goo blog サービス終了のお知らせ 
サイト制作日誌
歴史系サイト「南風博物館」の制作に関する感想、途中経過、その他の情報を日誌形式で掲載します。
 



どうも、「南風博物館」館長の南風です。

本日は、わたしが最近よく観るようになった、アメリカの映像配信サイトについて書きましょう。
わたしはもっぱら音楽関係のビデオを観るために参照するんですが、そればかりではないようです。
まったく、世の中ではいろいろなサイトが次から次へと出てくるようになったものですね。

わたしが行くようになったのは、「YouTube - Broadcast Yourself」というサイトです。
音楽関係では「MySpace」というコミュニティサイトが有名で、自分たちのことを知ってもらいたい
アーティストが特設ページを開設し、そこで自分たちのサンプル音源を流すことで購買につなげたいと
して運営するものだったようです。わたしも「本日の一曲」を執筆するにあたり、各アーティストの
ホームページからリンクしているMySpaceのアーティストページに行っては試聴していたものです。
YouTubeは、さらにそこからリンクしていたことで知りました。無料でビデオを観ることができるのです。

このサイトもコミュニティサイトの一種で、アマチュアの映像制作者たちが自分たちで作ったものを
登録して公開し、コメントをもらったりして同じ趣味の人と交流を深めていくといった形式で、
MySpaceとシステム的には似たようなものだと思います。ただしこちらではアーティストの宣伝の
ために使われることはあまりなく、ほとんどがアマチュアだというところが違うと思います。
またこのサイトでは、映像の二次利用ができないようにデータのやり取りをストリーミングにし、
MPEGなどの汎用データの形では閲覧できないようになっています。さらに映像のサイズを圧縮して
あるため、フルサイズでも観ることはできますが見るに堪えないようなものになってしまいます。
結局は、サイト内で横400ピクセルくらいのサイズで観ることが一番であるように仕向けられています。

ここに映像を登録するには、サイトの会員になる必要があるようです。すべて英語です。
メールアドレスとパスワードを登録するだけで会員になれますが、本人認証などはありません。
もしビデオを自分で自主製作し、こうした場で発表したいのであれば、サイトの会員として登録し、
別のユーザーにシェアすることで配信可能になります。登録した映像は閲覧数や投票などにより
人気度が集計され、星5つというミシュランのような基準で客観的に評価されるようです。

しかし、ただ単に他人の作品を観たいだけであるならば、わざわざ会員になる必要はありません。
こうしたサイトに登録しただけで、変なスパムメールやフィッシングがたくさん来るようになりますし、
変なところで実費がかかるようになっては、後悔してもしきれません。ならば登録などしないで、
無料で映像だけを見る「ゲスト」という形のままでいいのではないか、と思いながら観ています。
プライバシーポリシーも公開されており、それを全部読めば大体のことはわかるようにはなっています。
ですが全部英語の、しかも細かい約款を全部読むだけの意欲はわたしにはありません。
クレジット会社の契約書の裏に印刷されている約款などよりは、ずっと親切ではありますけどね。

しかしコンテンツの充実度はさすがです。急成長したサイトであることをうかがわせます。
Winnyなどといった危険なソフトを使ってデータ交換するより、無料で安全な映像を観ていた方が
ずっと感動できますし、安全だし、お金を払わなくていいという面で優れていると思うのです。



【本日の一曲】
「The Haunted Hill」 by Nightscape

スウェーデン出身のメロディック・パワー・メタル・バンド、Nightscapeが2005年にリリースしたデビュー
アルバム、「Symphony Of The Night」の最初に収録されたネオ・クラシカルな要素と美旋律が見事に
融合した名曲です。こうしたメロディとインパクトに富んだ作品を最初に持ってくるあたりに老練さを
感じさせますが、プロデュースや音作りはすべてバンド自身の手によって行われたというのですから、
驚きを隠しきれません。この曲は静かなサウンド・エフェクトを導入部にし、そこからいきなりヘヴィな
ツイン・ギターの主旋律へと劇的に変化します。この曲の何がいいかというと、バンド全員による
コーラス部分での合唱でしょう。若い彼ら6人が精一杯声を張り上げ、パワー・メタルには欠かせない
音の厚みを与えるために歌い上げるサビ部分は、震えが来るほど素晴らしいものです。またその合唱も
数種類の声色を使い分け、まるでオペラのような重厚な歌い方をするパートもありますし、微妙に
半音を下げたり上げたりして和音の美しさを強調したパートもあったりして、本当にこれが若者たちの
作った曲であろうかと思わせます。演奏には少々荒削りなところもありますが、多人数編成の
バンドという恵まれた環境でのびのびと歌う「The Haunted Hill」は、彼らの記念碑的な曲なのです。

2000年にはすでに結成されていたというNightscapeは、音楽学校に通う学生だった彼らがほんの趣味から
結成した学内バンドがその母体になっています。したがってデビュー当時(2005年)のバンドのメンバーは
すべて18歳~20歳という若さであり、AxenstarやSymphony X、そしてStratovariusのような美しく
均整のとれたピュア・メタルの要素をふんだんに取り入れた彼らのサウンドは、そでに作曲の面では
老練さすら感じさせるものであり、学校できちんとクラシック音楽の教育を受けてきたであろう彼らの
「よき伝統に対する良心」のようなものさえ感じさせます。ここでは紹介しませんでしたが、アルバムの
クライマックスを飾るタイトル・チューン「Symphony Of The Night」もまた紹介した「The Haunted Hill」に
負けず劣らずなドラマティックかつテクニカルな作品に仕上がっており、本当にこれが10代を中心にした
若者たちが作る曲であろうかと耳を疑ってしまうほどなのです。ファンを標榜するなら一聴の価値ありです。

バンドの最新情報などについては、以下のオフィシャル・サイトを参照してください。
ただし移動しているためこのドメイン名では直接接続できませんが、指示に従ってクリックしていけば
オフィシャル・サイトに行くことができるでしょう。「Media」というリンクから、ここで紹介している
「The Haunted Hill」の一部分を1分間だけ、MP3形式で聴くことができます。音質は最高に設定されて
いますので、CDとほぼ同じ感覚で聴くことができるはずです。これだけでバンドの実力がわかります。
http://www.nightscapehome.tk/


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

本日は、わたしのブログをいつもご覧いただいている皆さまに悲しいお知らせがございます。

6月中旬以来、ずっと続けてまいりました「毎日投稿」を今月いっぱいで終了し、普通のペースに
戻そうかと思っております。決してこのブログがなくなってしまうわけではありませんので、
その辺はご安心をいただきたいと思います。週に3~4回の投稿になると思いますが、またいつ、
毎日投稿に戻るかもわかりませんので、その辺はご期待いただいて結構でございます。

この3ヶ月余、毎日更新するという荒行(?)を続けてきたわたしの本意は、何だったのでしょう。
正直なところ、自分でも分かりません。自分の意志がどれほど強固であるかを試したかった、
というのが一番大きな理由かもしれません。その面でいえば、3ヶ月という持続期間は、
わたしとしては満足すべき結果だったと自負しています。でも本当はそれだけでなく、自分が
このブログを更新するという取り組みの中で、何か得るものがあるだろうか、ということを密かに
考えていたのかもしれません。わたしがこの場でやっている「本日の一曲」に対し、検索で
見つけてきてくれる人がいます。わたしのレビューなどは世間一般のものとはかなり違いますし、
本筋から外れたことを書いてしまっていることは明白なのですが、このわたしのレビューを見て、
取り上げたCDを買おうという気持ちになってくれる人がいるならば、わたしは本懐でございます。

