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在宅療養生活で見たこと、思ったこと、を伝えます。

回顧録 2

2015年11月18日 | 回顧録
「回顧録 1」で少し触れましたが、結婚するまで私の家族構成は親1人子1人の母子家庭でした。


正直なところ、あまり良い思い出はありません。


私が2~3歳の頃に両親は離別したので父親の顔や声は全く記憶にはなく、たとえバスで隣に座ったとしても誰だかわからないでしょう。尤も今では鬼籍に入っていますが。


周囲の子供たちには自分の家があり、両親が揃っており、兄弟がいるのが普通の状況での私の置かれた状況は当時としては奇異なものに映った事でしょう。地元ではあの子(私)とは友達になるなと言われていた感じがします。


私の住まいといえば両親の離別以前は一軒の戸建でしたがそれを売却したので、住む所のない母子家庭は当時、福祉施策の一環として母子寮というのがありそこに入居するのが一般的でしたので、ウチもそのようにしました。


そこは管理人である寮母(当然の事として母子家庭)と様々な過去を背負ってきた母子世帯が身を寄せ合って暮らしていて、子供の数も1人から時には4人の人まで様々で、多い時は6世帯くらい住んでいたような気がします。


再婚するので退寮したり、男の子は中学生までしかいられない規則もあり、入れ替わり立ち替わりメンバーが変わっていました。


母子寮に住む母親たちは殆どの母親が専業主婦の時代に当時としては珍しくほぼ全員が勤めに行っていました。給料は男の半分という感じで。


母子寮に住む小学生の子供は基本的に地元の子供会とは付き合いはしません。会費やら、一年一回の旅行の費用・その為のいい服を買う費用等の事があったようです。が、私は例外的に子供会の行事に参加していました。


私がいた母子寮は民間の篤志家が経営していて、他に養護施設・病院・老人ホームも系列にある大きな社会福祉グループでした。そして経営者は救世軍を信仰していたので、小さい時はグループ挙げてのクリスマス会や日曜学校に行った事は数少ない暖かな思い出として残っていますね。

一年に一度か二度は徒歩20分位の隣の小学校区に建てられた系列の養護施設に親睦を兼ねて訪問する事もあり、その日は母親がいるだけでも儲け物だと思いました。なぜなら、職員の指示に聞き従わないひねくれた態度(察するところ親・兄弟がいない故の情緒不安定)の子や、淋しそうな目をした子を見るからです。

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