僕の財布は、僕がビルから落下した時、僕の手元にありませんでした。
僕の娘、直子は、僕が亡くなった翌日の9月1日午前中に、僕の遺体を引き取るために、神戸大学医学部付属病院に行きました。僕の弟の渡辺哲夫も一緒でした。弟の哲夫は、昭和22年生まれです。僕と親父が平壌から引き揚げてきてから、生まれたんです。親父は、平壌で、あの時、日本人会長の命令を実直に受け止め、女、子供たちを日本に無事に連れて帰ることが使命と考え、多くの人たちの世話をしながら日本に帰りつきました。親父は、その時、苦労を共にした女性と、引き揚げ後結婚し、昭和22年に哲夫が生まれたんです。哲夫と僕の関係は、いわゆる、「腹違いの兄弟」という関係です。哲夫が物ごころがついたころに、僕が阪神の入団テストに合格して、関西に出てきたので、それ以来、離れて生活していました。中学生ころには、親父に連れられて、甲子園に野球を観に来ることもありました。
9月1日、直子と哲夫は、神戸大学医学部付属病院の玄関口で、球団顧問の箱崎逸夫さんと初めて会いました。箱崎さんは、昭和7年9月生まれで、僕と同学年ということや、九州出身ということで、僕(九州担当)と話しが合うことも多く、球団事務所で顔を合わせると、言葉を交わすことがありました。
箱崎さんは、約40年間、兵庫県警で警察官として勤務された方で、暴力団対策課第一課長を経て、葺合警察署署長を最後に退職されました。暴力団対策課では、山口組対策に尽力されたようです。退職後、阪神タイガースに招かれました。箱崎さんは、阪神タイガースの常任顧問として、選手に絡むさまざまなトラブルについて選手らの相談に乗ったり、警察との仲介役を果たしてくださっていました。
神戸大学医学部付属病院で、直子は、箱崎さんに会うやいなや、僕の財布がないことを伝えていました。箱崎さんは、直子の話をよく聞いてくれ、その場にいた生田警察の小野刑事に、そのことを告げてくれました。小野刑事は、「それなら、司法解剖をしなければいけない」と言いました。その会話のとき、その場に哲夫はいませんでした。
哲夫は、近畿税理士会所属の会計士で、当時、大阪で会計事務所を営んでいました。兄の僕が急に亡くなったことで、事務所は、哲夫不在で、てんやわんや。事務員にこの日の仕事の予定の変更や段取りを電話で指示するために、席をはずしていたのです。
直子は、哲夫が戻ってきたので、司法解剖のことを伝えたところ、哲夫は「末永さんに聞いてみないとだめだ」と言い、末永に電話をかけに行きました。その結果、『解剖は1日かかるので、葬儀の段取りが狂うのは困る。9月1日から3日まで、阪神タイガースが甲子園で三連戦があり、その期間中に渡辺さんの葬儀を行わなければ、盛大な葬儀にならない』ということを末永が言っていると、哲夫は直子に伝えていました。
直子は、そのとき、末永が、僕の遺体の司法解剖を行うのに、反対しているのが分かったそうです。しかし、直子は、僕が自殺したのではないということをはっきりさせるには、司法解剖をした方がいいと思う一方、自分のわがままで球団に迷惑をかけるわけにはいかないという思いに駆られ、司法解剖をしないのも仕方ないと諦めたと言います。
直子は、小野刑事から『話を聞きますので、生田署に来てください』と言われ、生田警察で、事情聴取を受けることになりました。僕の遺体は、哲夫が付き添って、ベルコ南大阪の搬送車に乗せられ、甲子園球場近くの自宅に運ばれました。
直子は、小野刑事と箱崎さんと共に、生田警察に行きました。直子は、事情聴取の際、小野刑事に、『父が自殺するのはおかしい。財布がないのはおかしい』などと言って、僕の死因の捜査をしてくれるように頼んでいました。そうしたところ、その場に同席していた藤力正昭警部補が、直子に、『財布があったと球団から電話がかかってきた』『財布があったなら、事件性はない』などと言って、財布が見つかった以上、他殺ではなく、自殺に間違いないという意味のことを告げていました。直子は、藤力警部補の話を聞いて、そのときは、それもそうかなと思ってしまったと言います。
直子は、この日の午後1時30分ころ、生田警察を出た後、1人で、僕が亡くなった現場である入江ビルに行きました。そのとき、入江ビルの前の道路には、まだ、チョーク跡や血の跡がありましたので、僕が亡くなったときの位置関係が分かったようでした。
直子は、そのチョーク跡の場所が入江ビルから、かなり離れているのを不審に感じたようで、自殺にしては、落下位置がビルから離れすぎていておかしい。僕が、屋上から、誰かに、投げ落とされて殺されたのではないかと考えたようです。
直子は、その後、甲子園の僕の自宅に戻りました。すると、そのとき既に、末永が僕の財布を自宅に届けに来ていました。末永は、『会社の机の中にあった』などと言って、直子に僕の財布を渡していました。末永は、僕の財布が球団事務所の僕の机の中から見つかったという意味の説明をしていました。僕の机から、財布が出てきた件について、横溝は、宮本検事につぎのように話しています。
「9月1日に、再び渡辺省三さんの机の中を確認したところ、引き出しの奥の方から2つ折りの財布が見つかったのを覚えています。渡辺さんは、私の知る限り、普段は財布を持ち歩かず、ポケットに裸銭を入れていました。ただ、スカウトの仕事で旅行に出るときに2つ折りの財布を持って行くのを見かけましたので、その財布が机の引き出しの中から見つかったのだと思います」
◆◆◆
直子は、僕の財布が見つかり、末永が届けてくれたことで、誰かが僕を殺し、財布を奪ったというのは、自分の思い過ごしかも知れず、僕が自殺したのかもしれないと思ったようです。
