心 結 ‪˙˚ʚ💚ɞ˚˙ ここな

迷子にしたくない記憶のカケラを集めておく場所です。

^ↀᴥↀ^

2023年07月13日 03時58分40秒 | 雑記
ジェジュンさんちのneneちゃん💚

すご~く久しぶりに…

2023年05月14日 18時55分00秒 | 雑記

来てみたら
やっぱりテンプレ変えられてた

そうだよね、そうだよねー




記事ったって書くことないんよ
ホントに


しゃ~ないから写真貼っていくわ












悲しい出来事

2018年01月29日 00時04分36秒 | 雑記



去る2017年12月18日、
突然この世から去って行ってしまった
SHINEEのジョンヒョンくん

突然、本当に突然に舞い込んできたこの情報に
呆然とするしかなく…

正直、ファンではありませんでしたが
以外にもダメージが大きくて涙が溢れ…

このひとつき余り
さまざまな記事を読んでいくうちに
彼が葛藤や苦しみのなかで
なぜそうした選択をしたのか
ほんの少しわかったような…
結局のところ
そうすることでしか苦しみから解放される術が
なかった…ということなんでしょう

彼がこの世を去って行ってしまってから
彼が残していった作品をほぼ毎日聴いてきた
この24日には
最後の作品となってしまったアルバムも発売された
素直に良いアルバムだと思いました
この先彼の作る作品は永遠にないんだと思うと
それだけは心から残念に思います

彼が行ってしまってから空を見上げることが増えました
というか
何かあるたびに空に向かって話しかけてしまうんです

後悔はしていないよね?
大丈夫なんだよね?

お互いにまた生まれ変わっても
すぐには無理かもしれないけれど
いつかまたきっと逢いましょうね
その時までしばらくの間あんにょん

君は本当に一生懸命だったよね
よく頑張ったと思います
お疲れさまでした
ありがとう







君がこの世を去って行ってもうすぐ49日ですね
ついに…本当に君を送り出さないとですよね
またのその日のために今はゆっくりと休んでね




合掌















サクラ咲く

2013年05月18日 07時31分44秒 | 雑記





待ちくたびれた感いっぱい‼

やっと咲いた。

昨日、桜前線が最北端へ到達したそう…

観測史上三番目だったかな?

遅かったそうな…

街が少しづつ桜色に染まりだして華やかに。

桜花を見るだけで心が騒ぐのはなぜなんだろか?












もっと簡単に

2013年05月15日 14時22分22秒 | 雑記


もっと気軽に

記事投稿

アプリ使ってみることにしました

(^_^)v

if...

2013年05月15日 13時59分16秒 | 雑記



ときどき思うんです

もしもあの日あの時に他の選択をしていたら

今の自分はどんな風なんだろう… と

後悔しているんじゃないんです

ただ他の選択をした自分を見てみたい… というか


























あらら~

2012年10月08日 22時38分27秒 | 雑記



しばらくご無沙汰してたらテンプレが・・・

なんかめんどくさいぞ。

ソ・ジソプの道 9

2012年05月09日 20時14分38秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。





p.275
::8番目のスケッチ



    和解、  人






p.276
乙支(ウルジ)展望台  Eulji Obeyr atory.


北方を見渡せば北韓国(北朝鮮)の哨所と畑が見えた。
晴れ渡るに日は金剛山毘盧峰(クムガンサンピロボン)とイルチュル峰のように主要な峰なども見ることができる。非武装地帯南方限界線から最も近いところに位置する展望台だからだ。
戦争当時、熾烈な激戦地だったというこの場所は今も軍人たちが展望台周辺を守っている。
展望台の下にはパンチボール村がある。外国人従軍記者がここから眺めた姿が花菜器のように見えるからといって付けた名前だ。







p.280
加七峰(カチルボン)にある乙支(ウルジ)展望台に来た。金剛山(クムガンサン)の最初がイルマニチョン峰になるならば、最後はボンウリから加七峰(カチルボン)に入らなければならないという。
忙しくスケッチをするパク・ジェドン先生の横に座ってパンチボール村を眺めた。


この場所を旅しながら感じる思いの数々を簡単に整理できなかった。
ひっそりとして平和であること極まりない村や海辺、澄んで美しい自然、汚れることない多くのものがこの場所を作り上げた。
戦争が残していった傷と悲しみのせいで、こんなに美しい場所を眺めているのにただ感嘆してばかりいられない現実が重く感じられた。



あれ、遠くに 鳥が飛んでいる……….。







p.282
昭陽(ソヤン)湖

江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)と楊口(ヤング)、麟蹄(インジェ)を結ぶ韓国最大の人口湖だ。
1973年、東洋最大のダムだという昭陽江(ソヤンガン)ダムを作るのと同時にできた。
面積と貯水量のすべてが韓国最大なので‘内陸の海’と呼ばれている。







p.285
ずっと前、釣りを楽しんだときに何度か乗ってみた丸木舟に久しぶりに乗った。
船が騒がしい音を出しながら流れをかき分けて進むのだが案外と速い。
立っていたらややもすると重心を失って落ちそうだ。大人しく座っていなきゃ。


“ 行って来るね ! ”


手を振ってみた。
大物を釣ることはないけれど、この小さな船に何でも積んで来たい。


それは清涼な空気や風だけでもいい。







p.286
先生、頭の上に
吹き出しがついているみたい。

僕がどんな考えを
しているか
一度、当ててみて。







p.287
ここへ来る道
よくやったという思い。

はずれ。
僕は今、お腹がすいた。








p.288
私の父は青年時代、韓国戦争を経験した。

インターネットや電話、夢も見られなかった時代だから、通信手段というもの自体が滅多になかった。
だから、南の小さな田舎町に住んでいた人々は国で戦争が起こったことも知らないままのんびりと暮らしていた。
ある日、光復節記念行事を見るために多くの人々が集まっていた。
突然、軍人が押し寄せて若くて血気盛んな男たちを選び、大きなトラックに乗せて消え去った。
戦争の真っ最中なのに南の人々はその事実をまったく知らなかったと、
国では死傷者が生じて軍人の数が不足して以来、強制徴兵をしたようだ。
父も徴兵され彼らの中にいた。戦争に出て行った父の小隊はほぼ全滅してしまった。
父はひとりで生き残り、その場所がどこなのか方向も分からない場所から家を探し出した。
あてもなく歩き、お腹がすいたら戦争で廃墟になった家に入って塩や味噌を付けて食べながら持ち堪えた。
1ヶ月程で家を探しあてた。死んだと思われてばかりいた彼が、骸骨のように痩せた姿で戻ってくるや町中の人々すべてが驚いた。

戦争の悪夢を消しながら暮らしていた中、また令状が舞い込んだ。
参戦を照明する書類のようなものがないこともあり、あがき反抗してみたが効果がなかった。
結局、私の父は軍隊に二度も行くことになった。
悔しいはずなのに、父は生きて帰ってこられたことだけでも感謝したという。

- 時事漫画家 パク・ジェドン

* 光復節 / 1945年8月15日、朝鮮が日本の支配から解放され主権を回復したことを記念する韓国の祝日。ちなみに、朝鮮民主主義人民共和国ではこの日を「開放記念日」(祝日)としている。





素敵な白髪のパク・ジェドン先生は我が国の時事漫画の叔父のようだ。
寸鉄殺の時事漫評から温かな視線で描き出す普通の人々の顔まで、
彼の絵は、鋭いながらも決して人間に対する愛情を忘れない。
彼は‘時事漫画の代父’‘パク・ジェドン画伯’のような名前で呼ばれることより‘漫画家パク・ジェドン’がいいという。
子供たちが家に帰ることが嫌になるほど面白い学校を夢見た。
世の中のすべてのものが彼のモデルだという。通勤する時も地下鉄の中でスケッチすることを止めることはなかった。
みんな、いつパク・ジェドン先生のモデルになるか分からないから緊張することだ。



私は出勤の道にあちこち目が留まるように絵を描く。
路地でも地下鉄でも
絵を描きながら対象と対話することによって仲良くなり物事を大切に思い、
結局は愛することになる。
絵を描くことは対象を愛するということだ。
なんでも少しずつ、そうしたらみんな絵になって、そんな時は私がミダスの手になるのかという気持ちにを抱くこともあるが、事実は物事じたいが元々、黄金だったということだ。

- パク・ジェドン 『 人生漫画 』 から

* 寸鉄殺 / 短い言葉で相手の欠点を鋭く批判すること。 


現在は韓国芸術総合大学で学生たちを教えているパク・ジェドン先生は、誰より漫画が持つ力を信じて漫画の中の吹き出しのように面白い世の中を作るために絵を描き続けている。







p.290
あの..... どんな風にしましょうか?  頭をこんな風に回しますか?


カメラの前に立つ時とはまた違う気分でぎこちなくてそわそわする。
絵を描く間、じっと僕をみつめる先生の視線が、自分のすべてを見透かしているようだ。

独特な観点で世の中を見て、さらにそれを表現することができる先生が羨ましい。
絵や文章で考えと感情を表現するということは本当に凄い。
僕は自分の気持ちを言葉でも表現できないときが多いのに。

会った瞬間から今まで一度もペンと紙を肌身離さずに絶え間なくスケッチをされていた。
先生が物事と世の中を見る目は少し違っているようだ。
絵については良く分からないけれど、先生が描く絵には温かみが感じられる。
どんな人でも先生の絵に収められる顔は目にみえて穏やかな姿をしている。




思えば、それが愛だ。




世の中のものすべてに対しての愛と感心、そして頑張れという応援ではないだろうか?







p.291
スターとしての生活というものは、華やかだけれど孤独じゃないか。
僕もそうです。 対話する時間が
ないのです。 だけど僕は、
もっと仕事が好きです。



画中)  ソヤン湖でのソ・ジソプ 
チェドン 10.7







p.293
はっきりしない空だ。







p.297
気持ちがすっと晴れるようだ。
そうじゃないか、   ソ君?







p.300
あの中で私たちを待っているものは






p.301
何か......







