心 結 ‪˙˚ʚ💚ɞ˚˙ ここな

迷子にしたくない記憶のカケラを集めておく場所です。

ソ・ジソプの道 6

2012年03月29日 20時22分34秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




P151
:: 5番目のスケッチ

青春 ・ 情熱




P153
カンソン村 Gamsung Village

江原道華川郡ダモッリにある。くねくねとして狭い道に沿い登って行くと小さい村が出てくる。
最初は文人たちが来て文を書いたり休んでいくスペースとして作って地域の景気に役立てようという気持ちだった。
今は誰もが訪れこの村の村長さんであり小説家のイ・ウェス先生と温かい会話を分かち合うことができる。感性を充電するために365日休まずに人々が出入りする場所。こじんまりとした建築物が綺麗な自然と調和して素朴ながらも美しい景観を演出する。





P154
村の入口の散歩道を歩きながらきょろきょろと見回した。
カンソン村にのぼる道。
イ・ウェス先生に会いにゆく道だ。


あ、ここはいい!





P156
詩石林



この場所にはイ・ウェス先生の詩が記された詩碑の数々が道に沿って立っている。
文を書くということは孤独なことであるようだ。





P157
どんなに考えても私の若さは美しくなかった。





P158
先生がずっと前から関わって暮らした友達にまた会うことができる場所。
いきなり僕を抱きしめてくださった。





P159
“ソガンジが私に会うためにここまで訪ねて来たのに、なんで嬉しくないことか?”





P162
モンギョダン(童謡譚)にはチョウザメが住んでいる。


あそこ 一人の男が通り過ぎる。


私たちの池(蓮池)にはチョウザメが住んでいるといっても人はみな信じない。
みんなはチョウザメが海にだけ住んでいると思っているのだ。
だから私は“本当に私の家の池にいる。信じようが信じまいが。”という。


チョウザメは回遊魚だ。昔はハンガンにも住んでいた。
インチョンのそばの海からハンガンに産卵しに遡って来る。だから。


で、会ってみるとソ・ジソプ君にはチョウザメと同じような面があるようだ。
海に生きているようでも淡水に生きているチョウザメのように強い自生力を兼ねそえているみたいだからね。


簡単に傷つかない、そんな風に上手く武装する精神力も。


温室だけで育ったようではないという話だ。一言でいうと雑草だ。 なぜって?
植木鉢で育った気質の直物とは違う。
心はもろくて繊細であるとしても強靭な人間であるようだ。


チョウザメなんかは刃物もいらないと、


いい話でしょ、 先生?
刺されても血一滴もでない、そんな話はないでしょ?


刺されて血一滴も出ないことと、刃物でひり下ろしても鱗ひとつ落ちないこととは違いがあるということだ。二人の友だち。






P165
私は乞食だった。 ‘青年イ・ウェス’


文字そのも乞食だった。なに、それ以上でもそれ以下でもない。
チュンチョンで70年代の初めに歌喫茶店でDJをしていた。
ご主人が本当に良くしてくれた。軍隊に行って来てまたDJの仕事を始めたんだ。
だけど、これがまったく一人前の男がすることではないような思いがめぐった。
DJボックスの中でレコードの紹介をしながら“18番テーブル、ソン様、電話がきました”ということもしていたから。喫茶店を辞めたその時から野宿が始まった。駅の待合室で寝たり工場でボックスを積み上げて寝たり、毎日歯磨きをすることそれ自体が贅沢だったと目覚めたら、今日はどこで食糧を手に入れるかという問題が一番のポイント(鍵)だった。



野宿者たちには冬がいちばん耐えられないくらい辛い。冬になったらいちばんいいことは交番(派出所)のストーブ(暖炉)。もっといいことは裁判を受けて拘留処分を受けて監獄に入ることだ。戸籍に赤いライン(線)が引かれることくらいではなく8日間くらい拘留されたら最高だ。戸が閉められた店に石を投げてちょっと壊したり、通行禁止があったその季節の夜にぎゃあぎゃあ大声を出しながら通った。いつも捕まえられたらと思っていた季節だったから。もの凄く寒い日には防犯隊員たちも外に出て来ることもないので私たちを捕まえる人はいなかった。


4年から5年をそんな風に生きていた。生きること自体にこれ以上何の意欲がもてない時が来た。目覚めたらまだ死んではいなかったのかと思っていた。こんなことをしていたら死ぬだろう、こんなありさまでは死ぬだろう、死が常に目の前にチラついていた。


そうしているうちにチャンミ村に流れて行った。そこは暖かく見えたんだよ。
煉炭の火にあたりながら客引き行為をする女たちも最初は警戒していたけど、のちには出てきて親しくなり仕事に行くときには自分の部屋を貸してくれた。その部屋で身体を丸めて座り凄絶に文章を書いた。
そんな風に生まれた小説が『夢見る食物』だ。


