「父のこと、勉強のこと」の記事で
”中学が評判が悪いということは、小学校もそれなりに酷かったわけで”という
くだりがありましたね。
この記事では、天国と地獄を経験した小学校時代について書こうと思います。
まず、私は小学校は2つ行っています。
「入社前までの人生 ~幼児編2~」で書いたとおり、最初に入学したのは大阪の小学校。
3年生の途中までお世話になったこの小学校は、とても素晴らしい小学校だった。
先生達が意欲的で、様々な新しい教育手法を取り入れていたし、
養護学級の生徒達も基本的に同じクラスで授業を受けていた。
おかげさまで、そういう障害を持つ人に対して、あまり変な目見ることはなくなった。
一番印象に残っているのは、全身が麻痺して動かないK君に、
階段も上り下りできるキャタピラ付き車椅子が寄贈されたときの事。
急にK君を乗せると危ないという事で、何故か私が試乗する事になった。
小学生の私には何か新しいアトラクションにでも乗るようでワクワクしていた。
しかし、乗ってみたら物凄い急な角度にイスが傾き、今にも落ちてしまいそうな感覚に怖くなった。
とりあえず、落ちなかったので、その後はK君が乗っていたが、
K君はこんなに怖い事を、ちゃんと受け入れているんだと思ったらスゴイなと尊敬した。
先生達は大変だろうけど、障害有無に関係なく一緒に学校生活を送るというのは良い事だと思う。
とまぁ、1つめの小学校は全ての面で2つめの小学校に勝っていた。
2つめの小学校は、現代っ子の悪い面が全部出た酷い小学校だった。
まず、授業態度。
小学生なのに、授業をさぼって家に帰ったり、
授業中にCDプレイヤーで音楽をかけたり、漫画を読んだりしていた。
そして、今も話題のイジメ。
私は、加害者ではないが、傍観者であり被害者だったと思う。
私が経験したのは、トイレに入っていたら外で思いっきり悪口を言われた事かな。
まぁ、水とか掛けられなかったし気にしてないけど。
他にも、勝手に髪の毛を短く切ったり、ストーブで熱した画鋲で女子の顔に火傷を負わせたり。
一番ビックリしたのは、友達のIさんと放課後校庭で遊んでたときだった。
突然、同じクラスのYさんの父親という人が、学校の回りに植わっている生け垣をなぎ倒して
「オラァ!!!テメエカァ!!!!」とか叫びながらIさんの胸倉を掴んだ。
どうも、Iさんが娘のYさんをいじめているので、殴りこみにきたようだった。
お父さんは激昂していて先生を呼びに行きたいが、私がこの場を離れたらIさんがどうなるかと思うと
その場を動けなかったが、勇気を振り絞って職員室へ駆け出した。
結局先生がやってきて、その後どうなったか良く覚えていない。
上記はほんの一例で、どうしようもない出来事は他にも山ほどある。
そんな小学校生活なので、何一つ楽しくなかった。
さっさと卒業したかった。
しかし、「父のこと、勉強のこと」で書いたように、それなりに頑張ったので、
第一希望ではなかったが、私立に入ることが出来、とりあえず、地獄からは脱却できたのだった。
でも、20年以上前でこんな感じなんだから、今のイジメはもっと凄いんだろうな。
今の子供達は、豊かなようでいて、いろんなストレス抱えて生きてるんじゃないかと思うよ。
イジメというものは、ずっと昔からあるものだから、容易になくならないと思うけど、
子供達には強く生きていって欲しいなと思うね。
昨日からちょっと躁転しているのか、やけに筆が進みますな。
「私の履歴書」シリーズはしばらく更新していなかったけど、
「カルト信者は勉強しろ」を書いていて、私がどの程度勉強してきたかを
書いておこうと思います。
だって、勉強しろとか言っといて、全然勉強してないと説得力ないしね。
ぶっちゃけ私は勉強は得意じゃありませんでした。
幼稚園では「入社前までの人生 ~幼児編2~」のように、
若干挙動不審な子供でしたが、実は家では結構勉強させられていました。
父も母も(どっちかというと父が)熱心だったので、
ひらがなだけでなく漢字や計算も幼稚園時代からそれなりに勉強していました。
父は、私の幼少期から大学時代まで甲状腺の病気に罹っており、
ちょっとしたことでもすぐに怒鳴りつけたりする人でした。