さて、どうして今月いっぱいで毎日更新を中止せざるを得なくなったかといいますと。
まず、職場に私物のPCを持ち込めなくなりつつあるというのが大きな理由です。一応は自分用の
PCを用意してもらう予定ではいますが、それはもっぱら仕事に使うものですので、なかなかブログに
差し向けることができなくなってくるのではないか、という危惧を抱いているのです。

それと10月からは、わたしも専属の仕事を受け持たされることになりまして、忙しさが加速します。
さらにプライベートでも休日にじっくり休めないような状態になっていきますので、ブログに
割いている時間がなくなってしまうのではないかと思うのです。書くことは楽しいですし、
書いたものを皆さんに読んでもらえるのはすごく嬉しいのですが、寝る時間を削ってまで続ける
意義は今のところありません。アフィリエイトでの副業をしているわけではありませんしね。

でも、このブログがなくなってしまうわけではありません。その辺はご安心をいただきたいのです。
わたしのサイトが続くかぎり、このブログがなくなってしまうことはありませんし、いつでも
更新しようと思っています。もしかしたら、1日に2回くらい更新することがあるかもしれません。



【本日の一曲】
「My(我的)」 by Seraphim(六翼天使)

ここで紹介する楽曲の中では、アジア出身のバンドが提供するものは初となります。台湾出身の
メロディック・スピード・メタル・バンド、Seraphim(六翼天使)の3枚目のアルバムにして日本デビュー作
「Ai」(2004年)に収められたパワー・メタル・ナンバーです。清らかなピアノの音色で始まるイントロに
続き、ヘヴィなギターの音がその後を追います。しかし基本はキーボードの音が主体になっていて、
優しい男性ヴォーカルのフレーズを追うように、女性ヴォーカルの素晴らしいソプラノが始まります。
歌唱的には女性ヴォーカルの主旋律に男性ヴォーカルがコーラスとして重なる形を取ってはいますが、
ヴァース部分では主に男性ヴォーカルが専任で歌うなど、楽曲としてのバリエーションの豊かさを
与えてもいます。傾向としてはゴシック・メタル・ナンバーであるともいえ、叙情的なピアノの音色は
プログレッシブ感を聴く者に与えるかもしれません。芳醇な余韻をもたらす名曲のひとつといえます。

2001年に前身であるFiredanceを発展的に解散させ、台湾で「六翼天使」としてデビューした彼らは、
その年の8月に第1作「不滅魂」を台湾でリリースしました。その完成度は世界的にも注目され、
英語版として「The Soul That Never Die」としても発表されました。その翌年に台湾でリリースした
第2作「平等精霊」でも英語版「The Equal Spirit」として世界的な好評を博し、日本のファンの間でも
輸入盤としてマニアの心を捕らえていきました。台湾出身という珍しさも手伝ってか、日本の輸入盤
市場では長い間ヒットチャートに入っていたといいます。それを受けてこの第3作の世界リリースは、
日本を先行させることになったのです。台湾で2004年2月に「愛」としてリリースされた本作は、
英語版となって日本に登場しても、題名は「Ai」でした。彼らはこの「愛」という文字の持つ音感を
大事にしたかったのかもしれません。アルバムの内容はメロディック・スピード・メタルですが、
中にはプログレッシブ感の要素が感じられたり、デス声を使用したものもあります。楽曲的には
優れたものが多いのですが、デス声の必要性がどのくらいあるのか不明です。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

昨日、阿倍晋三氏が自民党の新総裁に決定し、新しい政権に向けて始動したそうですね。
5年以上にもわたる小泉政権の後継者として、どのようにこの日本を導いていってくれるのか、
今から興味半分、ドキドキ半分といったところです。これについては、わたしなどが論ずる
分野でもないのかもしれませんが…新政権発足を機に、それを取り巻く報道のあり方について
わたしなりの意見を述べさせていただきたいと思います。

新総裁に就任し、いずれは首相にもなるであろう阿倍氏については、今のところ日本国内は
歓迎ムードのような気がします。といってもわたしは自民党員ではありませんので、この手で
投票用紙を投票箱に投函したわけでもありませんし、当選したからといって「あ、そう」といった
感想しか持てないのです。共和制国家と同じような、最高指導者選任の国民投票制があっても
いいように思うのですが…。それは地方の首長選挙までにとどめておくべきだったのでしょうか

それはともかく政権がスタートし、ある程度の期間が過ぎると、マスコミは徐々に批判の矛先を
最高権力者に対しても向け始めます。たとえ最高権力者に対してでも批判をすることのできる
報道風土というのは貴重なものですし、民主制社会の美点として賞賛するべきことなのですが、
「何だか首相が嫌い」というだけで理由もなく痛烈な批判をするだけでは、建設的ではありません。
それに批判ばかりして代案を示さないのでは、批判される方はそれに耳を傾けなくなりますよ。
誰でも、公然と批判されるのは気持ちのいいものではありません。もしその中に解決策が秘められて
いたり、多少なりとも賞賛が混じっていれば話は別ですが、解決策のない批判ばかりしていては、
せっかく提言するつもりで言ったことでも相手には伝わらなくなってしまうのではないでしょうか。

ときには批判ばかりでなく、賞賛したり評価したりすることも大事なことなのです。
評価されたことに対しては自信がつきますし、賞賛されれば物事に対するモチベーションもより
上がるものなのですが、批判ばかりではモチベーションを維持することはできなくなります。

建設的な会議を有効に進めるためのセオリーに「ブレーン・ストーミング」という理論があります。
他人の意見には批判を加えることを禁止し、自分の思ったことだけをどんどん提案するという
ミーティングの方法です。企画会議などに向いていると言われますが、会議室であっても
公然の場なのですから、企画会議でなくても他人に批判を加えつつ自分が話すというのでは、
新たな意見や提案が出てこなくなってしまうでしょう。だって、新しい意見など言おうものなら、
その都度徹底的に批判され、廃案にされるか保留にされるかしかないからです。

批判をするなら、代案を示しながらやりましょう。意味のない批判は人間関係を悪くします。
それは公職にある人たちに対しても同じことです。わたしはそうしたテレビ番組を見ると、
たとえ首相を支持していなかったとしても気分が悪くなります。



【本日の一曲】
「World Tomorrow」 by Eyes Of Shiva

ブラジル出身のメロディック・ヘヴィ・メタル・バンド、Eyes Of Shivaのデビューアルバム、
「Eyes Of Soul」(2004年)に収録されていたヘヴィ・ポップ・チューンです。彼らの音楽性が
遺憾なく発揮されたという点では、これは代表作ともいえるものです。静かなサウンド・エフェクトと
ピアノの音色から入った曲は、前奏を終えるとギターの重々しい演奏部分に入りますが、時代を
風刺し怒りに満ちたような歌詞とは裏腹に、ハイ・トーンでエネルギッシュなヴォーカルがそれを
うまく引き立てつつ曲が進行します。そしてこの曲だけに限らないのですが、曲の随所に出てくる
ブラジルらしい南米独特のリズムは、カーニバルが盛んなお国柄だけあって底抜けに明るく、
それでいてどこか影を背負ったかのように切ない、そんなリズム感に満ちています。ヴォーカルの
高音域で伸びやかに響く声は、この曲のリズムに驚くほどぴったりしており、楽曲的な素晴らしさも
感じさせてくれます。二番煎じなどではない、このバンドの魅力が満載の曲です。

