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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

書道が苦手な私にとって、能書家 (書に優れていた人) はとても尊敬する存在である。 達筆な字や文章には本当に魅了される。

さて日本の書道同様に、アラビア書道もまた文字を芸術の域に引き上げており、加えて絵画のような美しさがある。
以下にアラビア書道の紹介と解説があるので参照いただきたい。

Islamic art institute 美しきアラビア書道の世界
https://islamicpeaceart.com/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%8D%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E6%9B%B8%E9%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C/

まずはアラビア書道の歴史を確認してみよう。

日本アラビア書道協会 アラビア書道の歴史
https://www.jaca2006.org/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E6%9B%B8%E9%81%93%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

アラビア書道は、クルアーン (コーラン) と深い関わりを持っています。クルアーンはアラビア語で書かれ、西暦650年ごろに編纂されました。しかし、当時アラビア文字は地域によって多様で、書き方も明確に統一されていませんでした。さらに、文字に打つ点の数や位置さえも一貫していませんでした。しかし、アッラーの啓示であるクルアーンを読み間違えないために、アラビア文字には点の打ち方や数が規定され、母音表記のための符号も追加されました。これにより、アラビア語の正書法が徐々に確立されていったのです。
アラビア書道の創始者として知られる人物は、アッバース朝時代の大臣であるイブン・ムクラ (885年頃~940年) です。彼はアラビア文字の形を体系的に整理し、幾何学的な法則と尺度に基づいて文字を書くことを可能にしました。さらに、ナスヒー (ナフス)、ムハッカク、ライハーニー、スルス、タウキーウ、リカーウの6つの重要な書体を確立しましたが彼の直筆作品は現在では残っていません。

アラビア書道の発展には、イスラム教が偶像崇拝を禁じているという要素も一因として挙げられます。クルアンの書写はアラビア語において重要な役割を果たし、優れた書家が輩出されました。

イスラム教の普及とともに、アラビア書道の書体も地域や時代ごとに様々な形が現れるようになりました。
活版印刷技術の登場は、アラビア書道や書道家の立場に大きな変化をもたらしました。コーランの写本は手書きでしか認められませんでしたが、1727年にイスタンブールでリトグラフ印刷術が導入されることで印刷が可能になりました。1924年にエジプトのカイロでクルアーンの活字印刷が許可されるようになると、イスラム教徒の手に入りやすくなり、書道家へのクルアーン写本への依頼が漸減しました。
アラビア書道はクルアーンの写本としての役割から純粋な芸術の領域へと移行して行きました。

アラビア書道の創始者として知られるイブン・ムクラは、10世紀前半にアッバース朝の高位職を歴任したペルシア人である。
アッバース朝の首都であるバグダードに生まれ、3度にわたってワズィール (宰相) 職を務めた。しかし勢力を拡大する地方領主との争いに敗れて解任・逮捕され、最後は獄死している。
一方で、書家としてアラビア文字の形を体系的に整理し、幾何学的な法則と尺度に基づいて文字を書くことを可能にした。この功績は計り知れない。肖像や写真がないのが残念である。

イブン・ムクラが確立したとされるアラビア書道の6書体をみていこう。

スルス体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%82%B9%E4%BD%93

スルス体は大きく流麗な筆記体であり、母音記号や装飾のマークを含む場合がある。アラビア文字を用いる書法において、スルス体は「カリグラフィーの母」と呼ばれる。
スルス体における重要な一側面は、母音を表すために発音記号を使うことと、書を美しくするためにその他の様式的な印を使うことである。母音表記のルールは他のアラビア文字書体と同じであるが、様式的な印の方は配置や組み分けに関して独自のルールがある。そして、それらをどのような形にするか、どれぐらい傾けるかということについては、書家の創作力に大きく委ねられている。
各時代の書家は、スルス体にさまざまな変更や工夫を凝らすことによって、多様な派生書体を生み出した。

ナスフ体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%95%E4%BD%93

ナスフ体という名称はアラビア語で転写を意味する語の語根 「ナサハ」 より採られていると考えられている。ナスフ体は文字装飾が小さいという特徴を持っており、アラビア語、ペルシア語、パシュトー語、シンド語で書かれた文章を印刷する際に一般的に用いられている。
ナスフ体はスルス体から派生して生まれた書体であり、より小さく優美な書体を求める過程で導入された。細いペンを使用して文字を書く際、書籍作成に使用する目的に非常に適った書体でクルアーンを写本する際に使用されていた。
現代でも幅広い用途で使用されている書体である。コンピュータでは一般的にナスフ体もしくはナスフ体様書体が使用されている。