P302
大厳山 龍沼(デアムサン、ヨンヌプ)  Yong Swamp of Daeam Mountain


大厳山(デアムサン)は‘大きな岩山’という意味で、車で上ってもかなり際どく感じられるほど山の地形が非常に険しい。
韓国戦争時代、熾烈な激戦が繰り広げられたこともあったという大厳山(デアムサン)の山頂には‘龍が空へ昇る途中で休んで行く場所’と呼ばれる龍沼(ヨンヌプ)がある。
龍沼(ヨンヌプ)は南韓国(韓国)で唯一、山の頂上に形成される高層の湿原で、もう4000余年前にできて環境部の保護を受けている。
世の中と断絶したまま長い時間を持ち堪えて巨大な原生林と同じ姿を呈する。







p.307
歳をとったらの話だ。 本当に楽しい。
こんな不思議な場所に来たら調子に乗って踊りを踊らないことはないじゃないか。
ジソプのように若い年齢にはたぶん私のようにはできないだろう。
若い友達たちが私のようにどの場所でもダンスしながら熱狂するという声も聞くだろうが、
私のように歳を食った人間が興に乗って踊ったら、
“あぁ、あの老人は気分が良いのだな。”と思うのではないかと。


歳を食うこと、こんなに楽しいことはない。


- 時事漫画家 パク・ジェドン







p.311
大厳山龍沼(デアムサンヨンヌプ)のソ・ジソプ   チェドン  10.7  (画中)







p.316
湿地の湿っぽい風と霧の中、真ん中に立っている。
吹いてくる風に目を開けるのも大変だ。身体が押されて倒れそうに風が強い。

全身を風にゆだねたまま立って目を閉じてみる。


今、この世界には僕一人きり、全世界がぜんぶ自分のものみたいだ。

し 、 あ 、 わ 、 せ 、 だ。







p.319
沼は背丈が凄く伸びてしまった草などですべて占領されてしまっていた。
草などはぜんぶ風の方向に身を横たえていた。
龍が這って通り過ぎた跡のようだ。
力強い草らを押し分けて歩くけれど道がよく見えない。
足が水に嵌まったり頑丈な草の根みたいなものに引っかかったりもした。
しかし、そこにははっきりと道があった。








p.322
ここへまた来られるだろうか ……… 。
心残りだ。






p.327
うしろを振り返ってみる。
やって来た道であり、うっそうとした草と木などは霧に消されたまま見えなかった。
先生は立ち止まり、案外に低い声でおっしゃった。


“今見れば、私たちは何もない場所へ来たのだね......”








p.329
これからまた、
どんな道が僕を待っているのだろうか?








p.330
江原道(カンウォンド) 麟蹄郡(インセムン) 大厳山(デアムサン)
龍沼(ヨンヌプ)に咲く高いやつ
チェドン    (画中)








p.331
Epilogue
 
今回の作業は、江原道(カンウォンド)の深い場所、民間人の出入りが統制されているその場所に旅行できたというときめきで始めました。戦争が残してくれたこの特別な空間が気がかりでもありました。さらにまた、作品の中でキャラクターになり演技者で見せているソ・ジソプとは少し違った僕の姿を見せることができる機会になるという思いもありました。過ぎてみれば、その尊い時間は僕が自分にもっと迫る中で僕を覗き見ることができた変わった作品であると同時にプレゼントのような休息になったようです。

少し知っているか、あるいは生涯知らずに生きる大切な方々と良い思い出を分かち合ってきました。

この方々と何も意識することなく笑ったり、気になったことはいつでも気楽に聞きながら、さらに人見知りにも勝ちました。 かなり楽しくてなかなかいい経験ができました。短かったけれど長く余韻が残るこの尊い時間は僕を幸せにするようです。今回の作品に参加してくださいましたすべてのゲストの方々と苦労をしてくださったスタッフの皆さんたちにも楽しい思い出になりましたことを願います。
寸鉄殺人漫画家のパク・ジェドン先生、多くの客食口(ケッシックドゥル/居候たち)の夕飯まで準備してくださったカンソン村の村長のイ・ウェス先生、芸術は他の人の悩みを代行することと教えてくださったイ・ウンジョン作家、僕らのものの素敵さを守ってくださるチェ・ミョンウクデザイナー、湖畔鳥(火の鳥)のように活気あってかっこいい鳥博士チョン・ダミさん、雨降る高速道路を長々4時間かけて走らせて来てくださったアーチスト、ティシク&ティルティルのカップル、そして疲れを微塵に砕き、とても忙しい時間を割いてくださったタイガーJK兄貴にありがとうと言いたいです。

暑かったり雨が降ったり鬱陶しい天気にもかかわらず、現場で苦労してくれたすべてのスタッフの方々と空、海、鳥、名前も分からない花と草、そしてこの本を読んでくれたあなたに感謝します。

ソ・ジソプ















ソ・ジソプの道 8

2012年04月22日 17時34分08秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




p233

:: 7番目のスケッチ

 私たちのこと、僕のこと、





p234

破盧(パロ)湖 Lake Paro.

破盧(パロ)湖という名前は‘蛮人【中国東北地方に居住した女真族】を打ち破った湖’という意味であり、イ・スンマン大統領が直々につけた。
穏やかに見えるこの場所、湖には恐ろしい物語が伝えられている。
韓国戦争当時、花川(ファチョン)戦闘で我が軍が大勝利して有利に終えたのに、この湖だけで数万名もの中共(中国)軍が水葬されたという。


物語とは関係なくアオサギと真鶴らが飛来して湖の景観と調和する。







p238

無雑作にのばしたような髪の毛がかっこいい。
空も湖も残らず曇ってきたせいで濁って見える午後、チェ・ミョンウク先生に会った。
彼の服装をみると、やはり彼は非凡なファッションデザイナーだという気がする。







p241

“ネックレスを用意したけど気に入ってくれるかわからない。”


“プレゼントされるのはいつも気分がいいこと。”


嬉しくて笑顔になる。




“これは鳥の模様なんだけど、まるで向こうの竿のひとつについているほうきだね。
ネックレスをあの竿に上げたらよく似合う。
村の悪鬼を追い払って良い事を起こさせるようにする竿じゃない?。”




竿には悪いけど、
先生からプレゼントしてもらったネックレスが気に入った。
そこへ置いてくることはできなかった。







p243

平和な湖の背後には低い山々が連なっている。山を背にして大小さまざまに集まっている家が見える。
人影(人跡)がまばらな湖の周辺にはアシや雑草などが人の背丈ほどに伸びている。


静かすぎてわびしい気持ちになる。








p244

消色(色消し)という単語、ご存知ですか? 消色の語源を探してみると‘元来そのままの色’です。
ややアイボリーカラーに近いといえば簡単でしょうか?
粗織りの木綿(廣木)をご存知でしょ? 木花(綿のわた)、綿(木綿)を抜き取る木花が花を咲かせたら綿と同じものになるけれど、それがやや黄色いこともあったりシミもあるのにすごく真っ白じゃないですか。私は消色がいちばん自然に近い色ではないかと思います。


ソ・ジソプ、 消色。
何かが通じるようでしょ?


- ファッションデザイナー チェ・ミョンウク








p249

コモク橋  Kkeomeok Bridge.


赤い鉄筋の上に木を連結した橋で、花川(ファチョン)ダムが作られた1945年に共に作られた。今年で65歳。解放前に日帝(日本帝国)が基礎を作り、韓国戦争中にソ連軍が橋脚を架けながら休戦後に花川(ファチョン)軍が上に板を置いた。木で作った上の板に黒いコールタールを塗り‘コモク橋’と呼ばれて韓国戦争から現在まで険しい歳月をよく耐え抜いた。
雄壮な姿は単純ながらも妙な雰囲気を演出し、数多くの映画、ドラマの撮影場所になることになった。







p253

服を上手く着こなすにはどうしなければいけませんか。 先生?


服を元々上手く着ていて私よりずっとよく知られているみたいだけど?
ファッションニストで知られているじゃないか、ソ・ジソプ氏は。


これはただ僕が着たいままに着ています。
雰囲気に合わせようと努力することはする、でも普段は気楽に。
そんな感じです。


重要なことは自分スタイルを獲得するまで着てみることだろう。
似合っているのもは自分が好きなものだと思います。
鏡を見て自分自身が良く見えればそれがまさにかっこいいということだろう。
過度であったり足りなかったりするとそれを補おうとして何度も足していくと非常に人為的な味になるでしょう。
‘丁度’を保てば自分だけの味となるでしょう。


ソ・ジソプ氏は自然でありながら格式に偏らないどれも素敵な、
そんな感じの服がよく似合うようです。








p255

念願の鐘  The Desire Bell.


