僕は、契約金なしの元プロ野球選手です

昨今、プロ野球選手の契約金問題が巷で話題になっています。契約金なしでプロ野球選手になった僕の人生を振り返ります。

「敏子」

2012-04-13 18:09:52 | 日記
昭和21年2月16日、平壌で「敏子」が亡くなるまでに、大変なことがありました。前年の8月6日に、広島に新型爆弾が投下され、広島で甚大は被害が発生した知らせが入ってきました。さらに、ソ連日ソ中日条約を破って満州に侵略してきたという知らせも入ってきました。


平壌にいる僕たちにとっては、広島に新型爆弾が投下されたということよりも、ソ連が侵攻してきたという知らせの方が脅威でした。日本への逃げ帰るルートが閉ざされた今、ここにいる日本人の僕たちはどうなるのか、という思いで、恐怖心におののいたのです。満州に展開する関東軍が何とかしてくれないかと祈るしかありませんでした。しかし、その祈りもむなしく8月15日、日本は負けました。

終戦後しばらくは、いろいろな憶測の噂が飛び交っていたものの、僕たちの日常生活に、さほど変化はありませんでした。ところが、8月下旬に、突然、ソ連軍が平壌に入ってきて以後、状況は急変しました。9月に入って、ソ連兵が突然、朝早く、僕たちがいる官舎にやってきて、「成人男性は、9時までに朝鮮銀行前に集合せよ」と命令されたんです。親父は、集合場所に行けば、何か今後のことについての通達があるのではと、不安にかられていました。「どうなるかわからんけど、命令だから父ちゃん行ってくる。省ちゃん、敏子たちを、目を離さず、見ていてくれよ。頼むぞ」と、親父は僕に語りかけました。僕は、「うん、わかった。敏子たちは僕が見てるから」と言って、親父を送り出しました。

親父が朝鮮銀行の前に行くと、朝鮮銀行前の広場は、すでに人混み化して、騒然とした雰囲気になっていたそうです。親父は、陸軍航空廠の官舎に住む仲間を見つけようと辺りを見回したけれども、慌ただしく行き交う人々の動きが激しく、顔なじみの仲間を見つけるのも容易な状況ではなかったと言います。そのとき、「渡辺さん、渡辺さん」と親父を呼ぶ、誰かの声が親父の耳に届いたそうで、振り向くと、呼んでいたのは、同じ地区に住む知人だったそうです。

親父の知人は、「渡辺さん、今、日本人会の会長が、渡辺さんを探していたよ。早く会長のところに行ったほうがいい。早く行かないと間に合いません。ここに集合した男たちは、このままシベリアに連行されるそうです。だから、渡辺さん、早く会長のところに行ってください。早く!」と、親父を、いますぐに、日本人会の会長のもとへ行くよう促してくれたそうです。

親父は、急いで、朝鮮銀行のすぐそばの建物にある日本人会の事務所へ走って行き、事務所の扉を開けるやいなや、日本人会の会長が、「おお、渡辺君、よかった、間に会った。君は今すぐ家に帰りたまえ。ここに集合している男たちは全員、今からシベリアに連行される。もう家族とは会えなくなることを覚悟しなければならん。この街に残るのは、女と子供、そして年老いた者ばかりだ。その日本人たちも、家を奪われ、一か所にまとめられることになっている。ただ、交渉の結果、全体をまとめるために、男を一人だけグループに入れてもいいということになった。それを渡辺君にやってもらう。他の者は、子供たちに母親がいる。でも、君のところは、君がいなくなったら、子供たちに親がいなくなる。つい先日、母親を亡くしたばかりで、あまりにも不憫だ。行くも地獄だが、残るも地獄だろう。でも、君にお願いするしかない。頼む。残る者たちを、なんとか日本に無事に帰してほしい」と言ってくれたそうです。親父は、その言葉を聞いて、一目散に走って、家に帰って来たと言ってました。

僕は、そのとき、敏子を僕の背中におんぶ紐で縛って背負い、5歳と8歳の妹に朝食を食べさせているところでした。親父は晩年になって、あの時、僕が平然と妹たちに御飯を作って食べさせている光景を見て、涙が溢れ出て止まらなかったと言ってました。僕にしてみれば、もし親父がシベリアに連行されて行き、両親共いなくなったとしても、妹たちと生きて行かなければ仕方がないと、短時間のうちに覚悟したのだと思います。いつもの日常を続けていたのです。

親父から「あと、1時間以内でこの家から出ないといけないらしい。早く準備をしなさい」と言われ、僕は、布団も持たずに、身の回りの物だけをリュックに入れて家を出ました。おふくろが写った僕の入学式の時の写真も、忘れず、リュックに入れました。おふくろが写った写真は、この1枚だけしか持っていないのです。僕は天国に来るまで、大切に整理ダンスの引き出しに入れていました。


日常でも、一度家を出てから、何か忘れ物をしたような気がして、家に引き返すことがありますよね。この時の僕も、そんな思いに駆られ、もう一度、堀を乗り越えて、家に戻ったんです。結局、何を持っていくべきか、何が大事なものなのか、家の中をウロウロするだけで判断がつかず、台所にある醤油の一升瓶を持ち出したことは、唯一、この当時の笑える思い出です。

「敏子」の話に戻ります。敏子は、昭和21年2月16日、僕の腕の中で、栄養失調で亡くなりました。当時、日本人の女性、子供が数十人単位で、倉庫などで雑居生活をしていた関係上、僕と一緒にいる人たちの中にも、妹や弟、お母さん、おじいさん、おばあさんが亡くなった人がたくさんおられました。現実的な問題として、困ったことは、亡骸の処理でした。

僕と親父は、とりあえず、敏子の亡骸を、むしろに包んで、そばに置いておくしか、成す術がありませんでした。北朝鮮は、日本のように亡くなった人を火葬するという風習はなく、土葬です。異国の地で、亡くなった敏子を、どのように、どこに葬ればいいのか、考えつきませんでした。

ある日、「ここに、あなたたちの家族の亡骸を埋めてあげてください」と言ってくれた人がいました。その人は、平壌の人で、僕たち日本人のために、墓地を提供してくれたのです。親切な人だと思いました。

北朝鮮に日本人の亡骸を土葬させていただくには、いろいろな手続きが必要だった記憶がありますが、どんな手続きだったのかは覚えていません。ただ覚えているのは、むしろに包んだ敏子の亡骸を丘の上まで運んで、僕と親父が穴を掘って埋めたこと、その場所が、小高い丘の上で、そこから、僕が見慣れた平壌の町が一望できたこと、敏子を埋めた場所に、墓標の代わりに、そばに咲いていた黄色いタンポポの花を、たくさん摘んで供えたこと、敏子のタンポポの墓標のそばには、新しく掘り返された猫かなんかの墓のような墓標がたくさん立っていたこと―そんな記憶があるだけです。



敏子を墓地に埋葬したのは、昭和21年4月のはじめごろでした。その直後に、第一回の内地引き揚げ命令が出されました。僕たち一家は、4月中旬、敏子の亡骸を平壌に残して、一路38度線を目指し、歩き続けました。38度線を越えた時は、一度に全身の力が抜けたような張りつめた気持ちが、いっぺんに和らぎました。仁川から出ていた船で博多に着き、博多から汽車で郷里の愛媛県西条市に帰り着きました。

今、平成24年4月です。敏子が亡くなって66年が経ちました。先日、僕の娘、直子のもとに、ある新聞記者から、僕が埋葬した敏子の墓地について、情報が寄せられました。

情報は、僕と同じように戦中、戦後を平壌で過ごした佐藤知也さんという人が、「平壌市龍山墓地日本人埋葬名簿」というリストを持っておられ、その名簿の中に、「敏子」の名前がある。新聞社の調べで、この名簿に書かれている「敏子」は、僕の妹、「敏子」に間違いないというものでした。

この知らせから、直子は、僕が敏子を埋葬した場所を「龍山墓地」であることを知ったようです。「龍山墓地」は、平壌郊外の小高い丘にあり、墓地の改修整備、墓地番号、名簿の作成など、当時、平壌の日本人会が大きな努力を払ってくださったことにより、あれから66年経過した今でも、現存するそうです。ただ、昭和30年ごろ、つまり、僕が「野球界」の雑誌の取材を受けたころ、「龍山墓地」が、行政の区画整理の対象地区になり、工事が実施されることで、墓地の場所が少し移動されたそうです。そのとき、墓地の移動や工事に携わってくれた業者が、西松組という工事業者だったそうです。西松組とは、民主党、小沢一郎さんの陸山会事件に関係する西松建設の以前の名称のようですね。

さらに、あの時、困っている多くの日本人に、親切に墓地を提供してくれた人が、北朝鮮の初代最高指導者、金日成であったことも教えてもらったようです。今、敏子の墓地の場所がわかったということは、敏子は、66年経った今でも、家族のいる日本に帰りたいと思っているのかもしれません。

僕の記憶にはないのですが、当時、亡くなった日本人が多数おられたことで、墓地の敷地面積に対して埋葬者数が多く、一人一区画というわけにはいかなかったそうで、一区画の敷地に4~5人を重ねて、埋葬したようです。仮に今後の政治交渉で、日本人の遺骨を日本に連れて帰れる状況となっても、敏子の遺骨を特定するには、直子とのDNA鑑定が必要らしいです。本来、僕とのDNA鑑定が分かりやすいんでしょうけど、今、僕は天国です。敏子とのDNA鑑定は不可能です。もし、北朝鮮側で遺骨返還が可能という情勢になれば、僕は、この一件を全面的に直子に任せ、ぜひ敏子の遺骨を日本に連れて帰ってほしいと思っています。直子よ、もうひと働きお願いします。(文責:渡辺直子)

参考文献: 「渡辺義信 我が人生の回顧録」     
       「母さんのコロッケ」(喜多川泰著)
      NPO法人 戦没者追悼と平和の会





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