この日の夜、僕の自宅で、仮通夜が行われました。阪神球団の関係者、現役引退後、しばらく会ったことはなかった掛布(掛布雅之元選手)、他球団のスカウト、友人、知人が弔問に来てくれました。掛布が仮通夜に来てくれたことは以外でした。僕は、末永が、掛布を、無理やりに呼んだような印象を受けました。
僕は、横浜ベイスターズの高松(高松延次編成部長)と古くから親しい関係にありました。横浜ベイスターズは神奈川県を拠点とする球団です。高松は西宮市に在住し、横浜ベイスターズのスカウトの仕事を長年していました。そんな事情で、高松も仮通夜に来てくれたんです。
その仮通夜の席で、末永とベルコ南大阪の担当者の二人が、僕の遺体を死に装束の様相に着せ替える作業をするといい、末永は『遺体の損傷が激しいので家族には見せたくない』などと言って、僕の遺体が安置されている和室のふすまを閉めてしまいました。直子は、そのときは、特に不審には思わなかったようですが、後々に、国家賠償訴訟で証拠として出された僕の遺体の写真を見たところ、僕の頭部には損傷があったものの、身体には見た目、大した損傷がないことが分かったと言います。
直子は、「末永が、家族に僕の遺体を見られないようにしたのはおかしい。不審だ」と言い続けているんです。僕の遺体の写真を見ていない時に書いた「タイガースの闇」にも、この時のことを、こう綴りました。
「思い返せば、私が9月1日に父の解剖を神戸大学医学部で主張したときも末永氏の返答は、『解剖により、遺体の返還が遅れると、通夜・告別式の日時などがすべて狂う可能性が出てくる。そうなると、タイガースの監督はじめ、選手たちが遠征に出てしまい、葬儀に参列できなくなる。解剖は諦めてください』と強引に解剖を断りました」
この箇所について、球団の顧問弁護士が告訴状でこう反論をしています。
「告訴人(末永)は、平成10年9月1日神戸大学医学部どころか、神戸にも行っていないものであり、当該事実がなかったことは明らかであるが、添付資料2の「タイガースの闇」書籍全般に記載される「省三氏が殺害されて、自殺ではなかった、しかも、省三氏の殺害が告訴人を含む複数人の犯行グループの手によってなされた」との被告訴人(直子)らの憶測と照らし合わせて当該事実摘示を読めば、告訴人(末永)が、あたかも当該犯行グループの一員であり、証拠隠滅を図ったかのような印象を与えており、告訴人(末永)を全く故なく誹謗中傷していることが明白である」
◆◆◆
僕が思うに、やはり、末永は証拠隠滅を図ったのではないでしょうか。僕の遺体を解剖すれば、右胸の打撲痕の件がより明確にわかるでしょうし、外力が加わった可能性が出ると、自殺ではなく他殺の可能性が出てくるわけです。そうすると、新聞報道が変わってきます。末永が、それを恐れたとしか考えられません。
球団の顧問弁護士は、何をいい加減な反論をしているんでしょうか。直子は、9月1日に、末永が神戸大学医学部に居たとか、来たとか、そんなことは一切、言っていません。勘違いの上に、いい加減な主張を告訴状に書いて、末永にとって何ら有利な主張になっていない。これもおかしなことです。
宮本検事が、平成17年6月21日に、直子を神戸地検に呼び出す際に、「いろいろ調べたところ、直子さんが言っていることは、合っていました」と電話口でおっしゃったのは、そういう点のことだと思います。僕も、末永が証拠隠滅を図ったということで合っていると思います。
僕の告別式は、9月3日に、西宮のベルコ会館で行われました。ベルコ会館の一番大きな部屋に祭壇が設置され、祭壇の両脇に、僕が現役時代に対戦した巨人軍の王貞治さん(当時、福岡ダイエーホークス監督)ら、たくさんの供花が部屋いっぱいに置かれていました。
告別式には約600名の方が弔問に来てくださり、三好球団社長が葬儀委員長を務めてくださいました。葬儀の段取りを進めてくれたり、僕の遺体の着替えを末永としてくれたのは、南大阪ベルコの社員です。直子は、末永が、南大阪ベルコの社長と以前から知り合いで、紹介してくれたということは、費用について少しでも便宜を図ってくれたのだと思ったようです。ところが、請求は517万5619円という高額なものでした。あまりに高額なので、この点について、取り調べの際に、宮本検事が末永に、リベートをもらっているのかと尋ねています。
末永は、リベートはもらっていないと答えていました。それにしては、この程度の祭壇の様相で、517万円とは、高額すぎるように思います。
◆◆◆
僕の告別式が終わって一週間後の9月10日ころ、高松が僕の知人と一緒に、僕の自宅に、線香をあげに来てくれました。僕の遺影に手を合わせてくれた高松は、僕の妻に「省さん、ライターはいつもどこに持っていた?」と聞きました。妻は、「いつも、シャツの胸ポケットに、ライターとタバコを入れていました。だから、ポケットのあるシャツしか着なかったんです」と答えていました。妻が「それが何か?」と聞き返すと、「いや、ちょっと聞いてみただけです」と言っていました。
僕は、ヘビースモーカーで、いつもショートピースを吸っていました。ショートピースとライターは必需品で、どこに行くときも忘れませんでした。僕はあの時もショートピースとライターを、シャツの胸ポケットに入れていました。タバコが切れると我慢できないので、予備のショートピースも必ずバッグに入れていました。あの当時から、ショートピースは自動販売機で販売しておらず、街中ですぐに手に入れることができないタバコとなっていました。昔は、ショートピース、ハイライトなどが主流で、どこでも買うことができたものです。
