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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-動静一如(GHQ焚書図書開封 第179回)

2022-07-27 03:19:47 | 近現代史

(GHQ焚書図書開封 第179回)

-動静一如

 鳥が飛躍しようとするとき、まず翼をかさねて、しばらく動かない。これが不動の姿勢である。号令一下、いかなる行動にも全力で出得るのが、不動の姿勢であって、凝り固まるのは、不動ではない。と、軍隊では教える。動静一如、この心境こそ不動心であろう。二宮尊徳は言う。不動尊は動かざれば尊しと読む。予が今日に至ったのは、不動心の堅固一つにある。

 不動心の堅固一つで足もとから、着々と動いて行ったところに、尊徳の本領が察せられる。

 

 一世一代

 茶道は、動静一如の心境を体得させるという。財界の益田孝は、茶席を開いて客を招くたびに、「今日こそは、私の一世一代のお茶、これが私の最後のお茶であろう。いつもそう云うので、客が、また一世一代でございますか。」ことごとに一世一代の気力をもってあたる。今日を最後と観念する。このほかに、真剣な生活充実の道はないと思う。

 

 決して死なぬ

気力で生きる強さを、福沢諭吉がk、やはり体験の上から云う。気力の強い人間は、体が完全なのを維持して、俗にいう『剛情に長命』する実例がある。とにかく自分は、この世にまだ用のある身である。今死んでは困る故決して死なぬと一心決定して、平気剛情に身構えすることが、最大の療法である。たとえ病が襲ってきても、少しも恐れたりするにたりない。随って襲ってくれば、追い払うだけのものである。畢竟、現代の医者は、単に有形の身体を料理するばかりで、なほまだ、精神力に及んでいない。」石川啄木は歌って云う。こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思う。働く仕事は山ほどある。我に働く仕事あり、それを仕遂げて生きんと思う決意で生きる。平出海軍大佐はいう。決して死ぬな。」適切な言である。

 

 肉體克服

 乃木大将の肉体は、殆ど不具に近いほど、故障だらけであった。左足が、西南戦役の負傷によって、生涯不自由だった。左の眼が、瞳孔内の角膜白斑のため視力殆どなく、僅かに明暗を識別し得る程度だった。残る右眼は、強度の遠視だった。が、その不自由なのを、静子夫人さへ数十年の長い間、気がつかなかった。大将がそれを云わず、不自由なのを黙って克服していたからである。その上持病の痔が治らず、ひどい脱肛で烈しく出血する。乗馬して鞍を赤く染めながら、そのまま疾駆させた。リューマチスも持病だった。冬になると肩と肘の関節が自由を失う。腕と足の銃創も疼いた。歯は、日露戦争以前から、総入歯だった。」旅順要塞の総攻撃前に、海軍陸戦銃砲隊を初めて訪問したとき、廓から出てくると、ひどく顔色が悪い。河西副官が見てとって、「どうかなさいましたか。」「いや、血が少し・・・。」大将は何気なく云われたが、愕然とした副官は重ねて尋ねた  「痔の方の出血をなさったのですか。」「いや、血便だ。」「それはいけません、すぐかえりましょう。」「なに、何でもない。出かけよう。」乗馬して前線に出ると、高地から低地へ、また高地へ、およそ六里にわたる攻撃配備を、ことごとく視察し続けた。司令部へ帰ってきたが、それきり黙っている乃木司令官を、軍医が診察してみると、赤痢だった。「閣下、ご静養を願います。」「そうかな、まあいいよ。」『そうかな、まあいいよ』と気力で押し切って静養もせず、十日ほどすると治って、総攻撃開始の日には、前線へ出て自ら指揮した。

 

 気力

 乃木大将、故障だらけの身体に、学習院の院長を拝命、寄宿舎に起居して、少年と生活を共にした。片瀬の遊泳に行き、中耳炎にかかり、赤十字社病院で大手術をしたが、鼓膜が肥厚し、絶えず烈しい耳鳴りに悩みながら、これも克服していた。

 「暑い、寒いは気のものだよ。」自分の居室にスチームを通さず、暖炉もたかず、安物の火鉢に小さな炭火をいれさせるきりだ。中耳炎の大手術後であり、殊に厳寒ではと、御用掛の小笠原長生子爵が全校を代表して、「暖炉をお炊きください。これだけをお願いいたします。」熱誠をこめて諌めると、「ああわかった」と、その日だけ暖炉に日を入れさせたきりだった。

 数日後、小笠原子爵が行ってみると、乃木大将、「やあ。」あわてて立ち上がると、暖炉の

前へ急いで行き、しきりに炭を投げこみながら大声で云った。 

 「今ちょうど、その、火が消えてのう。」火のない暖炉へ石炭を入れても、燃えはしまい。大将のこの気力は、厳父より幼時鍛錬されて育った、肚の気力である。

 