ブラジルといえば、ネオ・クラシカル・バンドのAngraが世界的な大成功をおさめ、ヘヴィ・メタルの
新たなる中心地として目されるようになった国ですが、ここで紹介するEyes Of Shivaは、Angraの
そうした成功に憧れて登場してきた「第二のAngra」ともいえるいくつかのバンドのひとつです。
民族的なリズムを前面に押し出した音楽性、ハードでリズム感にあふれていながらどこか悲しい
叙情的な旋律、そして世間に対する批判の精神など、このバンドは多くのものをAngraから受け継ぎ、
ついに世界で知られる存在にまでのし上がってきました。本国でもこのバンドは有望視されており、
Angraのいくつかの名盤をプロデュースしたデニス・ワードが制作者に回り、さらに彼らの師匠でもある
Angraのギタリスト、キコ・ルーレイロも8曲目「Future」でギターソロを披露しています。

現在では2枚目のアルバム「Deep」(2006年)もリリースし、そこでは日本人なら思わずニヤリと
してしまう楽曲も収録しており、充分楽しめるアルバムを作るバンドへと成長しました。
以下のオフィシャル・サイトで、彼らの最新の情報を得ることができます。ブラジルっぽいです。
またそこからリンクしているMySpaceサイトで、最新アルバムの曲を試聴できます。
http://www.eyesofshiva.com/eng/Home.html

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

わたしの最近のブログを一度でもご覧になった方は、「今日の一曲」というコーナーが最後に
設けられているのに気づかれたことと思います。そしてそれは、わたしの音楽の趣味そのもの
でもあります。一部の人たちにはかなり愛聴されている分野ではあるのですが、まだまだ
市民権を得ていない「ヨーロッパ中心のメロディック・ハードロック/ヘヴィメタル」です。

いわゆる「ヘビメタ」というものに偏見がある方にとっては、わたしの趣味は理解できない
ことだと思います。しかし、わたしはそれに対して「理解してくれよ!」と主張する気持ちは
ありません。これはあくまで個人の好みの問題であり、他人にとやかく言われる筋合いの
ものではないと思うからです。こうした少数派の趣味を持つわたしですから、アキバ系だとか
メイド喫茶だとか、アニメおたくだとか、そういった人たちに対する偏見は持っていません。
むしろ、そうした趣味をもっと大事にしてもらいたいと思う者のひとりなのです。

ヨーロッパ系のハードロック・ヘヴィメタルの世界では、10万部が売れれば大ヒットです。
J-POPのような「売り上げ100万本、ミリオンセラー!」といったことはほとんどあり得ません。
しかし売れるものは売れるのです。その中には日本のリスナーを捕らえられずに日本市場から
静かに去っていくアーティストもたくさんいます。むしろ、日本で成功することは、彼らにとって
非常に重要なことだといいます。そのため、彼らは自分の母国でアルバムをリリースするより先に、
日本で先行リリースして反応を見てから、世界中に新曲を発表するといったことも頻繁に
行われているそうです。だからこそわたしは、日本人として耳の肥えたリスナーになりたいのです。

この分野にも、専門雑誌がいくつかあります。最近は発行部数も増えているそうですので、
いわゆる「ヘビメタ」好きな日本人も、確実に増えていることを感じさせられます。
しかしわたしは、そこでの音楽評は鵜呑みにしたりせず、参考にする程度にとどめています。
そのアルバムの出来が点数で表示されていますが、わたしにとって90点なアルバムと、
雑誌の編集者がいいと思ってつけた90点では、その意味するところが違うのだと思うからです。
ほとんどは店頭での試聴、パッケージに書かれた音楽内容の紹介文などを見て買っています。

もちろん、それで損をすることもたくさんありました。そしてその反面、掘り出し物に当たる
こともありました。その基準は自分でも定義づけるのが難しいのですが、やはりそこには
直感しかないのではないかと思います。試聴できる機械で流される曲があまりよくなくても、
実はその次にわたしの好みの曲が用意されているかもしれないのです。わたしは試聴することで、
その曲がどうかということよりも、その曲を聴くことで、そのバンドの全体像を知るように
心がけるようになりました。何度も失敗し、巨額の損金を発生させて、ようやく会得したのです。

でも実際、ジャケ買い(アルバムのジャケットだけを見て、好みの絵柄だったから買うパターン)
も何度もしました。そしてそれは、だいたいが失敗でした。もちろん、成功もありましたが。

直感というのは、働くときとそうでないときがあるんですよね。
「今は直感がMAXだ!」というのを知ることができるメーターがあればいいのですが…。



【本日の一曲】
「Divine Spark」 by Missa Mercuria

ドイツに本拠を置くBottom Row Promotionというプロダクション会社が、自社に所属するアーティスト
たちを集めてそこに有名なヴォーカリストを配して作成した壮大なロック・オペラのアルバム
「Missa Mercuria」に収録された、ヘヴィかつ疾走感に満ちたスピード・チューンの一曲です。
ギターとキーボードのヘヴィなリフから導入されるイントロを経て、ヴォーカルのハイ・トーンな
歌声が疾走感をかき立てます。間奏部分ではいかにも近未来的なキーボードの演奏にギターが
絶妙に絡み、さらにそれに続いて、アコースティック・ギターの音色をバックにヴォーカルが
しっとりとこの曲の主題を歌い上げます。控えめでありながらときにはハイ・トーンな歌声が
随所に入っており、メタル好きだけでなく、プログレッシブに傾倒している方にもお勧めできます。

ドイツのロック・オペラ・プロジェクト「Missa Mercuria」は、前述したようにドイツのメタル・
レーベル、Bottom Raw Promotionの主唱によって結成されました。このレーベルに所属する
グループのうちVanden Plas、Silent Force、Pink Cream 69といったアーティストが中心に
なっています。全曲の歌詞をSilent ForceのヴォーカリストD.C.クーパーが手がけているほか、
作曲はVanden Plasのギュンター・ヴェルノ、シュテファン・リル、Silent Forceのアレックス・
ベイロート、そしてPink Cream 69のアルフレート・コッファーが名を連ねています。
またヴォーカリストにはSilent ForceのD.C.クーパー、Vanden Plasのアンディ・クンツ、そして
サビーネ・エデルスバッカー(Edenbridge)、デイヴィッド・リードマンといったシンガーを
ゲストに迎えています。それぞれのバンドの個性が引き立った、ヘヴィかつ格調高い作品群です。

ここで紹介した「Divine Spark」は、以下のオフィシャル・サイトで試聴することができます。
英語サイトの方に入り、左にある「Sound」というボタンをクリックしてください。
http://www.missamercuria.com/