この時の状況について、生田警察の大野道生巡査部長は、僕が亡くなった直後、箱崎さんに「血液で汚れたライター、タバコ、小銭などは、現場で身内に渡しました」と話していました。僕は、現場で身元不明の変死体だったんです。なのに、大野巡査部長は、身内に血液で汚れたライター、タバコを渡したそうなんです。ということは、僕の身内が現場に 居たということになります。大野巡査部長が通報を受けて駆けつけてくれた時、すでに、兵庫県警の自動車警ら隊の警察官が、僕の遺体に白いシートをかけてくれていました。自動車警ら隊の警察官は、当時、パトロール中で、無線で通報を聞きつけ、僕のもとにいち早く駆けつけてくれたんです。僕の遺体の場所が路上という通報だったので、それを受けた道路パトロール中の警察官は交通事故かもしれないと思ったようです。
そんなことで、僕の遺体は白いシートで覆われていましたので、大野巡査部長が、僕の胸ポケットに入っていたショートピースとライターを、身内に受け渡した場面が見える状況ではなかったのです。一体、身内とは誰なのか。僕には全くわかりません。小銭も渡したということは、現場写真を見て納得できます。僕は、ズボンのポケットに裸銭を入れており、当然、小銭にもを入れていました。それが、落下の衝撃でズボンのポケットの中から出ています。それを、大野巡査部長が、身内に渡したということなのでしょう。
身内が誰なのか、模索することも必要ですが、それよりも大野巡査部長が、現場で身内を探知しておきながら、神戸大学医学部での検死の際、上野医師に「この遺体は、身元不明の変死体です」と申告しているのもおかしな話です。
◆◆◆
直子は、僕が亡くなって1カ月くらいたったころ、僕の死は、絶対に自殺ではないと思い始め、「週刊文春」に手記を掲載してもらうことに決めました。手記は、平成10年10月15日に発売されました。週刊文春の発売の告知は、新聞の広告欄や、電車内の広告など、大々的なので、全国各地の多くの人に知ってもらうことができました。
直子の手記は、僕の古くからのチームメイト、三宅(三宅秀史内野手)も手にしてくれたようです。三宅は、10月末ころ、僕の自宅に来てくれ、「娘さんの手記を読ませていただきました。省さんが自殺するはずはない。これは、徹底的に調べた方がいい。何かあるはずだ」と、言ってくれていました。
三宅は、僕より1年後輩で、昭和28年に入団してきました。僕と三宅は、無口同志ということで有名で、当時の松木謙冶郎監督は、僕と三宅が同室のとき、マネージャーに、僕らがどうしているのか、聞いてみたそうです。マネージャーが、「ときどき何か話しているよ」と言ったそうで、ほっとされたようです。
それほど、僕と三宅はいろんなことをしゃべらなかったんですが、お互い、分かり合っていました。その三宅が、わざわざ、僕の自宅に来てくれて、僕の死因が不審と感じる思いを、家族に伝えてくれたことを嬉しく思います。
◆◆◆
同じころ、横浜ベイスターズの高松が、再び、僕の自宅に来てくれました。高松は、「週刊文春」を見たといい、「先日、九州で、横溝さんたちと省さんの件を話し合ったんだけど、いろんな人がいろんなことを言っている。何でも、昔、省さんが八百長したことを誰かに知られて、脅迫されてたらしい。これは、ヤクザが絡んでいるかもしれないし、これ以上、変に騒がない方がいいのと違うかな。前向きにこれからのことを考えて、このことは忘れた方がいいと思う」と、直子に話していました。直子は、「脅迫されていたのなら、なおさら事件ということがはっきりするので、生田警察に捜査を頼みたい」と返していました。
高松は、九州で、僕が昔の八百長のことで、脅迫されていたことを誰から聞いたんでしょうか。僕は、確かに、あの時、昔の八百長のことで、脅迫されていました。そのことを知っている人が、九州で高松に告げたようです。
僕は、あの時、そのことを公表されたくなければ、50万円持って来いと、うちの弁護士に言われたんです。弁護士と11時半に待ち合わせをしていたので、僕は、球団事務所に出社する前の午前10時ごろ、甲子園駅近くの郵便局と住友銀行に行って、合計85万円を自分の預金から出金しました。うちの弁護士は、50万円持ってくるように言ったんですが、念のため、85万円引き出したんです。50万円から、さらに、何か言いがかりをつけられ、金銭を要求されるのではないかと思ったんです。
僕は、引き出した85万円を、その場で、50万円と35万円に分けて銀行の袋に入れました。そして、それをバッグに入れ、球団事務所へ行きました。約束の11時半になったので、横溝に「うちの弁護士に会ってきます」と言って、スカウト室を出ました。
うちの弁護士とは、球場の正面玄関で待ち合わせをしていたのですが、そこに来たのは、広報の笠間でした。笠間は、昔の八百長の件で、急きょ、週刊誌の取材があると言い、取材場所に案内すると言いました。笠間は、写真撮影があるかもしれないので、そうなるとジャケットが必要とのことで、僕のロッカーからジャケットを持ってきてくれていました。ジャケットはタイガースの制服なので、胸裏に「渡辺」と名前が記されていました。
取材場所まで、車で案内するということでした。僕は、その時、自転車に乗っていましたので、自転車を球場横の43号線の高架下、神戸方面側の側道寄りに置き、車に乗りました。その後のことは、全く思い出せません。それから約1時間半後の午後1時13分に、僕は神戸市中央区京町筋の路上で転落死を遂げていたのです。
