僕が天国に来て3カ月後の平成10年11月27日、オリックスの編成部長だった三輪田勝利さんが、僕と村山がいる天国にやってきました。僕と村山は、「なぜ、三輪田さんは、今、天国に来たのか」と聞いてみました。


三輪田勝利さんの談
僕の自宅は、神戸市内にあります。3ヶ月前の8月31日に、渡辺さんが亡くなられた時、西宮市内の葬儀場で葬儀が行われましたので、僕も参列させていただきました。僕は、「なぜ、渡辺さんが、自殺されたのか」という思いを強く持ち、家に帰ってから、妻に、その思いを話したもんです。僕も、九州に視察に行くこともあり、渡辺さんとは九州の球場でお会いする機会も多くありました。甲子園球場であった高校野球の視察でお会いした直後だったので、なおさら、「なぜ」という思いを強く持ちました。渡辺さんの温厚で芯の強い性格を存じ上げていましたので、その渡辺さんが自殺するというのは、性格的に考えられなかったのです。
11月20日に東京であったドラフト会議で、ダイエーホークスに入団を熱望していた沖縄水産の新垣渚投手をオリックスの仰木監督がクジで引き当てたんです。僕は、新垣投手への入団交渉のため、11月21日から沖縄入りしました。僕は、ドラフト会議終了後、神戸の自宅に戻らず、21日に沖縄に直行したんです。ドラフト会議の2日前に神戸の自宅を出るとき、妻に「ドラフトの次の日、沖縄に行くことになるかもしれないから」と言い、旅行ケースに背広の替えを余分に1着入れました。
新垣投手は、「ダイエーに入団できなければ、九州共立大学に行く」と言っており、オリックスへの入団は拒否反応を示していましたので、入団交渉は、難航が予想されたんです。11月17日の着信で、新垣投手の父親から球団宛てに「指名するのを遠慮してほしい」と速達の封書が届いていました。九州地区担当の山本公士スカウトは、これをみて「ダイエーのやらせそうなこと、予想していたことです」などと、言っていました。
僕は、あの時、一つ、ひっかかりがあったんです。それは、今回に限って、自分自身が、沖縄水産の監督にも両親にも会っていないことでした。新垣投手自身についても、甲子園のバッグネット裏から投球する姿を見ただけだったんです。イチローの時は、ドラフト前に事前の打診を完璧に終えていました。スカウト歴23年でしたが、今回のようなことは、一度もありませんでした。
九州地区を担当する山本スカウトは、現役時代、盗塁王のタイトルを獲った俊足の外野手で、スカウト歴は僕より長く、しかも僕より年上です。熊本市に住み沖縄までの九州全域を担当し、有能な選手をオリックスに入団させたベテランのスカウトマンです。僕は、山本スカウトを信頼していましたので、山本が、「俺が根回ししとくから」と言ってくれたので、任せることにしたんです。
ドラフト会議で新垣投手を1位指名したことを受け、新垣がマスコミから取材を受けてのコメントは「自分を高く評価してくれているのはうれしいですけど・・考えていた球団ではなかったので九州共立大学に進学させてもらいます」と話していました。これを聞いたとき、やはり、予想通り、この交渉は難航するなと感じました。
11月21日、僕は羽田11時35分発の日航機で、福岡経由で北九州に向かいました。新垣が進学を強く希望する九州共立大学の仲里清監督に会って、ダイエー、さらにこれまで新垣サイドにアプローチしていた2、3の球団の裏金を含む提示条件の情報をキャッチして、今後の交渉の参考にするためでした。これは、井箟代表の指示に、編成部一同が合意したうえでの行動です。渡辺さんも、もちろんご存じと思いますが、仲里監督は、栽監督のかつての教え子です。
僕は、沖縄入り後、「沖縄ワシントンホテル」に宿舎をとり、山本と2人で今後の対策を協議しました。まずは、新垣の自宅に連絡だということになり、午後4時すぎに電話を入れたんです。受話器の相手は新垣の兄でした。新垣の兄は、「両親と弟は留守にしています。私もこれから出掛けますから」と言いました。それなら直接出向いて、帰宅を待つしかないということになり、僕と山本は、新垣の自宅に向かいました。
呼び鈴を鳴らしても誰も出ず、午後8時にもう一度出直しましたが、まだ、誰も帰っていませんでした。それから3時間、僕らは門前に立ち尽くして、帰りを待ちました。雨が降ってきましてね。傘を持っていなかったので、体が濡れ、冷えて大変でした。スポーツ新聞の記者も僕らの動きについて来ており、雨の中の取材を気の毒に思い、自動販売機でホットコーヒーを買い、担当記者たちに配ってあげました。待っている間に、神戸の自宅に電話をかけると、次女が電話口にでたので、「まるで張り込み中の刑事の心境だなぁ」と冗談を言ったりして、笑って会話を交わしました。午後11時まで待ちましたけど、結局、面会できず、ホテルに戻りました。
翌日のスポーツ各紙は、この夜の模様を一様に、「入団交渉はオリックスにとって絶望的だ」と書いていました。この状況を知って、僕がスカウトしたイチローが、スポーツ紙の取材にこう答えていました。
「自分はプロ野球でやることが目標だったから、どこかの球団でないと嫌というのは理解できない。自分だけの気持ちではなく、周囲に影響されているのではないですかね」
僕は、イチローのコメントを聞いて、なるほどなぁと思いました。翌日の早朝7時に、再度、新垣の自宅に行ってみましたが、今度は、居留守を使って無視されました。前夜、僕らが雨の中で立ち尽くしたときに、実は新垣が2階の祖母の部屋にいたそうなんです。このことも翌日になってわかりました。新垣サイドは翌日になって、拒否姿勢をエスカレートさせたんです。22日午前10時に、新垣と両親が、沖縄を発ち、北九州市の九州共立大学を訪れ、学長に入学誓約書を提出し、会見を開いたんです。
