旅の目的地と出国準備
両親の承諾を得て、第一関門は突破した。次は行き場所を何処にするか、という事であった。しかし、ここまで来たら余り迷わなかった。イギリスのロンドンに7年以上文通しているSheila Morgan(シーラモーガン)が居るので渡航先は、“ヨーロッパ”(西欧)の事である)、そして最終目的地はイギリスと決めた。
ヨーロッパは他の国へ比較的簡単に陸続きで行かれるし又、多くの国へ訪れる事も出来る。しかも、アメリカより歴史があるのでその点、見所もたくさんあるし、ヨーロッパの魅力の多くはそこにある、と思った。早速、イギリスの彼女に手紙を書き、ヨーロッパへ行く旨を伝えた。又、「イギリスへ行ったらウェールズの貴女の家に1・2週間泊まりたい」と言う事も書いたら、彼女から直ぐに返事が来た。最初、驚きの書き出しであったが、彼女も私に会いたいので楽しみにしているし又、ウェールズの父に話してあるとの事でした。後に彼女のお父さんからOKの返事が届いた。
昭和43年5月の下旬、JTB(日本交通公社)東京丸ビル内営業所の海外旅行係りの人にヨーロッパへ最も安く行きたい旨を伝えた。『武藤さん』と言う方が担当してくれて、彼は色々な相談や手続きをしてくれた。私は埼玉県の所沢市三ヶ島に住んで居たが、如何して狭山ヶ丘駅から丸の内まで行ったのか、と言うと当時、所沢は勿論、東京の池袋でも海外旅行を扱う事務所・案内所はなかった。丸の内のJTBに何度か(5・6回)行きましたが、いつも海外旅行の窓口は私一人、まだ海外旅行する人は少なかった。
もうここまで来たら後は、トントン拍子であった。そして、船で横浜からナホトカへのソ連経由ヘルシンキまでのインツーリスト(ソ連国営旅行社)によるパック旅行に決めた。費用はドル持ち出し分500ドルの内“70ドル天引き”(ソ連はドルを欲しがっていて、円建てが出来なかった)でした。その様な訳で私が持ち出せる額は、430ドルになってしまった。それでも面倒なソ連の査証(ビザ)申請手続きもなく又、船舶、航空、鉄道運賃、観光バス料金、ガイド料、各種入場料、ホテル代、食事代、入港税、列車の寝台料金や毛布使用料までが含まれているので世話がなかった。その他に私はヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券、ユゥレイルパス(西欧の列車が乗り降り自由,ファーストクラス、1ヶ月間有効)、帰りのフランス郵船M&M乗船引換券(マルセイユ・横浜間、日数50~60日間要する。中東戦争の影響でスエズ運河が閉鎖して喜望峰回りで途中、彼方此方の港に停泊する為)も前もって買いました。この乗船引換券(当時は航空運賃より船賃の方が安かった)は、ヨーロッパから帰国出来る大事な保証書であった。
海外旅行するのに一番大切な事、それは旅券(パスポート)を取得する事でした。私は埼玉県庁海外渡航課へ行って申請、一週間後再度行って旅券を取得した。信じられないがその時、県庁の役人が、「良いご旅行を」と言ってくれました。2度埼玉県庁海外渡航課行ったが旅券の申請をする人は私以外、誰も居なかった。
『とうとう旅券も手に入れたぞ』私は内心嬉しくて、半分出国した様な気分であった。
ここで諸費用を纏めた。
①70ドル分のソ連のセット旅行代~25,200円、②ヘルシンキ・ストックホルム間の船賃代~5,000円、③ユゥレイルパス代~64,800円、④400ドル分のトラベラーズチェック代~144,000円、⑤30ドル分の現金持ち出し代~10,800円、⑥日本円持ち出し金~20,000円、⑦M&M乗船引換券代~150,000円、⑧諸費用(JTB手数料、ドル両替手数料、ソ連の査証代、予防接種代、半年間分の医療保険代等)~約70,000円、 合計489,800円。 *1ドル360円の固定相場制。
