祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第70回(加大在学中の親友のプロフィール(日本人学生)3)

2012-01-04 12:26:30 | 日記
6.1917年の卒業には三人いた。

(1)小林絹冶君 1917年卒 法律 B.A. 1921年 J.D.(法学博士)

関西大学専門部の法科を卒業して渡米、加大に入学したが中々の才物で、クラブ員ではなく、日本人の下宿屋から通学していたが苦学した人である。
 私がバークレーの小学校教師時代から交際していたが、私が東洋汽船社員として再渡米後も、未だ大学院に在学中で氏の根気の強いのには感心した。加大に九年間も在学して遂にDoctor of Jurisprudenceになった。
 帰朝後新聞社に入っていたが、兵庫県三区から衆議院として出馬し、二, 三回当選して政界に活躍した。会社の重役をしているとのことだったが、その後のことは分からない。

(2)K橋豊吉君 1917年卒 建築科 B.S. 、1918年M.S.

 加州リバーサイド(Liverside)のハイスクールの卒業者で、学校時代にフットボールの選手だったとのことで、加大に入学してからもフットボールをやって、第二流大学との対校試合出場したこともあって、私も見学したが、日本人では始めてとのことだった。
 磊落な人物で体格も立派だったが、若いのに前髪の所が薄く、今でも忘れ難き一人である。バークレーに住んでいた日本人の娘と結婚して一年大学院に在学して、Master of Sciences になって帰国し、米国の会社のオーテイス・エレベーター会社の東京支店に入社したがその後は不明。

(3) N田五郎君 1917年卒 B.S.電気科
 
クラブ員で知人の一人であったが電気科を卒業して日本SKF興業会社の技師となった。
 以上の外に1918年組にK山勝次郎 化学科B.S.が卒業したが、後は私の卒業後の学生だから省略することにした。


 この項を終わったところで、忘れていた親友が三人いたので加筆する。

 K藤岩吉君、山形県人で私と同じ経済学を学んだ人で、私が入学した時は三年生で、クラブ員ではなく、日本人の下宿屋の地下室を借りて住んでいた。経済科はK藤君と私の二人であったから、よく彼の所を訪問して学習科目のことなどを聞いたりした。

 1913年卒業してB.S.となり更に大学院に学んでStuart Millに関する論文でMasterとなって帰朝した。

 私は大学の図書館で彼の卒業論文を読んだが、中々立派な論文だった。帰国後、郷里の山形県大山町で醸造業を経営していると聞いている。



 同じく1913年に卒業したM田作次郎君で鉱山学を専攻した当時変わった学科を学んだ人である。日曜日には必ず袋を肩にして大学の裏山や附近の山々を踏破して、ハンマーで石を砕いては石質を調査していた。暑中休暇中も私達のように自由行動が出来ず、大学の調査員に加わってシエラネバタ山方面にも行っていたことがあり、こういう学科は卒業するまでに大変だと思った。
 非常に温厚篤実の人物で、好感がもてた親友の一人である。よくクラブにも顔を出した。帰国後、三井神岡鉱山の技師となった。



 1914年組のM志正直君 電気科 1914年卒 B.S. 
 クラブ員であった。卒業後Cornell大学院に学んでMaster of Mechanical Engineeringになった。帰朝後、設備技師となった。


第70回(加大在学中の親友のプロフィール(日本人学生)2)

2012-01-01 11:51:39 | 日記
3.1914年組の卒業生は伊藤君の外に三名いた。

(1)鈴木半三郎君 1914年卒B.S. 哲学科
 氏は高等師範の卒業で日本で中学の教諭をしていたが、渡米して加大に入学、私より一年上級だった。学部は知らなかったが、卒業した時に始めて哲学を専攻していたことを知った。
 図書館でいつも顔を合わすので(学生クラブ員ではなかった)親交を結んだ。
 中々の勉強家で、卒業して帰国後プラグマテイズム(Pragmatism)の本を出版した。加大はプラグマテイズムをWilliam Jamesよりも早く発表しており、Pragmatismの研究は鈴木君には資するところがあったのであろう。
 また彼が図書館でアメリカの社会生活についての本を勉強していると思ったら、「アメリカの社会生活」?(米国国民性の新研究)の本をも出版したこともあった。 
 満州の蕪順中学の先生をしていると聞いたが、どうしているだろうか分からない。

(2)宇都宮政一君 1914年卒 B.S.化学科
 学部が違うので時々校庭で顔を合わす程度だった(クラブ員でなかった)。 
 私が中外商業学校の在職中、訪問を受けて校友を新たにした。尼崎市の旭染料製造会社(現:旭化学工業株式会社)の社長をしているとのことであった。