「もう、スカウトに会うことは考えていない。みなさんに追いかけられてこういうことに巻き込まれるのは、今日で終わりにしたいのです。20日のドラフトのあと、山本さんに会った時点で、お断りを入れたつもりです・・・」と。こんな状況を知ったイチローから、ホテルに激励の電話がかかってきたのはうれしかったなぁ。「三輪田さん、大丈夫ですか。大変ですね。気持を落とさずに頑張ってください」と、イチローが励ましてくれたんです。
僕は、この日になって、長年に渡って培ってきた正攻法の道は閉ざされていると感じ、イチローの言う「影響を与えている周囲の人間」への水面下の裏工作が必要かと思い始めました。オリックスは、あの時まで、ほとんど裏の駆け引きなしの表の交渉で、選手を獲得してきました。しかし、表の交渉が閉ざされた今となっては、裏に回らざるを得ない。新垣が玄関を閉ざしてしまったのは、ダイエーへの思いだけなのか。それとも、他に理由があるのか。
新垣の意思に影響を与えている周囲の人間がいるとすれば、影響力を持つ周囲の人間へのアプローチが必要だと思いました。それによって、徐々に、新垣の心をほぐしていくしかないと思ったんです。オリックス球団としては、新垣サイドに対して、上限1億円プラス出来高払いの契約金を提示する腹つもりでした。さらに、別途500万円を用意していました。栽監督や後援会に謝礼金の名目で渡すつもりのものでした。
この金額は、球界で、近年、ごくありふれた金額となっていましたよね。球団と選手の契約金、年俸を含む入団交渉が成立すると、統一契約書にサインする。契約金を受け取った選手たちは、その中から世話になった関係者にお礼の気持ちを金銭で表すことになるのが通例です。別途用意していた500万円は、その肩代わりのお金という目論見です。新垣サイドにも、勿論、仲介人がいました。栽監督とも深い関わりを持つ人物ということでしたが、僕は、死ぬまでその仲介人と顔を合わせることはありませんでした。会ったことあるのは、九州地区担当の山本だけでした。
22日、僕と山本は、福岡から合流した流スカウトとともに交渉の打開策を話し合いました。打開策は、要するに、裏金の額です。九州共立大学の仲里監督は、明言しませんでしたが、感触を勘案すると「裏金3000万円」という線を出したんです。僕らは、ひとまずこの額を仲介人に投げることに決めたんです。それを伝えたのは、山本です。
11月23日夕方、僕は新垣の自宅に再々度、足を運びました。この日は、両親と兄が玄関先に出て来て、新垣は神経性胃潰瘍で病院に行っているということでした。新垣抜きで、家族とおよそ10分間の立ち話でしたので、進展があるはずないんです。他愛ない話に終わってしまいました。ホテルに帰ると、仲介人とあっていた山本から報告がもたらされました。山本は、「ダイエーのこれまでの新垣サイドへの食い込みを押し戻し、オリックスとの交渉のテーブルにつけ、入団に至る条件として、1億円の契約金に上乗せする別途金3000万円を提示した。即答はなかった」ということでした。
僕は、このことを、この日の夜、井箟代表に電話で伝えました。井箟代表は、「3000万円か、相手は了承したと言ったのかね。カネで解決するなら、払うか払わないかの二つにひとつだ。ドラフト会議の前ならともかく、交渉権を獲得した今となっては降りられない。カネで解決するならカネの用意はある。3000万円?そんな端た金で大丈夫か、ダイエーがそれ以上を出すと伝えていたらどうするんだ」と言われ、交渉が甘いという趣旨のお叱りを受けました。
流スカウトが、山本に「山本さん、その人(仲介人)をそろそろ三輪田さんに会わせないとまずいんじゃないですか。三輪田さんは、編成部長なんだから。責任者なんですから」と言うと、山本は「向こうは、オレだけでいいと言っているんだよ」と言ってました。向こうが、なぜ、僕に会おうとしなかったのか、正直、今も不可解なんです。
その翌日の11月24日には、糸満市の沖縄水産高に行きました。校長と教頭に指名のあいさつをしました。学校としては、本人の意思を尊重するということでした。夕刻、球団から取締役の中田昌宏が沖縄入りしてきました。中田取締役は、三輪田がイチローを強く推挙したときの編成部長で、栽監督とは以前から面識がありました。4人で、今後の対策を協議した。その結果、新垣は神経性胃潰瘍で学校を休み始めた。栽監督はほとんど姿を見せない。進展しない交渉に対して冷却期間を置いてはどうかという意見にまとまったんです。
翌日の25日に、今後の方針を井箟代表に報告したところ、井箟代表は「そんなことだからダメなんだ」と、僕に叱責しました。この日、午後、山本が仲介人と再度の交渉に出かけて行きました。仲介人は、その時も山本だけでいいと言ったそうです。山本が夕刻帰ってきて報告したことは、「契約金のほかに、いろいろ合わせて5000万円」ということでした。僕はそれを聞いて、絶句して、ベッドに仰向けに倒れ込みました。気を取り直して、井箟代表にそのことを報告し、「球団に大きな額の余分のカネを使わせることになって申し訳ないです」と言うと、井箟代表は「3000万円だろうが、5000万円だろうが、球団としてはやったことがないことをやるんだから、行こうよ。ただし、中に入った人間が君に会わないというのなら、栽監督でいい、学校に直接乗り込んで、ともかく監督に会って本心を聞き出すことだ」と言いました。僕は、話し終わると受話器を置き、その手で球団経理に電話を入れました。別途金5000万円なら税込みではいくらになるのか聞いてみたんです。すると、経理は「それだけで、1億円を用意しなければならない」と教えてくれました。
夜、僕らは、ホテルの1階のレストランで夕食を獲ることにしました。ビールを注ぎ合いながら、「本来の契約金1億円加えて別途金が5000万円で、新垣の入団がまとまるなら、それを球団に認めてもらうほかないだろう」「この先、年俸など細部の詰めの交渉が残されてはいるが、まずはその線でやってみるか」などと互いに納得し合いました。