ムハッカク体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%AF%E4%BD%93

ムハッカク体は「マシャーヒフ」 (クルアーンの転写物など) を転写するために用いられることが多く、この書体は有数の美しい書体であると同時に、習得することが難しい書体の一つであると考えられている。
ムハッカクという語はアラビア語で「完成」もしくは「明快」を表す単語である。
ムハッカク体は、マムルーク朝の時代 (1250~1517年頃) に最も盛んに使用されたが、オスマン朝の時代に入ってから次第にスルス体やナスフ体に取って代わられるようになった。

タウキーウ体
https://en.wikipedia.org/wiki/Tawqi

(翻訳) タウキーウ体はスルス体を修正し、小さくしたものである。オスマン帝国では主に国家文書に使用された。

ライハーニー体
https://en.wikipedia.org/wiki/Rayhani_script

(翻訳) ライハーニー体はアラビア語とペルシア語でバジルを意味する。バジルの花や葉に例えられており、ムハッカク体より細かい変種と考えられている。

リカーウ体
https://en.wikipedia.org/wiki/Reqa%27

(翻訳) リカーウ体は小さな紙に書かれた私信や、非宗教的な書物や文章に使用された。リカーウ体は他の書家によって徐々に簡略化され新しい文字に変更され、現在ではアラブ諸国で最も一般的な手書き文字となっている。

 

これらの6書体がイブン・ムクラにより確立され、その後構成の書家によって変更が加えたりして今日に受け継がれている。
我々が日常的に目にするサウジアラビア国旗のアラビア文字は、イスラームにおける五行の一つであるシャハーダの 「アッラーのほかに神なし、ムハンマドは神の使わせし者」 であるが、これはスルス体で記されている。

なお、イブン・ムクラの10世紀より前にはクーフィー体という書体が用いられていた。
これは8世紀から10世紀にかけ、クルアーンの写本における一般的な書法として定着したもので、曲線的な筆致ではなく、角張った直線形の字体である点が特徴である。
いくつかのイスラム建築で見られるほか、現在のイラクの国旗の 「アッラーフ・アクバル(アッラーフは偉大なり)」 はクーフィー体である。

このように、アラビア書道はとても奥が深い。私がアラビア文字を読めないこともあるが、イスラム世界の神秘性を高めているように思う。
書物を読むのは無理だが、建築などを通じてアラビア書道に接する機会を増やしていきたい。

 



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大相撲の1場所15日で年6場所開催という開催要領は1958年から続いており、2020年のコロナウィルス流行などによる中止もあったが、年間カレンダーとして完全に定着している。(それ以前は4場所開催が通常であった)
併せて、現在の対戦方法である 「部屋別総当たり制」 も1965年1月場所に導入されて50年以上が経過する。

日本相撲協会公式サイト 部屋別総当たり制導入50年「昭和40年1月場所」 
https://www.sumo.or.jp/KokugikanSumoMuseumDisplay/wrap20150825/

昭和40年1月場所から、部屋別総当たり制が導入されました。それまでは、親子、兄弟関係にある部屋同士の対戦は組まれない方式 (一門系統別) でした。昭和39年ごろは大相撲の人気が低迷しており、これを打開する方策の一つとして、時津風理事長 (元横綱双葉山) の主導により、部屋別総当たり制への移行が決まりました。これによって、栃ノ海 (春日野部屋) と佐田の山 (出羽海部屋)、大鵬 (二所ノ関部屋) と玉乃島 (のち玉の海、片男波部屋) など、新しい取組が増えるとともに、対戦相手の不均衡がかなり解消されるとあって、場所前から大きな注目を集めました。力士にとっては、相撲を取りにくいという気持ちもあったようですが、ファンからの好評を得て成功に終わり、現在に至っています。

この制度のもと同部屋同士 (兄弟同士、4親等以内の力士も) の取組は組まれない。優勝決定戦は例外であり、1989年7月場所の千代の富士と北勝海 (九重部屋)、1995年11月場所の若乃花と貴乃花 (二子山部屋) の実兄弟対決は印象深い。

 