笠間は、この日の行動について、宮本検事につぎのように話しています。
「お示しの陳述書が、球団事務所に残っていた資料等を参考にして、私が平成10年8月31日の行動をまとめて記載した書面です。ここにあるように、私は、平成10年8月31日、朝の6時前に東京赤坂プリンスホテルをタクシーで出発し、東京駅から午前6時13分発の新幹線で新大阪駅に向かいました。
この時、バッティング捕手兼ブルペン捕手の西口が私に同行していました。なぜ、この日の朝に東京のホテルに泊まっていたかと申しますと、ちょうど、平成10年8月30日に、東京ドームで読売巨人軍相手のナイトゲームがあったからでした。ちなみに、この8月30日の試合は、当時在籍していた藪投手が先発し、今岡選手か桧山選手がホームランを打つなどして活躍して勝利したと覚えています。翌日の8月31日は移動日でしたので、本来は、ナインと一緒に昼前の新幹線で大阪に戻るはずでしたが、ちょうど8月31日の昼ころ、一軍の主力投手が甲子園球場で練習を行う予定になっていたので、広報担当だった私がそれに立ち会うため、ナインより早く、帰阪の途についたのです。私が平成10年8月31日昼に行われる一軍の主力投手の練習に立ち会うことは、当時の広報部長である本間勝さんに報告し、本間さんの了解を得ていました。
新幹線はこの日の午前9時10分ころに新大阪駅に着き、そこから普通電車に乗り継いで、午前9時40分ころJR甲子園口駅に着きました。それから、私は、持っていた阪神タクシーのチケットを利用して、西口と一緒にタクシーでそれぞれの自宅に帰りました。私の自宅は西宮市上大市、西口の自宅は、西宮市段上町にあって、それほど距離が離れておらず、先に私が降りて、西口にチケットを預けたと思います。自宅に戻ったのは、午前10時ころだったと思います。それから一休みして、私は、昼の12時から甲子園球場で予定されていた一軍投手の練習に立ち会うため、バイクに乗って自宅を出ました。
この日に甲子園球場で一軍の主力投手の練習があることは、前夜に各マスコミに連絡しており、スポーツ紙の記者やカメラマンがやってくることが分かっていましたので、その対応のために私が立ち会う必要があったのです。特に、甲子園球場の場合、記者やカメラマンが革靴等で芝にあがることが禁じられていましたので、それを注意するためにも広報担当が立ち会う必要がありました。
この日、私が甲子園球場に到着したのは、午前11時過ぎだったと思います。少しの間、甲子園球場のスタンド内野2階にある広報室で時間を潰した後、私は、昼の12時前にグラウンドに下りて、マスコミの対応をしました。この日に練習に出てきた一軍の投手は、前日好投してクールダウンを行う予定の藪投手のほか、当時、先発ローテーションに入っていた川尻投手、中込投手、山村投手と外国人のダリル・メイ投手の合計5人でした。一軍の主力投手が練習するため、投手コーチの福間さん、トレーニングコーチの続木さんも顔を出し、そのほかにトレーナーの猿木さん、常川さんも参加しました。また、メイが練習する関係で、通訳の丸本さんもグラウンドに来ました。練習は、だいたい2時間くらい続き、選手は遠投やダッシュなどを繰り返して調整をしていたと思います。
その間、私は、記者と歓談しつつ、記者やカメラマンが練習の邪魔にならないよう整理をしたり、福間コーチや選手への取材申し入れを受けたりしていました。そのうち、昼の2時ころに練習が終わりましたので、私は、シャワーを浴びてから、バイクで自宅に戻りました。甲子園球場を出発したのは、昼の2時半ころだったと思います。このように、私は、平成10年8月31日には、昼の12時ころから2時ころまでの間、甲子園球場で、一軍の主力投手の練習に立ち会っていました。この日の練習は、突発的なものではなく、以前から予定されていた主力投手の調整でしたし、ゲームがない日に甲子園球場でこうした練習が行われるのは珍しくなく、この日にこうした練習があったことは当時の新聞記事を見ていただければ、裏取りができると思います」
◆◆◆
横溝は、僕が、昔の八百長のことで脅迫されていたということを、僕が亡くなって2カ月くらい経過したころに、知ったわけです。それを知ったからかなのか、経緯はわかりませんが、それから1カ月後の平成10年12月12日、横溝のところに、見知らぬ男から電話があったそうです。その内容は、「渡辺と手を切れ!」というもので、横溝はその電話があってから、怯えるようになりました。僕から見て、あのころから、横溝は、誰かの言いなりになっている感じがします。
横溝は、その電話に怯え、事実をすぐに箱崎さんに申告しました。箱崎さんは、横溝の申告を受けて、僕の死の不審、つまり「事件性」を嗅ぎつけたようです。(文責:渡辺直子)
参考文献:「捜査報告書」(平成17年7月1日付け)(宮本健志検事から大坪弘道部長への報告書)
笠間雄二「供述調書」(平成17年5月9日付け)
末永正昭「供述調書」(平成17年5月16日付け)
横溝桂「供述調書」(平成17年5月16日付け)
阪神球団顧問弁護士作成の「告訴状」(平成15年2月21日付け)
渡辺直子「供述調書」(平成17年7月19日付け、平成17年7月20日付け)
「タイガースの生いたち」(松木謙冶郎著)
