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東京蹴球団とアストラ倶楽部
スポーツ
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2016年09月30日
サッカーの天皇杯 (天皇杯全日本サッカー選手権大会) といえば、元日に国立競技場で決勝戦が開催され、正月の風物詩となっている。第94回大会は2015年正月でなく2014年12月に行われたので、元旦の午後に空白感を覚えた方も多いだろう。
最大の特徴は、日本サッカー協会チーム登録種別の第1種登録があれば基本的に予選に参加可能なオープントーナメントであることで、その結果毎年プロがアマのチームに敗れる波乱も起きている。
Jリーグ開幕後は全てJリーグチームが優勝しており、それ以前も前身の日本リーグのチームの優勝が多い。しかし1960年代までは学生の優勝チームも多く、現在でも最多優勝回数を誇るのは慶應義塾大学で、慶應義塾大学として1回、慶應クラブとして1回、慶應BRBとして6回、全慶應として1回の合計9回優勝している。
遡ると、日本のサッカーは1870年頃に伝来し、その後1910年代にはいくつかの大会が開催されるようになった。そして1921年9月10日に現在の日本サッカー協会の前身である大日本蹴球協会が創設され、その場で全国優勝競技会の概要が決められた。その第1回大会はその年に「ア式蹴球全國優勝競技會」の大会名で、1921年11月26日と27日に日比谷公園グラウンドで開催された。
NHK 天皇杯全日本サッカー選手権大会 大会の歴史 第1回 優勝:東京蹴球団
http://www1.nhk.or.jp/sports/tennouhai/his/empcup_bdf_hisde01.html
歴史的な第1回大会の名称は「ア式蹴球全国優勝大会」。優勝者に授与されるのは「FA杯」と呼ばれる銀製のカップでした。
地方予選は東部に20、中部に3チームが参加して行われましたが、近畿四国、中国九州では予選は実施されませんでした。全国大会へと駒を進めたのは、東京蹴球団、名古屋蹴球団、御影蹴球団、山口高校の4チーム。このうち山口高校が棄権したため、行われた試合準決勝1試合と決勝の2試合でした。秋晴れの下で行われた決勝戦は、午後2時、御影のキックオフで始まりました。前半は互いに譲らず0対0でしたが、後半10分、東京の菅家選手のCKを安藤選手がヘディングで押し込み、決勝点を奪取。東京蹴球団が最初の覇者となりました。
試合終了後、エリオット駐日英国大使より、東京蹴球団の山田主将に初のFAカップが贈られました。
この試合には、後に日本代表の監督を務め、またジャーナリストとして戦前の日本サッカー黎明期に取材を続け、サッカーの普及、発展に尽力しサッカー殿堂入りをしている山田午郎氏も出場していた。
日本サッカーアーカイブ 日本サッカー人物史 山田午郎
http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=9
第2回大会は同様な予選を経て、1922年11月25-26日に豊島師範グラウンドで開催され、アストラ倶楽部 (関東北)、名古屋蹴球団 (名古屋)、大阪サッカークラブ (大阪)、広島高師 (広島) の4チームが出場し、名古屋蹴球団が優勝した。
第3回大会は関東大震災の影響により、1924年2月2-3日に東京高師グラウンドにおいて開催され、アストラ倶楽部 (東部)、名古屋蹴球団 (中部)、神戸高商 (近畿)、広島一中 (西部) の4チームが出場し、アストラ倶楽部が優勝した。
さて、黎明期のサッカー天皇杯 (ア式蹴球全國優勝競技會) を制した東京蹴球団とアストラ倶楽部は現在も活動を続けているチームで、しかも現在同一リーグに所属して対戦している。
東京蹴球団 東京蹴球団の歴史
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tousyu/rekishi3.html
1917年、日本代表チーム (東京高等師範) がこの年はじめて体験した国際試合 (同年5月、芝浦で行われた極東選手権大会) で、中国・フィリピンに大敗した。