中田取締役と流スカウトは、井箟代表の指示で、26日に沖縄を離れることになりました。僕は、この日の昼、沖縄水産高に行き、栽監督に面会を申し込み、面談することができました。栽監督は、「三輪田君、なかなかやるじゃないか。段取りした。明日、新垣に会わせるから」と言ってくれたんです。僕は、その時、沖縄入りして6日目、ようやく交渉の舞台がセットされたと思ったんです。この日の夜、僕は神戸の自宅に電話を入れ、妻にこう話しました。「明日新垣に会って、あさっては家に帰る。今度の新垣のことは、編成部長として失敗だったよ。明日、頑張るよ」と。
11月27日、僕は、午前8時ごろ、散歩がてら、交渉がうまくいくようにと、願かけの意味も込めて、山本スカウトを連れたって、ホテル近くの池之上神社に参拝に行きました。8時20分にホテルに戻って、朝食をとりました。朝食は、そうめんを食べました。僕は、「あと(九州共立大学の合格発表日まで)10日間、頑張ろう。今日は、手土産に、新垣の好きなメロンを持っていこうか」と、山本スカウトに提案しました。8時45分に朝食を終え、山本スカウトと2人で沖縄銀行へ行き、今後の費用に15万円を引き出しました。9時15分に戻ってきて、1階のレストランで休憩し、9時30分には、自室に戻りました。フロントに、「部屋でちょっと休むから、掃除は昼の1時ごろにしてほしい」と伝えて、部屋に帰ったんです。
その後、昼の1時ごろに山本が僕の部屋に来たそうです。その時の様子について、山本は、「昼の1時ごろに、三ちゃんの部屋に行くと、従業員が掃除していてね。どこに行ったのかと聞いても、分からない。私は焦ってホテルのレストランや喫茶室を探した。近くのパチンコ屋にも走って行きました。どこにもおらんかった」と言っています。
結局、山本は、僕の姿がどこを探しても見当たらないので、午後1時30分すぎ、球団に電話を入れたそうです。「三輪田さんが部屋にいないんです。1時にロビーで待ち合わせをしていたのに」と。それから間もなくの午後1時50分ごろ、那覇署に110番通報がはいったそうです。それは、僕が転落したマンションの住人からの通報だったようで、「ドスーンと音がして屋上から人が落ちている」という通報内容だったそうです。
僕が転落した現場マンションは、海沿いのひっそりしたさびれた感じの場所で、海軍のウィークリーマンションのようなところだったそうです。僕が、あの時、どうして、そのマンションに行ったのか、僕は全くわかりません。僕が覚えているのは、その日の朝、朝食を終えて、沖縄銀行に15万円を引き出しに行き、ホテルの自室に戻ったところまでです。
僕が亡くなった後、球団関係者に付き添われた妻が、僕が泊まっていた部屋を見せてもらったようです。ベッドの枕もとの電話の横に、ホテルのメモ用紙があり、そこに、「ドラフト制度改革、逆指名制度はナンセンス」と書いた跡の2枚目の紙が残っていたと言います。妻は、はっきりした筆跡が残る1枚目の紙は、僕がはぎ取ったのか、見当たらなかったので、2枚目のボールペンの筆圧で文字が確認できる紙片を、丁寧に妻のバッグにしまい、持って帰ったそうです。
このメッセージって、一体、誰が書いたんでしょうか。筆跡がわからないので、確認しようがありませんが、僕が、あの時、そんなメッセージ書いた記憶もないように思います。転落した時の所持品にもありませんでした。あのメッセージがあることで、まるで、僕が逆指名制度に悩んで、自殺したように思えてしまいます。僕は、23年間、スカウト活動をしていましたので、選手獲得がうまくいく年もあれば、うまくいかない年もあり、うまく交渉できないからと言って、自殺するようでは、体がいくつあっても足りません。そうですよね。渡辺さん。渡辺さんも同じでしょ?
結局、僕が亡くなったこともあってか、新垣との入団交渉はうまくいかず、新垣は、九州共立大学に進学する道を選んだんです。結果、ダイエーホークスは、外れ1位で吉本亮(九州学院高等学校)を獲得しました。

渡辺省三の談
吉本亮選手?吉本亮選手は、阪神も目を付けていた選手だ。8月13日のスカウト会議で、吉本はBのAというAランクに近いBランクと位置付けた。僕は、9月8日から予定していた熊本出張は、吉本を徹底的に視察することにしていたんよ。
そのため、僕は、亡くなった日の朝、9月8日の熊本行きの航空券を2枚、買いに行ったんや。もちろん、事前に電話で予約してたから、あの日は、代金と引き換えに、甲子園駅前の阪神交通社にチケットをとりに行けばよかっただけ。僕は、あの時、阪神交通社の窓口の人から受け取った2枚の航空券を、財布に入れた。いつも、横溝と一緒に行動してたから、横溝の分も一緒にチケットを買うことが当たり前になってたんで、横溝の分と2枚、買ったことは間違いない。
あの日の夜、僕に朝、チケットを手渡した阪神交通社の窓口の人が、僕が神戸で飛び降り自殺したというニュース速報を見て、「本当に自殺なのか、何かの間違いではないのか」と言って、球団に電話してくれたらしい。よう言うてくれたわ。その人。その人が、そんな電話してくれたから、家族が、自殺にしてはおかしいことばかりが多いという思いが強まったみたい。
僕も球団事務所に午前11時半までいたことは確かなんやけど、午後1時13分に、神戸で転落死するまでの約1時間半のことが、全く記憶にないんや。ほんま、よう似てるなぁ。三輪田さんの亡くなり方と僕の亡くなり方。
なんでも、熊本行きの航空券が入った財布は、9月1日に、僕の机の中から見つかったそうで、財布の中に、熊本行きの航空券が2枚入ってたから、それを末永が1日にキャンセルしに行ったらしい。