僕の娘、直子は、僕が亡くなった翌日の9月1日午前中に、僕の遺体を引き取るために、神戸大学医学部付属病院に行きました。僕の弟の渡辺哲夫も一緒でした。弟の哲夫は、昭和22年生まれです。僕と親父が平壌から引き揚げてきてから、生まれたんです。親父は、平壌で、あの時、日本人会長の命令を実直に受け止め、女、子供たちを日本に無事に連れて帰ることが使命と考え、多くの人たちの世話をしながら日本に帰りつきました。親父は、その時、苦労を共にした女性と、引き揚げ後結婚し、昭和22年に哲夫が生まれたんです。哲夫と僕の関係は、いわゆる、「腹違いの兄弟」という関係です。哲夫が物ごころがついたころに、僕が阪神の入団テストに合格して、関西に出てきたので、それ以来、離れて生活していました。中学生ころには、親父に連れられて、甲子園に野球を観に来ることもありました。
9月1日、直子と哲夫は、神戸大学医学部付属病院の玄関口で、球団顧問の箱崎逸夫さんと初めて会いました。箱崎さんは、昭和7年9月生まれで、僕と同学年ということや、九州出身ということで、僕(九州担当)と話しが合うことも多く、球団事務所で顔を合わせると、言葉を交わすことがありました。
箱崎さんは、約40年間、兵庫県警で警察官として勤務された方で、暴力団対策課第一課長を経て、葺合警察署署長を最後に退職されました。暴力団対策課では、山口組対策に尽力されたようです。退職後、阪神タイガースに招かれました。箱崎さんは、阪神タイガースの常任顧問として、選手に絡むさまざまなトラブルについて選手らの相談に乗ったり、警察との仲介役を果たしてくださっていました。
神戸大学医学部付属病院で、直子は、箱崎さんに会うやいなや、僕の財布がないことを伝えていました。箱崎さんは、直子の話をよく聞いてくれ、その場にいた生田警察の小野刑事に、そのことを告げてくれました。小野刑事は、「それなら、司法解剖をしなければいけない」と言いました。その会話のとき、その場に哲夫はいませんでした。
哲夫は、近畿税理士会所属の会計士で、当時、大阪で会計事務所を営んでいました。兄の僕が急に亡くなったことで、事務所は、哲夫不在で、てんやわんや。事務員にこの日の仕事の予定の変更や段取りを電話で指示するために、席をはずしていたのです。
直子は、哲夫が戻ってきたので、司法解剖のことを伝えたところ、哲夫は「末永さんに聞いてみないとだめだ」と言い、末永に電話をかけに行きました。その結果、『解剖は1日かかるので、葬儀の段取りが狂うのは困る。9月1日から3日まで、阪神タイガースが甲子園で三連戦があり、その期間中に渡辺さんの葬儀を行わなければ、盛大な葬儀にならない』ということを末永が言っていると、哲夫は直子に伝えていました。
直子は、そのとき、末永が、僕の遺体の司法解剖を行うのに、反対しているのが分かったそうです。しかし、直子は、僕が自殺したのではないということをはっきりさせるには、司法解剖をした方がいいと思う一方、自分のわがままで球団に迷惑をかけるわけにはいかないという思いに駆られ、司法解剖をしないのも仕方ないと諦めたと言います。
直子は、小野刑事から『話を聞きますので、生田署に来てください』と言われ、生田警察で、事情聴取を受けることになりました。僕の遺体は、哲夫が付き添って、ベルコ南大阪の搬送車に乗せられ、甲子園球場近くの自宅に運ばれました。
直子は、小野刑事と箱崎さんと共に、生田警察に行きました。直子は、事情聴取の際、小野刑事に、『父が自殺するのはおかしい。財布がないのはおかしい』などと言って、僕の死因の捜査をしてくれるように頼んでいました。そうしたところ、その場に同席していた藤力正昭警部補が、直子に、『財布があったと球団から電話がかかってきた』『財布があったなら、事件性はない』などと言って、財布が見つかった以上、他殺ではなく、自殺に間違いないという意味のことを告げていました。直子は、藤力警部補の話を聞いて、そのときは、それもそうかなと思ってしまったと言います。
直子は、この日の午後1時30分ころ、生田警察を出た後、1人で、僕が亡くなった現場である入江ビルに行きました。そのとき、入江ビルの前の道路には、まだ、チョーク跡や血の跡がありましたので、僕が亡くなったときの位置関係が分かったようでした。
直子は、そのチョーク跡の場所が入江ビルから、かなり離れているのを不審に感じたようで、自殺にしては、落下位置がビルから離れすぎていておかしい。僕が、屋上から、誰かに、投げ落とされて殺されたのではないかと考えたようです。
直子は、その後、甲子園の僕の自宅に戻りました。すると、そのとき既に、末永が僕の財布を自宅に届けに来ていました。末永は、『会社の机の中にあった』などと言って、直子に僕の財布を渡していました。末永は、僕の財布が球団事務所の僕の机の中から見つかったという意味の説明をしていました。僕の机から、財布が出てきた件について、横溝は、宮本検事につぎのように話しています。
「9月1日に、再び渡辺省三さんの机の中を確認したところ、引き出しの奥の方から2つ折りの財布が見つかったのを覚えています。渡辺さんは、私の知る限り、普段は財布を持ち歩かず、ポケットに裸銭を入れていました。ただ、スカウトの仕事で旅行に出るときに2つ折りの財布を持って行くのを見かけましたので、その財布が机の引き出しの中から見つかったのだと思います」
◆◆◆
直子は、僕の財布が見つかり、末永が届けてくれたことで、誰かが僕を殺し、財布を奪ったというのは、自分の思い過ごしかも知れず、僕が自殺したのかもしれないと思ったようです。
この日の夜、僕の自宅で、仮通夜が行われました。阪神球団の関係者、現役引退後、しばらく会ったことはなかった掛布(掛布雅之元選手)、他球団のスカウト、友人、知人が弔問に来てくれました。掛布が仮通夜に来てくれたことは以外でした。僕は、末永が、掛布を、無理やりに呼んだような印象を受けました。
