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江戸時代の繁華街といえば両国だ。
1657年の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ10万人とも言われる死傷者を出したことを受けて防火・防災を目的として1659年に両国橋が架けられた。(1661年説もあり)
隅田川の水上交通と、武蔵と下総をつなぐ陸上交通の要所である両国橋界隈は、しばらくして江戸有数の繁華街となった。川の上は屋形船が行き来した。西側の橋詰はもともと火除地として広小路が設けられたが芝居小屋や水茶屋(喫茶店)が並んだ。この様子は江戸東京博物館の模型でも知ることができる。

江戸東京博物館 常設展示室について 両国橋西詰
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/permanent/6.html

一方で橋の東には明暦の大火の犠牲者を供養するための寺院として回向院が建てられた。しかし江戸随一の賑わいを見せる両国という土地柄から、回向院は次第に信仰と娯楽が併存する盛り場となった。神仏を特別に公開する御開帳には多くの人が訪れた。そしてもうひとつ回向院を盛況させたのは、歌舞伎と並んで江戸の人々に親しまれた娯楽の相撲である。
相撲 (寺社の建築、修繕などの募金を目的とした興行相撲で、勧進相撲と呼ばれた) は1648年にひとたび禁止されたが、その後1684年に解禁された。当初は江戸の各所で開催されていたものの、回向院で開催することが多く、後に定例となった。
従って、明治時代になった1909年に常設相撲場 (ここでは旧両国国技館と称する) がこの回向院の境内に建設されたことは自然な流れであった。1909年6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された。尚、「國技舘」の名称は5月29日に板垣退助を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日の6月2日にようやく了承された。(そのため番付上は「常設館」となっていた)
枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、建物の内径は62m、中央の高さは25mで、「大鉄傘」の愛称で呼ばれた。



しかし旧両国国技館はたびたび焼失や、接収、売却と数奇な運命をたどる。この経緯をまとめてみよう。

両国国技館 旧両国国技館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8#.E6.97.A7.E4.B8.A1.E5.9B.BD.E5.9B.BD.E6.8A.80.E9.A4.A8

【すみだの名所】国技館の歴史をたどる
http://welcome-sumida.jp/entry/2013_02_12_1598

まず1917年11月29日に、売店の火消壷からの出火による火災が発生して全焼した。(使用不能の間は、靖国神社境内に仮小屋を建てて興行実施)
新たに1920年1月に再建し、1920年9月に再建興業をしたが、1923年9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失した。



しかし再び建てなおして翌1924年の夏場所から興行を再開した。(再建中の1924年1月は名古屋で本場所開催)
その後1944年1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。(このため5月場所は後楽園球場で開催され、7日目の日曜日は晴天に恵まれ8万人以上の大観衆で埋まった。11月にも同球場で秋場所が開催された) 

歴史@東京 風船爆弾と両国国技館
http://saffroncafeandbakery.com/11-%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE%E3%81%A8%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8.html

そして、1945年3月10日、東京大空襲によりまたも焼失した。(同年春の本場所は6月に国技館で非公開で行われた)



敗戦後の1945年10月にGHQに接収され、1945年11月に焼け爛れたままの国技館で戦後初の本場所 (晴天での10日間興行) が開催された。
翌1946年9月24日に「メモリアルホール」として改称・改装された。改装後の1946年11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、プロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。従って1946年11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の相撲興行となった。
そのため、その後しばらく大相撲は明治神宮外苑相撲場、大阪市福島公園内に建築された仮設国技館、日本橋の浜町公園内に建設された仮設国技館などで開催された。



GHQの接収は1952年4月1日に解除され、日本相撲協会は再び国技館としての使用を検討したが、すでに蔵前国技館 (1949年竣工、翌年仮設のまま開館) の建築が始まっており、また駐車場の場所的な余裕が無いことから使用を断念して国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。



さらに1958年6月に日本大学に譲渡され「日大講堂」となり、日本大学のイベント以外にもプロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行に使用された。1968年から1969年にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台としても使用された。



日本大学マンドリンクラブOB会 両国 日本大学講堂
http://members2.jcom.home.ne.jp/numc-ob-hp/page337.html

老朽化のため1982年をもって使用中止となり、翌1983年に解体された。幾度かの再建や改修を経つつも解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武藏川は博物館明治村への移築も考えたようだが、あまりにも大きい建物であり、運ぶのは無理であったという。



解体後の跡地には住友、安田、東洋の各銀行が手に入れて、90年初めに両国シティコアという名前の複合ビル施設に生まれ変わった。キーテナントは劇場シアターΧであり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には先代の国技館があった当時の土俵の位置がタイルの色で示されている。



ちなみに現在の両国国技館は、両国駅の北側の旧両国貨物駅跡地 (国鉄バス駐泊場) に1984年に建設されたものだが、ここは江戸時代まで遡ると蝦夷松前藩の下屋敷、あるいは御竹蔵 (資材の保管場所) だったようで、相撲とは直接的な関係はない。

すみだあれこれ すみだの大名屋敷
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/g-19.html
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/takegura.html

江戸時代から戦後まで約250年大相撲が行われた回向院に思いを馳せながら、現在の両国国技館で新しい相撲を観戦しよう。



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