その末永が、僕が亡くなって5年後に、僕の娘を、名誉毀損罪の容疑で神戸地検に刑事告訴したんや。それがきっかけで、末永が、神戸地検特別刑事部から取り調べを受ける羽目になってしまったみたい。特別刑事部というのは、独自捜査も手掛ける部署で、検事少人数で、地道に捜査を行う部署らしい。末永が告訴した事件は、割り屋と言われ、捜査のエース、大坪弘道部長という人が指揮し、部下の宮本健志検事が主任検事を務め、末永らに聞き取り捜査を進めてくれたみたい。
末永は、取り調べで、宮本検事に、航空券のことをを聞かれたようやわ。
宮本検事
「あなたは、平成10年9月1日ころ、渡辺省三さんが予約していた航空券のキャンセルをした記憶はありますか」
末永
「そのころ、横溝さんの航空券をキャンセルしましたが、渡辺省三さんの航空券をキャンセルしたことはありません。当時、横溝さんと渡辺省三さんが一緒に九州に行く予定があったのですが、阪神交通社で航空券の予約をしていたのは横溝さんだけで、渡辺省三さんの予約はなかったと記憶しています」
横溝も、この件について、宮本検事から事情を聞かれている。
宮本検事
「あなたは、平成10年9月に渡辺省三さんと一緒にどこか出張する予定がありましたか」
横溝
「はい、熊本に出張して、現地で永尾スカウトと合流し、高校の進路調査と社会人野球の予選を見る予定がありました」
宮本検事
「その出張は、実際に出かけたのですか」
横溝
「いいえ、行きませんでした」
宮本検事
「あなたは、その出張に際して、航空券を予約しましたか」
横溝
「渡辺省三さんが航空券を予約してくれていたと思います」
宮本検事
「では、あなたは、航空券をキャンセルしたのですか」
横溝
「いいえ、末永にキャンセルしてもらいました」
宮本検事
「末永は、あなたと渡辺省三さんの航空券2人分をキャンセルしたのですか」
横溝
「いいえ、どういうわけか、航空券の予約は私の分しか入っておらず、私の分だけをキャンセルしてもらったと覚えています」
宮本検事
「渡辺省三さんは、航空券の予約をしていなかったのですか」
横溝
「はい、そのように聞いています」
◆◆◆
僕は、熊本行きの航空券を2枚購入した後、天国にやってきた。それが事実なんや。あの日、2枚買ったのが、そんなに問題なことなのか。阪神タイガースの総務まで、そのことを気にしているんや。何でやろ。福島総務部長という人が、僕が亡くなって4年経つころ、末永に送った書面には、こんな風に書いている。
「平成10年8月31日における、故渡辺氏と旧・(株)阪神交通社(現・(株)阪神ステーションネット)との間の取引内容を、同社に対して照会した結果、具体的な証拠を発見することができませんでしたところ、今朝、渡辺直子氏から箱崎顧問宛てに郵送された雑誌記事中、「検察が阪神交通社に対して調査した」旨の記述がありますので、この記事を、併せて顧問弁護士に提出しました。つまり、現在も、検察が航空券に関する取引の記録(カルテの写し等)を所持している可能性があります」

一体、わが阪神球団は、何を調べているんやら。情けないわ。航空券のことを調べるより、もっと、他に調べることはあるように思う。まあ、結局、僕が亡くなったことがもとで、横溝も吉本を観に行けなくなったということ。そして、横溝も、10月に解任されたしで、それまでに僕らが培ってきた九州地区のパイプが削がれた感じになった。そうやこうやしているうちに、ドラフト会議があり、阪神としては、結局、吉本は、ダイエーホークスに獲られてしまったということ。阪神としては、大きな損失。
翌年は、末永が、九州共立大学の的場1位で逆指名することを夏ごろに決めていた。僕は、「的場は故障者やからアカン」と言って、的場が九州共立大学に行く前から、獲得に反対していた。まあ、末永は、僕がいないから、僕の意見など無視して、逆指名したけど、結局、野村監督がおかしいのを見破ったもんね。やっぱり、誰が見てもおかしいものはおかしい。結局は、自分で自分の首しめることになったということ。
球界には、あのころから、「ドラフト制度の影で繰り広げられている暗部がある」というのも常識になってたね。「球界の裏の常識の世界」っていう言い方をする人もいるけど、僕は、正攻法を貫いたね。三輪田さんも、同じだと思う。
「逆指名選手を獲得する資金の一人平均は3億円」「つり上げているのは、2、3の球団」などと言ったり、一体、どこの球団がつり上げているのか。優れた選手となると、5億円を超える資金がつぎ込まれ、15億円以上もの裏金が使われるケースがあったりする。優れない選手にも、そういう大金がつぎ込まれるようになってたから、僕は、これは問題と思ったね。結局、先では、優れない選手を大金つぎ込んで入れたばっかりに、戦力が落ちる結果になる。そんなこと、子供でもわかること。それが、今の球界。戦力が全体に落ちているもんね。
裏交渉には当然、人間が絡む。球団と選手の交渉に割ってはいる「仲介人」という役割の人。その「仲介人」を、野球部の監督が買って出ることもある。そうなると、僕らスカウトとしては、この人は野球部の監督なのか、仲介人なのか、「あんた一体どっち役やねん」と言いたくなることもあるもんね。ときに、球団と仲介人が水面下で交渉してたり、選手と家族、担当スカウトのあずかり知らないところで交渉が行われたり。何が何やらわからない状態になることも。やっぱり、逆指名制度は問題ありやったということ。この制度には、穴があったね。「逆指名制度はナンセンス」。このメモ書きは、当たってるね。「ドラフト制度改革」は絶対に、必要。(文責:渡辺直子)
参考文献:「名スカウトはなぜ死んだか」(六車護著)
「捜査報告書」(平成17年6月30日付け)(宮本健志検事から大坪弘道部長への報告)
末永正昭「供述調書」(平成17年5月16日付け)(平成17年8月9日付け)
横溝桂「供述調書」(平成17年5月16日付け)