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

今回はブログを書くうえで欠かせない、顔文字について振り返りたいと思います。
顔文字にはちょっと馴染めない…という方も、一緒に考えていただければ幸いです。

皆さんは、日常生活にどれほどの顔文字を使っておられるのでしょうか?
わたしはブログを書くとき、gooブログに最初から用意されたGIFアニメ(とかとか)や、
自分で用意した顔文字(_| ̄|○とかΣ(・ω・ノ)ノとか)を使うようにしていますが、
さすがに、あまりしつこくならないようにしようとは考えています。内容にもよりますが。
それでも、たいてい語尾につけるだけですね。文中に使うことはあまりないと思います。

昨日のように哲学的な内容だったり、世相を憂えるような厳粛な文章だったりしたときには、
顔文字がふさわしくないことはよく知っております。だから内容によって、顔文字の量を
ある程度制限するようにはしています。というより、そういうものを付けようという気になりません。

しかし逆に、親しい間柄の人や仲良くしてもらっている先輩、いつも談笑している気の置けない
後輩たちなどには、よく顔文字を使いますね。GIFアニメなどよりも、文字だけでできている
顔文字が比較的多いような気がします。文字中心の方が、バリエーションが豊かですしね。
だからわたしは、同じ意味を有する顔文字を数種類用意しておき、ある程度のローテーションを
持たせながら使うようにしています。例えば「泣く」という顔文字の場合、多くの方は
(T_T)を思い浮かべるかと推定しますが、それ以外にも( p_q)エ-ンとか(ノД`)ウェェンとか、
凝ったものになると。・゜・(ノД`)・゜・。ウワァァンとかいったものも用意されています。こういうものは、
専門でデータベースにしているサイトがありますし、顔文字を効率的に文書に貼り付けるのに
適したソフト(多くはフリーソフト)も開発されています。実は顔文字は、身近な存在なのです。

実は顔文字は、文字によるもっとも手軽な、自分の意志を示すためのコミュニケーションツールです。
例えば「相手を指さしながらケタケタと笑っている」といったような堅い文章になるものも、
絵文字であれば。゜( ゜^∇^゜)σ゜。ヶヶラヶラヶラだけで済むのです。文字数も工夫すれば少なくなります。
相手に伝えるのがはばかられるような内容の文章でも、絵文字を1個いれることによって、
より柔らかく、親しみのある文章になってしまうのですから不思議です。これは日本語などの
アジア圏の言語でしかなし得ない、素晴らしいコミュニケーション手段ではないかと思います。

ただしメールなどで使う場合、UNICODE、SHIFT-JIS、UTF-8など多くのエンコードがありますが、
欧米で開発されたものである以上、半角のカタカナは文字化けしてしまう可能性があります。
使うなら全角を用いるか、ソーシャルネットワーク、ブログなどサーバ内で解決させる形式の
場でなら大丈夫だと思います。メールソフトの中には、半角カタカナを自動的に全角カタカナに
変換してしまうものもあります。もしお使いになる方は、注意した方がいいでしょう。

ちなみに、顔文字は等幅フォントではいけません。プロポーショナルフォントが最適です



【本日の一曲】
「Chemical Sunset」 by White Willow

ノルウェーのシンフォニック・プログレッシブ・メタル・バンド、White Willowの通算第4作目、
日本ではデビュー作となるアルバム「Storm Season」の最初に収録されている、叙情あふれる
シンフォニック・ナンバーです。導入部にあるフルートの音色がまるで日本の尺八のようにも
聞こえるところから、いきなり親しみが湧いてきます。楽曲自体はスロー・テンポのゴシック・
メタル形式ですが、本物の弦楽器や金管楽器を使っているため、まるで映画のサウンド・トラックを
聴いているかのような錯覚に捕らわれます。ゆっくりとした流れるような曲調ですので、
このアルバムのコンセプトと同様、窓の外で降り続ける雨をぼんやりと眺めているかのような、
けだるい雰囲気が漂います。全編を通じてテンポが変わらず、途中でギターやメロトロンも
混じりますが、楽曲の雰囲気を壊さないよう、あくまで控えめに、ダークな音色を奏でています。

White Willowは、これまで欧米のプログレッシブ・メタルのシーンで活躍してきた8人組バンドです。
ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードの他にもフルートとチェロを正式なメンバーの
中に組み入れ、流れるようであり、重苦しく暗いダークなプログレッシブをプレイしてきました。
しかし女性ヴォーカルのシルヴィア・エリクセンは、そのようなダークさに似合わないほどの
クリアで澄んだ歌声の持ち主で、楽曲全体にあふれるダークな雰囲気に一閃の光を投げかけている
かのようでもあります。その妙な対比もまた、このバンドの聴きどころなのかもしれません。

バンドのオフィシャル・サイトは以下の通りです。「MP3」のリンクをクリックすると、ここで
紹介している「Chemical Sunset」を含む5曲を試聴することができます。
http://www.whitewillow.org/


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

本日はガラにもなく、近ごろ考えていることを書き殴ってみたいと思います。
お読みになって共感なさるもよし、いや、それは違うと反論なさるもよし。
わたしの記事によって、皆さまの心に何か残れば幸いでございます┏○ペコリ

最近、わたしは人に対する思いやりとはどういったものか、考えるようになりました。
きっかけは、某消費者金融会社のテレビCMでやっている「大人のマナー」というフレーズです。
一人前の大人として認められるには、自分のことだけでなく他人のことも考え、世間のマナーを
しっかりと守り、また自分の大切な人には最高度の思いやりをもって接するべきだ…。
そう考えるようになってから、さて、わたしは果たして今まで、他人が考えることに配慮して
行動していたか? と気づいたのです。それに関しては主観ですので、何とも結論は導きがたい
とは思うのですが、これは思いやりのある行動だった、これは自分勝手な行動だった、などと
判定してくれるものがあれば便利なのにな…なんて、他愛のないことを考えたりしました。

相手の身になって考える、相手の心理を読み取る、何を望んでいるのかを察する。
それは大人として何としても身につけたい素養です。わたしも身につけるべく努力中です。
しかしながら、相手の心の中を完全に見通すことは、どうやっても不可能なことだと思います。
その日の行動を後から振り返って、「ああ、あのとき彼はこうしてほしかったのかなぁ」と
ひとり反省するのが関の山なのです。わたしも何度、そうした後悔を繰り返してきたでしょうか。

でも考えてみると、相手の身になって考えるように努力し、後でその不備を振り返るという、
その行動をしている段階で、すでにその人は真の紳士に向けて一歩を進めたことになるのでは
ないかと思うのです。相手の存在を無視して自分ばかり優先させ、相手の心理や希望に
配慮しようという気もなく、帰宅後に自分の行動を反省することもしないような者は、
いくら「俺は思いやりのある性格だよ?」などと吹聴していたとしてもまったく無意味です。

特定の相手と長く付き合うことで、何となくその人の考えていることがわかってきます。
後で考えてみて「ああ、彼女はあのとき、こんなことがしたかったのかぁ」という結論に
達したのならば、次に実践してみるといいでしょう。もしその結果が彼女の気持ちに
合致していたのならば、彼は彼女にとってかけがえのない存在に向けて、一歩進んだのです。

出会って最初の日から相手のことを完全に理解して、相手の考えるとおりに行動するのは、
どうやっても無理なことです。その日だけでは、わからないこともたくさんあるのです。
それならば、何日かかってもいい。お互い、相手を知ろうとする努力をするべきなのです。