さて、大相撲は自然発生的に江戸時代から行われているが、明治時代まで個人の成績優秀者への顕彰制度はなかった。 (しかし番付と星取は概ね完全な形で現存しているので、「優勝制度が存在していたら表彰されていたであろう力士」 を遡って推定することができる)
転機となったのは1909年の(旧)両国国技館の開場である。

東西制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E5%88%B6

1909年6月、旧両国国技館が開場し、晴雨にかかわらず相撲興行が可能になった。このとき、新しく、優勝争いの制度を策定することとなった。当時は、番付の東西は画然とわかれていて、同じ側の取組はなかったので、東西対抗の団体戦という発想が生まれた。そこで、優勝旗をつくり、幕内の東西のそれぞれの勝ち星を合計して、多いほうを優勝とし、優勝旗を授与し、翌場所の番付で東に位置せしめることとした。これを東西制と呼んだ。
千秋楽に優勝旗の授与式があり、優勝した側の主将 (番付最高位の力士が務める。普通は横綱) が優勝旗を受け取り、土俵下に控えた優勝旗手 (関脇以下の最高成績をあげた力士) に渡す。その後、旗手を中心にしてパレード (人力車が多かったという) が行われることが多かった。旗手は名誉とされ、記録にとどめられた。
それ以前の相撲には優勝争いという概念がなかったため、この制度は歓迎され、すぐに定着した。しかし、この方式は両方が均衡した関係にないとうまく機能しないので、ときどき入れ替えを実施する必要があった。また、優勝する側に好成績の力士が多くなるため、かえって番付の昇進が難しくなる事例もあらわれた。当時の東西制下では東西対抗の団体戦による優勝制度が最重要視され、個人の最高成績は二の次であった。
優勝旗手は東西で勝ち越した片屋に所属で、かつ関脇以下でなければならないため、全体での最優秀力士ではないことが多かった。

しかし1932年1月に春秋園事件という力士によるストライキが発生し、多くの力士が抜けたことで東西制が実施できなくなり、新に 「系統別総当たり制」 が導入された。基本的には総当たり制であるが、特定の部屋どおしの対戦 (出羽海と春日野と山分、高砂と若松と富士ヶ根と大山 など) は行わなかったため、系統 (一門) 別という制度となった。

しかしその後出羽海系統の力士が幕内の半数を占めるようになり、取組編成が硬直化したため、1940年1月場所から再び東西制が復活した。 
この際にも頻繁に東西の配置換えが行なわれた。上位力士にとって、部屋や系統が異なっても東西の方屋が同じ上位力士とは対戦しないため有利な制度だった。
番付表を見て考えればわかるが、東同士・西同士の対戦がなければ、まともに取組みができないし、優勝争いは盛り上がらないだろう。

第二次世界大戦後になると、優勝決定戦や三賞など新しい制度が導入されるとともに、東西制が廃止された。しかし、出羽海と春日野のように深い関係の部屋があったために、部屋別の総当たりはできずいくつかの系統が定められた。
加えて、独立した部屋はもとの部屋とは対戦しないというルールもあった。そのため、大鵬 (二所ノ関部屋) と初代若乃花 (二所ノ関から独立した花籠部屋) の対戦が行われないなど不公平さが段々と目立つようになってきた。

そのため、冒頭で紹介したように1965年1月場所に 「部屋別総当たり制」 が導入された。制度導入当時はいくつかの部屋の閉鎖につながることもあったが、その後独立が目立つようになり、部屋別総当たり制が定着した。
尚、この制度下でも実の兄弟が別の部屋に属している場合は対戦なく、また2009年には4親等以内の関係は対戦させないことが決定した。

この流れを纏めると以下のようになる。現在の制度が当たり前でなく、様々な試行錯誤があったことがわかる。
 1909年1月以前 成績優秀者への顕彰制度なし
 1909年6月 ~ 1931年10月 東西制 (第1期)
 1932年2月 ~ 1939年5月 系統別総当たり制 (第1期)
 1940年1月 ~ 1947年6月 東西制 (第2期)
 1947年11月 ~ 1964年11月 系統別総当たり制 (第2期)
 1965年1月 ~ 部屋別総当たり制