平和のダムの上部に位置する‘世界平和の鐘公園’にある。
木で作られているこの鐘は音が出ることはない。
南北分断の現実を表す沈黙の鐘だからだ。
公園にある鐘は全部で3個、念願の鐘と世界平和の鐘、そして心の鐘がある。
心の鐘は統一を願う人々の心の中にだけ鳴り響くという。
その形を作っておかなかった。


念願の鐘が沈黙を破り、遠く響き渡り広がっていくことを願った。








p257

木で作られた念願の鐘はこんな風に設置されて吊るされていた。
手を伸ばしてなでてみた。僕の念願について思った。


胸が熱く湧き上がるときがある。


ソ・ジソプではない作品の中の役になるときに感じるカタルシス、
もちろん100%‘その人’になることはない。
完璧にその人になるというのは嘘だ。
だけど、演技をしながらその役をする人になるとき、
僕にあんな顔が、あんな姿があったのかとドキッとするときがある。
そんな姿を発見しつづけたい。


俳優として生きたい。


俳優ソ・ジソプ、 そうであったらいい。





身体にいちばん有益な服を作るデザイナー、チェ・ミョンウク。



彼はいちばん韓国的なもの、いちばん自然に近い服について愛情を見せてくれる人であるのかもしれない。


彼は‘あの草木の葉を摘んで染めたら草木(緑)色の布地ができ、泥水に生地を漬けておけば土の色彩がでてくるもの。それが天然染色’だと言いながら、大変なことが多いという事実を知るきっかけになった。
子供がアトピーで苦しむ姿を見たら何かをしなければいけないという気がした。人に害にならない、そのくせ自然にも有益な服を作ろうと思った。


環境にやさしいブランド‘イセ(I sae)’のアートデレクターで活動している彼は、近ごろ染色にすっかりはまっている。
どんなに人里はなれた場所でも田舎には農業を営み、畑の草取りをして自分の服を手際よく染色して着ていらっしゃる方々が多い。
やはり人の芸術的感性は生まれつきだという話だ。
その方たちは厳しい環境で生まれて食べて暮らすという問題から他のことをするものでしょう。
生まれ持った感性はすでに芸術家だ。
田舎の人里はなれた場所に訪れてその方たちの生地を使用しているのを見ました。
その方たちは生地とも言わず布の切れ端だとおっしゃいます。
‘私の布の切れ端を来て見なさい。’こうでしょう。
私はその方たちの布の端切れでドリスヴァンノートンのプリント以上のものを見ました。
その感性というものは生涯、生まれてから死ぬまで隠すことはできないものです。
それをそのまま真似することはできませんがたくさん学びたい。”








p265

“自分がデザインする衣装が海外でよい反応をうければ気分はいい。だけど、私たちは彼らが望んでいる‘韓国的なデザイン’というものを誤解しているのかもしれない。デザインを置いて私がある実験をしたとき、彼らが自然に受け入れるもの等は‘韓国的’という名前に閉じ込める意味がなかったからです。コリアン、韓国ということではない、ただそれ自体が私たちに見せてくれるエナジーです。彼らには大きな何かがあるんだろう、素晴らしいもの等があるのだろう、という感じなのでしょう。それは韓国、それ自体の精神ではないだろうか?


私の夢は果てしなく大きい。私は服を作る人として服をもって世界一になりたいということは当たり前です。だから私が持っている長所を考えるようになりましたが、私が持っているものはやはり、私は韓国で生まれて韓国人として韓国でインスピレーションを受け、韓国で受けたすべてのことで服を作っているという事実、正にそれです。
そのことが私の経済力でしょう。


もうひとつは韓国的なデザイン、トラディショナル、そんなこと等を衣装に接続させることの他に、もう少し具体的なことをしたい。
私たちの国だけではなく世界でパブリックに活用するファッションであり、‘ラグランスリーブ’、日本の‘着物スリーブ’と同じ用語のような、そこに韓国語のファッションの公用語を上げたい。
簡単にいうとコリアンルックだろう。衣装を学ぶ人たちが‘あ、こんなものもあるんだな’と関心するくらい世界ファッションのパブリックを作るために努力したい。


チョゴリスリーブ、こんな名前、どうでしょう?








p266

世界平和の鐘  The World Peace Bell.


紛争の歴史を経たことや紛争中の60年余り、国家が4年間で蓄えた薬きょう1万貫(37.5トン)で製作した鐘だ。
鐘の一番高いところに装飾されているハト4羽の翼のひとつが切断されていた。
そばに翼だけが展示されているが、統一になったときやっとハトの姿が完成されるという。


鐘を鳴らした。 ずっしりと重い鐘の音がとても悲しく響き渡った。








p269

鐘を鳴らした後、鐘から音になって出てくる振動を感じてみてという
ガイドの言葉に 鐘本体の内側に手を持っていって当てる。








p271

温かくもあり、また悲しくもある

妙な響き。








p273

飛びたければ飛べ、

人々の目を避けて。














ソ・ジソプの道 7

2012年04月08日 01時28分54秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




P191
::6番目のスケッチ


  記憶、残したいこと、






P192
ティルティルと
                  トゥシク +







P193
                   ジソプ =







P196
ティルティルとトゥシク、そしてジソプの物語







p199
トゥタ淵  Duta Pond


民間人統制区域の中にある金剛山へ通じる辻にあるが、
過去50余年間、出入りを統制し自然生態観光コースが開発されると同時に
制限的に出入りができるようになった。

自然そのままの生態が上手く保存してあり、山形が整っていて美しく、
岩々が屏風で囲まれたように威厳をもって立っている。
岩壁にある小さな穴には何かが住んでいるのではないかという想像をかきたてる。



僕たちは今、朝鮮半島の東西南北すべての生態系が交差する地点、トゥタ淵に立っている。






p203
雨の降る日は不思議と気分がいい。ただその感じが好き。
雨の音や雨のにおいのようなものが ・・・・・・・・・。
今より若いころは雨さえ降っていれば焼酎一杯飲むために出かけたりした。
屋台の屋根の上に落ちる雨粒の音を聞いているといっそう心細くなったりすることもあった。



あてもなく誰かを本当にたくさん待った。
泣きながらお母さんを待っていた記憶、
片思いした女の子がいつ来るかも分からずに地下鉄で、さらに彼女の家の前で、
一日中落ち着かなかった記憶。


今は5分だけ遅れても電話をできる時代になったのに、
それでも僕は今も待つことをよくする。




今日会う人たちはどんな友達だろうか?







p205
トゥシクとティルティルが来た。







p207
こんな美しい道の一面に地雷。
立ち止まってしばらくあたりを見回す。






p209
チョンチョンチョン

何も話さずに歩いているのにただ楽しかった。
1回ごとに後ろを振り返えれば互いの表情だけはいきいきと。







P210
ソ・ジソプ| したいことをして生きていれば現実と妥協することも起らないでしょ?


ティルティル| 妥協しなければならないとき、だんだん多くなっているでしょ。
したくないことを暮らしのためにしなければならない時もあったりして、
そうでも、妥協は僕がしてトゥシクにはしたいことだけさせるようにするつもりです。
トゥシクが持つ夢を守ってあげたい、だから妥協のようなことは僕がみなするつもりです。





トゥシクとティルティル dusicnddilddil


イ・コウンとイ・ジョンホンが出会いトゥシクとティルティルができた。
2003年からイラストレーションを基礎にグラフィックデザイン、写真、映像、アニメーション、インテリアなど美術に関連するさまざまな分野で活動をしている。絵画や写真の展示活動もこつこつと企画してさまざまな試みをしている。


何も考えずに歩き回りながら発見する美しいものたち、偶然であるのがいい。
人が作った環境に動物たちがいるととても申し訳ない気持ちになる。
ティルティルを無視してトゥシクだけになつく子犬ステチと一緒に暮らしている。

誰にも邪魔されない彼らだけの城を作ることがトゥシクとティルティルの夢だ。
その中で、二人で作業してご飯も作って食べて木も育てたい。
最初に持った気持ちと価値観、信念を維持してその中で夢を見て愛したい。

                            www.dusicnddilddil.com






トゥシク| 私たちは二人とも不足な点が多いけど、一緒にいれば私の不足な点をティルティルが補ってくれて、同じくティルティルの不足な点は私が補って上げることができるからいい。
一人では怖くて心配でも一緒にすれば何でも上手くできるような気持ちになります。
これまでさまざまな作業をすることができたのも二人だったから可能だったのでしょう。


ティルティル| 僕は決定を上手く下せなくてたくさん迷う方だけど、トゥシクはきっぱりと決定しててきぱきと上手く進行する。推進力があまりに強いようなら時々、私が収拾することが多くなるけれども、それでもトゥシクが言って始めたことはみな上手くいきました。大部分はトゥシクだけを撮っているけど、ほかの誰かを撮るのは本当に久しぶりです。



ジソプ| トゥシクさんとティルティルさんみたいな人に会うとは本当に不思議だ。
自由な魂、あるいは四次元、ただ、そんな言葉ではすべてを表現できない。
トゥシクエンティルティルのように暮らすのもありかな、という気になった。
したいこととしなければならないことを思い違いしながら生きる人が多いのに、
したいことだけをしながら、そのことも生涯共にできる人と一緒に絵を描くことができる
というのは・・・・・・・・・ うらやましいな。







P219
記憶したい日(覚えておきたい日)







P220
この場所、トゥタ淵には一級水だけに生息しているという熱目魚(和名:コチマス ヨルメギ / レノックというアジア大陸原産のサケ科魚類で天然記念物。日本には生息していないイワナの一種)を見ることができる。
晴れた日には天然記念物のカモシカも簡単に見ることもできるが雨が降ったからか、今日は見えない。


川の水に沿って泳ぎ、茂みに沿って歩くすべての場所がみな野生動物の棲家だ。
自然の中に境界というものを初めからおくことなく暮らす動物たち。
魚やカモシカのような動物たちはここまでが自分の領土、
あそこからは君たちの領土、こういった概念もないはずだ。


こんな美しい場所もひとつずつ開放されていくが、
多くの人たちが来て休息するのは良いけれど、それだけひとつずつ変わっていくのかと思うと内心は心配になる。







P221
“今、どこを見ているの? 僕にもちょっと見せて!”







P223
霧が深いのでメガネをかけたみたいに世界がぼやける。
どうやって見ろというのだ。







P225
“トゥタ淵に通じる道でキジの家族を見た。
道路の端にキジが一羽出てきたり途中で止めたり首を出しいる気配に避けて行けばいいのにと思いました。

もう一度見るとキジの後ろに子供が七羽くらいいるのです。
メス親がいつ渡ればいいのかと思って、いったん出てきて様子をうかがっていたみたいです。


トゥシクエンティルティルが見たというキジの家族の話だ。







P227
童話にも出てきそうな神秘的なカモシカ。
美しいながらも強く見える姿が彼に似ている。








P228
何をそんなに書いているの?