1998年ドラフト候補者調査リスト
渡辺直子「供述調書」(平成17年7月19日付け)



三輪田勝利さんの談
僕の自宅は、神戸市内にあります。3ヶ月前の8月31日に、渡辺さんが亡くなられた時、西宮市内の葬儀場で葬儀が行われましたので、僕も参列させていただきました。僕は、「なぜ、渡辺さんが、自殺されたのか」という思いを強く持ち、家に帰ってから、妻に、その思いを話したもんです。僕も、九州に視察に行くこともあり、渡辺さんとは九州の球場でお会いする機会も多くありました。甲子園球場であった高校野球の視察でお会いした直後だったので、なおさら、「なぜ」という思いを強く持ちました。渡辺さんの温厚で芯の強い性格を存じ上げていましたので、その渡辺さんが自殺するというのは、性格的に考えられなかったのです。
11月20日に東京であったドラフト会議で、ダイエーホークスに入団を熱望していた沖縄水産の新垣渚投手をオリックスの仰木監督がクジで引き当てたんです。僕は、新垣投手への入団交渉のため、11月21日から沖縄入りしました。僕は、ドラフト会議終了後、神戸の自宅に戻らず、21日に沖縄に直行したんです。ドラフト会議の2日前に神戸の自宅を出るとき、妻に「ドラフトの次の日、沖縄に行くことになるかもしれないから」と言い、旅行ケースに背広の替えを余分に1着入れました。
新垣投手は、「ダイエーに入団できなければ、九州共立大学に行く」と言っており、オリックスへの入団は拒否反応を示していましたので、入団交渉は、難航が予想されたんです。11月17日の着信で、新垣投手の父親から球団宛てに「指名するのを遠慮してほしい」と速達の封書が届いていました。九州地区担当の山本公士スカウトは、これをみて「ダイエーのやらせそうなこと、予想していたことです」などと、言っていました。
僕は、あの時、一つ、ひっかかりがあったんです。それは、今回に限って、自分自身が、沖縄水産の監督にも両親にも会っていないことでした。新垣投手自身についても、甲子園のバッグネット裏から投球する姿を見ただけだったんです。イチローの時は、ドラフト前に事前の打診を完璧に終えていました。スカウト歴23年でしたが、今回のようなことは、一度もありませんでした。
九州地区を担当する山本スカウトは、現役時代、盗塁王のタイトルを獲った俊足の外野手で、スカウト歴は僕より長く、しかも僕より年上です。熊本市に住み沖縄までの九州全域を担当し、有能な選手をオリックスに入団させたベテランのスカウトマンです。僕は、山本スカウトを信頼していましたので、山本が、「俺が根回ししとくから」と言ってくれたので、任せることにしたんです。
ドラフト会議で新垣投手を1位指名したことを受け、新垣がマスコミから取材を受けてのコメントは「自分を高く評価してくれているのはうれしいですけど・・考えていた球団ではなかったので九州共立大学に進学させてもらいます」と話していました。これを聞いたとき、やはり、予想通り、この交渉は難航するなと感じました。
11月21日、僕は羽田11時35分発の日航機で、福岡経由で北九州に向かいました。新垣が進学を強く希望する九州共立大学の仲里清監督に会って、ダイエー、さらにこれまで新垣サイドにアプローチしていた2、3の球団の裏金を含む提示条件の情報をキャッチして、今後の交渉の参考にするためでした。これは、井箟代表の指示に、編成部一同が合意したうえでの行動です。渡辺さんも、もちろんご存じと思いますが、仲里監督は、栽監督のかつての教え子です。
僕は、沖縄入り後、「沖縄ワシントンホテル」に宿舎をとり、山本と2人で今後の対策を協議しました。まずは、新垣の自宅に連絡だということになり、午後4時すぎに電話を入れたんです。受話器の相手は新垣の兄でした。新垣の兄は、「両親と弟は留守にしています。私もこれから出掛けますから」と言いました。それなら直接出向いて、帰宅を待つしかないということになり、僕と山本は、新垣の自宅に向かいました。
呼び鈴を鳴らしても誰も出ず、午後8時にもう一度出直しましたが、まだ、誰も帰っていませんでした。それから3時間、僕らは門前に立ち尽くして、帰りを待ちました。雨が降ってきましてね。傘を持っていなかったので、体が濡れ、冷えて大変でした。スポーツ新聞の記者も僕らの動きについて来ており、雨の中の取材を気の毒に思い、自動販売機でホットコーヒーを買い、担当記者たちに配ってあげました。待っている間に、神戸の自宅に電話をかけると、次女が電話口にでたので、「まるで張り込み中の刑事の心境だなぁ」と冗談を言ったりして、笑って会話を交わしました。午後11時まで待ちましたけど、結局、面会できず、ホテルに戻りました。
翌日のスポーツ各紙は、この夜の模様を一様に、「入団交渉はオリックスにとって絶望的だ」と書いていました。この状況を知って、僕がスカウトしたイチローが、スポーツ紙の取材にこう答えていました。
「自分はプロ野球でやることが目標だったから、どこかの球団でないと嫌というのは理解できない。自分だけの気持ちではなく、周囲に影響されているのではないですかね」
僕は、イチローのコメントを聞いて、なるほどなぁと思いました。翌日の早朝7時に、再度、新垣の自宅に行ってみましたが、今度は、居留守を使って無視されました。前夜、僕らが雨の中で立ち尽くしたときに、実は新垣が2階の祖母の部屋にいたそうなんです。このことも翌日になってわかりました。新垣サイドは翌日になって、拒否姿勢をエスカレートさせたんです。22日午前10時に、新垣と両親が、沖縄を発ち、北九州市の九州共立大学を訪れ、学長に入学誓約書を提出し、会見を開いたんです。
