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三井小野組合銀行と第一国立銀行
経済・企業
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2016年05月31日
東京・兜町の兜町ビルには「銀行発祥の地」というプレートがある。これは1873年(明治6年)にこの地に誕生した日本最初の近代的銀行である第一国立銀行を記念したものだ。
しかし第一国立銀行には、その前身となる「三井小野組合銀行」という銀行があった。その名のとおり三井組と小野組の両組の出資によって設立された銀行だ。
江戸時代の豪商であった三井組と小野組、そして第一国立銀行の経緯について調べてみたい。
三井は言うまでもなく日本三大財閥の一つで、三井越後屋で豪商となったことが有名だ
三井財閥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E8%B2%A1%E9%96%A5
三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。
三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年越後屋三井呉服店 (三越) を創業。京都の室町通蛸薬師に京呉服店を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け (ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売) などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。
三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳ではなかったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていた。
一方の小野組は「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商だ。
小野組
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%B5%84
小野組は明治に入ってからの通称で、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。
小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年頃、次男の主之が盛岡に下り、近江屋と称し村井権兵衛を名乗った。甥の子どもである盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助、京都の鍵屋の小野権右衛門、南部盛岡で「紺印」の祖になった小野清助らがこれに協力した。小野一族は、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。
京都の井筒屋善助・鍵屋権右衛門らは南部からの仕入れ店であったが、1776年に幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。
江戸の小野組は、日本橋本石町 (現日本銀行敷地内) に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。
さて、明治初期に近代的な金融システムの確立が急がれる中で、日本政府は米国のナショナル・バンクをモデルとした銀行を作るため、1872年に国立銀行条例を制定した。
三井組と小野組は既に銀行に近い業務を行っており、三井組と小野組の出資のもと、井上馨、渋沢栄一らによって、1872年に「三井小野組合銀行」が設立された。
江戸時代の商人と銀行
http://www.taisetsuna-okane.biz/izutu/
激動の時代であった幕末と明治時代の初期の日本には、官尊民卑の打破などの社会変革も行った渋沢栄一と同じように銀行の設立を目指していた人が、他にもいました。
三井組と小野組、そして明治政府も銀行を設立しようとしていたのです。明治政府の中核となる大蔵省にて働いていた渋沢栄一が、結果として日本初の国立銀行を設立しますが、当時はその準備に当たっていた最中であり、同じく銀行を設立しようとしていた三井と小野の両組と共同にて銀行を設立しようではないか!と提案していましたが、歴史ある豪商の2組は私立の銀行を望むため、政府主導となる銀行の共同経営には乗り気になれなかったのでした。
それでも、日本国で初となる銀行を設立するには協力することが不可欠としてか、三井小野組合銀行が国策に拠って三井と小野の両組の出資により井上馨と渋沢栄一らの手で設立されます。
そして三井小野組合銀行をもとに、国立銀行条例による民営の国立銀行として、翌1873年に第一国立銀行が創設された。
探検コム 銀行の誕生 第一国立銀行に行ってみた
http://www.tanken.com/daiiti.html
第一国立銀行は1873年6月11日に創設されました。紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一が立案し、1872年11月に公布された国立銀行条例による日本最初の銀行です。
「国立」となっていますが、これは完全な民間経営で、江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核にして設立されたものです。ちなみに資本金は双方100円ずつに一般からの応募44円をあわせた244円。この点で日本初の株式会社と呼ばれることもあります。
第一国立銀行は民間企業でありながら、当初は紙幣の発行も認められていました。(ただし兌換紙幣で、金との交換が条件)
1882年、政府は日本銀行を創設し、紙幣の発行は日銀の専管事項になります。
1896年、国立銀行はすべて普通銀行に転換し、第一国立銀行は第一銀行になりました。
また、第一国立銀行以外にも国立銀行条例に基づいた国立銀行 (国法によって立てられた銀行) が次々に開設された。
当初は金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、第一から第五の4行 (第三は発起人の意見対立により開業に至らず当時欠番となっていた) が設立された。
その後1876年の国立銀行条例の改正で、不換紙幣の発行や、金禄公債を原資とする事も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された。銀行は設立順に番号を名乗っており、「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。第四銀行、十六銀行などは創立時の商号 (ナンバー) のまま現存している。
一方で三井組は、1875年に「三井バンク」と改称し、銀行の創立出願を東京府知事あてに提出した。当時の銀行条例では国立銀行以外に「銀行」と称することを禁止していたが、国立銀行が第一・第二・第四・第五の四行に留まっていたことなどから抜本的改正を余儀なくされ、1876年に日本最初の私立銀行が設立され、その後各地に店舗を展開した。
その後1943年に第一銀行と合併して帝国銀行、1954年に三井銀行に行名復帰、1990年に太陽神戸銀行と合併して太陽神戸三井銀行となり、後にさくら銀行と改名。現在は住友銀行と合併して三井住友銀行となっており「三井」の名が復活している。
しかし小野組は、その後政府の金融政策の急変によって破綻してしまった。
小野組の破綻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%B5%84#.E5.B0.8F.E9.87.8E.E7.B5.84.E3.81.AE.E7.A0.B4.E7.B6.BB
1871年の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。
小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
渋沢栄一の仲介によって、1872年に三井組と共同で「三井小野組合銀行」を設立するが、三井組は独自に金融機関 (三井銀行の前身) を設立、三井組は規模を拡大した。
小野組は、1873年には全国に支店四十余、大阪府のほか二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕していたが、1874年になって、政府の為替方に対する方針は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をした。
1884年9月、小野組の権利義務を移して小野商会を創立し、1897年頃まで営業を続けていたが、その後解散した。
三井組がその後も金融業務を拡大し、現在でもメガバンクとして存続しているのに対し、小野組は銀行の歴史が始まる前に表舞台から去ってしまったような形だが、日本の銀行の源流は三井と小野であったことはもっと知られていいはずだ。
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