 群童の魁

 吉田松陰の『幽実文稿』の初めに、塾生岡田耕作に与えた文が載っている

耕作は当時、十歳の少年であった。

 正月の三が日は、遊んで暮らすものとされているが、耕作は、正月の二日の日に

塾へ出かけていった。松陰は非常に喜んで、

 正月だというので、みな年始の挨拶に来る者はあるが、授業を願いますというて来たのはお前一人だ。わが塾の第一義は、今迄の習慣を一洗して、大いに非常時に役立つような人物をつくることが目的であるによって、大晦日も元旦もあるものではない。第一、今はそんなことをいって、業を休む時ではない。今日お前が来たのは、感心だ。群童の魁だ。群童に魁をする者は、やがて天下の魁をするものである。松陰は、正月の二日の日に。孟子の講義をして聴かせた。

 

 唯一心

 師走の三十一日、明日は元旦だという夕方に、学友の菅得山が、林羅山の家へ遊びに来た。話のついでに、私は通覧綱目 をまだ読んでいないが、貴公は読んだかな。」「ああ、ことごとく読んだ。」「そうか、それならば、どうか年があけて明春から講義してくれんかな。」「なに、聞きたいなら、今から始めよう。」林羅山はそう云って、直ぐに立ち上がって、その書物を持ち出してきた。

 羅山、師走の夕方から、諄々と講義を始めた。そのことのみに生きている。一心の生活者は、脚下から着々と道を開いて行く。学ぶべきかな。

 

 一日善哉

ある年の元旦のこと、服部南郭が、その師荻生徂徠の許へ年賀に行った。ところが、徂徠は机にもたれて一心に孫子を読んでいた。髪も乱れている。新春も知らぬようである。徂徠は彼を見ると、「やあ来たな。どうだ近頃は何か読んだか。そうか、ところで、孫子を今読んでいるが、孫子とは・・・・」

と、論じ出した。南郭は、この日新春の賀詞を述べる機会がなく、ともに孫子を語って、深更に、師の許を辞したという。

 

 一日暮し

大阪の名医、北山寿安がいう。「一日暮らしということ覚悟せしより、覚悟甚だ健やかにして、又養いに術を得たり如何となれば、一日は一月のはじめ、千歳万歳のはじめなれば、一日よく養うことを得たれば、生涯を養うも難きにあらず。

 一日を仕上げていけという。明日という日があると考えたら。今日一日の充実は零にしてしまふことがある。一日に最善を尽くして行け。頭山満がいう。何事も大風が吹いてから、両手で防ぐようなことをしても、もう間に合うものでない。平生から肚を養うておかねばならぬ。大塩平八郎が云うように『一年を百年と思う意気込みで、心に磨きをかけておかねばならぬ。』一年を百年、これを現実の上に体得すべく、一日を百日に、一時間を百時間にするほど、刻々に充実しなければならぬ。一日を仕上げる法である。

 

 日常本心

 徳川三代将軍家光、朝鮮から献上してきた猛虎を、鉄の檻に飼っていた。剣道指南番の柳生但馬守宗矩が、この虎の前へ行くと、鉄扇をもって身構え、気合と眼光で射すくめた。ところが、沢庵禅師は、手に唾をつけて虎になめさせ、頭を撫ぜてやり、飼い犬のように懐かせてしまった。これを見た但馬守、「禅師にはかなわぬ。」

 剣道は悟道によって極意に達すべきを、初めて気がついたと云う、講義めいた伝説。

 史実には、沢庵禅師が但馬守のために、剣道の極意を示した手記『不動智神妙録』が遺されている。中の一節にいう。

 何事もなさんと思うことを、ずんと思い切ってするは本心なり。こうしようか、せまじきかと、二途にわたるは血気なり。二途にわたりて分別きまらざることをすれば、必ず悪しし、これ血気に惑わざるるなり。この事をなさんと思わば一途にしたがうべし。二途にわたるほどならば、なすべからず。初め一気はみな本心なり。二つにわたるは血気なり。本心はみなよし。血気は悪しし。何事も怖じるな。怖じれば仕損なうぞ。怖づるは平生ののこと、場へ出ては怖づるな。溝をば、ずんと飛べ。危なしと思えば陥るぞ。」

 肚からの決意は『何事にも怖じない』本心の信念から生まれる。『分別きまらざる』血気の意図は『陥るぞ』である。

 日常の 生活に処する道も、本心信念で一貫したいと思う。

 

