僕は、契約金なしの元プロ野球選手です

昨今、プロ野球選手の契約金問題が巷で話題になっています。契約金なしでプロ野球選手になった僕の人生を振り返ります。

「統一球」でナックルボール

2012-04-27 12:36:43 | 日記
昭和31年は、いろいろな意味で思い出の多い年でした。甲子園球場で、初のナイタ―試合が行われたのも、この年です。
それまでは、大阪球場を借りて、ナイタ―試合をやっていたんですが、暗いナイタ―設備が原因で、審判の誤審があったりで、うまく試合が運ばないことがありました。また、僕ら選手にとって、ナイタ―は、身体上に影響する問題がありました。投打の好不調が、気温に影響されることです。汗をかいた上に浜風が吹くことは、体が急激に冷えて肩に影響が出るんです。投手は特に肩を冷やすとダメで、僕はいつも肩を温める工夫をしていたくらいです。この問題は、プレー上に影響するものなので、何とかならないものかと思っていました。野球の本場アメリカでも、ナイタ―試合で、メジャーリーグに4割打者がなくなったという報告もあり、選手としては、ナイタ―試合ばかりしていると、選手生命が短くなるのではないかという不安感もあったんです。


その一方で、プロ野球を経営する会社にとっては、観客動員数が大幅に増えて、ナイタ―は、魅力100%の営業コンテンツとなったんです。それまでのデイゲームの試合では、年間50~60万人の動員に留まっていたのが、この年から80~90万人に増えました。観衆にとっては、華やかなカクテル光線のもと、ビールをあおりながら、高台、涼しい浜風を身に受け、快適に野球観戦ができるようになり、ナイタ―人気は、高まる一方でした。

阪神は、阪神電鉄が親会社のため、観客動員数プラス運賃収入も見込めるわけです。経営者としては、当然のことだと思いますが、会社は、次第に科学的野球を研究するようになりました。これは、阪神だけでなく、他の球団も同じです。そこで、昭和45年ごろに出てきたのが、「飛ぶボール」でした。

「飛ぶボール」の導入により、打撃戦が増えていきました。こすった当たりがホームランになったりで、観客にとっては、刺激的なおもしろい試合を見ることができるようになったんです。その後、いろいろな経緯を辿り、昨年からプロ野球は「飛ぶボール」をやめて、統一球になりましたね。

統一球は、僕の現役時代と同じような球種です。僕は、昭和27年に阪神に入団しましたが、ボールにスピードはなく、これと言ったセールスポイントもありませんでした。プロで生きていくためには、あらゆる変化球をおぼえようと努力しました。それで、当時、あまり他の選手が投げていなかったナックルボールを密かに練習したんです。ナックルは、コントロールがつきにくいんです。練習し、ゲームで使っていって、試してみるしかないんです。もともと、僕が投げる球は、スピードがなかった。ナックルを投げると、さらにスピードが遅くなったので、ならば、同じナックルでも、いっそのこと、蝶々がとまるぐらいに遅い球にしてやれと思ったんです。ところが、遅いナックルというのは、さらに、コントロールがつきにくい。



あの頃、全盛期の金田正一さんが、吉田さんに手こずって、仕方なく、山なりの超スローカーブを投げたんです。2メートル近い長身の金田さんが、身長の低い吉田さんに山なりのスローカーブを投じる。僕はこの光景にヒントを得て、ナックルの超スローボールを考案したんです。時速50キロ前後の球です。この速度のボールを、キャッチャーに向けて投げるのではなく、空に向かって投げる。すると、球は、ゆっくりと弧を描いて、打者のところで上から下へストンと落ちる。かくてキャッチャーが地面につけたミットに、スポッと収まって、ストライク。早い話が、ホームラン打者に対してカッカさせる、心理戦法の球です。だから、1試合で10球以上、使ったことはありません。

僕が、自分が考案した超スローナックルボールのことを、ファンは「省やんボール」と名付けてくれていました。僕は、このボールのことを「沈む球」と、呼んでいました。


僕は、いろいろ研究を重ねた結果、昭和31年から、「沈む球」を使うようになりました。昭和31年8月ころの新聞の取材で、「今年は、沈む球があるので、これをうまく使うんです」と取材に答えたところ、一緒に取材を受けた吉田さんが、「省さんはカーブのコントロールがいいから、0-2からでも平気でカーブを投げるんです。たいていの打者は、これを見送る。カウントが1-2となると、投手の立場はうんと楽になり、4球目は沈む球で誘って凡打。これが省さんのピッチングのコツだね」と、僕の対戦に対する手の打ちを話してしまったんです。

