・昭和43年7月14日(日)曇り(船旅を楽しむ)
船旅2日目だ。船酔いも和らぎ、船内の生活も慣れつつあった。船の仲間達も落ち着きが出て来たように感じられた。私はデッキで海原を眺めていたり、娯楽室で過したり、読書をしたり、又船の仲間達と話をしたりして、のんびりした時間を過した。
船旅の楽しみは、なんと言っても食事でした。我々のテーブル係りの20歳ぐらいの女性とロシア語で「ドーブラェウートラ」で始まり、食事が出されると「スパシーバー」、そして、食事の終りは「ダスビダ‐ニャ」で終わった。それはたわいもない言葉であるが、彼女も愛くるしく言ってくれるので、同席の仲間も大喜び、そして和やかな雰囲気でいつも食事が終わった。不安を抱いた初めての海外旅行であり、初めて接するソ連人とこの様に楽しく過せる事が出来て、皆の心も本当に和んだ。
ロシア料理は最初、口に合わなかったが、2度3度と食べているうちに美味しく感じるようになって来たから不思議であった。今日の昼食のメニューは、赤い野菜スープ(ボルシチ)から始まり、肉料理、パン、赤い飲み物(スープとは違う)、そして最後は果物とティーであった。
夜、ダンスパーティーが催しされた。私はクラシックダンスが踊れないので、じっと見ているだけでしたが、モンキーダンスの時、私も仲間入りして船旅の一時を楽しんだ。『ダンスを習っておけば良かった』とつくづく思った。老若男女、日本人であろうとロシア人、或いはアメリカ人であろうと区別なく踊っているその姿を見ると、『世界は一つなのだなぁ』と感じた。しかし実際、米ソは核競争、軍事競争に一層しのぎを削っているのでした。
我々の船(ハバロスク号)は、日本沿岸に沿って北上し、津軽海峡を抜け、そして夜になって日本海に入った。同船は再びローリングして来た。私は再度、船酔いになった。
船旅の楽しみは、なんと言っても食事でした。我々のテーブル係りの20歳ぐらいの女性とロシア語で「ドーブラェウートラ」で始まり、食事が出されると「スパシーバー」、そして、食事の終りは「ダスビダ‐ニャ」で終わった。それはたわいもない言葉であるが、彼女も愛くるしく言ってくれるので、同席の仲間も大喜び、そして和やかな雰囲気でいつも食事が終わった。不安を抱いた初めての海外旅行であり、初めて接するソ連人とこの様に楽しく過せる事が出来て、皆の心も本当に和んだ。
ロシア料理は最初、口に合わなかったが、2度3度と食べているうちに美味しく感じるようになって来たから不思議であった。今日の昼食のメニューは、赤い野菜スープ(ボルシチ)から始まり、肉料理、パン、赤い飲み物(スープとは違う)、そして最後は果物とティーであった。
夜、ダンスパーティーが催しされた。私はクラシックダンスが踊れないので、じっと見ているだけでしたが、モンキーダンスの時、私も仲間入りして船旅の一時を楽しんだ。『ダンスを習っておけば良かった』とつくづく思った。老若男女、日本人であろうとロシア人、或いはアメリカ人であろうと区別なく踊っているその姿を見ると、『世界は一つなのだなぁ』と感じた。しかし実際、米ソは核競争、軍事競争に一層しのぎを削っているのでした。
我々の船(ハバロスク号)は、日本沿岸に沿って北上し、津軽海峡を抜け、そして夜になって日本海に入った。同船は再びローリングして来た。私は再度、船酔いになった。
△右は私と左は同室の橋本さん(ソ連船ハバロスク号にて)