旅への決断(両親の許し)
単調な“仕事”(私の仕事は電車運転士)が2年程続いた。私は当時、寮生活をしていたので、寮生の親睦と寮生活の向上の為、自分が先頭になって寮の自治会規約を纏め、総会を開催し、会を設立して自ら自治会長になり、その活動をしたりして過しました。でも、仕事も寮生活も終りに近づきつつあった。
昭和43年春頃、ヨーロッパ、又は、アメリカへ行って帰って来られる最低限の旅費50万円が貯まった。それは知らず知らずの内にと言う感じでした。そして、夢が実現しそうに成るにつれて、嬉しさに反比例して、『分らない、不安な、そして、心配な事』が湧いてきました。それらは、『①外国と言っても何処へ行くのか。ヨーロッパかアメリカか、その他何処へ回ろうか。②向こうで病気になったらどうしようか。行って無事に帰国出来るのか。③会社は如何するのか。休職して行けるのか、欠勤扱いか或は、退職しなければならないのか。④両親は承知してくれるのか。⑤旅券の取得手続き、査証の申請は如何するのか。出国方法・ルートは』等々でした。
昭和43年5月の上旬、実家に帰り又、親父に相談しました。
「まだ祥(よし)は、そんな事を言っているのか。お前は、まだ忘れられないのか」と親父。しかし、怒った顔ではなかった。
「ウン。『行って帰って来るのに必要な金が有れば許してやる』と3年前言ったよね」と私。
「それなら行って来い」親父の一発返事でした。
「しかし、お前が外国で野垂れ死にしようが、事故に遭おうが援助の手を出してやる、そんな金は家にはないぞ。俺は一銭たりとも出してやらんぞ、それでも良いか」と親父の条件であった。
「分ったよ、家には心配掛けないよ。手紙を時々書くが、来なくなったら死んだと思ってくれ」と私。家に金がない事は分っていたから、実際に親父にそんな事をしてもらおうと期待していなかったし、思ってもいなかった。
お袋は、傍で心配そうな様子をしていたが、何も言わなかった。全てお袋はお見通しであったようでした。『夫が承知したのだし、自分がとやかく言っても仕方ない。祥(よし)に行かせてやろう』とお袋の想いを私は感じていた。
しかし、この時程、『私の親は、話が分るなぁ』と思った事はなかあった。実際、『お袋は、私が日本を出発してから毎日、仏壇に私の無事な帰国をお祈りしている』と言う事を11ヶ月後、妹の時子から聞かされ、身を詰まされる想いがあった。一番心配してくれていたのは、やっぱりお袋であった。私はこの事を始めから承知していました。『心配掛けてすまん、お袋。必ず無事に帰って来るから』と私は心の中で感謝と、許しを請うのであった。