中国の古典『中庸』という本の第3章3節に、このような言葉が出てきます。

「忠恕違道不遠、施諸己而不願、亦勿施於人、君子之道四、丘未能一焉、所求乎子以事父、
未能也、所求乎臣以事君、未能也、所求乎弟以事兄、未能也、所求乎朋友先施之、未能也」

(わたしのまごころで人を思いやるという忠恕は、道の実践そのものと少しもかけ離れては
いない。もしわが身に起こったとして望ましくないことなら、やはり他人にもそんなことを
仕向けてはならないのだ。君子の実践すべき道は4つあるが、このわたし(ここでは孔子)は
そのうちひとつでさえもできていない。第一には、自分の子供にこうあってほしいと望むことを、
みずから行って父のために仕えるということ、第二には、自分の家臣にはこうあってほしいと
願っていることを、自分から行って君主にお仕えすること、第三には、自分の弟にこうあって
ほしいと願うことを、みずから行って自分の兄に仕えること、第四には、自分の友達にこうあって
ほしいと思うことを、まず率先して自分から行うということ。これらがまったくできないのだ)

古いながらも、含蓄のある言葉だと思います。
これを知って以来、わたしはこの言葉を胸に、人間的に成長しようと努力しています。



【本日の一曲】
「Sakura Sakura」 by Ring Of Fire

かつてあのイングヴェイ・マルムスティーンとも一緒にプレイしたことのあるアメリカ人ヴォーカリスト、
マーク・ボールズのソロ・プロジェクトが発展したバンドRing Of Fireの第1作目に当たるアルバム
「The Oracle」の日本版ボーナス・トラックとして収録されていたスロー・バラードの一曲です。
この曲の伴奏はすべてキーボードのみで成り立っており、幻想的な雰囲気を巧みに醸し出すことに
成功しています。この曲は桜を見ながらというよりも、夜中に月を見上げながら聴くべきものです。
そしてこの曲の歌詞は、なんと日本語です。ヴォーカリストのマーク・ボールズがかつて来日公演の
際、シャレで演奏したものが大好評になったそうで、日本版ボーナス・トラックに入れられたのだ
そうです。キーボードを演奏するのは、Artensionでも活躍するヴィタリ・クープリです。
アメリカ人であるマーク・ボールズがしっとりと歌い上げる日本語の「文部省唱歌」は、どこか
アクセントがネイティブと違っていたりします。そこも聴きどころのひとつなのかもしれません。

マーク・ボールズは以前、自分のソロ・プロジェクトとして、Mark Boals名義で活動していました。
そこでリリースしたアルバム「Ring Of Fire」が、新たなネオ・クラシカル・メタルのプロジェクト
としての名前に選ばれたのです。ギタリストは有名なトニー・マカパイン、キーボードも超絶技巧の
ヴィタリ・クープリと、かなり贅沢なラインアップでした。この「The Oracle」はその期待のバンドの
第1作としてかなり注目されたものです。しかしもっぱらの噂では、期待ほどではなかったと
言われています。見どころとなる突出した楽曲(キラー・チューン)がなかったからというのが
その理由だそうですが、わたしが聴く限り、ヘヴィかつメロディアス、そしてキーボードとギターの
コラボレーションが引き立つ、素晴らしいアルバムだと思っています。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

今年の夏も、蒸し暑い日々が続いておりますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
8月もようやく半ばを過ぎ、もっとも辛い時期は越えたように思います。頑張りましょう。

…と、ここで夏は暑いということを書いたのですが、暑中見舞いを書くタイミングはすでに
過ぎてしまいました。今日から10日前の8日が「立秋」でしたので、暦の上では、その日から
もう秋が始まっているんですよね。だから暑中見舞いではなく、「残暑見舞い」ということに
なります。まあ、暦はあくまで旧暦がベースになっていますので、その季節感がそのまま現在の
太陽暦に当てはまるかどうかはわかりませんが、日本人らしい奥ゆかしさだと思います

まだ暑いとはいえ、秋の足音も徐々に近づいているのもまた事実だと思います。
昨夜、わたしは帰宅するときのバスを降りたとき、ヒヤリと涼しい風を感じたのです。
こんな風を感じたのは、何十日ぶりでしょう…というと大げさですが、夏には熱帯夜が続き、
夜間の気温も25度を下回ることがなく、その上、夜ですので湿気がすごくて、とてもそんな
ことを感じる余地はありませんでした。昨夜はそれを感じたというだけでもわたしにとっては
季節が進んだということを実感させる出来事だったのです。単に秋が待ち遠しいだけですが

8月、初秋のうちでもっとも危険かつ避けられないものは、南方海上で発生する台風ですね。
今年もまたいくつかの台風が本土をうかがい、大陸の方ではかなりの被害も出ているそうですが、
今年の夏は北からの寒気が強くて台風がなかなか北上できず、同じところに長い間とどまるという
現象が起きているそうですね。冬における寒気の強さにはほとほと困らせられたわけですが、
夏になってまでもこうして影響があるとは…。今年の冬もやっぱり寒いのかもしれません
9月11日が今年の「二百十日」に当たり、その近辺で数多くの台風が日本を襲うのだそうですが、
台風災害は地震と違い、予知できて被害を最小限にできる災害だと思います。
台風が大量に発生し、それが本土方面に到達するコースを取るようになると、それだけで
わたしは「もう秋になるんだなぁ…」と感じてしまいます。やはり、待ち遠しいだけなのですが

秋になると気候が穏やかになるだけでなく、わたしの場合は気分が晴れやかになってきます。
過ごしやすくなり、外出が増えるのも秋ですね。暑いのがとにかく苦手ですので…
ただし「天高く、馬肥ゆる秋」といいます。食べ過ぎないように気をつけたいものですね。
わたしは昨年の秋、ダイエットをしていました。従ってその恩恵にあずかっていないのです。
食欲の秋もいいですが、だからといって食べてばかりがいいというわけではありませんしね。

今年の晩夏から秋にかけて、またダイエットしようかと計画中です



【本日の一曲】
「Prophet Of The Last Eclipse」 by Luca Turilli

イタリアのシンフォニック・ネオ・クラシカル・メタル・バンド、Rhapsody Of Fireの中心人物で、
ギタリストのルカ・トゥリッリによるソロ・プロジェクト、Luca Turilliの通算2枚目となるアルバム
「Prophet Of The Last Eclipse」の最後に収録された曲で、アルバムのクライマックスを飾る
タイトル・チューンです。アルバム全体は宇宙を舞台としたエピック・ストーリーを形成しており、
この曲はその最後に当たります。前奏から入って徐々に気分を盛り上げ、よりクラシカルに、より
ヘヴィに推移していくその展開法は、彼が所属しソング・ライティングを手がけるイタリアのバンド
Rhapsody Of Fireに通じるものがあります。また本作では贅沢にも女性コーラスを随所に盛り込み、
まるで一編のオペラを鑑賞しているかのような感覚を、聴く者に与えようとしています。

前作「King Of The Nordic Twilight」において、Rhapsody Of Fireとは別路線のファンタジー
世界を構築したルカ・トゥリッリですが、今回は一転して舞台を宇宙に求め、一時期流行した
スペース・ロック・オペラをも踏襲するかのようなストーリー展開を見せています。
作曲パターンはRhapsody Of Fireとそれほど変わっていませんが、Rhapsody Of Fireがキーボードや
本物などによる金管楽器調クラシカル路線だったのに対し、こちらではキーボードでの音色を
重視しながらも、歌唱やギターでの旋律構成を主眼に置いているような気がします。
「ピコピコ」とも聞こえるキーボード音は、80年代のシンセサイザー的な、近未来を表現する
技法として使用されています。彼の楽曲の新境地として、興味深い一枚だと思います。

