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八百善と平清
文化・芸術
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2013年03月30日
江戸時代は食文化が発展した時代だ。江戸は豊富な海産物に恵まれ、市中には手軽に食べられる屋台や高級料理店までさまざまな店が軒を連ねた。江戸前寿司など「江戸前」という言葉は現在でも使われているが、これは文字どおり江戸の前面に広がる海や川を指しており、そこで捕れる鯛・鯵・鰻などの新鮮さを表す代名詞となった。
屋台では鰻の蒲焼が人気だったようで、鰻が高騰している現在からすると羨ましい感がある(しかも天然もの)。屋台では他にも寿司、天麩羅、二八蕎麦、汁粉、いか焼き、団子などファストフードが発達した。
その一方で食文化が爛熟するにつれて高級な料亭も誕生した。
川原文月の学校では教えてもらえない歴史おもしろ雑学 大江戸編 食べ物
http://bungetsu.obunko.com/newpage114.html
江戸で「料理茶屋」、つまりは「料亭」と呼ぶにふさわしい茶屋が出現したのは明和年間(1764~)で、深川洲崎の「枡屋望汰欄」(ますやぼうだらん)という料理茶屋であった。それまでは宴会場といえば、吉原に限られていた。続いて、安永年間(1772~)から天明年間(1781~)にかけて隆盛を極めたのが、浮世小路の「百川」(ももかわ)、佐柄木町(さえきちょう)の「山藤」(さんとう)、向島の「葛西太郎」(かさいたろう)、中州(なかす)の「四季庵」(しきあん)などが通人の間の評判となった。しかし、老中田沼意次の失脚とともに贅沢禁止令が出たため衰退をした。それでも、「食」に対する人間の欲はいかんともしがたく、文化年間(1804~)から文政年間(1818~)にかけて、再び流行となった。この時江戸を二分したのが日本堤山谷(さんや)の「八百善」(やおぜん)と深川八幡前の「平清」(ひらせい)。
この八百善と平清だが、平清は明治時代に廃業して現存しない。可能な範囲で調べてみよう。
江戸食文化紀行 "平清"と潮汁
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no5.html
深川土橋にあった“平清(ひらせい)”は、江戸の料理屋番付では行司の位置にある高名な料理屋でした。文化年間(1808~1818)に営業を始め、明治32年(1899)に廃業したという店で、料理の評判も高かったようです。寺門靜軒は『江戸繁昌記』(1832)の中で平清について、店構えや食器もよく、料理は上等と大層ほめています。
屋号の“平清”は、主人の平野屋清兵衛の名によるものですが、平家の平清盛に見立てて、江戸川柳に「平清の奢(おご)りのすえもうしほなり」というのがあります。これは平家の一門が壇の浦でほろんだことと、平清の会席料理の最後に鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句です。
実際の場所は現在の江東区富岡二丁目になり、当時からあった富岡八幡宮の近くだ。以下の深川八幡宮周辺図に平清の記載がある。
落語の舞台を歩く 深川八幡宮周辺図
http://ginjo.fc2web.com/230narita_kozou/fukahawa_map.htm
一方の八百善は、現在でも営業をしている。
八百善
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E5%96%84
八百善(やおぜん)は、江戸時代に会席料理を確立し、江戸で最も成功した料亭のひとつである。享保年間に浅草山谷で創業して以来、栄枯盛衰を繰り返す。
八百善が文政五年(1822年)に刊行した『江戸流行料理通』は当時の料理テキストとも言うべきものだが、蜀山人・鵬斎(亀田鵬斎)が序文を寄せ、谷文晁、葛飾北斎らが挿画を描いて評判になり、江戸土産としても人気を博した。
徳川将軍家代々の御成りも仰ぎ、ペリー来航の際の饗応料理も担うなど、その名を江戸中にとどろかせた。ま高級料亭の先駆け的存在として、江戸の食文化の形成に重要な役割を果たした。
2004年3月まで江戸東京博物館のレストランとして江戸料理を現代に伝えていたが、現在は料理屋・レストランとしての店舗は存在せず、『割烹家八百善株式会社』が、三越、小田急などの大手百貨店、また各通販業界において、八百善ブランドの江戸料理の高級惣菜、おせち料理等を提供している。
創業享保二年 江戸料理「八百善」 将軍家と八百善
http://www.yaozen.net/history/history_03.html
八百善は、将軍家にも愛されていました。文政十年(1827年)、十一代将軍家斉は鷹狩りに向かう途中、四代目善四郎の別荘に立ち寄りました。 また、篤姫として知られる天正院も、勝海舟を伴って しばしば八百善を訪れました。八百善には、将軍のお成りの際に遣わされた書類が、今も数多く残っています。このように、将軍家の方々が一般の料理屋を訪れるのは、非常にまれなことでした。
幕末には、幕府に開国を求めたペリーの接待もおおせつかっています。ペリー饗応の献立に関する資料の多くは、関東大震災によって消失してしまいましたが、八代目善四郎が六代目善四郎から聞いたところによると、おびただしい料理と皿が並び、その費用は千両にものぼったそうです。
その後、明治時代に入ってからも、政府や宮中からの依頼を受け、外国の要人の接待を承った記録が残っています。このように、八百善の歴史は、日本の激動の歴史とともに重ねられてきたのです。
山谷の八百善の場所は、台東区東浅草1丁目になるようだ。以下の山谷地区地図に記載がある。
東京紅團 「重箱」と「八百善」を歩く
http://www.tokyo-kurenaidan.com/jyubako-yaozen1.htm
この店舗の外観は、料亭の土産であった「起こし絵」(ペーパークラフト)で再現できるようだ。
このように江戸時代から明治時代にかけて江戸の高級料亭の代表格として君臨した君臨した八百善だが、1923年に関東大震災で全焼し、その後築地に移転するも戦争の空襲で全焼するなど、不運が続いた。その後永田町、青山、銀座、江戸東京博物館、新宿高島屋などで店舗を設けるが、いずれも閉店してしまっている。
現在は料理屋・レストランとしての店舗は存在せず、「通信販売・小売事業者様向け商品企画開発・卸売販売」「八百善江戸料理 料理教室」「江戸料理についての講演」を事業としている。
現在食することができる八百善の料理の一例はおせちで、江戸おせち(年越し鴨南そば付き)四段重(全16品):31,500円 などがある。
取り寄せおせちの殿堂!
http://anj-wwf.com/tosikosi.html
300年の歴史を感じながら年越しと正月を迎えるのもいいかもしれない。今年の年末に(覚えていたら)検討してみよう。
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