「私の履歴書」ではこれまで社会人に入ってからの病歴を綴ってきたが、
私の履歴書らしく、幼少時代から人生を振り返ってみたい。
一見関係のなさそうな事が、実はうつに繋がっているという発見もあるかもしれないので、
いろんな思い出なんかも思い出しつつ寄り道しながら書いてきたい。
・・・明日10/24が誕生日なので、まずは生まれた時の事を。
私は帝王切開で生まれた、一人っ子である。
逆子でなかなか出産しにくい状態で、母は山口百恵引退のニュースなんか見ながら
気長に出産を待ってたらしいが、予定日から1ヶ月ほど遅れたある日(というか10/24の未明)、
ついにへその緒が切れてしまいで帝王切開になったのだそうだ。
どうでもいいが、10/24から蠍座で、10/23まではてんびん座。
なんだか蠍座まで待ってたみたいな生まれ方だ。
「蠍座の女は「人生、All or Nothing」?!」じゃないが、
生まれたときから"Dead or Alive"な感じで生まれたきたわけだ。
医師が私を取り上げた瞬間は、泣き声もせずぐったりとしていて、
一瞬「遅かったか・・・」的な雰囲気に包まれたらしいが、しばらくすると
「あれ、今までいい感じに寝てたのに・・・」と寝起きのようにむにゃむにゃと声を上げ始めたそうな。
「赤ちゃん」っていうネーミングはお母さんがいきんで生まれてくることと、
真っ赤になって全力で泣き声を上げるからだそうだが、
私は帝王切開で眠りから覚めた感じで生まれてきたので、
「赤ちゃん」の癖に、真っ白で悟ったように1人すやすや寝てたんだそうな。
父親は当時多忙でだったが、待望のわが子が生まれたということで、
一目会いたいと大急ぎで仕事を終わらせ病院に駆けつけたが、
私を見つけたとたんに、非情にも看護婦さんに「時間です」とカーテンを閉められ、
激怒してたんだそうな。
なんか、父の愛情が伝わってくるエピソードで私は好きですな。
ちなみに、私は小さい頃変な夢をよく見た。
なんとなく灰色っぽい空間というか水の中にいて、おぼれて息が苦しいのに、
手を伸ばしてもがくと変な膜に包まれてて、どんなに掻き毟ってもその膜が破れなくて
死にそうになって目覚めるという夢。
ただの勘違いかもしれないけど、胎内の記憶かな~なんてね。
ま、そんなこんなありつつ私は無事にこの世に誕生したのでした。
病気休暇を取得して3ヶ月目(2010年10月)。
いよいよ、復職練習がスタートした。
まず始め約1週間は、会社の最寄駅で下車し、
近くのカフェで本でも読みながら1杯お茶するところからスタート。
これは難なくこなせた。
次に、毎日通常の通勤時間と同じ時間に会社のビル内にある、
健康管理センターに行き、保健士と面談して帰るのを1週間ほど。
そして、その後2週間は、毎日通常の通勤時間と同じ時間に
健康管理センターに行き、その後4時間模擬的に業務相当のことを行うというもの。
業務相当といっても業務内容に直結するようなものでなくてもよく、
図書館などで読んだ本の要約とか、興味のある事柄を調べてノートにまとめたりと
いったことでよかった。
4時間という時間は、復帰後まずは4時間からスタートするからという理由で
設定されたものだ。
時々眠くなることがあったものの、それなりにきちんと学習できていたと思う。
その結果、10/28より復帰が決定した。
復帰の条件として「業務外の飲み会、懇親会への参加は禁止」という条件が出され、
私の復帰パーティを企画してくれていた職場の皆さんは残念がっていたし、
そのときは私も残念だった。
ただ、今思えばとても懇親会なんか出席できるコンディションではなく、
上記の条件をつけた産業医の指示は正しかったと思う。
ちなみに、復職準備にかかってからは、父がよく励ましメールをくれた。
普段めったにメールしてこないし、厳しい父だったので、
本当に気にかけてくれているんだなと心強く思ったのを覚えている。
こう考えると、私は家族にも職場の皆にも本当に恵まれていて、
有難い事だなと思う。
病気休暇を取得して2ヶ月目(2010年9月)。
会社の保健士、産業医と面談をして10月くらいから、復職練習を開始することになった。
なので、9月後半には実家暮らしから千葉での一人暮らしに切り替えるという計画を立てた。
9月前半は相変わらず、外出の練習。
だんだんと長い時間外にいる事ができるようになり、調子の良い日は
母にドライブに連れて行ってもらって8時間ほど家を離れる事もできるようになっていた。
9月後半は一人暮らしの生活に戻った。
ただし、始めから1人は辛いので、数日は母がホテルに滞在して世話をしてくれた。
一人暮らしの部屋は、ろくな家具も無く全く整理されていなかったので、
この機会に母の協力も得て、部屋の模様替えを行った。