さすがに同部屋や兄弟・親族の対決をふだんから行うと問題が生じる可能性があり、対戦方法の制度としては当面このままだろう。
一方で少子化や一部の不祥事の影響で、力士数はピークだった1994年の868人から2024年初場所では599人に減っているという。2023年の新弟子53人も過去最少だったとのことだ。
目を離せない優勝争いが毎場所繰り広げられるように、今後も様々な制度変更を取り入れながら、相撲を盛り上げてほしい。

 



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一国の国王や王子について、「さすがに生活面で経済的な心配はないだろうけど、いつも国民に見られていて大変そうだ」 とか 「そのような運命のもとに生まれて、そのような環境で育ってきたのだからふつうの感覚なのかな」 といったことを考えてしまう。また 「もしある日この立場になったらどうしよう」 とか 「シンデレラのイメージで広く国民の中から国王が選ばれると面白いのでは」 などと低俗なことを考えてしまうこともある。実際にそのようなことはあるだろうか。

18世紀末までは、世界のほとんどの国家において君主制が敷かれていたが、現在では国王が20名 (このうちマリクが4名、スルターンが2名)、天皇が1名 (日本、議論あるがここでは君主として扱う)、教皇が1名 (バチカン)、アミールが2名、大公が1名 (ルクセンブルグ)、公が4名など計31名が在位している。

そして王位の継承 (日本の皇位継承を含む) について、継承をめぐる紛争を防ぐために継承法を明確に定めていることが多い。その中の多くは世襲によって継承される 「世襲君主制」 がとられている。
その対になるのは 「選挙君主制」 であるが、例えばクウェートの国王はジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出されるなど、限られた候補者の中から互選によるケースが多い。(バチカン市国の君主であるローマ教皇がコンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙で選ばれることは少々意味合いが異なる)

そして王位の継承 (日本の皇位継承を含む) について、継承をめぐる紛争を防ぐため、継承法を明確に定めていることが多い。その中の多くは世襲によって継承される 「世襲君主制」 がとられている。
その対になるのは 「選挙君主制」 であるが、例えばクウェートの国王はジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出されるなど、限られた候補者の中から互選によるケースが多い。(バチカン市国の君主であるローマ教皇がコンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙で選ばれることは少々意味合いが異なる)
古代まで遡ると、王政ローマでは王は終身だが世襲ではなく、原則として市民集会が選挙でローマ市民権を持った者の中から選出していたという。選出は必ずしも家系や身分によらず、市外の者が選出されていたとのことだ。

一方で中世のポーランド・リトアニア共和国では200年以上にわたって 「国王自由選挙」 として国内外の有力者が国王に選出されていた。
ポーランド・リトアニア共和国 (1569~1795年) は正式には 「ポーランド王国およびリトアニア大公国」 であり、ポーランド王とリトアニア大公の両方を兼ねた共通の君主によって統治された国、およびポーランドとリトアニアによる連邦であった。現在のポーランド、リトアニア、ウクライナ、エストニア、ベラルーシ、ラトビア、ロシアにわたり、16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国の1つであった。

国王自由選挙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E8%87%AA%E7%94%B1%E9%81%B8%E6%8C%99

1572年、14世紀から続いたヤギェウォ朝のジグムント2世アウグストが子供を残さずに死んだため、ヤギェウォ朝は断絶した。そして、次期国王を選挙で選び、最終的に召集議会によって承認することが決定された。選挙権は投票を望む全ての男性貴族、参政権者に与えられることが決まった。
貴族たちは各県で投票を行い、地元選出の代議員が各候補の得票数をセナト (共和国元老院) に伝えた。元老院議長が国王の選出を布告し、首座大司教が新王に祝福を与えた。1573年の最初の選挙では4万人から5万人が投票したと言われる。

栄えある第1回の選挙で国王に選ばれたのは、ヘンリク・ヴァレズィであり、のちのフランス王アンリ3世である。

アンリ3世 (フランス王)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA3%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

アンリ3世 (1551~1589年) は、ポーランド最初の選挙王およびヴァロワ朝最後のフランス王。ポーランドではヘンリク・ヴァレジ (Henryk Walezy) と呼ばれる。
アンリはポーランド・リトアニア共和国の国王候補の一人となり、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世の息子であるエルンスト大公、スウェーデン王ヨハン3世、ロシアのツァーリ・イヴァン4世らが対立候補となったが、フランス使節ジャン・ド・モンリュクの熱心な働きかけと、ジグムント2世の妹で次期国王の王妃に擬せられていたアンナがアンリを支持したこともあって、1573年5月9日にアンリはポーランド王に選出された。