以下のAmazonのサイトで、輸入盤(イギリス版)の音源を試聴することができます。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00006LJ9S/sr=1-11/qid=1155889266/ref=sr_1_11/250-3300707-4788222?ie=UTF8&s=music
Rhapsody Of Fireのオフィシャル・サイトはこちらです。
http://www.rhapsodyoffire.com/index.php

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

わたしは、音楽がないと1日たりとも生きていられません。それほど音楽が好きです。
しかも聴くのは北欧メタルを中心としたメロディック・ヘヴィ・メタルばかりです。
電車やバスの中ではシャカシャカ音を出さないように気を配っていますが、この音がないと
わたしの気分が高揚しないというか、気持ちが乗らないというか、もはや中毒なのです

そんなわたしのよき音楽の友は、20GBもの大容量を誇るデジタルオーディオプレイヤーです。
ハードディスク式でアクセス速度は遅く、駆動部品を使っているので熱を持ったりします。
でもその大容量が魅力で、わたしは店頭で品定めを繰り返したあげく、買い求めたわけです。
使ってみると、やはりレスポンスの悪さはどうしても気になります。またパソコンと同じで、
ハードディスクの容量が増えると、それと比例してアクセス速度も遅くなっていきます。
それでもわたしは、このプレイヤーを使い続けようと思いました。使い続けていると、
レスポンスの遅さも、熱を持った本体も、何だかそれが可愛らしくさえ感じられるのです。

ところが、最近はその誇るべき大容量にも、かげりが見えるようになりました。
わたしの持っているCDをすべて録音し、わたしの持っている楽曲のライブラリを
構築しようとしていたのですが、3000曲を録音した頃から、容量がいよいよ足りなくなりました。
どれも最高音質で録音しているのですから、仕方がないといえば、仕方がないのですが…
今までは気に入った曲もそうでない曲も、あるものはすべて録音してきたのですが、
これからは従来のその路線も、考え直さなければならなくなるかもしれません。
そうでないと、これからも増えるであろうCDを録音することができなくなるでしょう。

思えば、ライブラリの容量がいつかは満タンになることは、わかっていたはずです。
でも実際にそれが現実になるまで、わたしは無分別に惰性で録音し続けていたのです

どのような道具も、使うのは人間です。道具が自分で使い方を考えてくれるわけではありません。
道具を生かすも殺すも、使用者である人間の使い方次第なのだということを、わたしはこの例から
少しだけ学んだような気がします。これからライブラリの内容を見直して、できるだけ多くの
空きを増やしていこうと思います。面倒ではありますが、これからもこのプレイヤーを、
わたしの音楽の友として使い続けるために。それが使用者としてのわたしの責務だと思います。



【本日の一曲】
「The Tales Of King Solitude 1:3」 by Clockwise

スウェーデンのメロディック・メタル・バンドFortuneのヴォーカリスト、ベニー・スドベリを
中心に1996年に結成されたプロジェクト、Clockwiseが最初にリリースしたアルバム
「Nostalgia」(邦題は「北欧のノスタルジア」)の最後に収録されたバラードです。
内容は滅び行く王国の君主である王が、蹂躙され踏みつぶされ、燃え上がる城を見つめながら、
いつか復讐してやろうと誓うという恐ろしい歌詞です。でも曲調は哀愁に満ちていて、
北欧メタルならではの様式美と旋律の秀逸さに彩られた作品で、まさに名曲です。
その名の通り、同作はシリーズで、当初は3曲が作られる予定だったようです。
しかし現実には、この後にリリースされた2枚目「Naive」に収録された2:3があるだけで、
ついに今に至るまで、3曲目はリリースされていないのです。まさに不遇のシリーズです。

邦題「北欧のノスタルジア」は、北欧メタルファンであれば即買いしてしまいそうな題名です。
その通り、このアルバムは「これぞ北欧メタル!」と言わんばかりの哀愁に満ちた
ローテンポ~ミドルテンポの美旋律曲ばかりが揃っています。そういう意味では、
北欧メタルに少しでも傾倒した者であれば、持っていて損はないアルバムといえます。
ところがこのCDはすでに生産しておらず、中古が細々と出回っている程度です。
先ほど調べたところ、新品は4,200円と、発売時の2倍近い価格がつけられていました。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

夏に近づくと、南の島観光のポスターやパンフレットが増えてきますね。

わたし自身は暑がりで汗かきなので、あまり蒸し暑いところには行きたくないのですが、
南の島のあの明るい太陽、きれいで透明な海、そして素朴な文化や現地の人々など、
そんな雰囲気そのものは大好きだったりします。今までに行った海外旅行も、
どれもが南方のビーチリゾートだったりしましたので(あまり経験はないのですが)

でもわたしは、サイパンとかグアムとかのマリアナ諸島に行ったことはありません。
日本からも飛行機ですぐですし、いつかは行ってみたい場所でもあるのですが、
どうもこの時期になると、戦争のことを思い出さずにはいられなくなります。
最近ではニュースで取り上げられることもなくなり、この時期になってもそんな話題は
あまり聞かないのですが、先日どこかの旅行番組でサイパンを取り上げていたのを
観たとき、1時間半の放映時間の間に、戦争の話が全然出てこなかったのに衝撃を
覚えました。そればかりか、サイパン島最北端のマッピ岬(スーサイドクリフ)では、
ただ海のきれいさと切り立った崖の高さ、延々と続く海岸線の美しさだけを宣伝した
だけだったのです。わたしはちょっと期待していただけに、すごく残念でした。

わたしは今、ある本を読み始めたところです。
『サイパン肉弾戦』(光人社・刊、定価619円)という文庫本ですが、さすがに時期が
タイムリーでしたので、思わず買ってしまいました。でも平積みがもう残り1冊に
なっていたので、それなりにサイパン島が人々の関心を集めているのかもしれません。

まだ読み進めていませんので、内容については何も語れないのです。お許しを
でもわたしは、この本の著者に見覚えがあったので、思わず手に取ったのです。
もう故人ですが、著者は平櫛孝氏といい、当時は陸軍中佐でした。
いわゆる兵隊の回顧録といったものはすでに何度か読み、さらに下級将校の自伝も
読んだことがあります。しかしこの平櫛氏は当時サイパン島を守っていた第31軍の
参謀として赴任し、さらに実戦部隊である第43師団の参謀も兼務し、そればかりでなく、
現地に残った海軍の中部太平洋艦隊の参謀までしていたという人だったのです。
しかも生きて帰った人たちの中では、最高位に属する人のひとりだったこともまた、
わたしの興味を惹いたのです。これから楽しみに、少しずつ読んでいこうと思います。
これによって、最高司令部の内情や現実なんかも、知ることができるかもしれません。

昨年わたしは、靖国神社にある軍事博物館「遊就館」に行ってきました。
そこの広間の隅に、きれいに塗り直された97式中戦車が展示されていました。
来場者に見える方にはほとんどキズがなく、まさに造られた当時のままの姿でしたが、
わたしがふと壁側に回ってみると、思わず息を飲んでしまったのを覚えています。
そこには敵戦車に直撃されたときにできた、大穴が空いていたのです。
その戦車は、サイパン島から掘り出されたものだと聞きました。
できれば、穴の空いた方を来場者に見えるようにしてほしかったなあ…。