昭和38年3月から43年5月まで5年間、コツコツ貯めた50万円のお金は、既に手元に数万円だけしか残らなかった。 『金銭的、距離的にも西欧は、なんと遠い所なのだろう』とつくづく感じた。
ヨーロッパは他の国へ比較的簡単に陸続きで行かれるし又、多くの国へ訪れる事も出来る。しかも、アメリカより歴史があるのでその点、見所もたくさんあるし、ヨーロッパの魅力の多くはそこにある、と思った。早速、イギリスの彼女に手紙を書き、ヨーロッパへ行く旨を伝えた。又、「イギリスへ行ったらウェールズの貴女の家に1・2週間泊まりたい」と言う事も書いたら、彼女から直ぐに返事が来た。最初、驚きの書き出しであったが、彼女も私に会いたいので楽しみにしているし又、ウェールズの父に話してあるとの事でした。後に彼女のお父さんからOKの返事が届いた。
昭和43年5月の下旬、JTB(日本交通公社)東京丸ビル内営業所の海外旅行係りの人にヨーロッパへ最も安く行きたい旨を伝えた。『武藤さん』と言う方が担当してくれて、彼は色々な相談や手続きをしてくれた。私は埼玉県の所沢市三ヶ島に住んで居たが、如何して狭山ヶ丘駅から丸の内まで行ったのか、と言うと当時、所沢は勿論、東京の池袋でも海外旅行を扱う事務所・案内所はなかった。丸の内のJTBに何度か(5・6回)行きましたが、いつも海外旅行の窓口は私一人、まだ海外旅行する人は少なかった。
もうここまで来たら後は、トントン拍子であった。そして、船で横浜からナホトカへのソ連経由ヘルシンキまでのインツーリスト(ソ連国営旅行社)によるパック旅行に決めた。費用はドル持ち出し分500ドルの内“70ドル天引き”(ソ連はドルを欲しがっていて、円建てが出来なかった)でした。その様な訳で私が持ち出せる額は、430ドルになってしまった。それでも面倒なソ連の査証(ビザ)申請手続きもなく又、船舶、航空、鉄道運賃、観光バス料金、ガイド料、各種入場料、ホテル代、食事代、入港税、列車の寝台料金や毛布使用料までが含まれているので世話がなかった。その他に私はヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券、ユゥレイルパス(西欧の列車が乗り降り自由,ファーストクラス、1ヶ月間有効)、帰りのフランス郵船M&M乗船引換券(マルセイユ・横浜間、日数50~60日間要する。中東戦争の影響でスエズ運河が閉鎖して喜望峰回りで途中、彼方此方の港に停泊する為)も前もって買いました。この乗船引換券(当時は航空運賃より船賃の方が安かった)は、ヨーロッパから帰国出来る大事な保証書であった。
海外旅行するのに一番大切な事、それは旅券(パスポート)を取得する事でした。私は埼玉県庁海外渡航課へ行って申請、一週間後再度行って旅券を取得した。信じられないがその時、県庁の役人が、「良いご旅行を」と言ってくれました。2度埼玉県庁海外渡航課行ったが旅券の申請をする人は私以外、誰も居なかった。
『とうとう旅券も手に入れたぞ』私は内心嬉しくて、半分出国した様な気分であった。
ここで諸費用を纏めた。
①70ドル分のソ連のセット旅行代~25,200円、②ヘルシンキ・ストックホルム間の船賃代~5,000円、③ユゥレイルパス代~64,800円、④400ドル分のトラベラーズチェック代~144,000円、⑤30ドル分の現金持ち出し代~10,800円、⑥日本円持ち出し金~20,000円、⑦M&M乗船引換券代~150,000円、⑧諸費用(JTB手数料、ドル両替手数料、ソ連の査証代、予防接種代、半年間分の医療保険代等)~約70,000円、 合計489,800円。 *1ドル360円の固定相場制。
昭和38年3月から43年5月まで5年間、コツコツ貯めた50万円のお金は、既に手元に数万円だけしか残らなかった。 『金銭的、距離的にも西欧は、なんと遠い所なのだろう』とつくづく感じた。