「もう、スカウトに会うことは考えていない。みなさんに追いかけられてこういうことに巻き込まれるのは、今日で終わりにしたいのです。20日のドラフトのあと、山本さんに会った時点で、お断りを入れたつもりです・・・」と。こんな状況を知ったイチローから、ホテルに激励の電話がかかってきたのはうれしかったなぁ。「三輪田さん、大丈夫ですか。大変ですね。気持を落とさずに頑張ってください」と、イチローが励ましてくれたんです。
僕は、この日になって、長年に渡って培ってきた正攻法の道は閉ざされていると感じ、イチローの言う「影響を与えている周囲の人間」への水面下の裏工作が必要かと思い始めました。オリックスは、あの時まで、ほとんど裏の駆け引きなしの表の交渉で、選手を獲得してきました。しかし、表の交渉が閉ざされた今となっては、裏に回らざるを得ない。新垣が玄関を閉ざしてしまったのは、ダイエーへの思いだけなのか。それとも、他に理由があるのか。
新垣の意思に影響を与えている周囲の人間がいるとすれば、影響力を持つ周囲の人間へのアプローチが必要だと思いました。それによって、徐々に、新垣の心をほぐしていくしかないと思ったんです。オリックス球団としては、新垣サイドに対して、上限1億円プラス出来高払いの契約金を提示する腹つもりでした。さらに、別途500万円を用意していました。栽監督や後援会に謝礼金の名目で渡すつもりのものでした。
この金額は、球界で、近年、ごくありふれた金額となっていましたよね。球団と選手の契約金、年俸を含む入団交渉が成立すると、統一契約書にサインする。契約金を受け取った選手たちは、その中から世話になった関係者にお礼の気持ちを金銭で表すことになるのが通例です。別途用意していた500万円は、その肩代わりのお金という目論見です。新垣サイドにも、勿論、仲介人がいました。栽監督とも深い関わりを持つ人物ということでしたが、僕は、死ぬまでその仲介人と顔を合わせることはありませんでした。会ったことあるのは、九州地区担当の山本だけでした。
22日、僕と山本は、福岡から合流した流スカウトとともに交渉の打開策を話し合いました。打開策は、要するに、裏金の額です。九州共立大学の仲里監督は、明言しませんでしたが、感触を勘案すると「裏金3000万円」という線を出したんです。僕らは、ひとまずこの額を仲介人に投げることに決めたんです。それを伝えたのは、山本です。
11月23日夕方、僕は新垣の自宅に再々度、足を運びました。この日は、両親と兄が玄関先に出て来て、新垣は神経性胃潰瘍で病院に行っているということでした。新垣抜きで、家族とおよそ10分間の立ち話でしたので、進展があるはずないんです。他愛ない話に終わってしまいました。ホテルに帰ると、仲介人とあっていた山本から報告がもたらされました。山本は、「ダイエーのこれまでの新垣サイドへの食い込みを押し戻し、オリックスとの交渉のテーブルにつけ、入団に至る条件として、1億円の契約金に上乗せする別途金3000万円を提示した。即答はなかった」ということでした。
僕は、このことを、この日の夜、井箟代表に電話で伝えました。井箟代表は、「3000万円か、相手は了承したと言ったのかね。カネで解決するなら、払うか払わないかの二つにひとつだ。ドラフト会議の前ならともかく、交渉権を獲得した今となっては降りられない。カネで解決するならカネの用意はある。3000万円?そんな端た金で大丈夫か、ダイエーがそれ以上を出すと伝えていたらどうするんだ」と言われ、交渉が甘いという趣旨のお叱りを受けました。
流スカウトが、山本に「山本さん、その人(仲介人)をそろそろ三輪田さんに会わせないとまずいんじゃないですか。三輪田さんは、編成部長なんだから。責任者なんですから」と言うと、山本は「向こうは、オレだけでいいと言っているんだよ」と言ってました。向こうが、なぜ、僕に会おうとしなかったのか、正直、今も不可解なんです。
その翌日の11月24日には、糸満市の沖縄水産高に行きました。校長と教頭に指名のあいさつをしました。学校としては、本人の意思を尊重するということでした。夕刻、球団から取締役の中田昌宏が沖縄入りしてきました。中田取締役は、三輪田がイチローを強く推挙したときの編成部長で、栽監督とは以前から面識がありました。4人で、今後の対策を協議した。その結果、新垣は神経性胃潰瘍で学校を休み始めた。栽監督はほとんど姿を見せない。進展しない交渉に対して冷却期間を置いてはどうかという意見にまとまったんです。
翌日の25日に、今後の方針を井箟代表に報告したところ、井箟代表は「そんなことだからダメなんだ」と、僕に叱責しました。この日、午後、山本が仲介人と再度の交渉に出かけて行きました。仲介人は、その時も山本だけでいいと言ったそうです。山本が夕刻帰ってきて報告したことは、「契約金のほかに、いろいろ合わせて5000万円」ということでした。僕はそれを聞いて、絶句して、ベッドに仰向けに倒れ込みました。気を取り直して、井箟代表にそのことを報告し、「球団に大きな額の余分のカネを使わせることになって申し訳ないです」と言うと、井箟代表は「3000万円だろうが、5000万円だろうが、球団としてはやったことがないことをやるんだから、行こうよ。ただし、中に入った人間が君に会わないというのなら、栽監督でいい、学校に直接乗り込んで、ともかく監督に会って本心を聞き出すことだ」と言いました。僕は、話し終わると受話器を置き、その手で球団経理に電話を入れました。別途金5000万円なら税込みではいくらになるのか聞いてみたんです。すると、経理は「それだけで、1億円を用意しなければならない」と教えてくれました。
夜、僕らは、ホテルの1階のレストランで夕食を獲ることにしました。ビールを注ぎ合いながら、「本来の契約金1億円加えて別途金が5000万円で、新垣の入団がまとまるなら、それを球団に認めてもらうほかないだろう」「この先、年俸など細部の詰めの交渉が残されてはいるが、まずはその線でやってみるか」などと互いに納得し合いました。
