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エンゼルスの大谷翔平選手はMLBでも投手・野手両方で卓越した成績を収めているが、アメリカでは複数のプロスポーツで活躍する選手がいる。アメリカの4大プロスポーツであるMLB (野球)、NFL (アメフト)、NBA (バスケ)、NHL (アイスホッケー) のうち複数でプレーした選手たちを見てみよう。(NFL & NHL、NBA & NHLは確認できなかった)

一番多いのはMLB & NFLで69名いる。

Baseball Almanac / MLB & NFL Players
https://www.baseball-almanac.com/legendary/baseball_and_football_players.shtml

ジョージ・ハラス (George Halas) は1919年にニューヨーク・ヤンキースで12試合に出場したが怪我で引退し、翌1920年にフットボールチーム「ディケイター・ステイリーズ」を創設し、選手兼ヘッドコーチ兼オーナーとなった。同年NFLの前身であるAPFAが発足されて参加した。1921年に地元シカゴに移転し、APFA優勝を果たし、1922年「ベアーズ」に改称した。 選手としては1928年に引退したが、ヘッドコーチとしては1967年まで退任と復帰を繰り返しながら、選手兼任時代を含め6回のNFL優勝に導いている (当時はまだスーパーボウルは行われていなかった)。背番号7はシカゴ・ベアーズの永久欠番で、ユニフォームの袖にはイニシャルである「GSH」があしらわれている。



ボー・ジャクソン (Boe Jackson) はオーバーン大学時代には野球で打率.400以上、陸上の100メートル競走で10秒13を記録し、大学アメリカンフットボールで最高の栄誉であるハイズマン賞を受賞した。1986年にNFLドラフトでタンパベイ・バッカニアーズから指名されたがMLBドラフトでもカンザスシティ・ロイヤルズから指名を受け、ロイヤルズに入団した。翌1987年のNFLドラフトで今度はロサンゼルス・レイダースから指名を受けて契約した。両方のプロスポーツ界で一躍人気者になり、MLBオールスターゲームとプロボウルの両方に出場した唯一の選手である。



ディオン・サンダース (Deion Sanders) はフロリダ州立大学時代に全米最優秀ディフェンダーのジム・ソープ賞を受賞し、野球でも俊足の外野手として活躍した。1988年にMLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから指名を受けて入団し、翌1989年にNFLドラフトでアトランタ・ファルコンズから指名を受けて入団した。同年9月に同じ週にMLBで本塁打を放ち、NFLではタッチダウンを決めるという離れ業を達成している。
その後アトランタ・ブレーブスで1992年にワールドシリーズ、NFLでも1994年にサンフランシスコ・フォーティナイナーズ、1995年にダラス・カウボーイズでそれぞれスーパーボウルに出場するなど、ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手である。



MLB & NBAは12名いる。

Baseball Almanac / Baseball (MLB) and Basketball (NBA) Players
https://www.baseball-almanac.com/legendary/baseball_and_basketball_players.shtml

ジーン・コンリー (Gene Conley) は1950年8月11日にMLBのボストン・ブレーブスと契約し、その後MLBでは投手として91勝を挙げ、1957年にはワールドシリーズ制覇を果たし、オールスターゲームにも3度選出された。1952年にボストン・セルティックスから指名を受け、経済上の理由から11月から3月にかけての野球シーズンのオフの時期はセルティックスでプレーすることを決め、1963年まではMLBとNBAでプレーした。1959~1961年までNBAファイナルを3連覇するなど輝かしい成績を残した。
同じ年に一都市で2つのプロスポーツを兼ねた最初の選手であり、また北米4大プロスポーツリーグのうち2つでチャンピオンリングを獲得した唯一の選手である。



尚、バスケットボールの神様と呼ばれたマイケル・ジョーダン (Michael Jordan) はNBA引退後に「子供の頃からの夢。父の願いでもあった」としてMLBへの挑戦し、1994年にマイナーリーグのAA級でプレーしたが、127試合 打率.202 3本塁打 30盗塁という成績でMLBでのプレーは叶わなかった。従ってこの記事の対象ではないが、せっかくなので写真を載せておく。