 身に聞く

下野の佐野の城主、天徳寺了伯が、琵琶法師を招いて、家臣と共に聞いた。曲は

平家物語のうち、佐々木高綱の宇治川先陣、那須宗高の扇の的、聞いているうちに了伯は、潜然と涙にむせんで、しきりに懐紙を顔にあてていた。

 後日、家臣に

先日の琵琶は、いかがであったか。」

 所感をきいてみると、

ハッ、壮快なる先陣と、扇の的へ射当てました功名、二曲とも興味この上もなく、聞き取れました。君にはお泣き遊ばしましたが、一同、今もって不思議に存じております。」

 了伯、興ざめした面持ちで云った。「そうか。わしは、高綱が宇治川に先陣し得なかったら、宗高が扇を射損じたら、共に自分を覚悟しておったに違いない。その心を思うと、涙がこぼれた。お前たちは、いかな話でも、身をもってきくことをしらぬのじゃな。」まして命令、用談、身をもって本心で聞くが要諦である。

 

 禅の妙味

 武田黙雷禅師が云う。

 禅をやって、落着くと言うことは、くそおちつきに沈着して、雷が落ちてもびくともせぬようになるのじゃ、と思っている者もあるが、そうではない。雷が

天から、ドンドンガチャンガチャンやるにつれて、こちらでもドンドンガチャンガチャン。地震がグラグラと大地をゆすれば、こちらも、グラグラするところに、禅の妙味がある。座禅をしたから迷わんの、うろたえんというのは、」そりゃ、まだいかん。」

 

 気概

 儒者太宰春台が、小石川に住んでいた頃、庭前の梅が、道行く人の心をひいた。折りしも某大名、通り合わせてこれを見、是非に一枝をと所望した。春台、これを断ると、大名、大名が一度所望した以上は、ならぬといわれて手を引くわけには行かぬ。大名には大名の法がある。是非とも一枝を・・・・。」これを聞くと春台、立ち上がり山刀を携えて、「御大名に御大名の御作法があらば、儒者に儒者の作法あり。権貴にのみ屈服しない作法を御覧に入れよう。」山刀を揮って、梅樹を伐倒した。大名の一行、その気概に驚き、黙して立ち去った。

 

 不関

 讃岐の太兵衛の孝行が、代官の耳に入った。雪の夜、太兵衛の家のそとへ、そっと様子を見に行った代官、戸の隙間からのぞいてみると、老母が炉のそばにうづくまり、太兵衛が寝床にもぐっていた。「これがこうこうもののすることか。」憤然とした代官は、そのまま立ち去ろうとした。が、待てしばしと思い返し、佇んでいると、太兵衛は寝床から這い出してきて、老母のそばへ手をつき、「お母さん、お床があたたまりましたから、どうぞ、お休みください。これを見聞きした代官、さてはと感嘆して、帰り、翌朝、太兵衛を呼び出して、莫大な褒美と、特に『孝野』という姓までも与えた。その孝野

 家は、現在も存続して栄えている。雪の中で、代官に立ち見されたのが、太兵衛の好運であったのか。その前に憤然と代官が立ち去ったとしても、太兵衛の孝行には変わろう筈がない。その運、不運には関らないことだ褒美や孝野の姓はつけたりである。意とするに値しないものが、運であろう。『得意冷然、失意泰然』ともいう。

 

 形式

 昔、江州の孝行者が、自分は世間から孝行だと誉められるが、まだ十分でない。信州に大の孝行者があるというから、往って修行しようと思い、わざわざ出かけて行った。その家を訪ねて、暫く待っていると、倅が柴を背負って帰ってきた。家へ入るや否や、老母は出て柴を降ろしてやる。倅は平気で老母に柴の始末の手伝いをさせている。その態度を見て、江州の者はこれは変だと思っていたが、続いて老母は倅の草履の縄を解いてやる。おまけに足まで洗ってやる。この様子を見て、「親孝行などとはとんでもないことだ。世間の評判など当てにならぬ」と憤慨した。すると、その男が、今度は疲れたといって、ゴロリと横になった。老母は足をもんでやった。この態度をみた江州者は、もはやがまんできず。自分は孝行の修行にきたのである。ところが今までの様子を見ていると。孝行どころが、むしろ親不孝である。実にとんでもない 奴だ。」真っ赤になって怒鳴った。すると。倅は言った。自分は孝行とはどんなものか知らないが、私の母は、草履の縄を解いたり、足を揉んでくれるのをよろこんでいるのだ。もしそれを断るとたいそう機嫌が悪い。わしは何でも母の言うとおりになっているのだ。」江州の孝行者は、ハタと膝を打って、なるほどわかった。自分のこれまでの孝行は、いかにも形式であった。いたく感じたという。

 

 参考文献:「日本的人間」山中峯太郎

2018/11/07 に公開