なあんおばはんの日常

私の人生 掃き出します。

私は未だに過去のあれこれを引っ張りだして、主人にグチグチ文句を言ってしまう。

あの時もこうだった!
あの時も助けてくれなかった!
とか。
怨み辛みを。

冷静に客観的に考えると

それはお互いのために良くないことだ。

自分もイヤな出来事を思い出してまたイヤな気持ちになるし、
相手もさんざん謝ったのに、
また同じ事を言って責めるのかよ!ってなるし。




どうして過去のことをほじくり返して文句を言い続けてしまうだろうか。

真摯に原因をきちんと考えてみることにする。



文句を言うことで自分はすっきりするのか、と言うと

全くすっきりはしない。

イヤな気持ちでいっぱいになるだけだ。

ではなぜなんだろうか。


被害妄想だと、主人によく言われる。

なぜ、私は文句を言うのか。



また同じだ、と思うからだ。

また同じひどいことをされる、と。

そこが被害妄想。


普通は、人は常に他者にひどいことをしようなんて思っていない。
そこまで他者に対していつも関わるわけではないし。


またどうせ、ひどいことを言われる、とか、イヤなことがあるんだ、とか。

そういう被害妄想が私の中にしみついてるのだ。



そろそろ自覚して、抜け出したい。




ここからは吐き出す。

被害妄想の根源を吐き出そうと思う。



「私の人生 掃き出します!」


原因は幼少期からの、親との関係だと思う。


母はいつも、私を叱る時に脅していた。


そんなんじゃ、いつか必ずひどいことになる、とか
とんでもない目にあう、とか
ろくな学校行けない、とか。

友達も作るな、とまで言われた。
友達は不要だ、と。

いま考えると意味がわからん。



友達を作るな???

どういう理由だったんだろうか。



母は定期的に私をいじめていた。

ここはあんたの家じゃない、とか。

なぜ、あんたたちの世話をしなきゃならないの、とか。

お母さんは家政婦じゃない、とか。

今考えるとメチャクチャなこと言ってたな。

どこのお嬢様やねん。

こども育てたり家事がいやなら
結婚するなよ。



あなたはなぜ結婚したのですか?

配偶者に養ってもらうためですか?

疑問だらけです。



振り返ると

私はそんなことを言われるほど悪い子ではなかった。

問題も起こしてないし。



ただ、母や父の思い通りにならなかっただけだ。


ひたすら親のいうとおり、
勉強してピアノの練習のみする

テレビも見ないで
本も読まないで
友達も作らないで
遊びにもいかず
学校以外は外にも出ないで
ひたすら勉強とピアノをやれば
彼等は満足したのだろう

今、考えると、叱るのではなく

それは、いじめだ。笑える。



小学生の頃から、私は母が大嫌いだった。

父はわたしにピアノを押し付け、ピアノを辞めたいと言う度に殴られた。
音大に行くために中学に行き、
音大に行くために合唱部に入れと言われ
音大に行くために高校に行け、と
言われた。