97式中戦車の向かい側には、一本のシャープペンシルが展示されています。
それはレイテ沖海戦に先立ち、フィリピンのシブヤン海で撃沈された戦艦「武蔵」の
艦長・猪口敏平少将が幕僚に別れを告げるとき、副長にそっとこれを手渡し、
「これを私の形見とせよ」と言われたときのシャープペンシルなんだそうです。

何だか、歴史の証人を見たような気分になれます。
宣伝するわけではありませんが、興味がありましたら行ってみてください。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

本日2度目の投稿です。今までのわたしでは考えられないことです。
今まではネタがあっても、次の日のために出し惜しみをしていたくらいなのに…。
わたしも突然一皮むけて、どこかが変わったのかもしれません

今回の内容は、本日の第1回目に書いたものとやや関連しております。
そこでは万年筆の書き味についてわたしの思うところをダラダラと書いたわけですが、
キーボードでの書き味についても書かねば、すべて語り尽くしたことにはならないのです。
まあ、語り尽くすとまたネタがなくなるから、ほどほどにしてもいいんですけど…。
ああ、やはりわたしの根性は以前と変わっていなかったんですね

わたしは現在、ノートパソコンのキーボードでこれを入力しております。
ノートパソコンのキーボードはキーピッチがデスクトップと同じであるだけでなく、
指が実際に当たる叩打面(入力される文字が印字されている面)が広いので、
すごく打ちやすいのです。しかもキーストローク(沈み込み)も浅いので、
ずっと打っていても疲れないという利点があるのです。ただもっと深く打ち込みたいという
人には不向きなのかもしれませんが(そんな人いるのかな?)…。

ところがわたしが職場で使っているデスクトップ(デ○製)のキーボードは、
この叩打面がすごく狭いのです。要するに、隙間だらけなのです。
打ちづらいことこの上ありません。ノートであれば10秒で打ち終えたものでも、
あのキーボードでは5秒ほど余計にかかるくらい、打ちにくいのです。
職場にはデ○製の他にもH○製がもう1台あるのですが、あれは叩打面が広くて、
それほど気にならずに打ち続けることができるのですが…。

慣れれば速くなるのかもしれませんし、練習するためにはちょうどいいのかもしれませんが、
わたしとしてはすごく打ちづらいので、他社並みにしてくれないかな~、と思います。
キーボード自体が超コンパクトサイズなので、機能性そのものは評価するんですけどね。
これも万年筆と同じ、キーボードでの「書き味」というべきなのかもしれません。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。

フォントというのは日本語では「書体」と訳しますが、現在では単なる書体ではなく、
コンピュータ技術のひとつの分野となりつつあります。実際、フォントを新たに作る
ことを目的としたソフトも売られていますし、Windowsでは「外字エディタ」という、
特定の文字の形を変えてしまうことのできるアクセサリが標準で付いています。
こんなの使っている人なんて、本当にいるのかな? と思っていたわたしですが、
フォントを作って配布している人って、結構多いんだということを知りました。

話は変わりますが、わたしはWindowsのシステムフォントである「MS UIゴシック」が大好きです。
どうして好きなのか、自分でもわかりませんけど、とにかく好きなのです。
しかしこれをテキストエディタで使おうにも、プロポーショナルフォントですので、
使えないのです。テキストエディタは大体、等幅フォントを使わせますからね。
MS UIゴシックが使えるテキストエディタは「メモ帳」くらいのものです。
でも、何が悲しくて「メモ帳」なんか使わなくちゃならないのか…と思います。

そういうわけで、わたしは自分のサイトでも、MS UIゴシックを使おうと画策しています。
Macintoshの人には関係のない話ですので、「OSAKA」で我慢してもらうとして…。
どうしてかというと、文字間隔が詰まっているので、等幅フォントよりも多くの情報を
1ページ内に盛り込むことができるからです。「MS Pゴシック」よりもさらに。
「俺はMS UIゴシックなんて嫌だ!」という人でも、CSSを使えば半ば強制的に、
MS UIゴシックを使わせることができるわけですよ。へへへ(←?)
ブラウザで「CSSを使わない」にされると、元も子もないのですが(-_-;)

やっぱりMacintoshの人も、「OSAKAなんて嫌だ!」と思っている人もいるのかな?
そうであれば「ヒラギノ角ゴ」とかにしますけど、わたしはよく知らないし…。
職場にあるMacは、いまだにMac OS 9.2だったりしますので…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。
本日は、先週開幕したトリノ冬季オリンピックについて考えます。

まだ現時点ではわかりませんが、メダルは遠いですね。
このままでは日本人の誰も、表彰台に上がれないかもしれないじゃないですか。
もちろんまだ日程はたくさん残っていますし、そうとは言い切れないのですが…。
わたしはテレビで中継を観ている(しかも深夜)うちに、そう思うようになりました。

確かに日本人選手はワールドカップなどで輝かしい実績を残しています。
以前に比べて体格および技量も向上し、世界と充分戦えるだけの力を得ています。
でもわたしがテレビを観つつ思ったのは、「そんなに世界は甘くないな」ということです。
日本の躍進を前にした世界は、どうにかしてこれを上回ろうと、あらゆる努力を惜しみません。
そしていつの間にか、日本は置いてきぼりにされてしまうんでしょう。
さらに日本の選手は、大舞台に臨んだときに力を出し切れない、そんなように思います。
個人個人ではすばらしい力量を持っていても、それを発揮する段階で緊張したりして、
せっかくの能力を生かし切れていないのではないかと思うのです。
同じ日本人であるわたしが、本番での詰めが甘いのと同じように…

ここで昔の話をしましょう。
60数年前の戦争で、日本海軍は物量に劣り、弱小な兵力しか持てないでいました。
しかし兵隊の技量は世界の群を抜いていました。毎日毎日訓練を続けて、
ついに夜でも目が見えるようになり、45秒で潜水艦の中に全員飛び込めるようになり、
空中戦で後ろに付かれてもすぐに判別できるようになったりしたのです。
まさに「ニュー○イプ」ででもあるかのように(笑)
しかしそれを目にした連合軍は、どうにかしてこれを封じてやろうと、
国を挙げて研究に乗り出しました。そうして生まれたのが、レーダーです。
一方、日本海軍は従来通りの精神主義・訓練第一主義をいつまでも改められず、
「ウチの兵隊は世界で一番強い」とずっと思いこみ続けました。
そういうわけでレーダー兵器の開発では連合軍に大幅に水を空けられてしまいます。
そしてようやく気づいたときには、もう手遅れでした。
アリューシャン列島に近づいたある潜水艦は、浮上した途端にどこからともなく、
砲弾を浴びせかけられたのです。敵はどこにも見えません。見渡す限りの濃霧です。
でも砲撃はものすごく正確でした。潜水艦は大破したうえ敵を発見することもできず、
九死に一生を得てようやく基地に逃げ帰りました。これがレーダー射撃です。
日本は結局戦争が終わるまで、この技術に追いつくことができませんでした。