(3)小川裕三君 1914年卒 B.S. 建築科
 伊藤文四郎君と同じに卒業した。クラブ員で時々会った。成績は優秀だったとのことである。帰国後近江のヴォーリスに就職。

4.私より半年遅れて卒業した1915年組には一名だけだ。
 
 私と一緒に卒業式に臨んだ及川N衛君B.S. 商科でクラブ員だったから常に交際していた。商科学部と私の経済学部は直接関係のある教科が多いので毎日顔を合わした。中々の議論好きで、クラブで彼と議論をしたことを覚えている。卒業後神戸で輸出入貿易商会を経営しているとのことで一度私の家にも顔を出したことがあった。その後は不明。

5.1916年組には(私より一年下の級)三人の卒業生がいた。
 
(1)北沢佐雄君
 LAHS時代からの親友でロス・ハイの出身で先述。

(2)米本T雄君 1916年 B.A. 商学
 クラブ員で親友の一人であった。温厚実直の人で、商業科を卒業した。帰国後住友銀行横浜支店に勤務していたので、二、三度彼には面会して旧友を温めたこともある。
 スタンフォード大学に在学していたO島喜作氏の死を悼み出身地の静岡に記念碑を建立する計画を米本君と鈴木富太郎君が発起して、私にも賛成してくれと言ってきたので、私も寄付金を出したが、立派な碑文が出来た。
 米本君は今は故人となった。

(3)橘田Y通君 1916年B.A.、1921年医科卒 D.M. 
 クラブ員で医学志望であったので、加大のバークレーで四ヶ年の予備教育を受けて、サンフランシスコの加大の医科大学に学んだ人で、英語の歌が上手で、よくクラブの会合の席上で披露した。スクールボーイ時代に世話になった家庭の夫人から声楽の練習を受けたと言っていた。非常な努力家で、加大の理科を出てから五年もかかって卒業した。帰国後東京のセントルカ(聖路加)病院に勤務した。


★上記の記載について。個人情報保護法では「生存する個人の情報だけを保護の対象としているが、たとえ故人の情報であっても、それが生存する個人に影響与えるような場合には保護の対象になる」ようです。そこで、祖父の友人の記載に関しては、ネットですでに公開されている情報がある等、生存する個人に影響を与えないであろうと判断できる方のみフルネームで記載させて頂きました。また、当時80過ぎの祖父の記憶であり記載の詳細に間違えがあるかもしれませんがご容赦下さい。★




第69回(加大在学中の親友のプロフィール(日本人学生)1)

2011-12-28 22:57:49 | 日記
 私は1912年(大正元年)に加大に入学して、1915年の十二月に卒業したが、この四ヶ年の間に苦楽を共にし、相助け合って勉学に励み、時にはクラブで寝食を共にし、風論談発、時の過ぎるのも忘れたこともあり、カンパスの芝生やCollege benchに座って、世も山の快談に勉学の悩みを慰められたこともあり、外国における親友こそ真にIntimated friendsにふさわしく、心の強い支えとなったものはない。彼等は皆世俗のpleasure(快楽)を顧みず、乏しきを憂えず、労働しながらも、東天に輝く希望の星(Cynosure)に向かって、専心一意学問に邁進して立派に大学卒業の栄冠を獲得した親友達である。
 持つべきは親友で、頼るすべのない外国での学生生活には一層その感を深くする。
 今や、六十年を閲して、彼等の何人かが、安らかに生存しているか知るすべもないが、願わくは彼等の上に神の栄光を垂れ給わんと祈って止まない。

1.進士 織平君 1912年卒 (農学 B.S.)1912年加大B.S. 、1913年加大M.S.、1916年ミゾリー大Ph.D.、1930年京大農学博士

 私が一年生の時に四年生で同年五月農学部を卒業して、更に大学院に在学していたので、時々彼の宿家を訪問したが、実に苦学して研学に励んだ人で、油虫を(aphisアリマキ)を飼って、薬を与えて眼の色を変える研究を大学院でやっていたが、その結果の中間報告をAmerican Scientific Magazineに発表して、なにがしかの原稿料が入ったと言ってその雑誌を見せてくれたことがあった。身なりなど一向にかまわず、本当に学者肌の人で、1913年に加大でMaster of Scienceの学位を取ったが、翌年私が三年生の時、コーネル大学(Cornel University)の大学院に入学しようとして汽車で出発したが、銭入れを落して引き返した逸話の持主で、一向平気であった。又再び加大で研究していたが、ミゾリー大学(Missouri)の大学院に入って、1916年農学博士になった。
 帰朝して盛岡高等農林の教授となったが、たまたま天皇陛下が同地方に順行の際に御前講演を行ったとのことを当時の新聞で知った。
 昭和九年(1930年)京都帝大で農学博士の学位を得た。東京高等農林学校の教授となったが、その後のことはわからない。私の一番印象に残る人である。
   
