に欲で返してしまう。

欲を出したら欲しかかえってこなくて
ほとうの優しさをいただいたら、持っている優しさで返せるのではないか・・・てなこと。

強欲なお方をやんわり懐柔して愛を返す、という人になってみたいものだ。
(無理であろう)



出したものしか返ってこない。出されたものしか返せない

2007-01-23 10:17:01 | 哲学
いけん、取材が1週間のびたのに出稿は明日午前中〆切というとんでもない緊急事態が発生し、しかもかねてより呻吟している原稿にも尻に火がついた。
あわあわ~

ブログ更新してる場合じゃないのですが、なんだかとても大切なことに気づいた気がするのでメモしておこう。

「出したものしか返ってこない。出されたものしか返せない」。

なにアタリマエのことを言うとるねん、と笑う方もあられましょう。
しかしデス・スパイラルに入り込んでしまうとこういうことが見えなくなるのです。
わたしはいつも何を出しているのか。何を出してきたのか。
受け取ってきたものの正体は何なのか。わたしが感じたその正体しか返せない。

みょうがさんからいつもいただいている慈愛を思うと明白なことなのに。
ああ気づきの遅い私のばかばか~


自らを屠る

2006-11-01 09:13:27 | 哲学


世の中の「売れっ子」さんたちは、あたりまえだがよく働く。
テレビでコメンテーターという仕事をなされている人のブログは
毎日更新だ。あれだけテレビに出演して、小説を書いて
週刊紙のコラムを執筆して、あなおそろしい。

こういうとき、つい「世に名前の出る人はやっぱりちがう」と
思いたがる私がいたりするのだけれど
さいきん、ちょっとちがうかなとも思う。

こういう人は、自分の人生を味わい尽くしているんじゃないか。

苦いもの、辛いもの、臭いもの、不味いものも
ぺろりと貪欲にたいらげている。

好き嫌いが多いとこうはいかないのかもしれない。
上下左右を気にしていると
お行儀よくほどほどにしか食べられない。

今朝の神戸新聞にイチローのインタビューが掲載されていた。

「個人の目標を口にすることで
『自分だけがよければいいのか』と誤解されることがある。」

という問いに

「チームに貢献するには、まず自分の成績を残さないと。
『チームのために』と言いながら成績が残せないなら
結局貢献していることにはならないでしょう」

外側に向かって喰い荒らすのではなくて
自らをがっつりと喰ってる人がここにもいた。


あやまちをくりかえしながら

2006-10-15 13:25:38 | 哲学


僧侶でアナウンサーの川村妙慶さんが開設しておられる「日替わり法話」というブログ。
いつも、ありがたいなぁと思いながら拝見している。

人間は「六つの違った心」に変わるそう。
それは「天(てん) 人(にん) 阿修羅(あしゅら) 畜生(ちくしょう) 餓鬼(がき) 地獄(じごく) 」の世界の心。

●天は 有頂天という言葉があるように、自分のことしか考えないで夢中になる姿。このような時には冷静に物事を考えられない。

●人間として生きる中で、誰も避けられない苦しみ(生 老 病 死)。

●阿修羅は 修羅場(しゅらば)という言葉があるように、争うことに夢中になる心のこと。勝つ事に必死になり、本当の自分の姿を知らない。

●畜生は、動物になった状態。

●餓鬼(がき)は、手にいれることだけに執着を持ち、いつもほしい ほしいと思っている心のこと。

●地獄は 他人をみては「あの人はおかしい」と、裁いていく姿。自分は常識人 他人は悪人と責める心のこと。

そして妙慶さんのことばから

地獄は外にあるのではありません。自分の心がつくっているのです。
私たちは、こうした心に動かされています。世間の常識という目がねをかけて人を見るのは危険なのです。

・・・・法の灯火で心を照らしてみると、じぶんの姿に愕然。痛んだり、泣いたりしてないなぁと思う。
そして、わたしがこれまで未熟さゆえに驕って傷つけてきた人たちのことが思い浮かんでくる。
あのときのこと、あの人のこと、あの子のこと・・・・。
もう遅いけれど、心の中で「ごめんね」とたくさんの人に手をあわせてあやまるしかない。