ただ、可愛いものを見たら描いておきたくなります。
幼かったとき、両親が撮ってくれた写真を見て連鎖で絵を描くことがあります。
その写真を見て写真とまったく同じに描くのではなく、私の中に残っているイメージと感性そのままを表現しようと思います。
幼い時代がとても懐かしく思えて、そんな記憶を整理したくて絵を続けて描いていました。



面白いね、題目はなに?


思い浮かぶままに“とんとん”としました。


とんとん?


水面に木の葉がとんとん浮かんでいる感じがして、そんな風につけてみましたが、
ただ、意味はいろいろです。








P230
Sketch book








P231
妙:一人の友達が奇妙に写った。
























ソ・ジソプの道 6

2012年03月29日 20時22分34秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




P151
:: 5番目のスケッチ

青春 ・ 情熱




P153
カンソン村 Gamsung Village

江原道華川郡ダモッリにある。くねくねとして狭い道に沿い登って行くと小さい村が出てくる。
最初は文人たちが来て文を書いたり休んでいくスペースとして作って地域の景気に役立てようという気持ちだった。
今は誰もが訪れこの村の村長さんであり小説家のイ・ウェス先生と温かい会話を分かち合うことができる。感性を充電するために365日休まずに人々が出入りする場所。こじんまりとした建築物が綺麗な自然と調和して素朴ながらも美しい景観を演出する。





P154
村の入口の散歩道を歩きながらきょろきょろと見回した。
カンソン村にのぼる道。
イ・ウェス先生に会いにゆく道だ。


あ、ここはいい!





P156
詩石林



この場所にはイ・ウェス先生の詩が記された詩碑の数々が道に沿って立っている。
文を書くということは孤独なことであるようだ。





P157
どんなに考えても私の若さは美しくなかった。





P158
先生がずっと前から関わって暮らした友達にまた会うことができる場所。
いきなり僕を抱きしめてくださった。





P159
“ソガンジが私に会うためにここまで訪ねて来たのに、なんで嬉しくないことか?”





P162
モンギョダン(童謡譚)にはチョウザメが住んでいる。


あそこ 一人の男が通り過ぎる。


私たちの池(蓮池)にはチョウザメが住んでいるといっても人はみな信じない。
みんなはチョウザメが海にだけ住んでいると思っているのだ。
だから私は“本当に私の家の池にいる。信じようが信じまいが。”という。


チョウザメは回遊魚だ。昔はハンガンにも住んでいた。
インチョンのそばの海からハンガンに産卵しに遡って来る。だから。


で、会ってみるとソ・ジソプ君にはチョウザメと同じような面があるようだ。
海に生きているようでも淡水に生きているチョウザメのように強い自生力を兼ねそえているみたいだからね。


簡単に傷つかない、そんな風に上手く武装する精神力も。


温室だけで育ったようではないという話だ。一言でいうと雑草だ。 なぜって?
植木鉢で育った気質の直物とは違う。
心はもろくて繊細であるとしても強靭な人間であるようだ。


チョウザメなんかは刃物もいらないと、


いい話でしょ、 先生?
刺されても血一滴もでない、そんな話はないでしょ?


刺されて血一滴も出ないことと、刃物でひり下ろしても鱗ひとつ落ちないこととは違いがあるということだ。二人の友だち。






P165
私は乞食だった。 ‘青年イ・ウェス’


文字そのも乞食だった。なに、それ以上でもそれ以下でもない。
チュンチョンで70年代の初めに歌喫茶店でDJをしていた。
ご主人が本当に良くしてくれた。軍隊に行って来てまたDJの仕事を始めたんだ。
だけど、これがまったく一人前の男がすることではないような思いがめぐった。
DJボックスの中でレコードの紹介をしながら“18番テーブル、ソン様、電話がきました”ということもしていたから。喫茶店を辞めたその時から野宿が始まった。駅の待合室で寝たり工場でボックスを積み上げて寝たり、毎日歯磨きをすることそれ自体が贅沢だったと目覚めたら、今日はどこで食糧を手に入れるかという問題が一番のポイント(鍵)だった。



野宿者たちには冬がいちばん耐えられないくらい辛い。冬になったらいちばんいいことは交番(派出所)のストーブ(暖炉)。もっといいことは裁判を受けて拘留処分を受けて監獄に入ることだ。戸籍に赤いライン(線)が引かれることくらいではなく8日間くらい拘留されたら最高だ。戸が閉められた店に石を投げてちょっと壊したり、通行禁止があったその季節の夜にぎゃあぎゃあ大声を出しながら通った。いつも捕まえられたらと思っていた季節だったから。もの凄く寒い日には防犯隊員たちも外に出て来ることもないので私たちを捕まえる人はいなかった。


4年から5年をそんな風に生きていた。生きること自体にこれ以上何の意欲がもてない時が来た。目覚めたらまだ死んではいなかったのかと思っていた。こんなことをしていたら死ぬだろう、こんなありさまでは死ぬだろう、死が常に目の前にチラついていた。


そうしているうちにチャンミ村に流れて行った。そこは暖かく見えたんだよ。
煉炭の火にあたりながら客引き行為をする女たちも最初は警戒していたけど、のちには出てきて親しくなり仕事に行くときには自分の部屋を貸してくれた。その部屋で身体を丸めて座り凄絶に文章を書いた。
そんな風に生まれた小説が『夢見る食物』だ。


貧困以外には思い出すものはないね。若かったときの私の話は無条件に飢餓だ。






P166
あるドラマーの話。


10年前だったが、
ソクチョで酒を飲みながら面白くもなくて酒も不味くて一人出てきて海を歩いていた。
ところが、一人の男が息せき切って私のところに走ってきたかと思うと、

“もしよかったら私と30分だけ話をしてもらえませんか?”と言うんだ。
何か事情がありそうだと喫茶店に入った。
どんな話が出てくるのか心配になった。






P167
この友達が言うには、自分はドラムで成功したいんだと、
ところが、ソクチョにはドラムもドラムの専門学校もなくて絶望的だということ。
どんなに切実だったかを道行く人を捕まえて自分の話を30分だけ聞いて欲しいと言ってはドラムの話をしていた。


君、私が誰か知っているのか、そういうと知らないって。
私は何をしてる人みたいか、そうしたら詩人みたいだって。
大抵は当たると思った。そして話てやっただろう。



毎日毎日、海に出て海の背を何度も叩けば?



その友達が後に軍隊に行ってもドラムが本当に叩きたくて脱営まで考えていたと言っていた。
それが今、ユン・ドンヒョンバンド(YB)のドラマー、キム・ジノンだ。
ユン・ドンヒョンがソクチョで公演をすると聞いて見に行くと。


あっ! この友達は本当に海を叩いていたんだよ!






P168
先生に会ったらぜったいに聞きたいことがあった。
小説家でいらっしゃるでしょう。なぜ文をお書きになるのですか?


そもそもお腹がすいた人がご飯を食べるじゃないか。
身体が空腹にならばひとまずご飯を食べるけれど
霊魂がよほど渇望したらその魂がお腹をすかせて文を書くんだ。
初めて乞食のように生きてたときお腹がとてもすいて書き始めたし。



僕も演技をするようになったとき、実は空腹に勝とう始めました。
今でこそ本当に演技に欲がありますが、
先生は今どうですか?



今も同じみたいだ。飢えている。
ツイッターで私のフォロー数が25万名だ。だけどもっと孤独なんだ。
慕ってくれる人がこんなに多いのになぜ孤独なのかと言う。
実際に25人の中での孤独と250人の中での孤独、
そして25万人の中での孤独を比べてみようとするなら数字が大きくなるほど更に大きな孤独に。
大衆に愛を受ける芸能人たちもその世界を完璧に理解してくれるファンに出会うことはないだろうと、
本当に自分が好きな俳優の魂や世界を理解するファンというのはほぼいない。
人々の関心の中にいるほど孤独だろう。だから書かないと。






P169
骨身に浸みて共感した。


すべてを出しているようだけど、実際は自分自身を孤独に閉じ込める運命につて考えた。


先生はあなたの意見をインターネットにはばかることなく書き記されている。
けれど、俳優や芸能人たちは先生と違う。
できるなら誤解を生む行動をしないように努力する。
それで先生のそんな勇気がすごく見えた。
僕たちは自然と枠を作りそこに閉じこもるって生きるようになる。
初めは他の人が作ってくれたシステムで活動し、少したったら自分自ら閉じこもる。
もう一度生まれてまたこの仕事をするなら
今の自分の姿のとおりにはしないと思うこともあった。



時には人々に誤解を受け、いつも堂々としているけれど
そのせいでさらに多くのあなたの孤独な心が私には分かるようだった。
本当に理解できた。



誰よりも孤独を知ることで人々を愛する道人(道士)のようにみえる人。



先生は普通の物書きではなく孤独もすべて受け入れた本物の文屋(文職人)だ。






P170
ソ・ジソプを見ていたら
不意に敏感に反抗する
‘力’が感じられるだろう。



変化が激しいようでありながら原則的で、
そんなさまざまな意外性を持つ俳優のようだ。
束縛をじつにもの凄く嫌う感じがする。
そのことは自由ということと直結しているものだ。
この社会はそんな面を実現的に受け入れできなくて
社会とはとにかく個性のない豆腐や菊花パンを作らなければならないなら
同じ種類の消耗品を作るのに汲々としただろう。
そんな面でみるとき君はこの社会が持つことができないものを持っているのだ。
そんな純粋さがある。