ピアノが大嫌いというわけでは無かったが

生活のほとんどをピアノに費やすのが苦痛だった。


本をよんだり
テレビを見たり

友達と遊んだりしたかった。

自分の自由な時間が欲しかった。




父は家で仕事してたから
ピアノの練習をさぼる度に殴られ。

練習をせずに本を読んでるだけでも怒鳴られ。

父のことも、納得できなかった。

支配されてた。


そりゃあ、まともに幸せに育つわけがない。


私はどうやって自分を守っていたのだろうか。

よく壊れなかったな、と思う。

いや、身体は訴えていた。苦痛を。


私の喘息は
こども時代からの
ストレスが原因だ。

今ははっきりわかる。

息ができなかったんだ。

苦しくて。



自由に友達と遊ぶ時間も

自分の夢も取り上げられて、

母には意味不明の八つ当たりをされて




そして、それは10代で終わった。




食事も衣服も寝る場所もあったけど、いつも逃げたくてしょうがなかった。


父が死んで、やっとピアノから解放されたけど

母は今度は新たなネタを繰り出した。



父親がいないあんたは普通に幸せにはなれない、

なんて言い出した。

は?.....だ。




そのうえ、ダンナを亡くした母を支える、という重荷がもれなく棚から落ちてきた。



それは父のお葬式から始まった。

消衰しきった母のかわりに私が弔問客に頭を下げ続けた。

母は弱くてだめな人だと思った。


そのくせ、人をどん底に突き落とすようなことばかり平気で言うのだ。


気の毒な人だな、と思う。

改めて文字にして気づく。



私は母をこんな風に客観的に見たことがなかった。




私もバカなんだ。




高校を卒業してわたしは

やっと自分の時間を生き始めた


やりたいこととか
どういう仕事につきたいとか
将来の夢とか
人生設計

そんなことは考える余裕はなかった





私はとりあえず学費の安い短大に入学した

短大は特に魅力もなく

だがしかし、父を亡くし、ピアノから解放されて

抜け殻になっていた私にはその2年間は

必要だったのだ。




なんとなく無気力に生きていく時間が。




その2年なんとか乗り切り、短大卒業後とにかく就職した。





就職してからは、なぜか驚異的な激務で喘息悪化。


退職してからはバイトに明け暮れながら

ロックバンド活動にいそしんだ。



プロになれるなんて思ってもいなかったけど

何かに打ち込みたかったんだと思う。





家にいたくなかったし。

母から逃げなければ
つぶされる、


そんな危機感があった。




私が一人暮らしを母に反対されてぐずぐずしているうちに

私が24歳の時

弟は大学卒業後にすぐに会社の社員寮に入ることで家を出ることに成功した。





だけど、私は母を一人残して出るわけには行かなかった。

母を納得させて脱出する方法は結婚しかなかった。





ダンナを亡くしたばかりの母を

支えるのも大変だったけど

私はもうこれ以上、頑張れないところまで来ていた。




そんなときにバンドの対バンで一人目のダンナと出会った。



バイトとバンドの両立でとうとう私の体力は限界にきた。



結局、私の喘息は劇悪化して
バイトもバンドもやめて
一か月近くほぼ寝たきりになっていた



少し病状が落ち着いてから

わたしは結婚した。



実家を晴れて脱出した。




結婚して

やっと自由に自分の人生を生きられるようになった

やっと逃げ出したのだ。

束縛と呪縛から。




そして息子が生まれて
本当に幸せだった

けれど自営でお店を始めて
バランスが崩れた




お店は繁盛したけど

ダンナにはだんだん負荷がかかって行って

お店のことで喧嘩が絶えなくなった


そんな時にわたしの弟が死んだ

わたしはかなり弱った。



悲しんだ。




弟が死んだとはいえ、なぜそんなに泣き続けるのか、

とダンナには理解ができないようだった。



今度は息子を亡くした母を支えるという重荷が棚から落ちてきた。


あの母を一人残された、と思った。

私に押し付けたな、そうさえ思った。



私には荷が重すぎたのだ。

休むことなく、店を手伝い、

時間が過ぎていった。


弟の葬式のあとに、母からお礼の電話がなかったという理由で

舅や姑からひどく責められた。




非常識な母ですみません。と謝り続けた。

私にはかなりキツイ出来事だった。




そんな出来事が私とダンナの間にさらなる溝を作っていった。

夫婦喧嘩がますます絶えなくなっていった

そしていつの間にか

ダンナはお店の常連客だった女の子と本気の恋愛関係に。







そして離婚。


彼は経営者には向いてなかったのだ。






離婚して
5才の息子と実家に帰った。

離婚の痛手は大きかった。



本当は母のいる実家に帰りたくはなかったが
そうするしかなかった。


そして

また母の束縛との戦いが始まる。

母のヒステリーとの戦いは
何もプラスな要素が無い。

なんとか
ごまかしながら日々を暮らして

2番目のダンナと出会った。

彼は東京の人だった。




息子が小5の時、
私は彼と再婚して
母から再び脱出した。

それから

2番目のダンナと苦労しながらも
一生懸命、家族を守るために暮らした

息子も
2番目のダンナの息子や娘も

みんな助けてくれた

そう。


私達は家族だった。

それなりに幸せだった。


2番目のダンナは頑張っていたけど、浮気ばかりしていた。

遊びたかったのだろう



今ならわかる。

(このあたりのことは過去のブログに書いてあります。)


彼は、ずっと苦労して生きてきた人だ
守ってくれる人もおらずに、
中卒で働きながら夜学を出て
必死で自力で大人になったひとだ



2番目のダンナの母親の介護は
かなりきつかった。

彼が逃げ場を作った気持ちも
今は解る。

でも私も辛かった。


離婚した。




私にとって

本当に自分の人生がスタートしたのは、ここからだ。

43歳。

息子と私は二人で東京で
アパート暮らしを開始

私は初めて結婚する事なく
自分の居場所をゲットした。

劇的な快挙だ!





息子と二人で平和に暮らす日々が始ま・・・


ったはずが、




なぜか、すぐに出会った。

今の主人に。


(このいきさつも過去のブログに書いてあります。)


そして、三度目の結婚。


そして、数年後

今までのすべてのストレスや人生の疲れが


いっぺんに爆発してそして脳が暴走しました。




三日三晩、ほぼ一睡もせず、

食事も殆どとらず

しかも30度近いエアコンも扇風機も無い部屋で

こもり


三日目の朝 わたしは確実に明白に壊れました。


幻聴、幻覚の中で私が宇宙のコントロールパネルの一部になってしまいました。

私の目の前をものすごい量の光のデータが壁中を駆け回り流れていくのです。






ワクチンソフトを打たないと、ウイルスにやられてしまう。

太陽系に病魔が充ちているのは

ワクチンソフトを太陽系コントロールパネルにインストールしていないからだ



早くワクチンソフトを開発せねばならない、と。



宇宙の声が教えてくれた。


そして宇宙の真理は「愛と平和」だ、核は封印して太陽エネルギーを使うのだ!

と。

それと、生命がなぜ死ぬのかというと、遺伝子に死が入っているからだ、と言われた。


うううううう。。。。


宇宙の声????




あれは、なんだったんだろうか。




一度、死んだ!!と思った瞬間もありました。

そのあととめどなく涙が込み上げてきて

泣きました。


あの時、すでに壊れてたのか




まだ正気だったのか、、、解りません。



そして入院、退院、社会復帰、

元の職場に戻って落ち着いたころに、ダンナの失業。


夫婦二人で従事する仕事に転職し、引越し。






















ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

最近の「試練と整理」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事