NFL & NBAとなるとかなり限定的になり2名のみだ。

オットー・グレアム (Otto Graham) は、バスケットボールの奨学生としてノースウェスタン大学に進学したが主にフットボールをプレーした。第二次世界大戦の終盤に短期間従軍した後、All-America Football Conference (AAFC、NFLの前身) が直ちに再開されなかったため。National Basketball League (NBL、NBAの前身) のロチェスター・ロイヤルズ (現在のサクラメント・キングス) でプレーし、リーグチャンピオンに輝いた。 その後1946年から1955年までAAFC・NFL のクリーブランド・ブラウンズにクォーターバックとして活躍し、現役生活の10年間で7回のリーグ優勝に輝いた。その間のチーム成績は57勝13敗1分、NFLプレーオフで9勝3敗という圧倒的なものだった。



バド・グラント (Bud Grant) は、ミネソタ大学でフットボール、バスケットボール、野球の3つをプレーした。グラントはNFLドラフトとNBAドラフトの両方で指名されNBAのミネアポリス・レイカーズ (現在のロサンゼルス・レイカーズ) に入団し、1949~50年と50〜51年の2シーズンでプレー、1950年は優勝を果たした。
その後バスケをやめて、1951~1952年にNFLのフィラデルフィア・イーグルスでプレー、その後はカナダのウィニペグ・ブルーボマーズでプレーした。引退後はブルーボマーズとミネソタ・バイキングスで長くヘッドコーチを勤め、NFLとCanadian Football League双方で殿堂入りしている。



そしてMLB & NHLはジム・ライリー (Jim Riley) しか確認できなかった。

Jim Riley (ice hockey)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jim_Riley_(ice_hockey)

James Norman Riley (May 25, 1895 – May 25, 1969) was a Canadian professional ice hockey and baseball player. The only person to play in both the National Hockey League (NHL) and Major League Baseball (MLB), Riley played 9 games in the NHL in 1926–27 and 6 games in MLB between 1921 and 1923. In hockey he also played eight seasons in the Pacific Coast Hockey Association, a rival major league of the NHL, in a career that lased from 1915 to 1929.

Riley played professional baseball for 12 seasons, from 1921 to 1932, mostly in the minor leagues. He started his career as a second baseman, and played in four games at that position for the 1921 St. Louis Browns of the American League, thus becoming the only athlete in sports history to play both Major League Baseball and in the National Hockey League. After that season, he switched permanently to first base, and returned to the major leagues with the 1923 Washington Senators, playing two games with them.




そして3つ以上のプロスポーツでプレーした選手として、4大プロスポーツ確立前なので正式ではないがジム・ソープ (Jacobus Franciscus "Jim" Thorpe) がいる。

ジム・ソープ 野球、アメリカンフットボール、バスケットボール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%97#%E9%87%8E%E7%90%83%E3%80%81%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%81%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

1913年にニューヨーク・ジャイアンツ (現サンフランシスコ・ジャイアンツ) と契約し、外野手としてプレーした。MLBでは1919年までに通算289試合に出場し、698打数176安打、7本塁打、82打点、29盗塁、打率.252。
一方ソープは好きなアメリカンフットボールでもプレー、1913年にインディアナ州パインビレッジのチームでプレーした。1915年にはカントン・ブルドッグスが一試合250ドル(現在の貨幣価値で約5400ドル)という当時としては破格の待遇で契約を結んだ。1920年カントン・ブルドッグスはアメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション (APFA) を形成する14チームの1つとなった。APFAは2年後ナショナル・フットボール・リーグ (NFL) となる。
1928年41歳で引退するまで計6チームで52試合に出場した。

2005年までジム・ソープがバスケットボールをプレーしたかどうかについては全く知られていなかった。しかしこの年古書で発見されたチケットは、バスケットボールのソープのキャリアを明らかにした。
ソープは1926年まで野球・アメリカンフットボール・バスケットボールの巡業チーム「World Famous Indians」は少なくとも2年間 (1927-28年) ペンシルベニア州ニューヨーク、およびオハイオ州マリオンの地域で地方巡業を行った。バスケットボールのユニフォームを着たソープの写真が絵葉書として発売されたり新聞に掲載されたりしたが、ソープのこの時期の記録が残っていない。


さらに、Wikipedia英語版では「brief time in 1913, he was considering going into professional hockey for the Tecumseh Hockey Club (Toronto Tecumsehs).」という記事があり、NHLの前身のひとつであるNational Hockey Association (NHA) でアイスホッケーでもプロになった可能性もあった。
ジム・ソープは1912年のストックホルム五輪の金メダリスト (五種競技、十種競技) でもあり、まさに万能アスリートと言えるだろう。



このように見ていくと、世の中には本当に何でもできてしまう身体能力に優れたアスリートがいることを改めて認識する。本当に凄いと思う。


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