日本のサッカーが国際的に極めて幼稚なものであることを目のあたりにするに及んで、なんとしても斯技の普及とその強化を図らねばと決意した内野台嶺(明治42年、東京高等師範国語漢文部卒、豊島師範教諭を経て、同44年研究科に復学。大正2年同卒、東京高等師範、文理大教授)の主唱で、東京高等師範、青山、豊島両師範のOBを以てクラブチームが結成された。大日本蹴球協会発足に先立つこと4年である。
東京蹴球団の名は、創立総会の席上、栗山長次郎(東蹴初代GK、大正6年青山師範卒後、ハーバード大学卒)の提案による。
日本で初の (即ち最古の) クラブチーム、わが東蹴はかかる使命をおびて生まれた。
1921年、団の創立に4年おくれて大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)発足。団からは理事長に内野台嶺、元老の吉川、熊坂、武井などが理事に就任、創立委員として、内野台嶺をはじめ、山田午郎、原島好文、小野田誠一などが名をつらねた。
この年はじめて、第1回全日本選手権大会の行われ、11月27日日比谷公園で行われた決勝戦で、東蹴は御影師範を1対0で斥け、全日本の覇者となった。
ラインナップは、豊島師範OB9人、青山師範OB2人の構成。主将山田午郎(27歳、大正6年青山師範卒、LH)が、エリオット駐日英国大使の手からFAカップを受けた。
このように単なるクラブチームの枠にとどまらず、大日本蹴球協会の設立に関わり、また関東少年蹴球大会、全国大学専門学校ア式蹴球大会などを主催してる。
1967年より発足された東京都リーグに初年度から参加し、現在は都1部リーグに所属している。
アストラ倶楽部
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8
1918年に暁星中学校サッカー部OBが中心となり結成される。クラブ名のアストラとは、ラテン語のAstra Castra Numen Lumenに由来する。
1922年の第2回ア式蹴球全国優勝大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)に東部地区代表として初出場。
1924年の第3回ア式蹴球全国優勝大会にも出場、名古屋蹴球団を下し優勝を果たす。
1985年に東京都社会人サッカーリーグに再加盟、現在に至る。
そして現在両チームが所属している東京都社会人サッカーリーグ1部 (第50回東京都社会人サッカーリーグ1部、14チームによる総当たり) において、先週行われた東京蹴球団 対 アストラ倶楽部 の試合に東京蹴球団が勝利し、東京蹴球団が初優勝を決めた。
東京サッカー 東京都社会人サッカーリーグニュース 東京1部 東京蹴球団が初優勝
http://www.tokyofootball.com/news/20160926.html
http://www.tokyofootball.com/news/20160926_02-mov.html
東京都社会人サッカーリーグ1部は25日、各地で4試合を開催した。
優勝争いは前節3位の東京蹴球団がアストラとの最終戦をDF高野の決勝ゴールで3-2で制し、すでに全試合を終えているCriacao、三菱養和と勝ち点30で並び、得失点差での制覇を果たした。
東京蹴球団は来年創設100周年を迎える日本最古のクラブで、東京都リーグには1967年の初年度から参加。1部リーグでの優勝は今回が初めてとなる。
関東リーグ昇格をかけた関東社会人サッカー大会には1位の東京蹴球団、2位のCriacao、3位の三菱養和が東京代表として出場する。東京蹴球団は1983以来33年ぶりの出場。
これはあまりにも劇的だ。日本最古のサッカークラブチームで、第1回天皇杯優勝チームである東京蹴球団が、同じく100年近い歴史を誇る第3回天皇杯優勝チームのアストラ倶楽部と対戦し、逆転でのリーグ戦初優勝。
19世紀からリーグ戦を行っているヨーロッパのクラブチームに匹敵するような伝統的なチーム、そして対戦だ。
東京蹴球団が関東リーグに昇格するとアストラ倶楽部との対戦は見られなくなってしまうが、お互い高いレベルを目指してほしい。そしていつか天皇杯決勝の舞台で、東京蹴球団対アストラ倶楽部という日本サッカー伝統の一戦を見てみたい。
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