はじめは気が乗らなかったが、部屋がきれいになると気分もよくなったように思う。
模様替えが済み、母も名古屋へ帰郷すると、私は復職練習前の残り少ない休暇を楽しむ為、
リハビリもかねて、水族館や植物園、神社への参拝や、海外旅行に行く友人の見送り
(ちなみに私も参加予定だったが体調不良でキャンセル)などをして過ごした。
毎日快調だったわけではなく、電車に乗るのがおっくうでタクシーを使ったり、
だるくて家の向かいの自販機にしか行けない日もあったが、
総じて回復傾向にあったと思う。
・・・しかし、振り返ってみても母には感謝してもしきれないほど助けてもらった。
本当に家族というのはいざという時に頼りになるものだと心から思う。
病気休暇を取得することが決まり、まず1ヶ月目は愛知県の実家で過ごす事にした。
ちなみに、病気休暇が3ヶ月だったのは、私の勤続年数から有給で病気休暇が取得できるのは、
3ヶ月までだったからで、症状の重さとは全く関係ない。
むしろ、症状から見ればもっと長く(最低半年ほど)取得すべきだったと思っている。
休みに入る前も、まともに外出が出来ない状態だったので、実家に帰ってから1~2週間は
ベットから出るのも辛く、食事もろくにとれず、母が作ってくれたオニギリを、
横になったまま時間をかけてゆ~っくり食べるというような感じだった。
3週目くらいからは多少動けるようになり、TVを見たりするところからスタートして、
最終週になるころは、母の購入したダイエット用のエアロビDVDを見ながら
体を動かしたりもできるようになった。
月末、病院(転院しなかったので都内の病院に新幹線で行っていた)に行くと、
室内での運動よりも、毎日1mでもいいから外出するようにとのことだった。
そうしないと、外出がどんどんできなくなっていくからだそう。
それからは、毎日外出した。
最初は、家の向かいの横断歩道を渡ったところにある自動販売機でジュースを買った。
翌日は、横断歩道を2つ渡ったところの自動販売機。
3日目は最寄の薬局と、慣らしていった。
(ただ、太陽の光はイヤだったので、夕方にサングラスをかけて出かけていた。)
ちなみに、急に病気休暇をとったので、仕事はかなり強引に後輩に預けてきた。
それが、後輩にはかなりの負担になったようで(先輩である私が倒れるくらいだからあたりまえだが)
ほぼ毎日といっていいほど、メールで連絡が来た。
メールの内容からして、かなり苦しんでいるようだった。
時には3000~6000文字もあるような長いメールを送ってくる事もあった。
私も後輩が心配になり、真剣にメールを返さねばと思うものの、
体が動きだすのは夜(うつ病の症状は朝が重たく夜になるに従って軽減する傾向がある)なので、
毎日かなり就寝時間が遅くなっていた。
これでは十分な睡眠が取れず、回復が遅れると思い、思い切って会社の同期にTELで
相談したのだが、私が職場の様子を聞こうとするやいなや
「仕事忘れて休むはずなのに、なんで仕事の話で電話してくるんだ!」と怒られた。。。
これにはちょっと精神的ダメージをくらったものの、
一応は職場の様子を聞きだし、後輩に具体的アドバイスをしたことで、
メールはこなくなった。
2度目の心療内科受診。
待合室で気がつけば私は泣いていた。
・・・ああ、もうこれは間違いなくうつだなと思った。
で、診断結果は予想通り「うつ病」。
先生から、結構重症なので診断書書いて休みを取りますか?と聞かれた。
前回のうつ病は、休みは取らずに治したので、今回もいけるだろうと思い、
私は断った。
今となっては思い切ってこのとき休んでいた方が、回復が早かったのかもしれない。
しかし、そのときの私は仕事で勝負の年だったのだ。
私はこれまで全てを犠牲にして(そう、あのエステにかけた大金をも水泡に帰して)
仕事をしてきた。
その甲斐あっていわゆる、最速昇進中だった。
今後2年は次のSTEP、つまり管理職へのSTEPUPがかかった大事な年だった。
だからなおさら、休むことは避けたかった。
結局ドクターに、もう少し頑張らせて欲しいとお願いし、
しばらくは通院でなんとかしのぐ事になった。
その後、仕事ばかりしていた私にもいいことがいろいろあった。
特に社長表彰授与式にPJ代表として参加させてもらえたことは嬉しかった。
しかし、そんな気持ちとはうらはらに、体が全然いうことをきかない。
肝心の表彰式の日も、体が全く動かず、ギリギリになってやっとタクシーで会社に着く
といった具合だった。
さらに、仕事はどんどん忙しく、かつ、難易度の高いものを任せられるようになってきた。
そしてついに2010年7月、月の半分しか会社に行く事が出来ず、重要な会議へのしゅっせきも
ままならなくなってきた。
もうこれ以上は限界だ、皆に迷惑がかかる・・・。
そう思い、ついに3ヶ月の休暇をとることにした。