僕は、横浜ベイスターズの高松(高松延次編成部長)と古くから親しい関係にありました。横浜ベイスターズは神奈川県を拠点とする球団です。高松は西宮市に在住し、横浜ベイスターズのスカウトの仕事を長年していました。そんな事情で、高松も仮通夜に来てくれたんです。
その仮通夜の席で、末永とベルコ南大阪の担当者の二人が、僕の遺体を死に装束の様相に着せ替える作業をするといい、末永は『遺体の損傷が激しいので家族には見せたくない』などと言って、僕の遺体が安置されている和室のふすまを閉めてしまいました。直子は、そのときは、特に不審には思わなかったようですが、後々に、国家賠償訴訟で証拠として出された僕の遺体の写真を見たところ、僕の頭部には損傷があったものの、身体には見た目、大した損傷がないことが分かったと言います。
直子は、「末永が、家族に僕の遺体を見られないようにしたのはおかしい。不審だ」と言い続けているんです。僕の遺体の写真を見ていない時に書いた「タイガースの闇」にも、この時のことを、こう綴りました。
「思い返せば、私が9月1日に父の解剖を神戸大学医学部で主張したときも末永氏の返答は、『解剖により、遺体の返還が遅れると、通夜・告別式の日時などがすべて狂う可能性が出てくる。そうなると、タイガースの監督はじめ、選手たちが遠征に出てしまい、葬儀に参列できなくなる。解剖は諦めてください』と強引に解剖を断りました」
この箇所について、球団の顧問弁護士が告訴状でこう反論をしています。
「告訴人(末永)は、平成10年9月1日神戸大学医学部どころか、神戸にも行っていないものであり、当該事実がなかったことは明らかであるが、添付資料2の「タイガースの闇」書籍全般に記載される「省三氏が殺害されて、自殺ではなかった、しかも、省三氏の殺害が告訴人を含む複数人の犯行グループの手によってなされた」との被告訴人(直子)らの憶測と照らし合わせて当該事実摘示を読めば、告訴人(末永)が、あたかも当該犯行グループの一員であり、証拠隠滅を図ったかのような印象を与えており、告訴人(末永)を全く故なく誹謗中傷していることが明白である」
◆◆◆
僕が思うに、やはり、末永は証拠隠滅を図ったのではないでしょうか。僕の遺体を解剖すれば、右胸の打撲痕の件がより明確にわかるでしょうし、外力が加わった可能性が出ると、自殺ではなく他殺の可能性が出てくるわけです。そうすると、新聞報道が変わってきます。末永が、それを恐れたとしか考えられません。
球団の顧問弁護士は、何をいい加減な反論をしているんでしょうか。直子は、9月1日に、末永が神戸大学医学部に居たとか、来たとか、そんなことは一切、言っていません。勘違いの上に、いい加減な主張を告訴状に書いて、末永にとって何ら有利な主張になっていない。これもおかしなことです。
宮本検事が、平成17年6月21日に、直子を神戸地検に呼び出す際に、「いろいろ調べたところ、直子さんが言っていることは、合っていました」と電話口でおっしゃったのは、そういう点のことだと思います。僕も、末永が証拠隠滅を図ったということで合っていると思います。
僕の告別式は、9月3日に、西宮のベルコ会館で行われました。ベルコ会館の一番大きな部屋に祭壇が設置され、祭壇の両脇に、僕が現役時代に対戦した巨人軍の王貞治さん(当時、福岡ダイエーホークス監督)ら、たくさんの供花が部屋いっぱいに置かれていました。
告別式には約600名の方が弔問に来てくださり、三好球団社長が葬儀委員長を務めてくださいました。葬儀の段取りを進めてくれたり、僕の遺体の着替えを末永としてくれたのは、南大阪ベルコの社員です。直子は、末永が、南大阪ベルコの社長と以前から知り合いで、紹介してくれたということは、費用について少しでも便宜を図ってくれたのだと思ったようです。ところが、請求は517万5619円という高額なものでした。あまりに高額なので、この点について、取り調べの際に、宮本検事が末永に、リベートをもらっているのかと尋ねています。
末永は、リベートはもらっていないと答えていました。それにしては、この程度の祭壇の様相で、517万円とは、高額すぎるように思います。
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僕の告別式が終わって一週間後の9月10日ころ、高松が僕の知人と一緒に、僕の自宅に、線香をあげに来てくれました。僕の遺影に手を合わせてくれた高松は、僕の妻に「省さん、ライターはいつもどこに持っていた?」と聞きました。妻は、「いつも、シャツの胸ポケットに、ライターとタバコを入れていました。だから、ポケットのあるシャツしか着なかったんです」と答えていました。妻が「それが何か?」と聞き返すと、「いや、ちょっと聞いてみただけです」と言っていました。
僕は、ヘビースモーカーで、いつもショートピースを吸っていました。ショートピースとライターは必需品で、どこに行くときも忘れませんでした。僕はあの時もショートピースとライターを、シャツの胸ポケットに入れていました。タバコが切れると我慢できないので、予備のショートピースも必ずバッグに入れていました。あの当時から、ショートピースは自動販売機で販売しておらず、街中ですぐに手に入れることができないタバコとなっていました。昔は、ショートピース、ハイライトなどが主流で、どこでも買うことができたものです。