貧困以外には思い出すものはないね。若かったときの私の話は無条件に飢餓だ。






P166
あるドラマーの話。


10年前だったが、
ソクチョで酒を飲みながら面白くもなくて酒も不味くて一人出てきて海を歩いていた。
ところが、一人の男が息せき切って私のところに走ってきたかと思うと、

“もしよかったら私と30分だけ話をしてもらえませんか?”と言うんだ。
何か事情がありそうだと喫茶店に入った。
どんな話が出てくるのか心配になった。






P167
この友達が言うには、自分はドラムで成功したいんだと、
ところが、ソクチョにはドラムもドラムの専門学校もなくて絶望的だということ。
どんなに切実だったかを道行く人を捕まえて自分の話を30分だけ聞いて欲しいと言ってはドラムの話をしていた。


君、私が誰か知っているのか、そういうと知らないって。
私は何をしてる人みたいか、そうしたら詩人みたいだって。
大抵は当たると思った。そして話てやっただろう。



毎日毎日、海に出て海の背を何度も叩けば?



その友達が後に軍隊に行ってもドラムが本当に叩きたくて脱営まで考えていたと言っていた。
それが今、ユン・ドンヒョンバンド(YB)のドラマー、キム・ジノンだ。
ユン・ドンヒョンがソクチョで公演をすると聞いて見に行くと。


あっ! この友達は本当に海を叩いていたんだよ!






P168
先生に会ったらぜったいに聞きたいことがあった。
小説家でいらっしゃるでしょう。なぜ文をお書きになるのですか?


そもそもお腹がすいた人がご飯を食べるじゃないか。
身体が空腹にならばひとまずご飯を食べるけれど
霊魂がよほど渇望したらその魂がお腹をすかせて文を書くんだ。
初めて乞食のように生きてたときお腹がとてもすいて書き始めたし。



僕も演技をするようになったとき、実は空腹に勝とう始めました。
今でこそ本当に演技に欲がありますが、
先生は今どうですか?



今も同じみたいだ。飢えている。
ツイッターで私のフォロー数が25万名だ。だけどもっと孤独なんだ。
慕ってくれる人がこんなに多いのになぜ孤独なのかと言う。
実際に25人の中での孤独と250人の中での孤独、
そして25万人の中での孤独を比べてみようとするなら数字が大きくなるほど更に大きな孤独に。
大衆に愛を受ける芸能人たちもその世界を完璧に理解してくれるファンに出会うことはないだろうと、
本当に自分が好きな俳優の魂や世界を理解するファンというのはほぼいない。
人々の関心の中にいるほど孤独だろう。だから書かないと。






P169
骨身に浸みて共感した。


すべてを出しているようだけど、実際は自分自身を孤独に閉じ込める運命につて考えた。


先生はあなたの意見をインターネットにはばかることなく書き記されている。
けれど、俳優や芸能人たちは先生と違う。
できるなら誤解を生む行動をしないように努力する。
それで先生のそんな勇気がすごく見えた。
僕たちは自然と枠を作りそこに閉じこもるって生きるようになる。
初めは他の人が作ってくれたシステムで活動し、少したったら自分自ら閉じこもる。
もう一度生まれてまたこの仕事をするなら
今の自分の姿のとおりにはしないと思うこともあった。



時には人々に誤解を受け、いつも堂々としているけれど
そのせいでさらに多くのあなたの孤独な心が私には分かるようだった。
本当に理解できた。



誰よりも孤独を知ることで人々を愛する道人(道士)のようにみえる人。



先生は普通の物書きではなく孤独もすべて受け入れた本物の文屋(文職人)だ。






P170
ソ・ジソプを見ていたら
不意に敏感に反抗する
‘力’が感じられるだろう。



変化が激しいようでありながら原則的で、
そんなさまざまな意外性を持つ俳優のようだ。
束縛をじつにもの凄く嫌う感じがする。
そのことは自由ということと直結しているものだ。
この社会はそんな面を実現的に受け入れできなくて
社会とはとにかく個性のない豆腐や菊花パンを作らなければならないなら
同じ種類の消耗品を作るのに汲々としただろう。
そんな面でみるとき君はこの社会が持つことができないものを持っているのだ。
そんな純粋さがある。

- 小説家 イ・ウェス 






P173
私たちの家で飼っているチンド犬のヤツが村に下りていった
ニワトリを20匹も噛み付いて殺してしまったことがあった。
妻が病院にいるときだった。
電話をかけた。
妻にこのことをどう話したらいいのか考えながら一部始終を話した。