- 小説家 イ・ウェス 






P173
私たちの家で飼っているチンド犬のヤツが村に下りていった
ニワトリを20匹も噛み付いて殺してしまったことがあった。
妻が病院にいるときだった。
電話をかけた。
妻にこのことをどう話したらいいのか考えながら一部始終を話した。



すると、うちの奥さんいわく、


“犬がニワトリを噛んだのでしょう。ニワトリが犬を噛むのを見たのですか?”
ニワトリが犬を噛んで殺したのならともかく、犬がニワトリを噛んで殺すのは事件でもなんでもない。
ニワトリの代金を聞いて渡して、犬は縛っておいてください。”






P174
彼は小説を書く前まで画家志望生だった。
貧乏でいつもいちばん安物の紙に絵を描いていた。
誰かが高い道具をくれたらぎこちなくて絵を描けなかった。
だから今も学生たちが習作用に使う木炭でも
割り箸のような道具で絵を描くのが気楽だという。






P176
私は小説家だ。



貧乏と飢餓に苦しみながら彷徨ったという当時の‘青年イ・ウェス’を
再び打ち立てることは‘無計画に書く力’だ。
個性が強い問題と独特の精神世界で‘小説家イ・ウェス’をこえて‘奇人’‘エイリアンと通信する人’というような名前で呼ばれることにもなった。ツイッターでかず多くのリツイート者を従えれば、
この時代の聴衆たちの疎通と情熱に対してメッセージを伝える。


小説や散文集などを活発に執筆することはもちろん、
瞑想を終えた次には息つく暇もなく一気に描く絵で数回の招待展を開いた。
もうひとつ、ラジオ進行やシットコムの出演、カンソン村の村長兼ヤマメ祭広報大使を担当するなど、多様な活動をしている。


店に例えるなら‘専門店’ではないと自らいうイ・ウェス先生。
百貨店(デパート)くらいにはなると気乗りなくいう。
自身の活動を道に外れていると規定する人々に
手打ちうどんの店ですいとんを売ると道を外れたことになるのかと返って質問を投じる。
ある志操を固く守らなければならないことみたいに1種類だけに固執する必要はないという話だ。
能力があるなら、やりたいのであれば、すべて出来ることではないかという。
彼の話題は今を生きる若い人々に意味するところが大きい。
それでも彼が主張できるものは小説だという。
これまでしてきたことで生涯をかけて命と引き換えにしても惜しくないと思えるものが彼には結局、
小説だということだ。


ただ、挑戦する人生は常に新鮮だ。
何かに挑戦するときさらに大切なものが
何であるか探すことができると‘小説家イ・ウェス’はいう。






P180
イ・ウェス先生は僕が雑草だからいいとおっしゃった。
孤独も、苦労も、痛みに耐え抜くことが、何もかも知らない温室の中の雑草のような人は
どういうわけか言葉を交わすことが大変だと。
なんの準備もなく何も考えずに訪ねて来る僕を前にして
‘親友’だとおっしゃる先生は私たちは‘雑草’だから良く通じるんだと。






P181
どうやら‘雑草’という言葉が僕によく合っているようだ。






P182
こんな愛らしいあなたを見たことがないような気がする。
絵に僕の名前がないね、先生?


書いてください。




このTシャツ、どうしようか。もったいなくて洗濯もできないな……….。
子供たちへ代々譲り渡すように額縁にちゃんと入れておかないと。






P183
-画中文-
根性あるガンジクジラ
2010.7.14.
ソガンジ ソ・ジソプ殿
カンソン村 入村記念.







P184
必要なものがあったら電話をして。旅する。
詰まることがあったら話して、たびたび遊びにくる。



先生は僕を‘親友’だとおっしゃった。



この写真はつまり、 親友認定証ショットだ。






P186
心から心へ



世代をこえてさまざまな人たちと通じ合う先生を見ていたら羨ましくもなる。
一度、僕の枠(型)をぶち壊して先生のように僕自身をオープンにしようとしてみたこともあったけど、
まわりの人たちやファンたちはそんな僕をかえってぎこちなく受け入れてくれた。


主に話を聞くことに才能がある僕は、僕の話をすることより聞く方をより多く選択することになる。
だから友だちたちは僕に会うと心の中にある言葉をすべて話したりする。
だけど本来、僕は言葉数が少ない。多くの人たちはそんな僕を重苦しくて難しいと思っていた。
時には誤解を招くことや非難を受けることもあった。


今の僕は自然に、少しずつ変わっている。
やり方を体得しているのだ。


心から心へ焦ることなくゆっくりと流れてゆくように。






P188
Sketchbook






P189
髭の生えた幼い子供の姿をした芸術家に出会った。
僕はどんな姿で年齢を重ねてゆくのか・・・・・・・・・。






P190
Dnsicndd:ldd:l
So Ji・Sub.

Dlnz, 蛇の頭には
忘れられてゆくもの、 残したいもの、
美しい者には
深い霧、雲、森
草波、花々...
  
- トゥシッアンティティ
























ソ・ジソプの道 5

2011年09月27日 16時17分56秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




P119.

:: 4番目のスケッチ

傷 そして 治癒






p121.

ウォルチョンニ(月井里)駅


江原道(カンウォンド)、鉄原郡(チョルウォングン)、鉄原邑(チョルウォンウプ)、にある簡易駅。

現在は廃駅状態だ。

南側から行くことのできる最北端の駅で、
ソウルから原産(ウォンサン)をつなぐ京元(キョンウォン)線が走れなくなり最後に止まる場所だ。

病んだ父を水溜りの綺麗な水で生き返らせて死んだという

一人の少女の悲しい伝説が伝えられている。

その話に由来して月の光が照らす水場、

‘ウォルチョン(月井)’と呼ばれている。








p124

汽車を待った。


僕が1番目のお客さんなのか、駅には誰もいなかった。

ときどき軍人たちが僕をちらちらと見て通り過ぎて行った。

子供が持ってきて遊んで置いていったおもちゃのように。小さな駅はぼんやりと立ったまま場所を守っていた。



来ない汽車を待って座っている。









P127

ぶどう農園を営む写真作家?


すっかり顔が日焼けした彼に会った。










P129

イ・ウンジョン先生は写真作家ではなく久しぶりに会った小さい叔父さんのような感じだった。

最近はぶどう農園の面白さにどっぷりと嵌ったと、ぶどうは好きかとたずねられる。



皮まで全部丸ごと食べるよ!



農薬が多くかけられていることで知られているから良く洗って食べろという。

チュス(秋の収穫)したら何箱か送ってやると約束してくださったので、すぐさまありがたくて笑った。



複雑なカメラ装備の代わりに陽の暑さを避けるシャツをざっと肩にひかけた先生が
周りがとても静かだと何かが起こりそうじゃないかと冗談を飛ばした。









P131.

俳優という職業、大変じゃないの?

表に見えるものほど華やかではないでしょ。

こんな風にのんびりと歩いてみるのも本当にひさしぶりじゃないの?

そうですね.....。 とても忙しかった。

心ゆくまで休んだときがいつだった思い出せないくらい。


では何も考えずに少し歩こうか。



ふと俳優という職業が白鳥のような気がした。

水面上の美しい姿のために絶え間なく足を動かす白鳥。

僕がテレビで見られなくなれば人は休んでいると思う。

一瞬の華やかな姿を見せるために

どれほど多くの時間を準備するのか、

どれほど多くの人たちの努力があったのか、

人々はよく分かっていないようだ。




あ、歩こうと言われただろ、何も考えずに.....。









P132.

写真家イ・ウンジョン。


私は町の写真師だ。流浪劇団のようにあちこちを旅した。

道の上でシャッターを押せなければあきらめた。

それが私の仕事であったし今もそうである。

朝鮮日報写真部の記者を経て今は写真作家と大学の講義を並行している。

この夏、忠清道(チュンチョンド)、成歓(ソンファン)でぶどう農園を始めた。果実、結実という単語が深くしみるように懐かしかったためだろう。



写真というブラックコメディーのようだ。ひとり密かに思いついた考えだ。
深い忍耐心を持ってファインダーを覗いたことのある人は分かるだろう。人生の瞬間がどれほどつまらなく砕けるかを。



私は魔術師になりたい。泥んこ遊びをしながらヒキガエルを呼ぶときのように私の目の前の世界に呪文をかける。

騒々しいシャッター音が呪文になって出てくるとすぐに中が深くてつばが狭い帽子の中から白い鳩が飛びあがる。鳩の羽ばたきは私の苦闘だ。









P134.

この人類にリンゴがある。その最初がアダムとイブのリンゴ、二番目はニュートンのリンゴ、三番目がセザンヌのリンゴだ。

そしてイ・ウンジュの<四番目のリンゴ>がある。





私のリンゴは慰労のリンゴだ。



果樹園の道を歩きながら地面に落ちた紅く食べごろのリンゴをひとつ拾った。

反対側は腐っていた。頭を殴られたかのようにしばらくのあいだ腐ったリンゴを見つめた。

そこに自分の姿を見た。紅くてパンパンに膨らんだ私の欲望の陰に隠れて私も気づかない勢いで広がっていく傷口。

けれども<四番目のリンゴ>は治癒に関する話だ。

その際立った傷をそっと撫でながらすべて大丈夫だと慰労したかった。

そんな風に私とあなた、私たちの傷口と和解したかった。









悩み代行

すべてのアーチストたちは悩み代行業従事者だ。

傷とか痛みとかというものなんかかえりないで知恵を絞りながら悩むこと自体がどんでもないことだろう。

明洞(ミョンドン)を通り過ぎると‘芸術が空腹を満たすことはできなくても空腹だということを忘れさせることはできる’と書いてあった。正答だ。僕の空腹も解決できない自分に誰の何を解決できるというのだ。


ただ写真に変奏された僕の悩みを彼らが共に抱いて共感するとき、

私たちはしばらくのあいだでも空腹が錯覚に陥れないか。



― 写真作家 イ・ウンジュ









P137.