この時の状況について、生田警察の大野道生巡査部長は、僕が亡くなった直後、箱崎さんに「血液で汚れたライター、タバコ、小銭などは、現場で身内に渡しました」と話していました。僕は、現場で身元不明の変死体だったんです。なのに、大野巡査部長は、身内に血液で汚れたライター、タバコを渡したそうなんです。ということは、僕の身内が現場に 居たということになります。大野巡査部長が通報を受けて駆けつけてくれた時、すでに、兵庫県警の自動車警ら隊の警察官が、僕の遺体に白いシートをかけてくれていました。自動車警ら隊の警察官は、当時、パトロール中で、無線で通報を聞きつけ、僕のもとにいち早く駆けつけてくれたんです。僕の遺体の場所が路上という通報だったので、それを受けた道路パトロール中の警察官は交通事故かもしれないと思ったようです。
そんなことで、僕の遺体は白いシートで覆われていましたので、大野巡査部長が、僕の胸ポケットに入っていたショートピースとライターを、身内に受け渡した場面が見える状況ではなかったのです。一体、身内とは誰なのか。僕には全くわかりません。小銭も渡したということは、現場写真を見て納得できます。僕は、ズボンのポケットに裸銭を入れており、当然、小銭にもを入れていました。それが、落下の衝撃でズボンのポケットの中から出ています。それを、大野巡査部長が、身内に渡したということなのでしょう。
身内が誰なのか、模索することも必要ですが、それよりも大野巡査部長が、現場で身内を探知しておきながら、神戸大学医学部での検死の際、上野医師に「この遺体は、身元不明の変死体です」と申告しているのもおかしな話です。
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直子は、僕が亡くなって1カ月くらいたったころ、僕の死は、絶対に自殺ではないと思い始め、「週刊文春」に手記を掲載してもらうことに決めました。手記は、平成10年10月15日に発売されました。週刊文春の発売の告知は、新聞の広告欄や、電車内の広告など、大々的なので、全国各地の多くの人に知ってもらうことができました。
直子の手記は、僕の古くからのチームメイト、三宅(三宅秀史内野手)も手にしてくれたようです。三宅は、10月末ころ、僕の自宅に来てくれ、「娘さんの手記を読ませていただきました。省さんが自殺するはずはない。これは、徹底的に調べた方がいい。何かあるはずだ」と、言ってくれていました。
三宅は、僕より1年後輩で、昭和28年に入団してきました。僕と三宅は、無口同志ということで有名で、当時の松木謙冶郎監督は、僕と三宅が同室のとき、マネージャーに、僕らがどうしているのか、聞いてみたそうです。マネージャーが、「ときどき何か話しているよ」と言ったそうで、ほっとされたようです。
それほど、僕と三宅はいろんなことをしゃべらなかったんですが、お互い、分かり合っていました。その三宅が、わざわざ、僕の自宅に来てくれて、僕の死因が不審と感じる思いを、家族に伝えてくれたことを嬉しく思います。
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同じころ、横浜ベイスターズの高松が、再び、僕の自宅に来てくれました。高松は、「週刊文春」を見たといい、「先日、九州で、横溝さんたちと省さんの件を話し合ったんだけど、いろんな人がいろんなことを言っている。何でも、昔、省さんが八百長したことを誰かに知られて、脅迫されてたらしい。これは、ヤクザが絡んでいるかもしれないし、これ以上、変に騒がない方がいいのと違うかな。前向きにこれからのことを考えて、このことは忘れた方がいいと思う」と、直子に話していました。直子は、「脅迫されていたのなら、なおさら事件ということがはっきりするので、生田警察に捜査を頼みたい」と返していました。
高松は、九州で、僕が昔の八百長のことで、脅迫されていたことを誰から聞いたんでしょうか。僕は、確かに、あの時、昔の八百長のことで、脅迫されていました。そのことを知っている人が、九州で高松に告げたようです。
僕は、あの時、そのことを公表されたくなければ、50万円持って来いと、うちの弁護士に言われたんです。弁護士と11時半に待ち合わせをしていたので、僕は、球団事務所に出社する前の午前10時ごろ、甲子園駅近くの郵便局と住友銀行に行って、合計85万円を自分の預金から出金しました。うちの弁護士は、50万円持ってくるように言ったんですが、念のため、85万円引き出したんです。50万円から、さらに、何か言いがかりをつけられ、金銭を要求されるのではないかと思ったんです。
僕は、引き出した85万円を、その場で、50万円と35万円に分けて銀行の袋に入れました。そして、それをバッグに入れ、球団事務所へ行きました。約束の11時半になったので、横溝に「うちの弁護士に会ってきます」と言って、スカウト室を出ました。
うちの弁護士とは、球場の正面玄関で待ち合わせをしていたのですが、そこに来たのは、広報の笠間でした。笠間は、昔の八百長の件で、急きょ、週刊誌の取材があると言い、取材場所に案内すると言いました。笠間は、写真撮影があるかもしれないので、そうなるとジャケットが必要とのことで、僕のロッカーからジャケットを持ってきてくれていました。ジャケットはタイガースの制服なので、胸裏に「渡辺」と名前が記されていました。
取材場所まで、車で案内するということでした。僕は、その時、自転車に乗っていましたので、自転車を球場横の43号線の高架下、神戸方面側の側道寄りに置き、車に乗りました。その後のことは、全く思い出せません。それから約1時間半後の午後1時13分に、僕は神戸市中央区京町筋の路上で転落死を遂げていたのです。
