私は起床してすぐ、朝食までの間に拳術の動きを中心とした稽古をしているのだが、特に秋の終わりから春の始めまでのその時間帯は、かなり暗くて静かなので、体が覚醒しづらい。
かといって、他の家族はまだ眠っているので(寝室の襖は閉まっているけれど)、明かりをつけたり音楽を流すのは気が引ける。
というわけで、照明代わりにテレビを(音声を切って)つけている。
番組を見るというより、一種の風景みたいなもので、チャンネルは大抵Eテレだ。
特に緊急性のあるニュースをやっているわけではないし、画面が必要以上にうるさくなくていい。
で、水曜日は「100分de名著」という番組が流れていて、チラチラと視界の端で捉えている。
だがその程度でも、たまに印象に残るフレーズがある。
最近では「赤毛のアン」について解説をしていた茂木健一郎氏の言葉がそうだ。
いつも通り音声は消しているので、テロップになっていた一節が目に映っただけなのだが、頭に残る時はそんなものかもしれない。
茂木氏曰く、「自分の個性を認められない人(例えば、自分の赤毛が嫌だと思っているアン)はみにくいアヒルの子で、認められる人は白鳥」なのだそうだ。
うん。分かるような気がする。と同時に、それが出来れば苦労はしない、とも思う。
そしてこれは、必ずしも個人だけで帰結する話ではなかろう。
例えば対人関係において、「自分の個性をを認めてくれる人」のことは、特別な存在になってしまう(鶴見中尉はそういうのが巧い)。
もっと規模を広げてみる。
例えば、自分もしくは自分たちとは違う者を認める社会と、そうでない社会。
キリスト教的には、神は人を自分に似せて創られたらしい。
なるほど、お互いに認め合えるようなら、人間とは文字通り「神に近い」存在となるのではないか。
逆に、自分もしくは自分たちとは違う者を認められないだけでなく、その存在さえ許せないような社会なら、人とは醜い妖か物の怪の類ということか。
まあそれこそ「そんな社会が悪い」とぼやいても詮無いだけだが、せめて、自分が神の方に寄るか、物の怪の方に寄るかは、自分で選べる世の中であってほしいものだ。
…などと、社会のせいにしていたら、いつまで経っても変われないぞと言われそうだ。
いや確かにその通りで、全てを社会のせいにするのは間違っていると思う。が、思ったよりも社会の力は大きい。
だがその反面?時代のせいにすることには、抵抗の無い人が多いとも思う。
例えばスポーツの指導などはその典型だろう。
「昔はスパルタ式で育てられたが、今の時代には合わない」といった具合だ。
でも私はこういう考え方には納得できない。現在正しくないことは、昔もやっぱり正しくないのだ。
…一応、私の「正しい、正しくない」の基準を述べておく。
天動説と地動説を例えにしてみよう。
つまり、その昔に多くの人が天動説を信じていたのは無理のないことだが、だからといって天動説が正しかったわけではない。
時代がどうだろうと、どれほど多くの人が信じていようと、正しいのは地動説だ。
人は時代に流されるものであって、それは「仕方のないこと」だが、「正しいこと」ではない。
私にとって「正しい、正しくない」とはそういうことだ。
ん~…もうちょっと、「社会」と「時代」の意味を整理してみる。
「社会」とは「これから作っていく未来」という意味を多く含み、「時代」とは「もう起こってしまって変えられない過去」という意味を多く含むのかもしれない。
だから多くの人は「社会」のせいにはしたくないと感じ、「時代」のせいにするのは許してしまうのではないか。
何だか、神も物の怪も大した違いはないような気がしてきた?
いやいや、そんな風に分かったフリをして考えるのを止めてしまうことが、まさに物の怪への入口になるのだろう。
かといって、他の家族はまだ眠っているので(寝室の襖は閉まっているけれど)、明かりをつけたり音楽を流すのは気が引ける。
というわけで、照明代わりにテレビを(音声を切って)つけている。
番組を見るというより、一種の風景みたいなもので、チャンネルは大抵Eテレだ。
特に緊急性のあるニュースをやっているわけではないし、画面が必要以上にうるさくなくていい。
で、水曜日は「100分de名著」という番組が流れていて、チラチラと視界の端で捉えている。
だがその程度でも、たまに印象に残るフレーズがある。
最近では「赤毛のアン」について解説をしていた茂木健一郎氏の言葉がそうだ。
いつも通り音声は消しているので、テロップになっていた一節が目に映っただけなのだが、頭に残る時はそんなものかもしれない。
茂木氏曰く、「自分の個性を認められない人(例えば、自分の赤毛が嫌だと思っているアン)はみにくいアヒルの子で、認められる人は白鳥」なのだそうだ。
うん。分かるような気がする。と同時に、それが出来れば苦労はしない、とも思う。
そしてこれは、必ずしも個人だけで帰結する話ではなかろう。
例えば対人関係において、「自分の個性をを認めてくれる人」のことは、特別な存在になってしまう(鶴見中尉はそういうのが巧い)。
もっと規模を広げてみる。
例えば、自分もしくは自分たちとは違う者を認める社会と、そうでない社会。
キリスト教的には、神は人を自分に似せて創られたらしい。
なるほど、お互いに認め合えるようなら、人間とは文字通り「神に近い」存在となるのではないか。
逆に、自分もしくは自分たちとは違う者を認められないだけでなく、その存在さえ許せないような社会なら、人とは醜い妖か物の怪の類ということか。
まあそれこそ「そんな社会が悪い」とぼやいても詮無いだけだが、せめて、自分が神の方に寄るか、物の怪の方に寄るかは、自分で選べる世の中であってほしいものだ。
…などと、社会のせいにしていたら、いつまで経っても変われないぞと言われそうだ。
いや確かにその通りで、全てを社会のせいにするのは間違っていると思う。が、思ったよりも社会の力は大きい。
だがその反面?時代のせいにすることには、抵抗の無い人が多いとも思う。
例えばスポーツの指導などはその典型だろう。
「昔はスパルタ式で育てられたが、今の時代には合わない」といった具合だ。
でも私はこういう考え方には納得できない。現在正しくないことは、昔もやっぱり正しくないのだ。
…一応、私の「正しい、正しくない」の基準を述べておく。
天動説と地動説を例えにしてみよう。
つまり、その昔に多くの人が天動説を信じていたのは無理のないことだが、だからといって天動説が正しかったわけではない。
時代がどうだろうと、どれほど多くの人が信じていようと、正しいのは地動説だ。
人は時代に流されるものであって、それは「仕方のないこと」だが、「正しいこと」ではない。
私にとって「正しい、正しくない」とはそういうことだ。
ん~…もうちょっと、「社会」と「時代」の意味を整理してみる。
「社会」とは「これから作っていく未来」という意味を多く含み、「時代」とは「もう起こってしまって変えられない過去」という意味を多く含むのかもしれない。
だから多くの人は「社会」のせいにはしたくないと感じ、「時代」のせいにするのは許してしまうのではないか。
何だか、神も物の怪も大した違いはないような気がしてきた?
いやいや、そんな風に分かったフリをして考えるのを止めてしまうことが、まさに物の怪への入口になるのだろう。
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