労働党社 Labor Party Headquarters

解散後、北朝鮮の土地だったときに作られた

昔の朝鮮労働党鉄原(チョンウォル)国党社の建物である。

江原道(カンウォンド)、鉄原(チョルウォン)、国鉄原邑(チョルウォンウプ)、クァンジョンリに残ったロシア式の建物で、朝鮮戦争前までコンサンチヒ反共活動をしていた多くの人々が拷問と虐殺にあった現場でもある。


あちこち深くへこみえぐられてすっかりすすけた外壁に耳をつけると

理由も分からないままお互いに銃口を向けて死んでいった人々の

泣き叫びと激しい銃弾の音が聞こえてくるようだった。










P138.

こんな静寂は何事も起こることがない死んだ時間だろう。

写真のように。



それで先生は写真の中に死んだ時間を収めるのか?



写真の中にすべてのものが死んでしまった時間を捕らえているではないか。

シャッターを押す瞬間、すべてのことが静寂と止まった時間の中に留まることになるから



私が愛する人たちは私が撮った写真の中で幸せに笑っていた。

私の心のままに止めておいた時間、それが私には写真であるので時間が死んだ。

本当に変な話をなさる。









P139.

階段からほぼ骨組みだけが残った労働党社の建物を見まわした。

ロシア式工法で作り、鉄筋がないコンクリートだけで作られた建物は崩れそうに危うく立っていた。

誰かの合わせかけのパズル、あるいは全てを合わせて壊したパズルのように。




死んだ時間.....。









P140.

銃弾が打ち込まれたという痕跡を見る。

こんな風に多くの人々が拷問で、さらには戦争で死んで行ったばしょである。

壁面に手を当てたら彼らの声が聞こえてさえ来るようだ。









P142.

傷とは関係ないかのように壁と床を突き抜けて生えてきた草が見える。

名前の分からない生命が育っている。









P143.

完璧な被写体


ひとりの青年と出会った。けちをつけるところのないマスクと体格の条件を持った俳優、ソ・ジソプ。それであまりにも完璧なのが面白くなくてつまらないくらいだ。


新聞社に通っていたこときに彼のように完璧な被写体と作業をしたことがあった。

文化面に載せるチャン・ドンゴンを映画俳優チャン・ドンゴンではなく村の青年のように撮るという指示を受けた。

お話にならないと不満を言った。大衆が記憶している完璧な俳優チャン・ドンゴンはこのように撮っても結局は完璧なはずなのに、

それは誰も望んでいないイメージなのだろう。


誰が撮っても当たり障りのない完璧な被写体は良い被写体なのか?

私はそんな被写体こそ魅力的ではないと言う。しかし、また反対にそれが故に試みたい作業を思いついたりもする。



ふと青年ソ・ジソプの都会的でモダンなイメージの向こうに隠れた何かが気になった。彼から狂気と原初的な感情に引きつけられる“人間”を見出したいという作家としての欲が騒ぎ出すようだ。それはソ・ジソプという俳優の成長、またその可能性の期待でもある。



― 写真作家 イ・ウンジョン









P144.

スンイル橋 Seungil Bridge



共産統治下にあったという時代に北方で半分、南方で半分、

そんな風に南北の合作で作られた橋だ。

建築様式も同様にきっちりと半分づつの橋だ。

韓国版“クワイ河の橋”と呼ばれていて漢難江(カンタン江)の中流地点に置かれ江原道(カンウォンド)鉄原(チョルウォン)郡ドンソンウプとガルマウプの間を結んでいる。

橋の名前は韓国戦争当時、北進して戦士したと知られているパク・スンイル(朴昇日)大領を賞賛するためとする説が支配的だけど、イ・スンマンの‘スン’とキム・ジョンイルの‘イル’を取って‘スンイル橋’としたという説もある。









P148.

Sketch book









P149.

人生は選択の連続だ。



この線を行くのか? このまま越えて行くのか?

でなければまた戻るのか?













ソ・ジソプの道 4

2011年06月09日 15時29分51秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




P75
3番目のスケッチ




P76. 
南春川(ナムチュンチョン)駅 Namchuncheon Station



金裕貞(キムユジョン)駅と春川(チュンチョン)駅の間にある駅に
京春(キョンチュン)線汽車が通う。
春川(チュンチョン)駅が長い工事に入って閉鎖された状態だから、
当分はこの南春川(ナムチュンチョン)駅が
‘春川(チュンチョン)行き汽車’が行くことの出来る最終駅だ。
少しみすぼらしい姿をしているが、
旅のロマンを夢見る人たちに南春川(ナムチュンチョン)駅は
淡い思い出だ。



P79.
まだ汽車は到着しないようだ。
お待たせしてはいけないけれど、
約束時間を守らないのは嫌だから歩くのが早くなる。
気持ちが先に急ぐ。


今日僕は、
新しい友達と南春川(ナムチュンチョン)駅で会うことにした。




P80.
夜が明けて来た。
一番列車が到着する時間になる。
誰かを待つことに慣れている僕も少し浮き足立っている。
しきりに時間を見ることになる。

気になることが本当に多い。
この頃の大学生たちはどんな歌手が好きなのか。
学校は面白いのか。
合コンで人気がある男子は誰なのか。

ともかくこの友人に会ったらなんと呼んだら良いのだろう?
タミさん? タミ氏? これじゃないような、
そのまま名前で呼ぶのだろうか?


あ、そうだ、鳥博士殿と呼ばないといけないみたいだけど?



P81.
少し疲れていたみたい。
追われるような僕の生活。
何の計画もなくむやみに身体を部隊のようにして
がんばって乗った汽車は…





そこに到着できることになったらお酒を一杯飲みたくなって
夕方戻ってくる僕の酔っ払った姿もいいだろうね。

春川(チュンチョン)行きの汽車は僕を連れていくよ。

キム・ヒョンチョルの‘春川(チュンチョン)へ行く汽車’の中から…



P82.

これで遠くにいる鳥も詳しく見ることができるのでしょう? 

幼い時から鳥が好きで
鳥を探してあちこち通ったという二十歳の女の子は、
こんな風におもちゃみたいな双眼鏡を首にかけて現れた。

だけど、この小さいのが300万ウォンもするのだ!
その言葉を聞いたら気軽に触るのも用心深くなる。



P83.
ぎこちないということを隠そうと先に話しかける。


ボーイフレンドはいる?

いいえ、

最近のアイドルは誰が好き?

BEASTです。

そうなんだ.....


頭をポリポリ、僕が凄くおじさんみたい?



P85.
鉄原(チョルウォン) 青鷺の生息地 Habitat Heronsin Cheor Won

鉄原邑(チョルウォンウプ)民間人出入り統制地域に位置して
青鷺と白鷺の集団棲息地で知られている。
青鷺は朽木、湿地、畑、小川、川、河口などの水辺で
単独または2~3匹ずつ小さい群れを成して活動する。
この場所は戦争前に鉄原郡(チョルウォングン)庁があった場所で、
今は木が生い茂るように場所を占めて森を成し遂げていて、
地雷があるということを知らせる立て札の向こう側で
木ごとに巣を作って上っている真っ白な青鷺の姿を
ひと目で見ることができる。



P87.
理由は分からないが飛ぶ鳥が別に好きではない。
実は恐ろしい。
鳥が羽ばたきをする時やくちばしで餌を突く姿を見た途端に
恐ろしいという気がしたりする。
鳥が怖いという話をしたら
鳥博士に冷やかしでも受けることは分かっていたけれど、
意外な返事が返ってきた。



“私もときどき鳥が怖いです!”


本当に鳥博士に相応しい言葉なのか?


かえって僕が意地悪をしてからかうから当惑して苦笑する。

間違いなく二十歳の女の子みたいだ。




P91.
DMZだけで見ることができる鳥はいますか?

鶴です。
特に真鶴と丹頂鶴が一緒に棲息する場所は、
ここ鉄原(チョルウォン)しかないんですって。
全世界でも唯一の場所がここです。
各自棲息する場所は何箇所かありますね。
丹頂鶴と真鶴が一緒に生息することを見て
外国人たちもとても不思議に思うそうですね。
鉄原(チョルウォン)は平野であり水辺が多くて
鳥が過ごすには本当に良い場所です。


ひょっとして我が国にはいないのに
北朝鮮で見られる鳥もいるの?


キタタキです。
韓半島にだけに棲んでいると知られた貴重な鳥なのに、
絶滅したという話が多いです。
私も見たことはないけれど、
なぜか北朝鮮に行けば見ることができそう。
どこででも必ず生きていればいいな・・・・・。 



P93.
鉄原(チョルウォン)丹頂鶴館 Museum of Red-Orowned Cranes in Cheor won.



丹頂鶴という渡り鳥を主題にした
写真や動物の剥製を見ることができる展示館だ。
本来は展望台に使った建物なのに、
今は民間制限線で発見される希有具類や丹頂鶴、
鷲など赤鹿のような野生動物が展示されている。
自然死した動物たちをそのまま剥製にして展示していて、
あたかも生きているようだった。


P95.
丹頂鶴は“トゥルルトゥルル”と鳴き、
丹頂鶴も平和と長寿の象徴ということだ。
鳥博士様が傍でこのように同時に説明するから更に面白い。
ガイドが別に必要ないくらいだ。
好奇心が湧く。


丹頂鶴は普通どのくらい生きますか?
普通は30年? いえ、70年だったかな?
記憶にあまりないです。
おっと、博士が知らないこともあるのか?



P98. 
東京貯水池  Togyo Reservoir.