中田取締役と流スカウトは、井箟代表の指示で、26日に沖縄を離れることになりました。僕は、この日の昼、沖縄水産高に行き、栽監督に面会を申し込み、面談することができました。栽監督は、「三輪田君、なかなかやるじゃないか。段取りした。明日、新垣に会わせるから」と言ってくれたんです。僕は、その時、沖縄入りして6日目、ようやく交渉の舞台がセットされたと思ったんです。この日の夜、僕は神戸の自宅に電話を入れ、妻にこう話しました。「明日新垣に会って、あさっては家に帰る。今度の新垣のことは、編成部長として失敗だったよ。明日、頑張るよ」と。
11月27日、僕は、午前8時ごろ、散歩がてら、交渉がうまくいくようにと、願かけの意味も込めて、山本スカウトを連れたって、ホテル近くの池之上神社に参拝に行きました。8時20分にホテルに戻って、朝食をとりました。朝食は、そうめんを食べました。僕は、「あと(九州共立大学の合格発表日まで)10日間、頑張ろう。今日は、手土産に、新垣の好きなメロンを持っていこうか」と、山本スカウトに提案しました。8時45分に朝食を終え、山本スカウトと2人で沖縄銀行へ行き、今後の費用に15万円を引き出しました。9時15分に戻ってきて、1階のレストランで休憩し、9時30分には、自室に戻りました。フロントに、「部屋でちょっと休むから、掃除は昼の1時ごろにしてほしい」と伝えて、部屋に帰ったんです。
その後、昼の1時ごろに山本が僕の部屋に来たそうです。その時の様子について、山本は、「昼の1時ごろに、三ちゃんの部屋に行くと、従業員が掃除していてね。どこに行ったのかと聞いても、分からない。私は焦ってホテルのレストランや喫茶室を探した。近くのパチンコ屋にも走って行きました。どこにもおらんかった」と言っています。
結局、山本は、僕の姿がどこを探しても見当たらないので、午後1時30分すぎ、球団に電話を入れたそうです。「三輪田さんが部屋にいないんです。1時にロビーで待ち合わせをしていたのに」と。それから間もなくの午後1時50分ごろ、那覇署に110番通報がはいったそうです。それは、僕が転落したマンションの住人からの通報だったようで、「ドスーンと音がして屋上から人が落ちている」という通報内容だったそうです。
僕が転落した現場マンションは、海沿いのひっそりしたさびれた感じの場所で、海軍のウィークリーマンションのようなところだったそうです。僕が、あの時、どうして、そのマンションに行ったのか、僕は全くわかりません。僕が覚えているのは、その日の朝、朝食を終えて、沖縄銀行に15万円を引き出しに行き、ホテルの自室に戻ったところまでです。
僕が亡くなった後、球団関係者に付き添われた妻が、僕が泊まっていた部屋を見せてもらったようです。ベッドの枕もとの電話の横に、ホテルのメモ用紙があり、そこに、「ドラフト制度改革、逆指名制度はナンセンス」と書いた跡の2枚目の紙が残っていたと言います。妻は、はっきりした筆跡が残る1枚目の紙は、僕がはぎ取ったのか、見当たらなかったので、2枚目のボールペンの筆圧で文字が確認できる紙片を、丁寧に妻のバッグにしまい、持って帰ったそうです。
このメッセージって、一体、誰が書いたんでしょうか。筆跡がわからないので、確認しようがありませんが、僕が、あの時、そんなメッセージ書いた記憶もないように思います。転落した時の所持品にもありませんでした。あのメッセージがあることで、まるで、僕が逆指名制度に悩んで、自殺したように思えてしまいます。僕は、23年間、スカウト活動をしていましたので、選手獲得がうまくいく年もあれば、うまくいかない年もあり、うまく交渉できないからと言って、自殺するようでは、体がいくつあっても足りません。そうですよね。渡辺さん。渡辺さんも同じでしょ?
結局、僕が亡くなったこともあってか、新垣との入団交渉はうまくいかず、新垣は、九州共立大学に進学する道を選んだんです。結果、ダイエーホークスは、外れ1位で吉本亮(九州学院高等学校)を獲得しました。

渡辺省三の談
吉本亮選手?吉本亮選手は、阪神も目を付けていた選手だ。8月13日のスカウト会議で、吉本はBのAというAランクに近いBランクと位置付けた。僕は、9月8日から予定していた熊本出張は、吉本を徹底的に視察することにしていたんよ。
そのため、僕は、亡くなった日の朝、9月8日の熊本行きの航空券を2枚、買いに行ったんや。もちろん、事前に電話で予約してたから、あの日は、代金と引き換えに、甲子園駅前の阪神交通社にチケットをとりに行けばよかっただけ。僕は、あの時、阪神交通社の窓口の人から受け取った2枚の航空券を、財布に入れた。いつも、横溝と一緒に行動してたから、横溝の分も一緒にチケットを買うことが当たり前になってたんで、横溝の分と2枚、買ったことは間違いない。
あの日の夜、僕に朝、チケットを手渡した阪神交通社の窓口の人が、僕が神戸で飛び降り自殺したというニュース速報を見て、「本当に自殺なのか、何かの間違いではないのか」と言って、球団に電話してくれたらしい。よう言うてくれたわ。その人。その人が、そんな電話してくれたから、家族が、自殺にしてはおかしいことばかりが多いという思いが強まったみたい。
僕も球団事務所に午前11時半までいたことは確かなんやけど、午後1時13分に、神戸で転落死するまでの約1時間半のことが、全く記憶にないんや。ほんま、よう似てるなぁ。三輪田さんの亡くなり方と僕の亡くなり方。
なんでも、熊本行きの航空券が入った財布は、9月1日に、僕の机の中から見つかったそうで、財布の中に、熊本行きの航空券が2枚入ってたから、それを末永が1日にキャンセルしに行ったらしい。