アンリはポーランド最初の国王自由選挙に勝利したものの、貴族の権力が異常に強く王権の弱いポーランドの政治文化に違和感を抱き始めていた。さらに兄シャルル9世の結核が悪化したため、次期フランス王位継承者のアンリは出国を躊躇したが、ポーランド使節団に促されてフランスを発ち、1574年1月にポーランド入りした。
しかし1574年2月に戴冠式に際して開かれた議会では、アンリはカトリック勢力の支持を得て、宗教寛容体制を認める統治契約を無視しようとしたため、反感を買った。またアンリはポーランド貴族内の複雑な派閥関係に通じておらず、貴族たちは新王による官職任命が派閥間の勢力バランスを欠いたものだとして不満を抱いた。また国際語のラテン語をほとんど話せない国王がポーランド人貴族には近づかず、連れてきたフランス人の側近ばかりと付き合うことも問題視された。
1574年5月30日にフランスでシャルル9世が崩御し、その訃報は6月14日にクラクフへ届いた。既に出国の準備としてフランス人側近の殆どを本国へ帰していたアンリは、6月18日深夜、残った側近数人を伴い王宮を出奔した。国王の逃亡という大事件にポーランド貴族たちは愕然としたが、フランス人の国王によるそれまでの期待外れな振舞いを快く思っておらず今回の逃亡にかえってせいせいしたと思う貴族も少なくなかった。

ちなみにアンリはフランス帰国後から約15年にわたってフランス国王として国政を指導したが、1589年に暗殺されて生涯を閉じた。

ここまでを纏めると、(1) 国王自由選挙の選挙権は男性貴族のみ、(2) 国王の候補者は諸外国の有力者、(3) 選挙の詳細は不透明、(4) 選出された国王は着任後半年で国外逃亡 となる。

そして2回目の国王自由選挙選挙では、最初の選挙でヘンリク・ヴァレズィを指示していたアンナ・ヤギェロンカ (ジグムント2世の妹) が選出され、女王となった。

そのアンナと結婚したハンガリー出身のステファン・バートリがアンナとともに共同統治王 (3代目の自由選挙王) となった。
4代目はジグムント3世で、アンナ・ヤギェロンカの妹カタジナの長男である。また5代目のヴワディスワフ4世はジグムント3世の長男、6代目のヤン2世はジグムント3世の4男、というように結局限られた一族から国王が選出された。

国王自由選挙は1791年に廃止されるまでに13回実施されたが、後半は外国軍の軍事的圧力の下で実施されて自由選挙の性格を失ったと言われる。
結果として、国王の権威を弱め、候補者の支持をめぐって各選挙区 (県) の中で争いを起こさせ、外国の王家がポーランド国内に干渉しやすくさせた。

ということでポーランド・リトアニア共和国の国王自由選挙が有効であったとは言い難い。これが現代の選挙制度に基づいて実施されればまた違うのかもしれないが、知名度が優先されたり、パフォーマンス主体のトンデモ候補が現れたりとそれはそれで問題が生じるのであろう。やはり世襲君主制や閉ざされた選挙君主制には意味があるようだ。



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昨年2023年は高層ビルに関してさまざまな出来事があった。

まず新しい高層ビルとして東京都港区に「麻布台ヒルズ森JPタワー」 (325m) が竣工したことが挙げられる。2014年に開業した「あべのハルカス」 (300m) を抜いて日本一の高層ビルの座に就いた。
この先には2028年に東京都千代田区大手町に「Torch Tower」 (385m) が計画されており、竣工すれば日本一の座につくことになる。このビルは2023年に解体された「朝日生命大手町ビル」 (119.65m、1971年竣工) の跡地に建設されるものだ。いよいよ東京タワー (333m) を超える高層ビルが完成することになる。

一方で、浜松町駅周辺の再開発に伴い、「世界貿易センタービルディング」 (162.59m) が解体されたことも2023年の大きなニュースだ。

「世界貿易センタービルディング」 は1970年に竣工した時に、「霞が関ビルディング」 (156m) を抜いて日本一の座に立ったビルである。50年以上が経ち、そのような高層ビルが解体される時代となったといえよう。
とはいえ、100m超ビル第1号の「霞が関ビルディング」はまだまだ色あせていない。

estie マガジン 霞が関ビルディングはなぜ50年も愛され続けるのか?建物の構造に迫る!
https://www.estie.jp/products/finder/magazine/article/kasumigaseki-building