…何だか状況が似ているような気がしてなりません

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも。「南風博物館」館長の南風です。
前回に引き続き女性天皇について考えますが、今回は日本の天皇家と同じくらい、
女性の君主が珍しかったエジプトとの比較をしながら考えたいと思います。

日本の天皇制において、2600年以上もの歴史のうち、女性は8人しかいません。
伝説上の人物も含めて120名以上の天皇が今までに即位したのに、驚くべき少なさです。
やはり君主の地位は男性が守るべきという、男尊女卑の風潮がそうさせたのかもしれません。
現代において王制を布いている国のうちには女性の君主も多く、共和制などにおいても
女性の大統領や首相は数多くいます。それもやはり時代の要求なのでしょうね。
日本もその風潮に逆行することは許されないと思うのですが、
「万世一系」を標榜する限り、父系相続を今さら変更することはできないのでしょう。

さてエジプトの歴史は、約3100年もの長きにわたります。
その中で即位し、実在したことが判明している王(ファラオ)はこれまでに
200人程度です。実際はもっと多かったはずですが、文献に残っていない人物も
多いと聞いています。文献に残り、遺品がない限り、後世には伝えられないからです。
その中で即位したことが分かっている女王は、全部で5名しかいません。
しかもそのうち2名は、幼い男性ファラオとの共同統治という形式をとっていたため、
単独での統治を行った女王はそのうち3名しかいないことになります。

エジプトの歴史上において即位した女王をリストアップしてみると、
・セベクネフェル(第12王朝、在位前1763年頃~前1759年頃、単独)
・ハトシェプスト(第18王朝、在位前1473年頃~前1458年頃、共同)
・タウセルト(第19王朝、在位前1188年頃~前1186年頃、単独)
・ベレニケ4世(プトレマイオス朝、在位前58年~前55年、単独)
・クレオパトラ7世(プトレマイオス朝、在位前51年~前30年、共同)
以上のわずか5名です。
有名なハトシェプスト女王とクレオパトラ女王は共同統治だったわけですね。

ここでは共同統治をした2名を除いて、単独統治をした3名について考えます。
単独統治をするということは、その家系に男性の王位継承者がいなくなったことを意味します。
エジプトの王朝は一部を除いて家系そのものを指していますので、
女王が即位するということは、その家系の最後を示していることもあります。
単独統治をした3名のうち、実に2名が王朝最後の王であったことがその証拠です。
第12王朝のセベクネフェル女王と第19王朝のタウセルト女王がそれに当たりますが、
彼女らは両方とも、政治の混乱と文化の退廃の中で難しい統治を迫られました。
しかも両方とも、5年以内の短命です。それもまた時代背景を映してもいます。

わたしは今回の調査をするうえで、女性君主の誕生は前時代の君主制度において、
必ずしも歓迎されたものではなかったのだということを思いました。
しかし現在、その考え方は当てはまらないのではないかとも考えています。
かつて女性は社会的地位が低いばかりでなく、教育水準も男性に比べて低かったのです。
その中において統治者に就かねばならなかった彼女たちの苦衷はいかばかりだったでしょう。
でも今は教育水準の点でも社会的地位の面でも、昔に比べれば飛躍的によくなっています。
女王の存在を疑問視する必要は、もはやなくなったのではないでしょうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。
近ごろ政局をにぎわし、にわかに小泉首相の諦めムードでしらけてしまった、
皇室典範改正問題に関して書き込もうと思います。

今回の改正の主題は、女性にも皇位継承を認めるかどうかですね。
結論から言うと、わたしは「別にいいんじゃないですか」という考えです。
わたしの知識の範囲ですと、女性天皇を認めたからといって誰が損をするのか、
今のところ思いつきません。そんなに大きな問題なのでしょうか…。
皇室典範じたい、明治時代にできた規定のようなものなので、すでに100年以上も
経過しています。刑法や商法は何度も改正しているのに、どうして皇室典範は
改正するためにこれほどの労力を必要とするのでしょうか。まさに憲法並みです。

さて、日本の天皇制はすでに2600年以上も続いて(いることになって)います。
初代の神武天皇は紀元前660年に即位したことになっていますので、それだけの年数に
なるのです。でもよく考えたら、即位年のはっきりしている推古天皇までに32人の
天皇が即位したことになっているのですが、約1100年を32人で統治したことになるとすれば、
一人あたり34.4年にもなります。やはりこれも、伝説の域を出ないのでしょうか…。

女性天皇で最初の人物は、さきにも書きましたが推古天皇だそうです。
その当時はやはり皇族であっても、病死したりクーデターの犠牲になったりして、
男性の後継者がいなくなりやすかったようです。推古天皇が即位した592年から、
飛鳥時代が終わるときに在位した女帝の称徳天皇が亡くなった770年までの178年間に、
実に8代もの女性天皇が即位しています(うち2名は再位なので都合6名)。
奈良時代以降は男性天皇の時代になり、女帝はほとんど出なくなりました。
称徳天皇以降から現在までの1236年間で、女性天皇はなんと2名だけなのです。
明正天皇(在位1629年~1643年)、後桜町天皇(在位1762年~1770年)の2名ですが、
ふたりとも江戸時代の人物です。いったい何があったのでしょうかね。

今回はちょっと資料的に女帝を考えてみましたが、次回は女帝(女王でも可)について、
わたしの専門であるエジプトを引き合いにして概観しようと思います。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうも、「南風博物館」館長の南風です。
今日は友人との会話で「10年前には何をしていた?」という話題になった際に、
わたしは自分の10年前を久々に思い起こすことになりました。それがあまりに懐かしく、
かつ嬉しかったので、本日のブログのテーマとさせていただきました。

10年前、わたしは大学生でした。
勉強は試験の前にしかしません。でも授業にはきちんと出席して、ノートを必死でとっていたものです。
そのノートは同級生の間で評判になり(70人もいましたが…)、争奪戦になったほどでした。
わたしはいつしかそれを意識して、自分だけでなく他人にもわかりやすいノートにするべく、
先生の話した内容はもとより、自分の考えや知識をもとにした簡単な解説まで書き込んで、
読めば誰でも授業の内容がわかるくらいのノートを目ざしたものです。
ちなみにわたしが勉強したのは歴史学でした。珍しいかもしれませんが…。
歴史学なんか勉強しても世の中の役に立たないかもしれません。しかし面白かったですよ。
女子学生もかなりいました。かつて歴史は男のロマンだったように思っていたんですが(´ー`)

不思議なことに、10年前のことであるのに、かなり鮮明に覚えているものです。
わたしは大学でクラブ活動に打ち込みました。文芸の道を究めようという集まりです。
各自で作品を持ち寄り、それを会合の際に批評しあうのです。
わたしもかなりやられたものです。しかしそれが、現在のわたしの糧になっているのは確かです。
よく「知謀湧くがごとくに」という天才がたびたび話題になったりしますが、
わたしはまさに「湧くがごとくに」文章が頭から出てくるようにまでなりました。
あれから10年、わたしは果たして成長したのか…不安になることもありますが、
これからの人生を送っていくうえで、今から10年前の日々は決して無駄ではなかったと思います。

歴史の研究は趣味で今でも続けています。それも10年前に、ある授業で、
歴史研究のセオリーや因果関係の分析方法などを叩き込まれたからです。
あのときは苦しくて仕方ありませんでしたが、今では感謝しても感謝しきれません。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