例えば、朝ごはんの準備でコップを机に置いたときに少し音がしただけで
怒鳴りつけられました。
一緒にレストランに行っても、店員さんの態度が悪いとすぐに怒鳴り散らかすので、
一緒に外出するのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。
そんな父が勉強でも他の事でも、何かを教えてくれるというときは痺れる位緊張しました。
忘れられないのは、誕生日にローラースケートを買ってもらった日のこと。
うまく滑れない私にイライラした父は、父が手に持った箒の端をを掴まされ、
ぐるぐると上下逆のジャーマンスープレックスのように振り回しました。
私は泣き叫びながら、ああ、この人は私を殺そうとしているんだなと思ったものです。
それに、父はいわゆる高学歴でした。
といっても、日本一のT大に入るつもりだったのに、
学生運動の影響でKOになったと本人は悔やんでいますが。
つか、KOで十分だと思いますけど(汗)
私は、その父に比べると残念な子です。
ネットで調べた偏差値的には父が70~67.5なのに比べ、私は64~60程度。
世間的には、割と高学歴だとは思いますが、一浪していることも考えると一族の中では中の下でした。
ちなみに、私は中学受験をし私立の中高一貫校を出ています。
私通っていた小学校(転校しているので卒業した小学校の方です)では、
その地区の中学校があまりにも評判が悪かった事もあって、
クラスの半分程度は中学受験のため塾に通っていました。
私も、四角い頭を丸くしてもらうため塾に通っていたのを思い出します。
中学が評判が悪いということは、小学校もそれなりに酷かったわけで、
そういう意味では、物分りの良い子が集まっている塾は楽しかったけれど、勉強は嫌いでした。
といっても負けず嫌いだったし、それなりに結果を出していたので
県内選抜エリートクラスに選ばれてもいました。
でも、それはものすごいストレスでもありました。
毎週行われる試験で、好成績を残さないとエリートクラスから外されてしまうし、
土日も含め、毎日深夜まで塾通いしていたので、生活が不規則になり
夜中にやけ食いをして、一気に体重が増えました。
当時の私はまるで、内山君のようでした(苦笑)
子供のとき太ると、脂肪を溜め込む脂肪細胞が増えてしまって、
痩せるのが難しくなるといいますが、おかげさまで私は未だにおデブだし、
とても痩せにくい体質です。
・・・で、何が言いたいかというと、このブログを書いている私は、
そんなに馬鹿ではないが勉強は嫌いな奴だということです。
しかし、今はイヤイヤながらも勉強してよかったなと思っています。
私は国語、世界史、倫理、生物が好きでしたが、世界史なんかは
ニュースを見たり旅行に行ったとき、より深くそのことを理解する事が出来て
人生が楽しくなるような気がしますからね。
大学は、法学部でしたが、リーガルマインドや悪法も法といった考え方は
仕事などで何かと役に立っているような気がします。
もう少しで夏休みも終わりますね。
宿題をやったり、夏期講習に行ったりみんな忙しいでしょうね。
特定の科目は好きでも、全教科の勉強が楽しめる人は少ないと思う。
でも、わからなくてもいいから興味を失わないで欲しい。
そのうち、わかるときが来る。
私も、高校時代「aの0乗は1」というのが全く理解できなかったけど、
社会人になって後輩(KO卒)に
「aのn乗というのは1にaをn回掛けること。1に何も掛けないから1」と言われて凄く納得した。
みんな、勉強が辛いなら止めてしまえばいいと思う。
でも、それは好奇心や興味を無くすのとは違う事。
ビョーキにならない程度に、面白いと思えること、勉強でもスポーツでも何でも、
そういうことに熱中して欲しいなと思います。
以上です。
※なんかまとまってなくてスマソ(^^;)
しばらく「私の履歴書」シリーズ更新してなかったけど、
今回は年末ということで、私の入社してからの8年間をさらっと紹介したいと思います。
<1年目>
・「原則首都圏勤務」のはずが約270名の新入社員中4人の地方勤務組みに
選出され、実家のある名古屋で9ヶ月勤務。
名古屋の部署は仕事が全く無く、毎日ネットサーフィンして過ごす。
・正月明けに東京に転勤、忘れもしない2005/1/17から私の悪夢の歴史が始まる。
終電逃して男性は皆会社に泊まり、
私はタクシーで帰ってシャワーと着替だけしてまた出勤という日々が続く。
<2年目>
・東京勤務になってから持病のアトピー性皮膚炎がひどくなる。
GWに休日出勤してたら、課長に呼び出されて「お願いだから病院に行って」と
懇願されるほど顔がぼろぼろになっていた。
・6月のある日の深夜、急に呼吸困難になって救急車を呼び運ばれる。
人生初のパニック障害発症。
・7月両親に付き添われ心療内科へ。うつ病と診断される。
このときは会社を休むことはせず、9ヶ月で完治する。
<3年目>
・前半はうつ病も治り、仕事もやや暇でまったり過ごす。
・後半は、トラブルに陥ったPJにレスキューとして参加。忙しいながらも高い評価を得る。
この時、自分へのご褒美に表参道ヒルズで買ったバッグは今でも愛用している。
<4年目>
・レスキューとしての活動も終わり、ご褒美にとフランスへの1Wの海外出張を命ぜられる。
英語ができず恥もかいたが、視野を広げるいい機会に。
・現在のPJに初期メンバー(STEP1)として参画。年末年始は結構忙しくしていた。
<5年目>
・昨年末から年始にかけての忙しさが祟り、過敏性大腸症候群と逆流性食道炎にかかり、
3ヶ月闘病生活を送る。
・PJのSTEP2を担当するも、全く成功する見込みが無いような内容であるとわかり、
真っ青になりながらも、毎日出勤&徹夜したが、力及ばず破綻。
巨額の赤字を出す全社的な問題案件となり、ストレスMAXに。
・上記PJで若干違法な労働を強いられていた事もあり約1月の休みを貰う。
<6年目>
・もう仕事ばかりの人生は嫌です!と上司に宣言し、新年早々約300万の契約でエステに通い始める。
・その宣言を思いっきり無視して、STEP2より更にハードなSTEP3のリーダーを任される。
・引き続きSTEP4も任され、夏期休暇もロクにとれず。
・10月、自分史上最も過酷なSTEP5を任される。
毎日出勤&徹夜して、破綻回避できるかわからないまま年越し。
ちなみに、この時点でエステで痩せた体重はすっかり元通りに。
・12月、クソ忙しい中、昇格試験を受ける。
<7年目>
・STEP5を壮絶な働きっぷりで回避し、順調に昇格もしたが、職場ではヒステリー気味になり、
家では何もする気にならないなど、うつらしき症状が出始める。
・2月に気晴らしに旅行に行くも、全くリフレシュできず、気分が落ち込むばかり。
・4月、ついにパニック発作も起こるようになったため病院へ。うつ病と診断される。
・7月、出勤日が月の半分以下となり、3ヶ月の休暇をとることに。
・10月、職場に復帰し、徐々に勤務時間を延ばして行く。
<8年目>
・順調と思われたが、1月~2月にかけて自殺願望が強くなり、家族や友人に迷惑をかける。
・3月、地震で自宅が被害にあい、都内のホテルを転々として過ごす。
・5月、ストレス発散の為の趣味としてゴルフを始める。
・8月、フルタイムで働くようになる。
・9月~10月、また会社に行けなくなる(出勤率50~30%)。
・11月から長期休暇に入る。
ここで、注目したいのは病気に罹っていた期間なんですが、
1回目のうつ病で9ヶ月、過敏性大腸症候群と逆流性食道炎で3ヶ月、2回目のうつ秒で18ヶ月と、
8年間の社会人生活のうち、約3割は何らかの病気にかかっていたという事実です。
これって、やっぱりちょっと長くないですか?
冷静に考えて、ちょっと異常な数字だと私は思います。
これだけ、病気になるっていうのは、会社がブラックなのか、私と会社の相性が悪いのか、
とにかく、何かがおかしいとしか思えません。
今はうつ病なので、判断を誤る可能性があるので、転職だとかそういったことは
まだ考えないようにしていますが、将来的にはやはり働き方などについて、
真剣に考えないといけないだろうなと思います。
・・・なんか、単なる私の思考の整理用の記事になってしまいましたね・・・。
いまいちしょうもない記事で申し訳ない(^^;)
3歳で幼稚園に入った。
近所の仏教系の幼稚園。珍しいでしょ?
