kakaaの徒然な日記

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>あいちトリエンナーレ、「少女像」問題を考える

2019-08-04 02:35:27 | ネトウヨ・ヘイト・#自公維新は要りません
あいちトリエンナーレ、「少女像」問題を考える


 8月1日から開催された「あいちトリエンナーレ」(~10.14)の中で企画された「言論の不自由展・その後」が開会3日にして中止に追い込まれた。この事態は日本社会の現状が非常に深刻な危機にあることを示している。津田大介芸術監督は批判の電話などが「想定を超えた」と述べ、テロや脅迫のような事例もあり、「対応する職員が精神的に疲弊している」と語っている。つまり「芸術祭の企画が犯罪によって中止に追い込まれた」のである。日本の「表現の自由」は非常に危ういところに来ている。

 「トリエンナーレ」(Triennale)とは、もともとイタリア語で「3年ごと」の意味で「3年ごとに開かれる国際美術展」を指している。(ちなみに2年ごとは「ビエンナーレ」。)日本でも新潟の「大地の芸術祭」や香川・岡山の「瀬戸内国際芸術祭」など各地でたくさん開催されている。「あいちトリエンナーレ」は2010年に始まって、今年が4回目。一回ごとに違った芸術監督が選任され、名古屋を中心に愛知県内で開催されてきた。今回は参加するアーティストを男女同数に選考したことが特徴。映像部門もあって、ホドロフスキーの新作が上映されるというチラシを見たけど、まあ名古屋までは行けない。

 今回特に問題にされたのは「芸術の不自由典・その後」に出展された「少女像」(慰安婦像)である。これは「公立美術館などで展示不許可になった作品」を集めている。朝日新聞の記事によると、津田氏は開幕前に「感情を揺さぶるのが芸術なのに、『誰かの感情を害する』という理由で、自由な表現が制限されるケースが増えている。政治的主張をする企画展ではない。実物を見て、それぞれが判断する場を提供したい」と取材に答えている。もともと「芸術的価値」や「政治性」で判断せず、「問題になったもの」を見たい人が見られる「自由な公共空間」を確保しようという企画である。
(展示された「少女像」)
 この企画に対して、河村たかし名古屋市長が、会場を訪れた後で少女像の展示について「どう考えても日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」と取材陣に話したという。さらに、「インターネットで企画展に対する批判や、主催者側への抗議の電話が相次いでいることについて『それこそ表現の自由じゃないですか。自分の思ったことを堂々と言えばいい』と述べた」とある。また開催に際して、県と市が負担し、国の補助金も出ていることに対し、「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたように見える」と語っている。

 ここでは以下、河村市長の言動を考えたい。まず批判を「言論の自由」と述べた点は、先に書いたように「言論の自由」を超えた脅迫が多数寄せられたことを無視している。何よりそういう自分が大村知事(実行委員会会長)に展示中止を求めている。議論しようというのではなく、権力者が自分の権力を行使して中止に追い込もうとしている。そういう人が、展示への批判だけを「言論の自由」と擁護する。明らかにダブル・スタンダードではないか。「言論の自由」を尊重しようと考えるならば、批判を含めて議論する場を作ることこそが本来必要なはずだ。

 税金投入問題は、発想自体が間違っている。税金が投入されているからといって、誰も「あたかも日本国全体がこれを認めた」などとは思わないだろう。日本国民をそんなにバカにしているのか。芸術とか教育とか、そういう場は、政治から独立していなくてはならない。そのくらいのことは大体の人は判っていて、普通は一展覧会に展示されたからといって、それで「日本国全体が認めた」などと大騒ぎしないだろう。菅官房長官も「精査する」などと言ったようだが、それでは「安倍政権の許容範囲内」にしか言論の自由がないことになってしまう。その発想を逆転させれば、「政権が許容することには権力を行使して良い」となるから、こういう政権で森友・加計学園問題などが起こったことも理解できる。

 ところで、河村市長は「どう考えても日本国民の心を踏みにじるもの」と述べた。この判断をどう考えればいいんだろうか。河村氏も日本国民の一人だから、心が踏みにじられたんだろうか。そう感じる人がいたという事実は、それはそれで重要だ。でも僕はその感想をちょっと疑っている。この「少女像」はソウルの日本大使館前に設置され問題化した。また釜山の総領事館前にも設置され、アメリカでも設置された。映画「主戦場」で右派の人々はアメリカでの少女像設置が「主戦場」だと語っていて、それがメインタイトルになっている。そういう情報があらかじめインプットされ、河村市長の頭の中で「反日の象徴」視されていたのではないか。だから実物を見て、「心を踏みにじられる」んじゃないかと思う。

 この企画が問いかけるのは、「そういうアートへの接し方でいいのか」ということだ。超有名な画家ピカソの代表的な傑作、とか見る前に情報が与えられ、それを確認するかのように「鑑賞」する。ホントは判らないのに「やっぱりピカソはすごい」と評する。そういうアートの見方そのものを問い直したのが、デュシャンとかウォーホルの試みだろう。この「少女像」も、情報を排して「ただ見てみれば」という企画だと僕は思う。初めから「言論の不自由展」と題されているのに、それを批判しちゃったら、「はい、日本には言論の自由がありません」と「自白」するようなものだ。右派であれ、左派であれ、アートに接する時には「粋な感覚」が求められる。この許容範囲の狭さは見事に粋の正反対。
(中止を発表する津田氏)

 これからは「あいちトリエンナーレ」の他の参加者がどのように反応するのかなども気にかかる。まだ会期は2ヶ月以上あるから、もう少し冷静になれる場があればいいと思う。この「少女像」自体は、大使館前に設置されたといった経緯がなければ、まあそれほど優れているわけでもないただの彫刻だと思う。日本軍慰安婦には様々なケースがあることが判っているから、この「少女像」だけで「慰安婦」を象徴するのは無理じゃないだろうか。なお、河村市長をたきつけたのは、「維新」だった。大阪市の松井市長が河村氏に「どうなっているんだ」と電話があったのである。

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