同じ頃。
チェンマイのネオジェネシス社では、コングを含めた10人の社員が、来年から始まる中国支社建設プロジェクトについての打ち合わせが終わったところだった。
机上に広げていた資料を片付けているコングに、課長のナラックが話しかけてきた。
「コング、よく決心してくれたな」
ポン、と肩に手を置いてにこやかに話すナラックを見上げたコングが、笑顔を返しながら答える。
「はい、返事が遅くなってすみませんでした」
「いや、内心良い返事をもらえると信じてたから、実はそんなに心配してなかったんだ」
そう言ってニヤリとほくそえんだナラックに、思わずコングが苦笑いを返す。 すると、不意にコングの耳元へ顔を近づけたナラックが、小声で囁いた。
「で、彼女は説得できたのか?」
予想もしない言葉に、ぎょっとしたコングがナラックを見返す。 しばしどう答えればいいかわからず、ひきつった苦笑いを浮かべる。
自分の台詞がコングを困らせたと悟ったナラックが、すかさず冗談だよと笑いながら離れていった。
遠ざかる彼の背中を見つめながら無意識に深く息を吐いたコングに、今度は先輩であるジェーンが話しかけてきた。
「・・・あなたならこのプロジェクトを断るわけないって信じてたわ。 これから数ヶ月間、一緒に頑張りましょうね」
どこか自信に満ちた笑顔で手を差し出す彼女の、少しきつめのパヒュームが鼻につく。 だがコングはしっかりと笑顔を貼り付けて、よろしくお願いします、と告げながら握手を交わした。
「でも、先輩お子さんまだ小さいのに、よく中国行きを決心しましたね」
ジェーンには昨年生まれたばかりの子供がいることを知っているコングが、素朴な疑問を投げかけた。
「このプロジェクトは、私にとって何よりも大切なことなの。 こんなチャンス、もう二度とないかも知れないから」
「旦那さんは反対しなかったんですか?」
「はじめはね。 でも、これがどれだけ重要なことか何度も訴えたら、ようやくOKしてくれたわ」
ニッと笑ってそう言うジェーンの気持ちが、正直コングにはよくわからなかった。
家族や恋人が何よりも大事なコングには、ジェーンのように子供を投げ打ってまでも仕事を優先するなど考えられないことだ。
事実、この中国行きも、アーティットが後押ししたから決心したようなものだ。 彼がもし行ってほしくないと言っていれば、迷うことなく辞退しただろう。
とはいえ、彼がそんなことを言うはずないのは、百も承知だが。
「・・・ところで、打ち合わせで決まった買い出しのことだけど」
ジェーンの言葉で我に返ったコングが、雑念を振り払って彼女に向き直る。
先ほどの打ち合わせの中で防寒対策の話になり、一番若輩者のコングと、次に若いジェーンが冬用衣服を購入しに行くことに決まったのだった。
熱帯気候のタイとは違い、1月の中国は厳寒だ。 冬用の作業服と、防寒着を10人分購入しなければならない。
「今週中でもいい? 都合の悪い日ある?」
「いえ、いつでも大丈夫です。 先輩の都合が良い日でいいですよ」
「そう、じゃあ土曜日でもいい?」
「え、平日じゃないんですか?」
業務上の買い物なのでてっきり仕事中に行くと思っていたコングが、意外そうに尋ねる。
「今週は私の予定が詰まってて、休日しか空いてないのよ。 来週は一週間研修で出張だし」
「そう・・・ですか。 わかりました」
この週末はバンコクへ帰ろうと思っていたが、仕方がない。 もし買い物が早く終われば、その足で向かってもいい。
そんなことを内心考えていると、ジェーンが思い出したように付け足した。
「あ、そうだ。 買い物が終わったら、新しくできた中華料理のお店へ行かない? 私がご馳走してあげる」
「え? そんな、いいですよ」
「遠慮しなくていいわよ。 車出してもらうんだし、私の気持ちだから」
「でも・・・」
買い物をしたうえ食事までとなると、たっぷり一日かかってしまう。 何しろ防寒着を売っている店がチェンマイにはなく、車で2時間近くかかるところまで行かなければならないのだ。
だがコングの胸中を知る由もないジェーンは、単純に遠慮をしているだけと思っているようだ。
「ね、行きましょ。 とっても美味しいらしいから」