すると、うちの奥さんいわく、


“犬がニワトリを噛んだのでしょう。ニワトリが犬を噛むのを見たのですか?”
ニワトリが犬を噛んで殺したのならともかく、犬がニワトリを噛んで殺すのは事件でもなんでもない。
ニワトリの代金を聞いて渡して、犬は縛っておいてください。”






P174
彼は小説を書く前まで画家志望生だった。
貧乏でいつもいちばん安物の紙に絵を描いていた。
誰かが高い道具をくれたらぎこちなくて絵を描けなかった。
だから今も学生たちが習作用に使う木炭でも
割り箸のような道具で絵を描くのが気楽だという。






P176
私は小説家だ。



貧乏と飢餓に苦しみながら彷徨ったという当時の‘青年イ・ウェス’を
再び打ち立てることは‘無計画に書く力’だ。
個性が強い問題と独特の精神世界で‘小説家イ・ウェス’をこえて‘奇人’‘エイリアンと通信する人’というような名前で呼ばれることにもなった。ツイッターでかず多くのリツイート者を従えれば、
この時代の聴衆たちの疎通と情熱に対してメッセージを伝える。


小説や散文集などを活発に執筆することはもちろん、
瞑想を終えた次には息つく暇もなく一気に描く絵で数回の招待展を開いた。
もうひとつ、ラジオ進行やシットコムの出演、カンソン村の村長兼ヤマメ祭広報大使を担当するなど、多様な活動をしている。


店に例えるなら‘専門店’ではないと自らいうイ・ウェス先生。
百貨店(デパート)くらいにはなると気乗りなくいう。
自身の活動を道に外れていると規定する人々に
手打ちうどんの店ですいとんを売ると道を外れたことになるのかと返って質問を投じる。
ある志操を固く守らなければならないことみたいに1種類だけに固執する必要はないという話だ。
能力があるなら、やりたいのであれば、すべて出来ることではないかという。
彼の話題は今を生きる若い人々に意味するところが大きい。
それでも彼が主張できるものは小説だという。
これまでしてきたことで生涯をかけて命と引き換えにしても惜しくないと思えるものが彼には結局、
小説だということだ。


ただ、挑戦する人生は常に新鮮だ。
何かに挑戦するときさらに大切なものが
何であるか探すことができると‘小説家イ・ウェス’はいう。






P180
イ・ウェス先生は僕が雑草だからいいとおっしゃった。
孤独も、苦労も、痛みに耐え抜くことが、何もかも知らない温室の中の雑草のような人は
どういうわけか言葉を交わすことが大変だと。
なんの準備もなく何も考えずに訪ねて来る僕を前にして
‘親友’だとおっしゃる先生は私たちは‘雑草’だから良く通じるんだと。






P181
どうやら‘雑草’という言葉が僕によく合っているようだ。






P182
こんな愛らしいあなたを見たことがないような気がする。
絵に僕の名前がないね、先生?


書いてください。




このTシャツ、どうしようか。もったいなくて洗濯もできないな……….。
子供たちへ代々譲り渡すように額縁にちゃんと入れておかないと。






P183
-画中文-
根性あるガンジクジラ
2010.7.14.
ソガンジ ソ・ジソプ殿
カンソン村 入村記念.







P184
必要なものがあったら電話をして。旅する。
詰まることがあったら話して、たびたび遊びにくる。



先生は僕を‘親友’だとおっしゃった。



この写真はつまり、 親友認定証ショットだ。






P186
心から心へ



世代をこえてさまざまな人たちと通じ合う先生を見ていたら羨ましくもなる。
一度、僕の枠(型)をぶち壊して先生のように僕自身をオープンにしようとしてみたこともあったけど、
まわりの人たちやファンたちはそんな僕をかえってぎこちなく受け入れてくれた。


主に話を聞くことに才能がある僕は、僕の話をすることより聞く方をより多く選択することになる。
だから友だちたちは僕に会うと心の中にある言葉をすべて話したりする。
だけど本来、僕は言葉数が少ない。多くの人たちはそんな僕を重苦しくて難しいと思っていた。
時には誤解を招くことや非難を受けることもあった。


今の僕は自然に、少しずつ変わっている。
やり方を体得しているのだ。


心から心へ焦ることなくゆっくりと流れてゆくように。






P188
Sketchbook






P189
髭の生えた幼い子供の姿をした芸術家に出会った。
僕はどんな姿で年齢を重ねてゆくのか・・・・・・・・・。






P190
Dnsicndd:ldd:l
So Ji・Sub.

Dlnz, 蛇の頭には
忘れられてゆくもの、 残したいもの、
美しい者には
深い霧、雲、森
草波、花々...
  
- トゥシッアンティティ