その末永が、僕が亡くなって5年後に、僕の娘を、名誉毀損罪の容疑で神戸地検に刑事告訴したんや。それがきっかけで、末永が、神戸地検特別刑事部から取り調べを受ける羽目になってしまったみたい。特別刑事部というのは、独自捜査も手掛ける部署で、検事少人数で、地道に捜査を行う部署らしい。末永が告訴した事件は、割り屋と言われ、捜査のエース、大坪弘道部長という人が指揮し、部下の宮本健志検事が主任検事を務め、末永らに聞き取り捜査を進めてくれたみたい。
末永は、取り調べで、宮本検事に、航空券のことをを聞かれたようやわ。
宮本検事
「あなたは、平成10年9月1日ころ、渡辺省三さんが予約していた航空券のキャンセルをした記憶はありますか」
末永
「そのころ、横溝さんの航空券をキャンセルしましたが、渡辺省三さんの航空券をキャンセルしたことはありません。当時、横溝さんと渡辺省三さんが一緒に九州に行く予定があったのですが、阪神交通社で航空券の予約をしていたのは横溝さんだけで、渡辺省三さんの予約はなかったと記憶しています」
横溝も、この件について、宮本検事から事情を聞かれている。
宮本検事
「あなたは、平成10年9月に渡辺省三さんと一緒にどこか出張する予定がありましたか」
横溝
「はい、熊本に出張して、現地で永尾スカウトと合流し、高校の進路調査と社会人野球の予選を見る予定がありました」
宮本検事
「その出張は、実際に出かけたのですか」
横溝
「いいえ、行きませんでした」
宮本検事
「あなたは、その出張に際して、航空券を予約しましたか」
横溝
「渡辺省三さんが航空券を予約してくれていたと思います」
宮本検事
「では、あなたは、航空券をキャンセルしたのですか」
横溝
「いいえ、末永にキャンセルしてもらいました」
宮本検事
「末永は、あなたと渡辺省三さんの航空券2人分をキャンセルしたのですか」
横溝
「いいえ、どういうわけか、航空券の予約は私の分しか入っておらず、私の分だけをキャンセルしてもらったと覚えています」
宮本検事
「渡辺省三さんは、航空券の予約をしていなかったのですか」
横溝
「はい、そのように聞いています」
◆◆◆
僕は、熊本行きの航空券を2枚購入した後、天国にやってきた。それが事実なんや。あの日、2枚買ったのが、そんなに問題なことなのか。阪神タイガースの総務まで、そのことを気にしているんや。何でやろ。福島総務部長という人が、僕が亡くなって4年経つころ、末永に送った書面には、こんな風に書いている。
「平成10年8月31日における、故渡辺氏と旧・(株)阪神交通社(現・(株)阪神ステーションネット)との間の取引内容を、同社に対して照会した結果、具体的な証拠を発見することができませんでしたところ、今朝、渡辺直子氏から箱崎顧問宛てに郵送された雑誌記事中、「検察が阪神交通社に対して調査した」旨の記述がありますので、この記事を、併せて顧問弁護士に提出しました。つまり、現在も、検察が航空券に関する取引の記録(カルテの写し等)を所持している可能性があります」

一体、わが阪神球団は、何を調べているんやら。情けないわ。航空券のことを調べるより、もっと、他に調べることはあるように思う。まあ、結局、僕が亡くなったことがもとで、横溝も吉本を観に行けなくなったということ。そして、横溝も、10月に解任されたしで、それまでに僕らが培ってきた九州地区のパイプが削がれた感じになった。そうやこうやしているうちに、ドラフト会議があり、阪神としては、結局、吉本は、ダイエーホークスに獲られてしまったということ。阪神としては、大きな損失。
翌年は、末永が、九州共立大学の的場1位で逆指名することを夏ごろに決めていた。僕は、「的場は故障者やからアカン」と言って、的場が九州共立大学に行く前から、獲得に反対していた。まあ、末永は、僕がいないから、僕の意見など無視して、逆指名したけど、結局、野村監督がおかしいのを見破ったもんね。やっぱり、誰が見てもおかしいものはおかしい。結局は、自分で自分の首しめることになったということ。
球界には、あのころから、「ドラフト制度の影で繰り広げられている暗部がある」というのも常識になってたね。「球界の裏の常識の世界」っていう言い方をする人もいるけど、僕は、正攻法を貫いたね。三輪田さんも、同じだと思う。
「逆指名選手を獲得する資金の一人平均は3億円」「つり上げているのは、2、3の球団」などと言ったり、一体、どこの球団がつり上げているのか。優れた選手となると、5億円を超える資金がつぎ込まれ、15億円以上もの裏金が使われるケースがあったりする。優れない選手にも、そういう大金がつぎ込まれるようになってたから、僕は、これは問題と思ったね。結局、先では、優れない選手を大金つぎ込んで入れたばっかりに、戦力が落ちる結果になる。そんなこと、子供でもわかること。それが、今の球界。戦力が全体に落ちているもんね。
裏交渉には当然、人間が絡む。球団と選手の交渉に割ってはいる「仲介人」という役割の人。その「仲介人」を、野球部の監督が買って出ることもある。そうなると、僕らスカウトとしては、この人は野球部の監督なのか、仲介人なのか、「あんた一体どっち役やねん」と言いたくなることもあるもんね。ときに、球団と仲介人が水面下で交渉してたり、選手と家族、担当スカウトのあずかり知らないところで交渉が行われたり。何が何やらわからない状態になることも。やっぱり、逆指名制度は問題ありやったということ。この制度には、穴があったね。「逆指名制度はナンセンス」。このメモ書きは、当たってるね。「ドラフト制度改革」は絶対に、必要。(文責:渡辺直子)
参考文献:「名スカウトはなぜ死んだか」(六車護著)
「捜査報告書」(平成17年6月30日付け)(宮本健志検事から大坪弘道部長への報告)
末永正昭「供述調書」(平成17年5月16日付け)(平成17年8月9日付け)
横溝桂「供述調書」(平成17年5月16日付け)
1998年ドラフト候補者調査リスト
渡辺直子「供述調書」(平成17年7月19日付け)