これ以上返事を渋るとジェーンの機嫌を損ねてしまうと危惧したコングが、仕方なく頷いた。
「・・・はい、ありがとうございます」
ようやく思い通りの返事を聞いたジェーンが、満面の笑みを浮かべた。
「じゃ決まりね。 当日はなるべく早いうちに出た方がいいわね。 9時くらいに出発する?」
「そうですね。 住所教えてもらえたら先輩の家まで迎えに行きますよ」
「ほんと? じゃあそうしてもらおうかな。 あとで住所教えるわね」
ぱっと明るい笑顔になったジェーンが、嬉しそうに答える。 浮かれた口調で、まるでデートの約束みたいね、と楽し気に呟く。
「そんなこと言うと、旦那さんに叱られますよ」
ぼそりと低く零したコングの言葉を聞いて、ジェーンの表情が一瞬にして曇る。
「シラけること言わないでよね。 旦那のことなんか口にしないで」
口を尖らせて不服そうにぼやくジェーンを、コングが不思議そうに見る。 当たり前のことを言ったつもりだったが、何が彼女を不機嫌にさせたのだろうか。
「・・・あの?」
何か気に障ることでもあったのか訊こうとしたコングを、ジェーンが遮る。
「もういい。 とにかく土曜日、頼んだわよ」
それだけ言い残すと、さっさと背を向けて立ち去ってしまった。
「・・・なんだかな・・・」
感情の起伏が激しい彼女の言動には、いつも振り回される。 それがコングには少々頭痛のタネだった。
何かにつけてコングに構いたがるのも、コングの私生活にまで干渉してくるのも、正直面倒に思っていた。
これから数ヶ月間そんな彼女とともに行動することを思うと、気分が重くなりそうだった。
だが、そんなことをうじうじ考えていても仕方がない。 もう決まったことだ。
そして何より、この中国行きは自分で決めたことなのだ。 誰に強制されたわけでもない。
アーティットの助言を受けて、すべてを承知のうえで答えを出したのだから。
そう心の中で呟くと、ようやく胸に広がっていた靄が晴れた気がした。
もうすっかり人気がなくなった会議室で一度だけ深呼吸をすると、コングは書類を手にドアへと向かった。
チェンマイのネオジェネシス社では、コングを含めた10人の社員が、来年から始まる中国支社建設プロジェクトについての打ち合わせが終わったところだった。
机上に広げていた資料を片付けているコングに、課長のナラックが話しかけてきた。
「コング、よく決心してくれたな」
ポン、と肩に手を置いてにこやかに話すナラックを見上げたコングが、笑顔を返しながら答える。
「はい、返事が遅くなってすみませんでした」
「いや、内心良い返事をもらえると信じてたから、実はそんなに心配してなかったんだ」
そう言ってニヤリとほくそえんだナラックに、思わずコングが苦笑いを返す。 すると、不意にコングの耳元へ顔を近づけたナラックが、小声で囁いた。
「で、彼女は説得できたのか?」
予想もしない言葉に、ぎょっとしたコングがナラックを見返す。 しばしどう答えればいいかわからず、ひきつった苦笑いを浮かべる。
自分の台詞がコングを困らせたと悟ったナラックが、すかさず冗談だよと笑いながら離れていった。
遠ざかる彼の背中を見つめながら無意識に深く息を吐いたコングに、今度は先輩であるジェーンが話しかけてきた。
「・・・あなたならこのプロジェクトを断るわけないって信じてたわ。 これから数ヶ月間、一緒に頑張りましょうね」
どこか自信に満ちた笑顔で手を差し出す彼女の、少しきつめのパヒュームが鼻につく。 だがコングはしっかりと笑顔を貼り付けて、よろしくお願いします、と告げながら握手を交わした。
「でも、先輩お子さんまだ小さいのに、よく中国行きを決心しましたね」
ジェーンには昨年生まれたばかりの子供がいることを知っているコングが、素朴な疑問を投げかけた。
「このプロジェクトは、私にとって何よりも大切なことなの。 こんなチャンス、もう二度とないかも知れないから」
「旦那さんは反対しなかったんですか?」
「はじめはね。 でも、これがどれだけ重要なことか何度も訴えたら、ようやくOKしてくれたわ」
ニッと笑ってそう言うジェーンの気持ちが、正直コングにはよくわからなかった。