鉄原(チョルウォン)郡、東松邑(トンソンウプ)
ヤンジリにある東京貯水池は周辺景観がとび抜けており、
澄んだ水のおかげで様々な魚が多く棲息する。
冬になれば絶滅危機にある丹頂鶴と真鶴などが訪れて来て
渡り鳥を助けろという張り紙もある。
住民たちが死んだ家畜などを放っておけば
これを食べるために鷲の群れが集まる。
数十万匹の鉄雁が一斉に空へと飛び上がって
白い丹頂鶴が姿を誇り、
素早い鷲たちが餌に向かって飛び込む姿は
ドキュメンタリーに出てきそうだ。



P100.

僕には遠足についての記憶がない。
学校に通っていた間は運動をしていたために
季節ごとに選手たちと一緒に行く合宿訓練がすべてだった。

遠足に行く気分はこんなかんじなのだろうか?



P102.
田舎の村で生まれ育って鳥と一緒なのが自然だった子供。
十歳の時、お母さんが図書館から持って来た
あるビラを見て子供は衝撃を受けた。
坡州(パジュ)積城面(チョクソンミョン)トジリで起きたことで
農薬を食べた雁を食べた鷲の群れの死を知らせる広告物だった。
無残に死んでいる鷲の群れの写真は非常にぞっとした。

このことがきっかけになり小学校4年生の子供は、
鳥についての本を片っ端から探して読んだり、
気になる鳥ができれば直に探しに行った。

石キジを見ようと雪に覆われた森を4時間以上も彷徨って
足に凍傷を負って帰って来たりもした。

高等学校をまだ卒業する前に
鳥類写真展とセミナーを開催して様々な論文を発表した。

我が国の最年少鳥類研究者、チョン・ダミは今やっと22歳。
大学のニューフェイスという、
まだしてみたいことも見たい鳥もとても多い。






鳥類生態学者になりたいです。
もっとたくさん学んで勉強するでしょう。
鳥と人が共生していく世の中になったら良いですね。
人々にたくさん知ってもらいたいです。
鳥がどんなに美しいのか、またどれくらい美しく歌うのかを。


― 鳥類を研究する者 チョン・ダミ ―



P104.
あそこ、あの場所が冬だったら鷲が飛び込む所です。


鷲はどれくらい大きくなるの?

鷲は2メートル少しこえます。
冬にここを訪れる丹頂鶴は鷲より少し小さいです。
ハゲ鷲、聞いたことがあるでしょ?
本来はそのままの鷲なのにハゲているとハゲ鷲と呼ばれるの。
そんな風に呼んではいけないけれど。ハゲ鷲はハンティングが出来ません。
人が豚や牛を放って置けばそれを食べてそこで休んでいきます。


あ~、それでハゲ鷲なんだね。タダ好きで。

動物の臓器には脂肪が多いでしょ。
そういうのをくちばしで突いたら脂肪の塊が度々頭にくっつく。
そのところには毛が生えないそうです。それでハゲ頭です。



P105.

おっ? 一羽見える。
少し前、そこ、青サギが電信柱に優雅に立っていましたよ。
ハンティングに行くみたい。立ち上がりました。




P106.
人はもしも鳥になることが出来たら行きたい場所やしたい事などを想像する。
空を飛ぶのが夢だと言う人もいる。
でも僕は、そんな想像が雲を掴むようで考えてみたこともない。
関心がないことには神経も使わない性格のためである。

俳優で成し遂げたい夢のほかにひとつ、更にあるなら僕はホテルを持ちたい。
幼い時からそうでした。ホテルがただ漠然と好きだった。
入口に入った時からのときめきとベッドに横になった時に押し寄せてくる
旅行の始まりを告げる幸福感に等しい。


理由は良く分からないけれど僕はただホテルが好き。
僕だけの素敵なホテルを持つのが僕の夢だ。




P107.
ところで、もしかしてこの声も鳴き声なの? 聞こえる?
これは虫の音だけど・・・・・・。



P109.
鉄原(チョルウォン)駅



戦争前は京元(キョンウォン)線と金剛山(クムガサン)線が通っていて、
今のソウル駅と大田(テジョン)駅くらい人々が多くて、
その規模は雄壮だったという。
朝鮮戦争により列車の運行が中断されて、
現在は廃墟と残骸が残っている。
草が茂った田畑の周辺に過去、鉄原(チョンウォン)が
とても栄えた所であったことを知らせる立て札と駅の跡、
そして線路が残り、この場所が鉄原(チョルウォン)駅であったという事実を
かろうじて知ることが出来る。



P110.

ある日、すべてのことが消えてしまい、死んだ都市に来た気分になった。
カメラにこの静寂を入れる。
シャッター音が妙に大きく聞こえる。



P111.
鉄原(チョルウォン)で出会った人たちは他の都市の人たちとは違った。
自らの故郷を訪れてくれた人たちがただ好きで嬉しいのでしょう。
どんなことでも教えてくれて、一つだとしても更にしたがる。
本当に素朴な人たち。
孤独な人たち。

“それでも戦争前にはここがソウルに劣ら大きなとしだった。”
大きく復興した時期の自負心を持って過去を夢に見て生きる。


誰かに会いたい気持ち。
何かを待つ気持ち。すべて人が恋しいためだ。




P112.
ソウルから金剛山(クムガンサン)に
修学旅行に行く学生たちは、
当時、いわゆるお金持ちの家のご子息たちだったというけど。
鉄原(チョルウォン)駅に下りて弁当を食べて休み、写真を一枚。
 

みんな どこへ行ったのか。



P115. 
湖畔鳥(学名 Halcyon coromand / 赤翡翠:アカショウビン / 異名 火の鳥)
が好きだという、そうだったでしょう?
くちばしからつま先まで全部赤い色で目も大きくて可愛くて
好きだと言ったじゃない。
タミが好きな湖畔鳥のように派手に格好良く生きる。
今出来る事を逃さず、楽しみながら。
ボーイフレンドも作りたくさん遊んで、もっと思い考えながら。


表面だけが派手で中身が空っぽなのではなく、
その中身までぎっしりと詰まった、そんな人に。




P116.
Sketch book



P117.
自由に飛んでいなければならない鳥が、
しばしビューポイントの中に閉じ込められた。



“鳥よ、思いっきり飛べ!”











ソ・ジソブの道 3

2011年02月16日 17時23分37秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




:: 2番目 スケッチ

自 由

P40.
DMZ博物館 DMZ Museum


軍事分界線と接近した民統線(民間人統制線)内に位置していた。
韓国戦争が起こった前後のようすから
60余年間、人の手がタッチしていない自然そのままの生態環境まで
展示物を通してDMZがある意味をのぞき見ることができる。

ずっと以前、前方で地域で使用していたという大型電光塔と拡声器を
平和の象徴物として展示していた。

‘対北心理専用装置’という変な名前の展示物だ。

くれぐれも永遠に使用することがないことを。


P44.
タイガーJK兄貴といると二人は似ているという声を多く聞いた。

僕らは本当に似ているのか? それはよく分からなかった。


舞台に立ったら爆発的なエネルギーを噴出す人。

強く見える彼の後姿から見つけた寂しさ(孤独)は自分にも馴染んでいることだった。

僕らは会うたびにお互いから同じことを発見する。



P48.
ある時、歌がすべてだと言いながら舞台に上がった。
だけど、今は違う。 今はとても多くのことを知ってしまって
どんな風にでも生きてみよう、逝かない努力をする。
自分がすることで分かっているのは、自分が出来るのはこれしかない。
これさえも奪われてしまうのか、 僕は身震いする。
いつかはこれさえも忘れてしまうのか、 とても怖い。


Cuz when rain it pours but I would never give up.
Gonna see the storm through and change my luck
It's just another day so I know it's ok.


- タイガーJK 7集<SKY IS THE MIMIT>の
‘自分が嫌い feat.T’中



“このスピーカーで自分の歌が流れてきたらどんなだろう?
向こう側にいる人々が自分の歌に揺れ動いて一緒に踊りながら手を頭の上に!
僕らが一緒に歌を歌ったら、そんなことができたら本当にいい。”



ヒップホップを愛する人から‘ヒップホップ大統領’と呼ばれている。
大衆が好む歌を妥協して作りたくない。
ただ彼の真心が込められた歌に誰かが‘関わり合うこと’を
夢見るヒップホップミュージシャン、

‘タイガーJK’だ。



P52.
お互いが聞くことを期待することのない話を、

一方的に送ることは悲しいことだ。



P54.
統一展望台  Unification Observatory


戦争以後、人が一度も往来しない海の向こう側に金剛山の稜線が広がっている。
展望台から金剛山まで最短16Km から最長25Kmに過ぎないため金剛山の主要な山々がひと目で入ってきた。
晴れている日だったら金剛山の最高峰である毘慮峰が見られる。
ラクダの背の形をした稜線や内部が全部見える海水が
手を伸ばせば届きそうなほど近くに見えるらしい。


自分の意思とは関係なく60年間、一人だったから変な気分だ。



P56.
ヒップホップとは何?
自分だけのスタイル?

ヒップホップ式の挨拶があったと思うけど、
ただこんな風にするんだ。 手をサッと握れば、

うれしい。



P57.
“ここは軍事地域です。撮影したらいけません。
望遠鏡で見たらあっちの領土のトンネルまで見えます。”



熱心に説明を受けていた兄貴の肩にトンボが一匹、止まった。
つくづく眺めていた彼が言った。

“書きたい曲がひとつ出来た。タイトルは‘トンボ’だ。”




P58.
<(2791.19vird ixaT)ーバイラドーシクタ>画映

“?em ot ‘niklat er`UOY”




P59.
“YOU're talkin'to me ? ” - 映画<タクシードライバー (Taxi Driver,1976)>




P61.
60年、長い時間だ。

誰の意思とは関係なく生まれてただ黙々とその場にいる。
誰かがどんな言葉を言っても揺らがない我の強い人のように。

人の手が届かなかった清らかな場所だからというのではなく、
こんな空間があるということ自体に僕はただ嬉しかった。
戦争の痛みを維持・保存しておくことだけではないというなら、

この感じを言葉ではっきりと説明することが

凄く難しい。




P63.
明波海水浴場 Myeongpa Beach


民統線(民間人統制線)のすぐ下に位置する南韓最北端明波里の海水浴場だ。
東海のきれいな水と白い砂浜に沿う美しい村だということから明波里と呼ばれている。
夏の避暑シーズンだけ一時的に開かれるが、海岸に限って柵が長く立ち並んでいて
軍硝所があるここが最北端軍グンジャンジ駅という事実を分かるようにしてくれた。

いつの間にか僕らは鉄条網がどこにあっても慣れたように受け入れているようだ。




P65.
ヒップホップ=自由

人々はヒップホップと聞くと自由であるように感じるようみたいだ。
しかし、実はヒップホップは一度も自由だったことはない。
抑圧された人々が叫ぶ“抵抗”の歌だったから。

僕は自由とは“小さな鉄格子のすぐ前だと思う。
小さい一升の監獄、その鉄格子のすぐ前だ。その前には閉じ込められて開放されて出てきた人もいるでしょう。
戦うんです。あそこの中へ入らないと、そんな風に守った自由だから。
どれほど大切なんだろうか?

- 歌手 タイガーJK



P66.
どなたかにいつが最も自由かと聞かれたのでベットに横になっている時と答えた。
疲れた身体でベットに横になり寝つく直前が僕にはいちばん幸せな瞬間だ。

それと、やはりこんな風に日常を一歩だけ抜け出すだけでも十分に自由みたいだ。
誰でも自分のなれた暮らしからはみ出すことを恐れるが、一つの枠を破って出て行けばそこがまさに自由。

自由とは‘一歩’である!



P67. 
一歩

一  歩




P68.
“ジソプさんと話す時は無理に気まずさを破ろうと対話しなくていい。
僕はいつでも気楽に話して、彼は僕の話を熱心に聞いて関心をみせてくれる。
僕たち二人とも一度にオープンにできない方なので、
もっぱら気まずくなりながら少しづつ心を開いてみせていくらしい。
気まずい時は気まずいままにしておいても気楽な、そんな、

複雑なんですか?


- 歌手 タイガーJK




P71.
僕は本来、本当に閉じこもる人間だ。以前は人々を泣かせたかった。熱くさせたくて自分の歌に‘あなたたちが何かを感じるように作った”という思いが強かったけれど、今は人を喜ばせられる歌をしたい。いつかはそんな歌を書けるでしょう?



僕もです。最近、俳優たちはみんな前に修飾語がたくさん付くじゃないですか。
そんなことなどべつにそのままの俳優ソ・ジソプ、人間ソ・ジソプであればいい。最後まで俳優でいたい。僕たち少し似ているみたいじゃないですか?




P73.
今は.........
誰かと気楽にいければいい。








 

ソ・ジソプの道 2

2010年10月15日 20時30分37秒 | ソ・ジソプの道

この記事は、韓国の俳優ソ・ジソプ氏の著書である『道』の韓国版を、辞書を片手に一語一語つなぎ合わせて私的に日本語に訳したものです。よってこの著書の日本語版となんら関係のないことを最初に申し上げます。 また、素人の未熟な訳であり間違いがたくさんあることも合わせて申し上げておきます。




P5.
  1番目のスケッチ   休息と旅行

  2番目のスケッチ   自由

  3番目のスケッチ   夢

  4番目のスケッチ   傷 そして 治癒

  5番目のスケッチ   青春 ・ 情熱

  6番目のスケッチ   記憶、残したいもの

  7番目のスケッチ   僕らのこと、僕のこと

  8番目のスケッチ   和解、愛



P7.  
:: 1番目のスケッチ

休息と旅行



P8.
始まり

やっと寝ついたのに仕事のために掛かってくる電話を受けて目覚めた。
やらなければいけない事で一日がぎっしりだ。
人と会わなければならなかったり、笑わないといけなかったり、さらにはどんな話でもしなければならない。
洗顔しない顔でスリッパを無雑作に引きずって外に出て行ったとしても
僕を見分けられない場所、そんな場所だったら。


さぁ、本当の旅の始まりだ。




P11.
対陣港 Port Daejin.     大津港(テジン港)



東海岸で行くことが出来る最北端の港。
700余隻の漁船が出入りする東海岸の代表的な漁港。
  

早朝から夜通し捕る魚を売り出して賑やかに取引が行き交う。
漁船が波に揺れてギシギシと音をだし、
女たちは網を手入れしようと手を忙しく動かす。
埠頭の人生という毎朝、脈立つ心臓の鼓動のようだ。





P13.
ドラマや映画がひと作品終えるごとに僕に休みがもらえたりする。
ひとり 海辺の風にあたるのも久しぶりだ。
あの向こう側に太陽がぜんぶ昇る時間にもなったのに......



雨がふりそうだ。





P15.
誰がそう言ったのか。
僕らの国にはどんなに深い島にはいったとしても、必ずあるふた種類があって、
それが、間違いなく教会と中華料理店だということだ。

最北端港の防波堤にも確かに○○飲食店の電話番号がべったりと刻みつけられていた。





P16.
海から吹いてくる風、湿っぽい風。
前にもこんな風に会ったことがある。


 


P17
記憶がよみがえる、かすかに。





P18.
ざらざらの手・・・・・・
この手もまた僕の手だ。





P19.
僕のカメラに納められる僕の姿。
僕は誰だろうか?





P22.
恐怖

幼い時には仁川(インチョン)で暮らしていた。
僕らの町の海辺に防波堤が置かれる前だったけれど、そこを友達らと恐れることなく走り回り、
おじさんたちに肩をならべて釣竿を下ろして、どこにでも良く座っていたものだ。


何年か前、チョ・オリョン先生と大韓海峡を泳いで渡ることもした僕は、本当は
海が怖い。


そんなことを言ったらみんなが驚いた。


海を泳いでみた人は分かるでしょう。
特に真っ黒な海の中をじっと覗き見ることは本当に恐怖だ。
その中に隠されたものは誰も知らない。
人間は宇宙まで行ってみたけど、深い海の中は今もなお、宿題で残っているでしょう。





P23.
ここの人たちも海が怖いことではないのか?


20余年間マドロス(船員)をしてきて、今は魚料理店をしているという一人のおじさんが近づいてきて話したことだ。


この漁場でも、東海岸から更に北側のこの場所が今度更に開発されたんだ。知っていたか?
ずっと前にはそこに魚を釣りに行ったまま帰ってこられない船も多かったんだ。
それで、しばらくその漁場に行けなくなってしまっていたんだが、今度はきちんと大きく開発されたんだよ。
お金を貯めていたものでまた船を買って、俺はあそこにまた行きたかったんだ。


この漁場で捕った鯔(ボラ)は自分の腕よりはるかにずっと大きいと自慢するようにお話された。


えい、まさか。


僕は笑ったけどおじさんがまた捕まえる魚が、彼が話したより更に大きかったらと願う。





P26.
ここの人々はいつどのように変わるかもしれない気まぐれな海と共に生きて行く。
彼らが海を守るのは怖さがないということではなく、
まだ行かなければならない場所が多いためのようだ。
海というその中を知ることはできない。
だからもっと神秘的なところなのかもしれない。





P28.
花津浦湖  Lake Hwajinpo





P29.
ある気性の気難しい舅と気立ての優しい嫁の伝説が広く伝えられている場所。
キム・イルソンとイ・スンマン、イ・キブンの別荘が建ち並んでいる。
鮭、ボラ、鯛などの生息魚が多い釣り場で有名であると同時に
秋には白鳥がカモと一緒に渡り鳥たちが渡って来て、天然記念物の白鳥も見ることができる。


アシの茂みの前に広がった湖の姿が穏やかだ。話にだけで聞いていた白鳥の湖がこの場所だろうか。





P30.
花津浦(ファジンポ)湖の物語


湖の側に立てられた立て札につらつらと書かれた文がある。
花津浦(ファジンポ)湖に絡む伝説だそうだ。


昔々、‘イ・ファジン’という心根の気難しい舅と気立ての優しい嫁が暮らしていた。
ある日、一人のお坊さんがイ・ファジンの家に施しを受けるために訪ねて来た。
けちん坊な舅は牛の糞をパカジ(ひさご)ですくってお坊さんに注ぐとその人を遠くに追い払ってしまった。
すでに幾年か前、二度も立ち寄ったお坊さんに粟をひとさじ施してあげたのを思い出したためだ。
この姿を見た嫁は申し訳ない気持ちで米一升を持ってお坊さんの後をすぐに追って出て行った。
しかし、お坊さんと会うことができなくて寒々しい気持ちで帰ってみると、家のあった場所が青い湖に変わっているではないか。
嘆き悲しんだ嫁は結局、病気になって死んでしまった後、地域には洪水と凶作で飢きんと伝染病が絶えなかった。
村の人々が嫁の魂を慰めるために毎年、クッ(祭祀)をした後では農作物が上手く育ち伝染病も消えたという。


確かに悲しい話だけれど少し突拍子がなくて、ふふっと薄笑いが出た。





P33.
湖の向こうに海が広がっていた。
どこまでが湖で海なのか区別することができないくらい接している。
湖と海の間にある白い砂原を湖の浴場に利用していた。
花津浦(ファジンポ)湖は規模が大きいからほぼ海と言っても良いほどだという住民に話を聞いた。


湖を泳いで行き来しているクラゲが変なこともない。





P37.
風が吹くのが見えるか?