疲れたびー

2006-08-24 16:34:24 | 哲学
ひさびさに、人の中に入ったら・・・疲れた。

興奮状態がつづいて眠れない。
はじめて会う人が多くて気づかれしているのだろう。

そしてもうひとつの原因は
「どうして言ってくれないんだろう」ということ。

機関誌に原稿を書きませんかと言ってくださる方があり
もちろん引き受けた。

しかしその機関誌には原稿が掲載されていなかった・・・

ボツはべつによいのである。

でも、どこがどんなふうにダメなのか、
その人の考えや主張について
ちゃんと話し合いたかったなぁ。

しかし忙しい人だというのもわかっているし
機関誌を読んでわたしの書いたものが
全体のトーンと少しちがっているというのも
目にしてわかった。

めざしているところが同じなのに
しかし、そのアプローチの方法が異なる、
異なるから黙って削除する・・・なんかつらい。
「なんで言ってくれないのよ」である。

こういうときって、お互いの「耕し」が足りないのだ。

そのひとも、わたしも、お互いをよく知らない。

ベタベタした関係ではなくて
「そうか、このひとはこんなふうに考えてるんだ」
ということ。

なんて人のことばかり言って
わたしの表現方法もまた「伝わりにくい」ものなのだろう。
こういう現象は私の場合、男性に発生しやすい。

依存や期待の裏返し、私の中の「対等」ではないものが
異性との関係づくりを難しくしてしまうのだろう。

年をとっても意固地にならないよう、気をつけなくちゃ。
「わたしはこう思うんだけど、あなたはどう?」
「あなたはどう思いますか?わたしはこんなふうに考えるの」
人の考えに出会って驚いたり、発見したりしていたい。

気持ちを分かちあうのって難しいのだけれど
わたしが大切だとおもっているものを
手法はちがっても同じことを大切にしようとしているひとを
攻撃したり批判するのはちがうなと思う。

わたしの物差しを大切にしつつ
その人の物差しも尊重しながら議論する。

分かち合いの機会はきっと訪れると信じよう。
ゆっくり待とう。

精神的なデトックス、なのかな

2006-08-21 10:17:54 | 哲学

猫バカと笑っていただきましょう。
きょうのくろすけはぷりち~
そう、この子はホントはこんなに可愛いですのよ
オホホ・・・・ああ自画自賛

でもって、ここのところジョジョビジョヴァ~、なわたくし。

精神的なデトックス、とでもいうのでしょうか。

周囲に気をとられて、毎日をやりすごして
置き去りにしてきたことが沸々と浮かんでくる。

これまでは「ああいやだいやだ」と追い出していたことを
ひとひとつとっつかまえて、その正体をつぶさに観察している。

いやぁ、恥ずかしい感情をいっぱい持っておりますなぁ。

でも、これにとらわれている限り、わたしは動けないな。

人によってはジャンピングボードになるものでも
私には「縛り」になってしまう。

まずは私の中にそういうものが「ある」ことを認識して
責めないで、しょーがねーなーと受け入れてやって
自分に話してやりましょう。

「そうなりたいなら、まずは純粋に楽むことでしょう」と。

望む結果に対してプレッシャーかけすぎて
「ねばならぬ」と縛りをかけて
力の出ない自分を責めて
けっこうボコボコにしてた。

いつだって「いい結果」を期待しすぎちゃうのよね。
そのための道順はひとり、ひとりちがっていいのかもしれないのに
どうも自分がまっとうでないような気がしてならなかったし
いっぱいかっこつけたり、傲慢で世間を見下してることもあった。
そして人よりものろまで、怠惰なことへの罪悪感と強迫観念。
「だから自分はダメなんだ」と引き出された結果にまた凹んでしまう。
でもねぇ・・・・
要は薄紙を重ねていくような、そうしたことなんだ。
薄紙は破れていたり、穴があいていたり
どうしようもなくても、重ねていくことで厚みが出てくる。

わたしは薄紙は「きれいでないといけない」と
思い込みすぎていたし、人と比べて勝っていたかった。
できもしないのに上質の厚い紙を
いちまい用意しようとしていたのかもしれない。