霞が関ビルディングは、フロア中央にエレベーターを置き、回遊性の高い構造にすることでオフィスのレイアウトを時代のトレンドに合わせて柔軟に変更することが可能になっています。この構造は対面のコミュニケーションが重要視される今の時代にもピッタリな空間です。また、IT化などが進む時代に合わせ、総工費約470億円を投じて3度の大規模改修を施し、最新の設備にリニューアルしています。他にも、最新のBCP(事業継続計画)を備えたり、シェアオフィス「ワークスタイリング」を展開したりするなど、まさに三井不動産グループが企業思想として大切にしている「経年優化」を象徴するような建物と言えます。
時代に合わせた改良を積み重ねることで、様々な高層ビルが建ち並ぶ今でも、高層ビルのパイオニアとして存在感を示しているのです。

さて、「世界貿易センタービルディング」 や「霞が関ビルディング」を含めて、第二次世界大戦後の日本の最も高い建築物の変遷は以下のようになる。
 ホテルニューオータニ ザ・メイン (72.1m) 1964年-1965年
 ホテルエンパイア (93m) 1965年-1968年
 霞が関ビルディング (156m) 1968年-1970年
 世界貿易センタービル (162.59m) 1970年-1971年
 京王プラザホテル本館 (179.55m) 1971年-1974年
 新宿住友ビルディング (211.381m) 1974年
 新宿三井ビルディング (223.6m) 1974年-1978年
 サンシャイン60 (239.7m) 1978年-1991年
 東京都庁第一本庁舎 (243.4m) 1991年-1993年
 横浜ランドマークタワー (296.33m) 1993年-2014年
 あべのハルカス (300m) 2014年-2023年
 麻布台ヒルズ森JPタワー (325.40m) 2023年-

このように「霞が関ビルディング」が1968年に竣工する前に日本一の高さだったのは、横浜市戸塚区の「ホテルエンパイア」 (93m) である。 

ホテルエンパイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2

遊園地の横浜ドリームランドに併設される形で1965年3月28日に開業し、1995年に閉鎖された。
当初は「ホテルドリーム」の仮称で計画され、大林組により1964年4月に着工し1965年3月に竣工した。霞が関ビルディングに先駆けて建設省の高層建築物構造審査会の審査に合格した日本初の超高層ビルとして10億450万円の建設費を投じ、完成当時は地下2階地上21階、高さは建物部の軒高が77.7m、尖塔と避雷針を含めて93mであり、工事期間は僅か1年という突貫工事だった。
1995年に廃業・閉鎖されてから2005年に至るまでの10年間は、誰も手をつけることなく、廃墟と化していた。閉業当時は撤去する予定であったようだが、一年という短い期間での突貫工事の影響なども有り、アスベストが大量に使用されていたため、撤去費用が膨大なものになるというもので結局解体は行われず現在に至る。
その後、紆余曲折を経てドリームランド跡地を買収した都築第一学園が、2005年に改装工事に着手し、同学園が2006年に開校した横浜薬科大学の図書館棟になった。

建築基準法が改正されて高さ規制が廃止されたのは1963年であり、それを受けて建築された「ホテルエンパイア」は元祖超高層ビルと呼ぶことができる。 
横浜ドリームランドやモノレールについては、いろいろと取り上げられているのでここでは触れないが、元日本一高層ビルの「ホテルエンパイア」が廃墟扱いされていたことは非常に残念であった。
この「ホテルエンパイア」改め「横浜薬科大学の図書館棟」にも2023年に動きがあった。

カナロコ by 神奈川新聞 地域のシンボル、これからも 横浜薬科大・図書館リノベーション
https://www.kanaloco.jp/pr/hamayaku20231011

横浜薬科大学にそびえる図書館棟のリノベーション工事が9月末に完了した。2002年に閉園した遊園地「横浜ドリームランド」の宿泊施設を大規模に改装し、2006年に図書館として生まれ変わった高層建築で、3年を費やした今回のリノベーションにより、さらなる長寿命化が図られた。
横浜市戸塚区の國本直哉区長は「横浜ドリームランド時代から地域の方々に親しまれ、シンボルとなっている図書館棟を、これからも戸塚のシンボルとして学生、区民の皆さんと大切にしていっていただきたいと思います」と話す。