僕は、慌てましたね。「それは、機密に属する話だよ。公開されると大変なことになる」と言って、笑い合ったものです。記事の見出しは、「沈む球で幻惑サ」となっていました。

統一球は、外角低めへ投げれば、長打を浴びることはないんです。バッドの芯とボールの芯をヒットさせないとホームランは生まれませんから。今のプロ野球、どこの球団の投手も、統一球で外角低めのボールの投げ方を勉強し、練習すればいいんです。そうすると、防御率がよくなります。

◆◆◆
昭和34年に、村山が入団し、天覧試合があったことでメディアの注目度が高まりました。このことで、さらに観客動員数は伸びると予想されていました。村山がいきなり、18勝あげたことも注目度を集めた要因だと思います。ところが、その後、3年間、著しい伸びはありませんでした。

昭和37年、阪神は、セリーグのペナントを勝ち取りました。この年、球団史上初めて観客動員数100万人の大台を突破したんです。この年、僕はプロに入って10年目の年でしたので、10年選手として、ボーナスを規定の最高額いただきました。契約更改のとき、あえて、ボーナスの額について異議を唱えず、参稼報酬の増額を希望しました。会社の提示額と僕の考えていた額が同じだったので、すんなり契約書にサインしたんです。

対応してくれたのは、藤村排斥問題で対応してくれた戸沢代表でした。この時、戸沢代表は、社長になっていましたので、話はスムーズでした。


なんだか、僕と村山が話をすると、縁起の悪い話や暗い話ばかりになってしまいました。「たまには、楽しい話をしようや」ということになり、昭和37年に阪神が優勝した時の思い出話をすることにしました。

今のプロ野球、優勝すると、ビール掛けが派手に行われますが、昭和37年の僕らが優勝した時のビール掛けは、実にささやかなものでした。甲子園球場近くに建ったばかりの「虎風荘」(選手の合宿所)で、遠慮がちにビールの泡を飛ばしたんです。陽気なソロムコ(外野手)が、口火を切ってやりはじめたんです。



この年、小山が27勝、村山が25勝という好成績を収めました。僕は、小山、村山のリリーフ役を務めました。あの当時は、今のように投手分業制は確立しておらず、とにかく誰かが投げて、勝利を収めたらいいという感じだったんです。僕の目標は、防御率を1点でも2点でも少なくすることだったんです。目標はこれだけです。防御率がよければ、自然に勝ち星も転がり込んでくることがあるでしょうし、それが自分のためだし、チームのためだと割り切った考え方をしていました。

この年の9月、僕の親愛なるチームメイトの一人、三宅(三宅秀史)が、川崎球場の大洋戦の前に小山の送球を左目に受け、野球人生が暗転するという出来事がありました。9月以降、戦力からはずれ、療養することになったことは、残念でした。その三宅が、僕が亡くなった直後、僕の自宅まで来て、「省さんの死因を、徹底的に調べた方がいい」と僕の家族に言ってくれたこと。本当に感謝します。

翌年の春、僕らは、優勝のご褒美という名目で、初めての海外キャンプを張りました。場所は、デトロイト・タイガースのキャンプ地、アメリカのフロリダ州レークランドでした。レークランドへは、ウェーク島、ロス、ヒューストン、タンパと、プロペラ機に給油しながらの大フライトでした。

一ドル360円の時代で、ドルの交換は500ドルまでと制限されました。むこうでは、豪華な施設に目を見張るばかりでした。球場視察もし、日本の球場の貧祖さを感じました。当時の甲子園球場の外野席は、まだ、コンクリートの階段でしたので、アメリカの球場の設備の良さを目の当たりにして感動したものです。




◆◆◆
優勝した翌年の昭和38年は、阪神は4位で終わり、観客動員数は70万人に低下しました。再度リーグ優勝を遂げた昭和39年には、100万人の大台を回復し、昭和40年から43年までは100万人の大台を割り、昭和44年、45年には、100万人の大台を回復しました。

昭和45年は、村山が監督で、僕をピッチングコーチに抜擢してくれました。


このころは、僕らが引退し、江夏投手らが阪神を支えた時です。「この時代も、いろいろな思い出があるよな」と、話しています。こんな風に、天国での僕と村山の話は、尽きないのです。【了】(文責:渡辺直子)

参考文献:「阪神タイガースの正体」(井上章一著)
     「魔球伝説」(スポーツグラフィックナンバー著)
     「牛若丸の履歴書」(吉田義男著)
     「デイリースポーツ」(昭和30年5月7日付け)(昭和31年5月12日づけ)(昭和31年8月10日付け)
     「サンケースポーツ」(昭和37年12月8日付け)
     「スポーツニッポン」(昭和44年11月27日付け)