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太政官札、民部省札、明治通宝、改造紙幣
経済・企業
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2018年05月31日
紙幣が安定して流通しているということは、経済・生活にとって何よりも大きなアドバンテージである。以前「
ジンバブエドルとペンゲー
」で紹介したとおりハイパーインフレ下では紙幣は紙屑と化し、生活は混乱を極めてしまう。
日本でも、第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから預金引き出しが集中し、また政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから市中の金融流通量が膨れ上がり、ハイパーインフレが発生した。そしてその対策として1946年2月16日に「新円切替」が発表され、新紙幣 (新円) の発行とそれに伴う従来の紙幣流通の停止などの通貨切替政策が行われた。
歴史を遡ると、紙幣が広く流通し始めたのは明治時代を迎えてからである。江戸時代においても「藩札」と呼ばれる紙幣はあったが、これは限られた地域でしか流通していないものであった。それが明治維新とともに全国共通の紙幣が誕生することになった。しかし当初は混乱とともに様々な紙幣が目まぐるしく入れ替わった。その流れを追ってみよう。
日本で最初の全国通用紙幣は、明治政府によって1868年5月に発行された「太政官札」(だじょうかんさつ) である。
太政官札
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98%E6%9C%AD
太政官札は、明治政府によって1868年5月から1869年5月まで発行された政府紙幣。「金札」とも呼ばれた。日本初の全国通用紙幣である。通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のままであった。1879年11月までに新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通した。
明治政府は戊辰戦争に多額の費用を要し、殖産興業の資金が不足したので「通用期限は13年間」との期限を決めて太政官札を発行した。総額4,897万3,973両1分3朱製造されたが、実際に発行されたのは4,800万両であり、97万3,973両1分3朱は発行させずに焼却した。
当初、国民は紙幣に不慣れであったこと、また政府の信用が強固では無かった為、流通は困難をきわめ、太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであった。このため政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたり、諸藩に石高貸付を命じるなどの方法を講じた。これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、信用が増加したために流通するようになったが、今度は太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。
このようにやはり最初の試みというのは何事も難しく、様々な混乱があった。発行された紙幣の額面 (10両、5両、1両、1分、1朱) が高額で日常的な取引に適さないなど、使い勝手も悪かったようだ。その補完のために別の紙幣である「民部省札」(みんぶしょうさつ) も発行された。
民部省札
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%83%A8%E7%9C%81%E6%9C%AD
民部省札は、1869年11月15日から翌年にかけて明治政府の民部省によって発行された政府紙幣。太政官札の補完の役割を果たした。
明治政府の成立後、江戸幕府発行の貨幣に替わるものとして太政官札5種(10両・5両・1両・1分・1朱)が発行されたが、財政補完を目的として高額金札ばかりが発行され、1分・1朱がほとんど発行されなかったために、民間の需要に応えることが出来なかった。そのため、民部省によって2分・1分・2朱・1朱、計4種類の紙幣が総額にして750万両分発行された。これが民部省札である。民部省札1両は太政官札1両と交換することが可能であった。ただし、あくまでもこれは新紙幣流通までのものであるとして通用期間は5年と定められていた。だが、明治政府の基盤が固まっていなかったこともあり、太政官札ともども偽札が各地で作られた。
この他にも府県札、為替会社札などが流通しており、雑多で、また偽造紙幣が大量発生していた。そのため国家として近代的紙幣の導入が必要であった。
政府は1871年5月に新貨条例を発行し、日本の貨幣単位として「圓 (円)」を正式採用した。また補助単位として「銭」「厘」を導入し、100銭=1円、10厘=1銭とされた。そして「圓」としての近代的紙幣として1872年4月に発行され発行されたのが「明治通宝」(めいじつうほう)である。
明治通宝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E9%80%9A%E5%AE%9D
明治通宝は明治時代初期に発行された政府紙幣である。日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として著名である。またドイツのフランクフルトにあった民間工場で製造されたことから「ゲルマン札」の別名がある。