家族や恋人が何よりも大事なコングには、ジェーンのように子供を投げ打ってまでも仕事を優先するなど考えられないことだ。
事実、この中国行きも、アーティットが後押ししたから決心したようなものだ。 彼がもし行ってほしくないと言っていれば、迷うことなく辞退しただろう。
とはいえ、彼がそんなことを言うはずないのは、百も承知だが。
「・・・ところで、打ち合わせで決まった買い出しのことだけど」
ジェーンの言葉で我に返ったコングが、雑念を振り払って彼女に向き直る。
先ほどの打ち合わせの中で防寒対策の話になり、一番若輩者のコングと、次に若いジェーンが冬用衣服を購入しに行くことに決まったのだった。
熱帯気候のタイとは違い、1月の中国は厳寒だ。 冬用の作業服と、防寒着を10人分購入しなければならない。
「今週中でもいい? 都合の悪い日ある?」
「いえ、いつでも大丈夫です。 先輩の都合が良い日でいいですよ」
「そう、じゃあ土曜日でもいい?」
「え、平日じゃないんですか?」
業務上の買い物なのでてっきり仕事中に行くと思っていたコングが、意外そうに尋ねる。
「今週は私の予定が詰まってて、休日しか空いてないのよ。 来週は一週間研修で出張だし」
「そう・・・ですか。 わかりました」
この週末はバンコクへ帰ろうと思っていたが、仕方がない。 もし買い物が早く終われば、その足で向かってもいい。
そんなことを内心考えていると、ジェーンが思い出したように付け足した。
「あ、そうだ。 買い物が終わったら、新しくできた中華料理のお店へ行かない? 私がご馳走してあげる」
「え? そんな、いいですよ」
「遠慮しなくていいわよ。 車出してもらうんだし、私の気持ちだから」
「でも・・・」
買い物をしたうえ食事までとなると、たっぷり一日かかってしまう。 何しろ防寒着を売っている店がチェンマイにはなく、車で2時間近くかかるところまで行かなければならないのだ。
だがコングの胸中を知る由もないジェーンは、単純に遠慮をしているだけと思っているようだ。
「ね、行きましょ。 とっても美味しいらしいから」
これ以上返事を渋るとジェーンの機嫌を損ねてしまうと危惧したコングが、仕方なく頷いた。
「・・・はい、ありがとうございます」
ようやく思い通りの返事を聞いたジェーンが、満面の笑みを浮かべた。
「じゃ決まりね。 当日はなるべく早いうちに出た方がいいわね。 9時くらいに出発する?」
「そうですね。 住所教えてもらえたら先輩の家まで迎えに行きますよ」
「ほんと? じゃあそうしてもらおうかな。 あとで住所教えるわね」
ぱっと明るい笑顔になったジェーンが、嬉しそうに答える。 浮かれた口調で、まるでデートの約束みたいね、と楽し気に呟く。
「そんなこと言うと、旦那さんに叱られますよ」
ぼそりと低く零したコングの言葉を聞いて、ジェーンの表情が一瞬にして曇る。
「シラけること言わないでよね。 旦那のことなんか口にしないで」
口を尖らせて不服そうにぼやくジェーンを、コングが不思議そうに見る。 当たり前のことを言ったつもりだったが、何が彼女を不機嫌にさせたのだろうか。
「・・・あの?」
何か気に障ることでもあったのか訊こうとしたコングを、ジェーンが遮る。
「もういい。 とにかく土曜日、頼んだわよ」
それだけ言い残すと、さっさと背を向けて立ち去ってしまった。
「・・・なんだかな・・・」
感情の起伏が激しい彼女の言動には、いつも振り回される。 それがコングには少々頭痛のタネだった。
何かにつけてコングに構いたがるのも、コングの私生活にまで干渉してくるのも、正直面倒に思っていた。
これから数ヶ月間そんな彼女とともに行動することを思うと、気分が重くなりそうだった。
だが、そんなことをうじうじ考えていても仕方がない。 もう決まったことだ。
そして何より、この中国行きは自分で決めたことなのだ。 誰に強制されたわけでもない。
アーティットの助言を受けて、すべてを承知のうえで答えを出したのだから。
そう心の中で呟くと、ようやく胸に広がっていた靄が晴れた気がした。
もうすっかり人気がなくなった会議室で一度だけ深呼吸をすると、コングは書類を手にドアへと向かった。