いまわたしが用意できる薄紙はたかがしれている。
でも「これじゃダメだ」って人が言うのは仕方がないが
自分では言うまい。そして、せめて精一杯の薄紙を出そう。

極論のベストにこだわるのは、しつこいようだけれど
意見のちがう人の家を燃やすことと同じなのかもしれない。

ひとが一人前になるということ

2006-05-31 16:38:02 | 哲学
電車に乗って、とても気になるのは
「座席の奥に詰める」人が
少なくなったなぁということ。

新快速電車は前の座席との間が狭い。
窓側の座席で、隣に大きな男性が
座った時には「困ったな」と思うこともある。

出やすい通路側に座っていても
長距離移動だと
窓側の人が先に出ることも間々ある。

このときに平然と通路側の席に
座ったままの人が多いのだ。
その人が窓側に移動したなら、
側に立っている人は座りやすいのに。

通路側の人が一駅先で降りるのならまだしも、
奥に座った人が結局また
「すみません」とか言いながら
出ていくのをみると、平然と座っているヒトの
無神経さに不快感を覚えてしまう。

些細なことなんだけど・・・・。

たとえば若い子のマナーの悪さや
だらしなさは、まるで若者文化から
湧いて出たように言われるけれど
このへんの大人の無神経さと
どこかで連動しているような気がする。

大人がちょっとした気づかいを忘れて
崩してきたマナーがどんどん拡大解釈されて
いまの子たちのお行儀の悪さに
つながっているのかなぁ、と。
じぶんたちのやったことをさしおいて
「いまのガキは」なんて非難しているが
臭いのモトを辿ったら
言った本人だった、みたいな。

ちょっとここでまた遠藤周作様の著作から引用を。

彼は若い頃、フランスに留学しており
その最初の三ヶ月をルーアンに住むロビンヌさん
ご夫妻にお世話になった。
ここで彼はロビンヌ夫人からフランス語とマナーを
「泣きたくなるほど」厳しく教育されたそう。

朝と晩にはYシャツをとり換えさせられ、
散歩した靴のまま食堂に入ることは許されず、
ワインを飲むときにはナプキンで口をふけと言われ
爪が伸びていると言っては叱られていた。
日本では「ソバプン」(側に寄るとぷんと臭いがする)
といわれたほどずぼらな遠藤氏にとっては
相当に息苦しい日々だったとか。

が、最後の日、夫人は遠藤青年に

「大学に行けばもう貴方は学生として暴れたり、
不作法なこともしていいのですよ。
けれどもあたしの教えたことは作法を知らないで
不作法をするのと、それを知りながら
暴れることの違いです。
もう貴方はどんなフランスの学生にも
その点及ばないはずはありません」

と言って送り出したそう。
敗戦国である日本から来た青年を、
フランスの暮らしに困らないように、
徹底的に語学とマナーを教え込んだ。
そのうえで暴れることも不作法であることも
していいのですよ、という。

「あなたのままでいいのよ」という
存在を認めていくことと
厳しい規律に則った教育は
相反するものなのかなと
考えてしまうことがある。

でも、どちらも大切なことだなと思う。

ふりかえって、私はといえば決して
お行儀のよい人間ではない。
だからこそ、ほんの少し身についていることは
あまり崩さない方がいいなと思っている。

基本もできてないのに不作法して
「なしくずし」の片棒をかつぎたくはない。

ダヴィンチ・コードと遠藤周作

2006-05-30 10:42:27 | 哲学
「ダヴィンチ・コード」で世の中がにぎわっている。
図書館で予約しようとしたら200人待ち、
映画はあまりに評判が悪くて行く気が失せた。
というわけで、作品のことは何も言えないが
キリスト教団体の一部が小説と映画の排除運動を
展開していることは興味深い。

イエス・キリストがマグダラのマリアとの間に
子どもをもうけた、キリストは人間である、という
作品の主旨がお気に召さないらしい。

神であるキリストへの冒涜だと
えらい剣幕で騒いでいるのが主に欧米人なのは
やっぱりねぇ、という気がする。

弱さを許したらなめられるど、みたいな
騎士の鎧じみた至上主義をふりかざすキリスト者が
世界の火種になっている。
ブッシュも熱心なキリスト教原理主義者だそうだし。

わたしの原点といってもいい遠藤周作の著作は
一時、カトリック教会から排除された。
理由はキリストと十二使徒の
「弱さ、人間らしさ」の表現が神への冒涜に値する
というものだったらしい。

「私は神の存在に疑問を抱いたからといって、
それがキリスト者として間違った
態度だとは考えていません。
信仰というものはそういうものであって、
九九%の疑いと一%の希望なのですから。」
(「私のイエス」)

若いうちに、この方の作品をたくさん
読んでおいてよかったと思う。