【日本国憲法の誤訳02 「平等」】
人間同士が「平等」なんて事は、本来あり得ない事です。
同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、「平等」ではないからこそ、「対等」に扱うんです。
日本人の多くが英語の equality を何でもかんでも狂ったように「平等」と誤訳して平気でいられる理由は、「平等」が『平たく等しい』というかなり特別な意味であるという事すら理解できない日本語力の無さと、英語の equality が1776米国独立宣言などで『各々の州の憲法・法律や出身民族や母国語や宗教やその他の事情がどう違っていたとしても、自分たちは、個人単位でも、州や市や郡などの共同体単位でも、法的には対等な関係だよ。そうことにしておかなければならない。そうしておく必要がある』という意味で使われているという事情を知らない無知さ、そういう智恵ではないかと理解してみようとすらしない鈍感さ、それ故の誤訳です。
更に困った事に、江戸時代以来の、今なお露骨な「お上隷従主義(authoritarianism)」あるいは「専制隷従主義(tyranny)」をいまだに多くの日本国民がほとんど全く卒業できておりません。それ故に、普遍的な人権尊重や普遍的な反差別則の実践のための必要条件(最低限の土台)である普遍的な法的対等性 equality なるものについても、いまだに理解が追いついていないまま、という大変恥ずかしい悪循環に陥っているように見えます。
何もかも悪平等主義であるべきだなんて考え方はナチズム Nazism そのものです。ボリシェビキズム、マルクス主義/共産統制主義 communism そのものです。昭和前期の日本の軍国統制主義 militarism そのものです。
即ち、個人個人の尊厳や各々の個性や自発性や多様性を全く尊重せず、それら全てを強制的に病的画一主義で抹殺したがる全体統制主義 totalitarianism の極めて悪しき特徴そのものです。
『個人個人を尊重し多様性を尊重するが故に、共同体(市や郡や州や国)の安全弁として法的対等性を絶対的に尊重せざるを得ない。また、あらゆる物事の公正中立さのためにも絶対的に法的対等性が我々の共同体の中にはなければならない』という事情や智恵を理解できていないと、個人主義と共同体主義、および、個人や共同体の法的対等性を土台としている法治主義(Rule of Law)および民主主義(Democracy)を健全に育てる事など不可能でしょう。
日本の現状だって、多くの場合、平等は非現実的かつ不合理です。
ですが、個人同士あるいは共同体同士の法的対等性はなければならないし、あるべき公正中立さのためにも法的対等性はあるべきです。
例えば、所得税法や地方税法に基づく納税額だってみんなそれぞれ違います。
憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」の「法律」そのものが「法の下に平等」である事を不可能にしてしまっています。
応分負担を『それが(法の下に)対等という意味だ』とは十分言えますが、『それが(法の下に)平等という意味だ』とは到底言えません。
従って、問題の「法の下に平等」は、せいぜい「法の下に対等」あるいは米英欧圏のように「法の前に対等」に修正すべきです。
第一、「法の下に対等」「法の前に対等」こそが、「差別」しないため、かつ、「差別」されないための必要十分条件なのです。
つまり、反差別則の実践(憲法14条1項)のためには、「法の下に平等」なんて悪平等主義イデオロギーは全く不要です。悪平等を実現するためには差別と逆差別だらけにならざるを得ないからです。「過ぎたるは及ばざるが如し」です。
そういうわけで、「法の下に平等」なんて誤訳が、極めて悪質で、極めて非人間的で、極めて非現実的で、極めて不合理な悪平等主義イデオロギーに過ぎないという事は、明らかな人には明らかなのです。
差や違いがあってこそ、人間も人間社会も刺激し合って成長し得ます。面白くない事も、当然、あるでしょうが。でも、差や違いがあってこそ、面白い事が起き得るのです。
従って、憲法14条1項や憲法24条2項の「平等」を「対等」に置き換えざるを得ません。
置き換えると、以下のようになります。
(法的対等)
第十四条
すべて国民は、法の下に対等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
Article 14.
All of the people are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic or social relations because of race, creed, sex, social status or family origin.
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
Peers and peerage shall not be recognized.
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
No privilege shall accompany any award of honor, decoration or any distinction, nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.
(両性の本質的対等)
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
Article 24.
Marriage shall be based only on the mutual consent of both sexes and it shall be maintained through mutual cooperation with the equal rights of husband and wife as a basis.
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的対等に立脚して、制定されなければならない。
With regard to choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family, laws shall be enacted from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.
これで何の問題もなくなるはずです。
日本国憲法だけでは全然ありませんが、たとえ英語の equality がどのように使われているかを全然知らないとしても、『平たく等しい』という意味の「平等」を、法的立場が明らかに異なる人間関係(例えば、脱税しまくっている国会議員と無理やり納税させられ続けてるだけの非公務員とか、財産を差し押さえられるわけにはいかない困窮者とその困窮者のわずかな財産をも差し押さえて毟り(むしり)取ろうとしている財務省公務員とか、無罪を主張している囚人とその囚人が冤罪被害者かもしれないのにその囚人に対する死刑を決定したままの裁判官とか、など)や、小学生でも分かる明らかに生物学的に異なる「夫婦」「両性」に対しては、「平等」なる言葉を無神経に使うべきではないでしょう。
法的あるいは生物学的に、「平たく等しい」立場には全くない事が余りにも明らかなのですから。
人類が追い求めるべきは、病的で非現実的で不合理で、差別と逆差別だらけにならざるを得ない悪平等主義ではなく、透徹した公正中立性や本質的な反差別則の実践でしかないのだから。
それにしても、憲法24条で、「女」という差別語(『女は穴、生殖器、性奴隷、産む機械、画数的にも「男」の半分未満の価値しかない』という意味の差別語)が使われていないのは、偶然にしても凄く画期的な気がします。。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます