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Agile

ちょっと心がお疲れ気味のJaneの通院記録がメイン。
他に、ちょっとした息抜きに趣味などについて書いています。

ついにうつ病が再発 私の人生を返せ!

2011-09-03 02:37:52 | 私の履歴書

先輩がうつ病になったことで、本当に辛い思いでいた。
だから、私もこれまでのような仕事一辺倒の生活はやめよう!
もっと綺麗になってプライベートも充実させよう!
そう一念発起して、新車1台買える位の大金を投じてエステに通い始めた。
効果はばっちりで、今までの人生で男性に見向きもされなかった私が、
街中で男性に声をかけられたりするようになった。

これは、人生ばら色の兆候か???と淡い期待を寄せていたところに、
またしても重要案件とされるPJを負かされる事になった。

聞けば、既にスケジュールが逼迫しているが何とかして欲しいといった内容だった。
なんとなく、内容を聞く限りでは、客観的に見ても私のスキルが必要そうだということはわかったし、
新人時代に大変お世話になった上司からの依頼だったので、引き受けることにした。

前回のPJで、納期に間に合わないという最悪の結果を出しただけに、
今回は、スケジュールが短いが、とにかく間に合わせる事だけに集中して作ることにした。

おかげて一応納期に間に合ったものの、短期間で無理やり作ったので、品質はイマイチで
お客様あまり評判はよくなかった。

おかげで、その後1年以上、再度お客様の信頼を取り返すためにも、
がむしゃらに品質を上げていく作業をしていかなければならなくなった。

そして、1年が過ぎた頃、とんでもない依頼が飛び込んでくる事になる。
またしてもお客様の要望で無理なスケジュールでの依頼を受けてしまったのだ。
納期に間に合わないという悪夢の再来かと思われたが、
もともと泥臭い仕事の仕方しかできない私は、結局残業残業のオンパレード。
まともに家に帰れない日々が数ヶ月続いた。

おかげで、一世一代のお金をはたいて手に入れたスリムな体系も
不規則な生活で1ヶ月もしないうちに元に戻ってしまった。
これは、私にとってとても言葉で言い表せないほどショックな出来事だった。

まぁ、デブに戻ったおかげで、なんとかお客様の要望にはこたえることが出来たが、
その頃には、もう「何もする気が起きない」「死にたい」といったことが頭をよぎるようになっていた。

気晴らしに旅行にいったものの、あまり楽しめず、気分の落ち込みや早朝覚醒が酷くなるばかりで、
これはもう駄目だと感じ、再び心療内科の門を叩いた。

 


感情の爆発と会社への想い

2011-09-03 02:15:39 | 私の履歴書

忙しくて病院にもいけなかったが、振り返るとうつの前兆が出てたなと思うエピソードがある。

「過敏性大腸症候群」と「逆流性食道炎」を治した私、さらに新たなミッションが与えられた。
これも、前回同様仕事としてはたいしたことはない(と聞いていた)が、戦略的に重要と言われていた
PJへの参加だった。

「前回同様仕事としてはたいしたことはない」と聞いていたが、先に参画していたメンバーから
話を聞くとどうも様子がおかしい。
明らかに、スケジュール的に無理があるし、今のメンバーでは力不足といった感じで
いやな予感がしていた。

案の定、あれよあれよという間にPJは戦場と化し、阿鼻叫喚の光景が繰り広げられる展開となった。
何をやっても失敗続きで、全く前進しない。
スケジュールはあれよあれよという間に、猛スピードで遅れていった。

私も含め、現場のメンバーはそれこそ不眠不休でなんとか立て直そうと試みたが、
もう、どうしようもないほどに事態は悪化してしまった。

私は、当時ストレスMAX状態で、それはもう感情の起伏も激しくなっていた。
時には、協力してくれるチームの仲間にも、机を叩いて怒鳴りつけたりした。
また、お客様に対してもケンカを吹っかけ、大喧嘩になったりもした。

結局、もうスケジュールどおりにお客様への納品はできないと決断が下った。
納品数週間のことだった。

当然お客様は怒り狂っていた。
これまで体を張ってがんばり続けていた先輩はお客様に攻め続けられ、
うつ病を発症し、戦線を離脱した。

私はなんとか気持ちを保って、最後までPJを完遂し、
大喧嘩をしたお客様とも、採取的には関係の修復が出来、それはそれでよかったと思っている。
それに、協力してくれる皆さんに怒鳴りつけたりしたことは、後から部長に散々怒られ、
仕事では、相手の立場を思いやってチーム一丸となってやっていく姿勢を持たなければ
いけないということも学び、社会人としては1つ大人になったように思う。

しかし、私の面倒をいつも見てくれた大好きな先輩をうつ病に追い込んだ
会社の態度には不満が残った。
もともと無理なスケジュールや不十分な体制の下でPJを立ち上げたのは
管理者側の責任だ。

ここから、私の中に会社への不信感が生まれていった・・・。


2度目のストレス性疾患

2011-09-03 01:59:14 | 私の履歴書

 

その後順調な日々は1年ほど続いた。
仕事も前ほど忙しくなく、海外出張にも参加させてもらって、割と充実した日々を過ごしていたと思う。

だが、暇な時期なんてそうそう長くは続かない。
また、新規PJの立ち上げが私を待っていた。

仕事そのものはたいした内容ではなかったけれど、会社の事業戦略上割と重要なポジションだった。
思えば、初めてうつになったあのPJも脚光をあびない割りに、会社の面子がかかった割と面倒な
案件だったと思う。

このPJは、事業戦略上重要な案件だったので、いろいろな人物や、新たな試みが沢山ある仕事だった。
とても勉強になったけれど、体は悲鳴を上げていたようだ。

PJの終盤に差し掛かるにつれ、背中が痛むようになってきた。
特に食後が激しく痛む。

だけど、たいしたことじゃないと無視して、PJが一区切り着いたところで沖縄旅行に行ったときのことだ。
母と2人での旅行だったのが幸いだったが、初日の夕飯を食べ始めた直後から下痢が止まらなくなったのである。
もう、一晩中トイレにこもりっきり。
水や食べ物、とにかく何かをクチにするとすぐにトイレに駆け込まなくてはならなかった。
おかげで、ほとんど食事を楽しめず帰ってくることになってしまった。

帰宅後、これまでに経験した事の無いあまりにも酷い下痢だったので、
即病院で胃カメラ、大腸カメラで検査をおこなったところ、
「逆流性食道炎」と「過敏性大腸症候群」である事がわかった。

お医者さんには、半ばあきれた様子で
「もう、仕事なんて辞めちまえ」と言われた。
私は、うつやパニック障害、アトピーのことを思い出し、
ああ、仕事をしている限りこういうストレスがらみの疾患からは逃れられないんだろうなと
とっても複雑な気持ちになったのを覚えている。

けっきょく、これらの病気も通院3ヶ月ほどで治し、会社を休む事は無かった。

 


一時の安息

2011-09-03 01:55:49 | 私の履歴書

うつ病をなんとか克服したころには、PJの仕事も落ち着いてきた。
さあ、これでひと段落と思ったのもつかの間、今度は苦戦を強いられてる別PJの支援を命じられる。

ピンチヒッターとして、新たなPJに参画した私は、自分でいうのもなんだがそこそこの成果をあげたと思う。
これもひとえに、ハードな仕事と病気を乗り越え、スキルアップした自分の能力をしっかり役立てる事が出来たからだと思う。

傾きかけていたPJも、私や他の支援メンバーのおかげでなんとか立ち直る事ができた。
これは、うつ病でダメージを食らっていた私には、やっと1人前になれた!という良い達成感をもたらした。

PJ支援をやりきって、初めて自分へのご褒美として、表参道ヒルズでクリスマスに
少々値段の張る(といっても私基準だけど)バッグを買った。
このバッグは今でも大切に使っている。


初めてのうつ発症

2011-09-03 01:54:13 | 私の履歴書

私がうつ病を発症したのは、今から6年前。
社会人になって2年目の時だった。

入社直後に配属されたのは、会社の中でもかなり暇な部署だった。
勤務地も実家のある名古屋だったので、両親と一緒にのんびり暮らしていた。

ところが、1年目も終わる頃、新規PJの発足にあわせて東京に戻る事になった。
上京したその日、職場で見た光景は、何日も家に帰らず残業し続けて、
まるで落ち武者のようにヒゲボーボーで疲れきった先輩方の姿。
名古屋では残業ほぼ0時間だった私は、これが東京での仕事なのかとビックリしたものだ。

それから、壮絶な仕事生活が始まった。
職場は良くも悪くも新人を新人扱いしない雰囲気で、ほぼ素人状態の私にも
一人前の仕事が課せられた。
先輩達でさえ、へとへとになるような職場だったので、私は本当についていくだけで必死だった。
毎日終電で帰宅して、朝4時には会社に戻る・・・そんな生活が半年ほど続いた。

新PJで働き始めて4ヶ月ほどから、徐々に症状は出始めていた。
まず、中学生くらいでほとんどでなくなったアトピー性皮膚炎が悪化し始めた。
一番酷いのは首で、首だけなら年中出ているからさして気にしなかったけれど、
顔面全体に出るようになった。
当然、化粧もできない、顔も水で洗うだけでもヒリヒリして痛い。
濃い色のスーツを着ているときには、アトピーを引掻いて剥がれた皮やかさぶたが
フケのように服についていた。
おかげで会社にはスッピンでフケだらけの状態で行かなければならなくなった。
これは、一応女性である私にとって、それなりに精神的ダメージを受けた。

それでも、気にしないフリをしてカラ元気で頑張っていたら、
忘れもしない休日出勤の日曜日、課長に呼び出されて「頼むから病院にいってくれ」と言われた。
気遣ってくれたのは有難いが、そんなに酷いのかと落ち込んだ。

課長の助言もあって、皮膚科に行くようになったものの、症状は改善されなかった。
このあたりから、精神的に不安定になるようになった。
顔の皮がベリべりと剥がれてくるのが耐えられなくて、友人の医者に泣きついたこともあった。
仕事中にも怒りっぽくなったり、ときには泣いたりするようになった。

いよいよおかしいかと思い始めたのは、たまたまサッカーのGK川口がイギリスで不遇の時代を
送ったときの精神状態を紹介した雑誌の記事で、川口選手が「朝の光が怖かった」というような
趣旨のコメントを読んだときだ。
私も、全く同じだった。朝が怖い、光が怖い、外に出たくない、何もしなくない。

そう思っていたときに、決定的な事件が起こった。
前々から夜寝ようとすると、動悸は激しくなってクラクラするようなことが何度かあったが、
その日は動悸が高まるにつれ、息が出来ない!苦しい!死ぬ!という感覚を覚え、
息も絶え絶えに自力で救急車を呼んで、人生で初めて救急車で搬送された。
真夜中だった。
連れて行かれた病院では、さもたいしたことでも無いという感じでよくあるパニック障害と
軽~くあしらわれて終わった。

上記の事件があり、翌日は仕事を休んだ。
親に連絡したら、それはやばいんじゃないかということで、名古屋から駆けつけてくれた。
一人ではもう外に出られなかった(太陽の光がいやで)ので、両親に付き添われて
人生初の心療内科に行く事になった。

診断結果は、うつ病とパニック障害、それにアトピーもストレス要因になっているということで、
抗うつ剤や漢方、ステロイドなどを処方してもらった。

診断書を貰って、病気休暇を貰うことも出来たが、
当時はまだ駆け出しだったので、今がんばらなきゃ!という気持ちが強く、
会社を休まずに治療を続けることになった。

結局9ヶ月くらいで、症状は改善し、1回目のうつ病は回復した。

※参考:当時の薬の処方
     ・パキシル
     ・ソラナックス
     ・メイラックス
     ・テトラミド(多分早朝覚醒を抑えるための眠剤としての処方と思われる)
     ・漢方2種類(名前が思い出せない・・・)
     ・顔用ステロイド(強めのステロイド軟膏をワセリンで薄めたオリジナル