当初日本政府はイギリスに新紙幣を発注する予定であったが、北ドイツ連邦ヘッセン州のドンドルフ・ナウマン社による「エルヘート凸版」による印刷の方が偽造防止に効果があるとの売込みがあった。そのうえ技術移転を日本にしてもいいとの条件もあったことから、日本政府は近代的印刷技術も獲得できることもあり1870年10月に発注を行った。
翌年の1871年12月に発注していた紙幣が届き始めたが、この紙幣は安全対策のため未完成であった。そのため紙幣寮で「明治通宝」の文言や「大蔵卿」の印などを補って印刷し完成させた。なお当初は「明治通宝」の文字を100人が手書きで記入していたが、約1億円分、2億枚近くもあることから記入に年数がかかりすぎるとして木版印刷に変更され記入していた52,000枚は廃棄処分された。明治通宝は1872年4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた。
しかし、流通が進むにつれて明治通宝に不便な事があることが判明した。まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったためか損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった。
紙幣の偽造は世の常であるが、当時はまだそれを防ぐ技術がなく、近代国家としての紙幣技術の向上が必須であった。
そして損傷しやすく偽造も多発した明治通宝の交換用として1881年2月に発行されたのが「改造紙幣」(かいぞうしへい) である。
改造紙幣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E9%80%A0%E7%B4%99%E5%B9%A3
紙幣の図案は、イタリア人のエドアルド・キヨッソーネに委嘱され、偽札を防ぐため、印刷局の最高の技術を駆使して制作された。一円以上の券の肖像は神功皇后となっているものの、創作したものであり、外国人女性風となっている。わが国最初の肖像画入り紙幣でもある。
エドアルド・キヨッソーネ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A8%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%8D
キヨッソーネはイタリアのアレンツァーノで代々製版・印刷業を営んでいた家系に生まれる。紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向した。当時ドンドルフ・ナウマン社は日本の明治政府が発注した明治通宝を製造しており、彼も製造に関わっていた。
キヨッソーネが来日したのは1875年のことであったが、招聘に応じたのは大隈重信が破格の条件を提示したこともあったが、当時写真製版技術の発達が進んでいたこともあり、銅版画の技術を生かせる活躍の場を求めたこともある。一方、樹立間もない明治政府にとって偽造されないような精巧な紙幣を製造するのは大きな課題であり、このままドンドルフ・ナウマン社に紙幣印刷を依頼するのは経費がかさむうえ安全性に問題があるとして、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めたのである。
来日後、大蔵省紙幣局を指導。印紙や政府証券の彫刻をはじめとする日本の紙幣・切手印刷の基礎を築いたほか、新世代を担う若者たちの美術教育にも尽力した。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超える。特に日本で製造された近代的紙幣の初期の彫刻は彼の手がけた作品である。また、1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与された。面識がない人物を描いたことも少なくないが、例えば西郷隆盛の肖像については西郷本人と面識がないうえに、西郷の写真も残っていなかったため、西郷の朋輩であり縁者でもあった得能良介からアドバイスを受けて西郷従道と大山巌をモデルにイメージを作り上げたという。また紙幣における神功皇后は印刷部女子職員をモデルに、肖像も彼が描いたものであった。
誰もが知っている明治天皇の肖像、西郷隆盛の肖像もキヨッソーネの作品だ。現代人にはともにこのイメージが強いが、実際は (特に西郷隆盛は) 異なるかもしれない。
そして神功皇后 (じんぐうこうごう) は古事記・日本書紀に登場する第14代の仲哀天皇の皇后で、新羅出兵を行い朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる。3世紀頃と思われるが定かでない。また明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。
当然のことながら肖像があるわけでなく、紙幣の神功皇后は印刷部女子職員がモデルで、外国人風に描かれていることが非常に興味深い。この職員は日本の歴史において極めて重要なモデルを引受けたことになる。
このように様々な試行錯誤および外国の技術を導入して紙幣の信頼性を向上させ、それとともに政府も安定し日本の近代化につながったと言うことができるだろう。やはり紙幣の安定した流通が不可欠である。
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