2.伊藤文四郎君 1914年建築科卒業 B.S. 伊藤文四郎建築事務所経営
  
 私が一年の時に二年生で長く交際した人の一人である。
 氏は長野県上伊那の人で、私の兄と同級生だったとのことで、よく兄の話しがでた。大学の三年頃日本から奥さんが来て、バークレーで一家を構えていた。
 建築科を出たが、在学中に設計した学生の作品の展示会がしばしば建築校舎で行われたので、見学したことがあった。クラブから大学の経済学校舎へ行く途中に立っていたので、伊藤君や小川裕三君や一年下の橘教順君の設計画も見たが、市役所の設計だったと覚えているが白人学生にひけを取らなかった。
 卒業後東京で建築事務所を開いたが、洋風建築の草分け時代であったためか、東京丸の内の郵船ビルの設計者の一人となって監督したとのことを聞き及んでいる。
 晩年になって日本大学工学部の工学の英語講師をしていると通知を受けたこともある。
 黄綬褒章を受けたと喜びの通知も受け取った。
 私より一,二年上で未だ健在で、加大卒業生で毎年賀状を交換しているのは伊藤君だけだ。氏の健在を祈る。

★上記の記載について。個人情報保護法では「生存する個人の情報だけを保護の対象としているが、たとえ故人の情報であっても、それが生存する個人に影響与えるような場合には保護の対象になる」ようです。そこで、祖父の友人の記載に関しては、ネットですでに公開されている情報がある等、生存する個人に影響を与えないであろうと判断できる方のみフルネームで記載させて頂きました。また、当時80過ぎの祖父の記憶であり記載の詳細に間違えがあるかもしれませんがご容赦下さい。★






第68回(卒業後3 東洋汽船株式会社入社~)

2011-12-27 10:21:38 | 日記


在職中に、日本人小学校の改築を断行して、日本人会の経営として、A砥先生夫妻を教員に迎えた。このため在留民より寄付金を集め、また華村日本語園創立費募集演芸会を一夜開催して私も出演した。(松田午三郎著 「静子」の中にある写真参照)。かくして学園の改築も竣工したので、花火の打ち上げをして祝賀式を挙行したので、米人も喜んで多数参観してくれた。華村は排日の最中にもその影響は少なかった。


神埼桑港日本人会幹事もワッソビル日会の活躍を喜んでくれ、今後も日本人同胞のために尽力してくれと要望されたが、私は1917年三月一日付けを以って東洋汽船株式会社に東郷正作氏の尽力で入社することになって、サンフランシスコ支店勤務を命ぜられ、俸給百弗(六ヶ月後に正社員となって百二十弗を支給された。幹事の二倍の俸給)を支給されて、いよいよサラリーマンとして出発することが出来た。このため楽しかったワッソンビル、特に松田午三郎氏の親交と松田夫人静子さんの温情は終生忘れることの出来ない思出の一つである。


私は、大正八年、社船天洋丸で、一月四日帰社、金沢市のK本栄作氏の妹恵以と横浜で二月七日結婚して、根岸に一家を構え、横浜営業所に勤務、俸給当時百十五円(大学出は初任給三十~四十円)を得た。横浜在勤三ヶ月にして、Captain Filmerから、是非とも、私のシスコ市の店に帰るよう度々電報で要請あり、やむなく五月一日 日本丸で再渡米して、サンフランシスコ支店に勤務し、フィルモーア港湾船長のassistantとなって、社船並びに邦船の荷役の監督、税関移民局との折衝、出入港の手続き等を行ったので、多忙を極めたが、やりがいのある仕事でよかった。

私が外国勤務中は、恵以は、横浜に一家を構えていたが、私の本俸とボーナスは全部支給してやったので、裕福に暮らすことが出来た。私の母も半年位同居したこともあった。私は在外手当金百四十弗で、バークレーのFisher夫人の家に、社員K瀬谷英彦君(故人)と一緒に下宿して出社していた。

大正十年一月下旬、恵以、社船天洋丸でK瀬谷夫人一枝さんと一緒に渡米した。私の本俸は百四十円に昇給した。サンフランシスコ市のポスト(Post Street)に一家を構えた。同年五月頃横浜正金銀行桑港支店の三島君がニューヨーク支店に転勤することになり、氏のアラメダ市の借家が空くので、私が入ることになった。二階建ての1戸建てで庭も広く、家具つきの家で家賃四十五弗だった。家の近くがサウザン・パシフィック鉄道会社のアラメダ・ターミナルで通勤には便利だった。