クリスマスとかより、花祭り(ブッダの誕生日)とかを盛大にやるんだよ(笑)
ちなみに、花祭りではブッダのお母さんが夢で白い象を見た話とかを聞くの。
そしてメインイベントとして、みんなで仏像に甘酒をかけるんだけど、これが衝撃的でね。
幼稚園児っぽくないことこの上ないよね(笑)
だけど、無駄によく覚えてるんだな~、こういうのに限って(笑)
・・・と順調に幼稚園に通っていたと思った読者。甘い。
もうこの頃から既に精神科フラグ立ってました(苦笑)
一人っ子だった私は、当然ながら大人に囲まれて育ちました。
ちゃんとルールを守る大人と違って、子どもはやりたい放題。
幼稚園児たちの幼いゆえのカオスな行動についていけず、登園拒否に。
なんとか幼稚園に行っても、真面目な性格だった私はお弁当の時間に
「美味しそうなお弁当だな~、先生が食べちゃおうかな~」という先生のジョークを真に受けて、
お弁当が盗られる~!と泣き叫んで、母が迎えに来て帰宅したりとかね。
とにかく、なじめない子でね。
おかげさまで、ロールシャッハテストや箱庭テストを1人だけ受けさせられてた。
当時は私だけ賢いから呼ばれて特別な遊びができるんだと思ってたけど(苦笑)
と、なんやかんやありながらも、この仏教系幼稚園で卒園まで行くかと思いきや、
最後の年になって大阪に引越しが決まり、
また新たな環境で生きていかなかればならなくなるのでした。
生まれてから4歳まで、私は愛知県で過ごしました。
どんな子どもだったかというと、言語能力が高かったようで、
初めて発した言葉は「にゅうにゅう(牛乳)」だったそうです。
また、絵本の読み聞かせで母が間違うと訂正してきたりして、
母は「じゃあ自分で読めよ!」と思っていたらしい(苦笑)
また父譲りで味覚が鋭く(父の味覚は海原雄山並み!)、薬を飲ませるのに苦労したとか。
普通の子はオレンジ風味のシロップみたいな風邪薬を飲むのに、私は全く飲まないため、
粉薬をアイス等に混ぜたりしたらしいけど、全然だまされなかったそうな。
しかたなく、母は「これは薬なので苦いよ。」とはっきり伝えて粉薬をそのまま飲ませてたそうな。
あと、アトピーはこの頃からあった。
夏になると、膿んじゃってとびひに進化して痒さ地獄だった。
掻いたら痕になるとわかってたけど我慢できなくて掻いた痕が、私の頬に今も残っている。
しかしまあ、なんだかんだ言っても割と普通の子どもだったと思う。
ちなみに、この時期の忘れられないある日の出来事がある。
私が辿れる記憶の中で最も古い日の出来事。
私は風邪で熱を出して自宅二階で寝ていたのだけど、すごく辛くなってきたので
母を呼ぼうと思い、力を振り絞って「ママ~、ママ~」と何度も声を出したが誰もこない。
何事かと思って、風邪で辛い中、廊下を這いつくばって一階に下りると、夫婦喧嘩している。
しかも、「AがBだったら・・・Aが・・・」「いやAがBなんだから・・・・」とか
数学の問題でもあるまいし、何をAとBの議論をしてたんだか今もって謎な内容だった。
2人がどなりちらかしているので、私のか細い声も届かないわけだ。
全然割り込める空気じゃないし、しかたなく二階へと引き下がったものの
「こいつら子どもが死にそうになってるのに助けないなんて、このことは一生忘れない!」と
固く誓ったのを覚えている。
ちなみに、今はいい歳してこっちが恥ずかしくなるほどのバカップルな両親だが、
私が社会人になるまでは、毎日ケンカばっかりして大変だった。
兄弟のいない私にとっては、両親がケンカしてるときは居場所が無くて困った。
あまり認めたくないが、両親の不仲は少々私の思想信条にも影響しているように思う。
少なくとも、私が家庭を持ったら、子どもの前でケンカするのは避けたいなぁ。
・・・とまぁ、話は逸れたが、こんな感じの幼少期(1)でした。