富士山、横浜、みなとみらい、江ノ島など等が一望できる「横浜薬科大学の図書館棟」は、1965年の竣工からまもなく60年となるが、これからも高台から戸塚の街を見守っていてほしい。

 



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ノーベル賞の資格の1つとして、受賞者が生存していることがある。
詳しく経緯を見ると1973年以前は受賞者候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例えば1931年のエリク・アクセル・カールフェルト (文学賞)、1961年のダグ・ハマーショルド (平和賞) は授賞決定発表時に故人であった。
しかし1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが条件となった。2011年に、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明したが、特別に正式な受賞者として認定されることが決まった。

ということで、基本的にノーベル賞の受賞者は生存であり、華やかに授賞式が行われるもの、と考えていいだろう。当然だが受賞の喜びの声が聞けるのは生存者だけである。
しかし逆に言うと、ノーベル賞に値する功績があったとしても、本人が亡くなっている場合は賞が授与されない、ということだ。候補者の選定段階で生存者のみから絞りこんでいると思われるため、実際にはそのような例は歴史上多くあるだろう。
そして、ノーベル賞の選考期間は以前と比べて長くなっている。

日本経済新聞 2016年6月10日 ノーベル賞、もらうまで29年
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03424910Z00C16A6TJN000/

科学の大きな発見があってからノーベル賞が授与されるまでの期間は、徐々に長くなる傾向にある。
2016年版の科学技術白書は、1940年代以降に科学分野のノーベル賞を受賞した447人について、受賞理由となった科学の発見から受賞まで何年かかったか調査した。1940年代は平均18.5年。1950年代に15.1年と早くなったがその後伸び続け、2010年代には29.2年に達した。
受賞が遅くなっているのには主に2つの要因があると、政策研究大学院大学の原泰史さんは分析する。一つは時代が進むにつれて研究開発の幅が広がり、ノーベル賞に値する研究者が増えたこと。いわば「順番待ち」の状態になっている。もう一つは、ノーベル賞委員会が本当の第一発見者が誰かを重視しており、「慎重に調査しているため」だと原さんはみる。論文を分析し、大勢の科学者に聞き取り調査する。

 

人類の寿命が延びているとはいえ、功績から授賞までの期間が長くなればなるほど、先に述べた功績があっても受賞できないリスクが高まるだろう。
その功績から受賞までの期間の最長記録は「55年」であり、2例ある。1966年に生理学・医学賞を受賞したペイトン・ラウス (Francis Peyton Rous、1879年10月5日 - 1970年2月16日) と、1986年に物理学賞を受賞したエルンスト・ルスカ (Ernst August Friedrich Ruska、1906年12月25日 - 1988年5月27日) である (厳密にはペイトン・ラウスの方が長い)。この2人の功績と受賞までの経緯を見てみよう。

ノーベル賞で辿る医学の歴史 がんとの闘い~ラウス肉腫ウイルス発見から55年目の受賞
https://epilogi.dr-10.com/articles/1388/

ペイトン・ラウスは彼はアメリカの病理学者で、1911年に腫瘍ウイルス (がんウイルス) を発見し、その約半世紀後の1966年にノーベル生理学・医学賞を受けました。実は、これほどまでに時間を要したのには理由があります。
1926年、ヨハネス・フィビゲルという病理学者ががん研究で初のノーベル賞を受賞しました。その研究は、がんの原因を寄生虫とする「寄生虫発がん説」というもの。しかし現在、がんの原因が寄生虫でないのは周知の事実。フィビゲルの説は残念ながら間違っていたのです。
フィビゲルの研究を誤りだと見破るのは、当時の技術では難しかったと考えられており、現在も賞は取り消されていません。けれども、ノーベル財団はこの誤りによほど懲りてがん研究に対する評価を厳しくしたのでしょうか。この件からしばらく、がん研究に対するノーベル賞授与はありませんでした。新しい技術を認め評価する難しさに、昔の人々もまた悩まされていたことがうかがえます。
それから40年経った1966年、がん研究において2番目にノーベル賞を受けたのがラウスです。腫瘍ウイルスを発見した功績が認められ、受賞が決まりました。
がんの存在は古代ギリシアの時代から確認されていましたが、その原因は長らく謎のままでした。20世紀に入ると、西洋医学の世界では「感染症は特定の微生物 (細菌) により引き起こされる」という説が一般的になりました。そこで研究者たちは、がんも細菌による感染症であると考えるようになります。当時この考えがあったからこそ、フィビゲルの寄生虫説は支持されたのです。
その一方で、ラウスはがんの原因を「細菌より小さな何か」だと考え、研究を経て見事に腫瘍ウイルスの存在を突き止めます。ラウスによる腫瘍ウイルスの発見は、その後のがん研究に大きく影響しました。当時、定説の細菌ではなく「細菌より小さな何か」だとするラウスの研究は冷笑されたといいます。それから55年。ノーベル賞受賞の連絡を受けた時、ラウスは87歳の高齢となっていました。定説を疑い、周りの目にも負けず自身の信念を貫抜くことは、多様性が認められつつある現代でも難しいこと。約100年も前であればなおのこと、その道のりは苦難の連続だったのではないでしょうか。