同年十月二十六日、平伍サンフランシスコのポスト街村山産院で出生、アラメダの家で成長。

 大正十一年八月本社の命で、社船大洋丸で帰社。横浜営業所文書課勤務となったので、本牧町天徳寺に一家を構えた(当時家賃二十五円)。

同年十一月二十六日平冶出生。

 大正十二年九月一日、関東大震災に合って横浜市全滅、会社も倒壊したが九死に一生を得た。

 一先ず、社船大洋丸で避難民と共に神戸支店に出頭して後、金沢のK本栄作氏の所に妻子を託するため出発した。妻子を金沢に残して再び神戸支店に出社、たまたま浅野良三取締役が来社中であったので、正式に神戸支店勤務となった。

 神戸市石井町の社宅を割り当てられたので、十月上旬金沢から妻子を呼び寄せた。

 大正十三年一月、本社に転勤を命ぜられたので、妻子を金沢市に居住さすことにした。(東京では家がないので)恵以は材木町に居住して、私は東京のK本利作氏の深川の家に寄寓して通勤したが、震災後のことでもあり、丸の内の本社に通うのには大変だった。

 大正十三年三月三十一日付けで、一身上の都合で退社、同年四月一日付けで中外商業学校に就職、大阪市西成区の粉浜(現住吉)に一家を構えて大阪玉江橋の学校に通勤した。平造粉浜で出生。

 大正十四年夏、学校は塚口に移転し、私も伊丹市に家屋を新築して移住し、以来今日に至った。

 昭平以下秀子まで凡て伊丹で出生。

 私は学校の教頭、教務主任、高校主事、中学高校の副校長、校長代理、理事となって、在職二十八年間勤務、この間一年、梅花女子専門学校の講師をして、昭和二十六年六月、中外商業高等学校を尼崎市に移管の件を処理して退職した。
                             

第67回(卒業後2 殺人事件の通訳)

2011-12-26 11:51:54 | 日記


私が赴任して半月余りたった或る夜、七時半頃、一台の自動車が日会の前に来て、あわただしくドアを開けて事務所に入って来て

”Say, come on, secretary”(おい。幹事さん来てくれ)と、わけも話さずに、私を自動車の中に押し込んだ。この男はワッソンビルのコンステーブル(Constable巡査)で、車中での話では、ネルソンという果樹園に働いているO木という労働者が同僚のN川(?)という男を斧で頭を打って殺害して逃げる所を捕らえているので、通訳として立会ってくれとのことだった。

 現場に行って驚いた。O木はN川を斧で、三箇所、頭を叩き割って殺していた。その場で自白したので、一先ず、郡の未決監獄に連行された。死体検察官(coroner)もその残虐さには驚いていた。数日経ってから、ワッソンビルの法廷でシェリフ(Sheriff郡の司法官)から尋問があって、私はO木側とシェリフ側の通訳をやったが、沢山の日本人も参観した。また証人として、雇主のネルソンも出廷したが、O木は、ネルソンが、N川を信頼して仕事を与えるのに、自分には冷たく当たるので、それを恨んでの仕業であるらしく、三日の間、時々斧を出しては刃を磨いていたと証言した。O木は殺害したその夜、室の戸の入口の所に隠れていて、N川が、戸を開いて入る途端に一撃を加え倒れるところを更に追撃したと。の告白をしたが、彼は広島県人で、もとは船乗りでメキシコから密入国した事実をも告白したならずものだった。

法廷の尋問は約一時間余りで済み、私もほっとした。

翌日は、身よりのないN川の埋葬を日本人会の手で行い、サリナスの墓地にアンダーテーカー(Undertaker葬儀屋)の手で執行した。

その後、重罪犯人であるから、サンノゼ市の法廷で裁判が開かれ、法廷弁護士もついて、また、私が通訳で結局老齢のため懲役十五年に処せられた。

この事件で、ワッソンビルの在留邦人は、私を信頼して未納者もどんどん会費を納付してくれたので日会の会計も黒字に転換した。私はもう自転車を使わないで馬車(bogie)に乗って悠々馬に手綱をあてて、田舎廻りが出来るようになった。

時たまたま、明治神宮外苑の寄附募集の件が、シスコ総領事館より要請があり、私は事件を契機として多数の醵金を集め、五弗以上の賛助会員数五百余名で、加州日本人会のうちでも最も優秀なる成績を挙げた。

また、日本人の農耕者が土地借入れの期限が経過して、農作物の未回収の問題で紛争している事件も、雇主に交渉して円満なる解決を見たので皆に喜ばれた。



注)醵金とは、「拠金」とも書く。ある事をするために複数の者が金を出しあうこと。また、その金。