
テニスのウィンブルドンの特徴を問われたら、「グランドスラム4大会の中で最も古く、白を基調としたウエアとシューズが義務づけられているなど伝統と格式を持ち、グランドスラムの中で唯一芝生コートで行われる」というのが一般的な答えになるだろう。
しかしウィンブルドンはもっと大きな存在だ。1877年に第1回大会が開催されたが、これは最古であるだけでなく最初のテニストーナメントであり、またこの大会のためにテニスのルールが定められ、現在のテニスの原型ができあがった。すなわちウィンブルドンはテニスの歴史そのものである。
例えばこの時の協議の流れによっては、テニスコートは長方形ではなく、ネット付近が狭い蝶ネクタイのような形となっていたかもしれない。
以下のWikipedia (英語版) の記事を参考にして、1877年第1回大会に至るまでの流れと、テニスのルール制定の経緯を追ってみたい。
1877 Wimbledon Championship
http://en.wikipedia.org/wiki/1877_Wimbledon_Championship
現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、8世紀ごろにフランスで発生し、16世紀以降にはフランス貴族の遊戯として定着したジュ・ド・ポーム(jeu de paume)であり、これはオリンピック競技の廃止競技として以前このブログで取り上げたことがある。
現在のテニスは正式には「ローンテニス (lawn tennis)」と称されるもので、その原型は1874年1月にウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が紹介した「スフェリスティキ (sphairistike、球戯術の意味)」がその原型だ。これはボールは中空のゴムボール (後にフェルトカバーボールとなる) で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめるというものだった。そしてウイングフィールド少佐の考案したスフェリスティキのコートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型 (あるいは砂時計型) をしていた。

遡って、1868年7月23日にAll England Croquet Clubというクロッケーの協会が設立された。クロッケーはイギリス発祥のゲートボールのような競技 (これもオリンピック競技の廃止競技として記している) で、1870年に大会を開催したりしたが、競技が物静かであったために人気が衰退していった。
1875年2月、All England Croquet Clubはスポーツライターのヘンリー・ジョーンズの提案によりローンテニスを導入することが決まり、徐々に重きが置かれていった。そして協会は1877年4月14日に、All England Croquet and Lawn Tennis Club (AEC & LTC) と名称が変更された。
再び遡って1875年3月3日にMarylebone Cricket Club (MCC) は、クリケットフィールドでローンテニスの様々な形をテストする会合を開き、ローンテニスのルール標準化を模索した。そして6月24日に最初のローンテニスのルールが制定された。これは主にウィングフィールド少佐によるスフェリスティキのルールを元としており、蝶ネクタイ型のコートが採用された。しかしこのコートの形は多くに支持されたわけではなかった。
1877年6月2日にAEC & LTCは、男子アマチュア向けのローンテニストーナメントを開催することを決めた。それは芝生のメンテナンスに必要なローラーの補修費用を生み出すことが目的だった。そして開催場所が検討されてウィンブルドンが最もふさわしいという結論となり、全てのクリケットフィールドはテニスコートに移ることとなった。
しかしこの時点でも依然としてAEC & LTCは、1875年にMCCが定めたローンテニスのルールに満足しておらず、協議が継続された。そしてこのトーナメントのための暫定的なルールとして以下を定めた。
- The court will have a rectangular shape with outer dimensions of 78 by 27 feet (23.77 by 8.23 m).
- The net will be lowered to 3 feet and 3 inches (0.99 m) in the center.
- The balls will be 2 1/2 to 2 5/8 inch (6.4 to 6.7 cm) in diameter and 1 3/4 ounces (49.6 g) in weight.
- The real tennis method of scoring by fifteens will be adopted.
- The first player to win six games wins the set with 'sudden death' occurring at five games all except for the final, when a lead of two games in each set is necessary.
- Players will change ends at the end of a set unless otherwise decreed by the umpire.
- The server will have two chances at each point to deliver a correct service.
このような経緯でローンテニスコートは、蝶ネクタイ型ではなく78 x 27 feetの長方形となった。またこれらはいくつかの修正はなされたが今日のテニスでも有効なものである。
そして6月9日に以下のような公告がされた。
The All England Croquet and Lawn Tennis Club, Wimbledon, propose to hold a lawn tennis meeting, open to all amateurs, on Monday, July 9th and following days. Entrance fee, £1 1s 0d. Names and addresses of competitors to be forwarded to the Hon. Sec. A.E.C. and L.T.C. before Saturday, July 7, or on that day before 2.15 p.m. at the club ground, Wimbledon. Two prices will be given - one gold champion prize to the winner, one silver to the second player. The value of the prizes will depend on the number of entries, and will be declared before the draw; but in no case will they be less than the amount of the entrance money, and if there are ten and less than sixteen entries, they will be made up to £10 10s and £5 5s respectively. Henry Jones - Hon Sec of the Lawn Tennis sub-committee
そして第1回ウィンブルドンには22名のエントリーがあり (そのうち1人は不戦敗)、予定どおり1877年7月9日からトーナメントが開始された。組み合わせ表と結果は以下のとおりだ。

1回戦、2回戦、準々決勝、準決勝を経て、7月19日に約200名の観衆の前でスペンサー・ゴアとウィリアム・マーシャルによる決勝が行われ、6-1、6-2、6-4でスペンサー・ゴアが勝利をおさめた。
翌日のThe Morning Post紙は以下のように報じている。
Lawn Tennis Championship - A fair number of spectators assembled yesterday, notwithstanding the rain, on the beautifully kept ground of the All England Club, Wimbledon, to witness the final contest between Messrs. Spencer Gore and W. Marshall for the championship. The play on both sides was of the highest order and its exhibition afforded a great treat to lovers of the game. All three sets were won buy Mr. Gore, who, therefore, becomes lawn tennis champion for 1877, and wins the £12 12s. gold prize and holds the silver challenge cup, value £25 5s.

スペンサー・ゴア (上の写真の前列左から4人目) は当時27歳。測量技師だったが、あらゆるスポーツに優れた技量を持ち、クリケットでも一流選手だったそうだ。
というよりローンテニスはコートの形ですらトーナメントの1ヵ月前にようやく決まったばかりであり、エントリーした選手の中に経験者がいるわけはなく、運動神経に秀でたスペンサー・ゴアが適応力で勝利したと考えていいだろう。スポーツの勝者というのは相対的なものだ。
スペンサー・ゴアは翌年の第2回大会にも出場した。当時は前年優勝者は決勝のみ戦うという方式だったが、1回戦から1セットも落とさずに決勝へ勝ち上がってきたフランク・ハドーに 5-7、1-6、7-9で敗れている。
このように第1回ウィンブルドンは非常に短い期間で開催の決定や準備が行われた。この短い期間での準備がその後ずっと続くテニスの歴史のまさに源となったと言えるだろう。
それにしても、もしテニスコートが1875年にMCCが定めた蝶ネクタイ型のままだったらどうなっていたか、という点はとても気になる。ボレーの戦術は大きく変わるはずだ。是非コートを特設して、エキジビジョンをやってみてほしい。
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