 


ここにもあるとおり、ノーベル賞は取り消されることはない。そのため選考に慎重になり、功績から受賞までに時間を要する例である。

エルンスト・ルスカは電子顕微鏡に関する基礎研究と開発で受賞したが、その電子顕微鏡の歴史とともに経緯を見ていこう。

電子顕微鏡 電子顕微鏡の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1#%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

磁場の電子線に対するレンズ作用を実験で示したのは1927年ドイツのハンス・ブシュである。最初の電子顕微鏡は1931年にベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカが開発した。シーメンスの科学ディレクターだったドイツ人のレインホールド・ルーデンベルクが1931年に特許をとり、1938年に電子顕微鏡を売り出す。走査型電子顕微鏡は1937年マンフレート・フォン・アルデンヌによって製作された。1950年代から多くの分野で活用され、さらに短波長の電子線 (加速電圧の向上) などによって性能は向上した。

 

ここにある「走査型電子顕微鏡」は、観察対象に電子線をあてそこから反射してきた電子ビームから得られる像を観察する顕微鏡である。
また似た言葉の「走査型トンネル顕微鏡」がある。これは対象の近くに非常に細い針 (プローブ) を近づけ、針と対象物の間に流れる電流が針と対象との距離によって変化することを利用して、対象の微細な凹凸を測定するというものだ。どちらも電子ビームや針の先端は「点」なので、一点を観察しただけでは像にはならず、平面像を得るためには電子ビームや針を縦横にZ字状に動かして面全体を観察する必要があり、これを「走査」と言う。 (と調べて記述してみたが、全く理解できていない)
この「走査型トンネル顕微鏡」は1982年に、スイスのハインリッヒ・ローラーと、西ドイツのゲルト・ビーニッヒによって開発された。当初は性能や原子レベルの観測結果に懐疑的な意見もあったが、それまで構造の解明がなされずに30年近く論争の的となっていたシリコン表面の構造解明の手掛かりを、彼らの装置の観測結果をもとに得ることができたため、1986年に2名はノーベル物理学賞を受賞した。これは功績からの期間が4年と短い。

そして同じく1986年にエルンスト・ルスカが、1931年の電子顕微鏡の基礎研究と開発でノーベル賞を受賞した。
このことから、「走査型トンネル顕微鏡」という功績が機会となり、その源である「電子顕微鏡」の基礎研究・開発を改めて評価しノーベル賞を授与した、と考えることができる。
尚、エルンスト・ルスカの共同開発者であったマックス・クノールは1969年に亡くなったため受賞資格がなかったが、その時点で生存していれば当然ノーベル賞を受賞していたことだろう。 (以下がエルンスト・ルスカ (右) とマックス・クノール (左) による最初の電子顕微鏡の写真である)

革新的な発明の基礎を築いたとしても、実用化、活用化に長い時間を要することや、その評価ができる時代になっていない、ということは当然あるわけで、マックス・クノールのように最初の開発者が受賞できない事例は数多くあるだろう。
ペイトン・ラウスとエルンスト・ルスカは、条件が整ったタイミングがかろうじて間に合った、と言うことができる。
従って、「生存していること」というノーベル賞の条件は不平等であり、それ以上に問題なのは人類が歴史上の功績を正しく把握できないということに繋がっていることなる。授賞式の華やかさよりももっと大事なことがあるはずだ。
もしあなたがノーベル賞の手応えのある発明を成し遂げたら、あとはひたすら長生きできるように規則正しい生活を送った方がいいだろう。

 



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