笠間は、この日の行動について、宮本検事につぎのように話しています。
「お示しの陳述書が、球団事務所に残っていた資料等を参考にして、私が平成10年8月31日の行動をまとめて記載した書面です。ここにあるように、私は、平成10年8月31日、朝の6時前に東京赤坂プリンスホテルをタクシーで出発し、東京駅から午前6時13分発の新幹線で新大阪駅に向かいました。
この時、バッティング捕手兼ブルペン捕手の西口が私に同行していました。なぜ、この日の朝に東京のホテルに泊まっていたかと申しますと、ちょうど、平成10年8月30日に、東京ドームで読売巨人軍相手のナイトゲームがあったからでした。ちなみに、この8月30日の試合は、当時在籍していた藪投手が先発し、今岡選手か桧山選手がホームランを打つなどして活躍して勝利したと覚えています。翌日の8月31日は移動日でしたので、本来は、ナインと一緒に昼前の新幹線で大阪に戻るはずでしたが、ちょうど8月31日の昼ころ、一軍の主力投手が甲子園球場で練習を行う予定になっていたので、広報担当だった私がそれに立ち会うため、ナインより早く、帰阪の途についたのです。私が平成10年8月31日昼に行われる一軍の主力投手の練習に立ち会うことは、当時の広報部長である本間勝さんに報告し、本間さんの了解を得ていました。
新幹線はこの日の午前9時10分ころに新大阪駅に着き、そこから普通電車に乗り継いで、午前9時40分ころJR甲子園口駅に着きました。それから、私は、持っていた阪神タクシーのチケットを利用して、西口と一緒にタクシーでそれぞれの自宅に帰りました。私の自宅は西宮市上大市、西口の自宅は、西宮市段上町にあって、それほど距離が離れておらず、先に私が降りて、西口にチケットを預けたと思います。自宅に戻ったのは、午前10時ころだったと思います。それから一休みして、私は、昼の12時から甲子園球場で予定されていた一軍投手の練習に立ち会うため、バイクに乗って自宅を出ました。
この日に甲子園球場で一軍の主力投手の練習があることは、前夜に各マスコミに連絡しており、スポーツ紙の記者やカメラマンがやってくることが分かっていましたので、その対応のために私が立ち会う必要があったのです。特に、甲子園球場の場合、記者やカメラマンが革靴等で芝にあがることが禁じられていましたので、それを注意するためにも広報担当が立ち会う必要がありました。
この日、私が甲子園球場に到着したのは、午前11時過ぎだったと思います。少しの間、甲子園球場のスタンド内野2階にある広報室で時間を潰した後、私は、昼の12時前にグラウンドに下りて、マスコミの対応をしました。この日に練習に出てきた一軍の投手は、前日好投してクールダウンを行う予定の藪投手のほか、当時、先発ローテーションに入っていた川尻投手、中込投手、山村投手と外国人のダリル・メイ投手の合計5人でした。一軍の主力投手が練習するため、投手コーチの福間さん、トレーニングコーチの続木さんも顔を出し、そのほかにトレーナーの猿木さん、常川さんも参加しました。また、メイが練習する関係で、通訳の丸本さんもグラウンドに来ました。練習は、だいたい2時間くらい続き、選手は遠投やダッシュなどを繰り返して調整をしていたと思います。
その間、私は、記者と歓談しつつ、記者やカメラマンが練習の邪魔にならないよう整理をしたり、福間コーチや選手への取材申し入れを受けたりしていました。そのうち、昼の2時ころに練習が終わりましたので、私は、シャワーを浴びてから、バイクで自宅に戻りました。甲子園球場を出発したのは、昼の2時半ころだったと思います。このように、私は、平成10年8月31日には、昼の12時ころから2時ころまでの間、甲子園球場で、一軍の主力投手の練習に立ち会っていました。この日の練習は、突発的なものではなく、以前から予定されていた主力投手の調整でしたし、ゲームがない日に甲子園球場でこうした練習が行われるのは珍しくなく、この日にこうした練習があったことは当時の新聞記事を見ていただければ、裏取りができると思います」
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横溝は、僕が、昔の八百長のことで脅迫されていたということを、僕が亡くなって2カ月くらい経過したころに、知ったわけです。それを知ったからかなのか、経緯はわかりませんが、それから1カ月後の平成10年12月12日、横溝のところに、見知らぬ男から電話があったそうです。その内容は、「渡辺と手を切れ!」というもので、横溝はその電話があってから、怯えるようになりました。僕から見て、あのころから、横溝は、誰かの言いなりになっている感じがします。
横溝は、その電話に怯え、事実をすぐに箱崎さんに申告しました。箱崎さんは、横溝の申告を受けて、僕の死の不審、つまり「事件性」を嗅ぎつけたようです。(文責:渡辺直子)
参考文献:「捜査報告書」(平成17年7月1日付け)(宮本健志検事から大坪弘道部長への報告書)
笠間雄二「供述調書」(平成17年5月9日付け)
末永正昭「供述調書」(平成17年5月16日付け)
横溝桂「供述調書」(平成17年5月16日付け)
阪神球団顧問弁護士作成の「告訴状」(平成15年2月21日付け)
渡辺直子「供述調書」(平成17年7月19日付け、平成17年7月20日付け)
「タイガースの生いたち」(松木謙冶郎著)