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扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

相容れない気持ち 2007.09.02

2007-09-02 23:21:15 | Depression,Melancholy & Thought
自分はそんなにたいした人間ではない.............

これは前提としてあるんですが、全く価値もないと思う訳です。
んで自尊心がある程度ある人は良いのでしょうけどまともな人間ではないおいらにとってかなり辛い状況が生まれてくることが多いんですな。
クリスチャンの集会で2007.08.26に扱われた研究記事と、今日2007.09.02に扱われた記事はかなり苦しいと感じてしまいました。

おいらは「おいらの存在自体が罪だ」と考えています。
そんなおいらにとって「罪を犯してしまいましたか?」と問われるというのが愚問でしかありません。
存在自体が罪なのに罪を犯すも減ったくれもないとか考えるんですな。
しかしこれは調整の一環だと考えてよく調べ直さなければならないことなのだと考えており、毎日でも自分に対しての評価を改善していかねばならないことなのでしょう。
おいらは前もって研究記事を調べることをすると余りにも混乱しすぎて、いざ討議になると自責の念に囚われます。
なぜこんな個人研究しかできていないのだと責める傾向が少なからずあります。
研究の余地というのはおいらの場合は非常に大きく常人の数倍ないし数十倍程度は黙想する必要に駆られます。
結論が出るのは非常にSimpleなのですが、そこまでに至るにはある程度の期限を設けないと納得できないことも多々あります。
しかし期限内では絶対的に本質に到達することは難しくわだかまりが大きすぎて押しつぶされそうになるんですな。

聖書の「研究」ないし「探求」というのは通り一辺倒では余り意味がないモノになってしまいます。
つまり線を引いたり参照聖句を調べる以上のことを行わなければならず、書かれていることの本質を割り出したり煮詰め出したりしなければならない訳です。
でも確信に至らないことが多くて他の人の言葉を聴いてやっと確信に至ることが多いのが事実なんですな。

しかし「あのような討議だけで本当に良いのだろうか?」という強い疑問もあるのも事実です。
もっと本質的な答えを期待して他の人の注解を聴いているのですが、常套句が多かったり、当たり障りのない確信に少ししか触れていない注解というのが多いことを感じる訳です。
確かに討議上では十分の答えなのかも知れませんが、学んだことを最大限動員して様々な角度から物事を見て研究記事から更に大きな益を得たいとか考えてしまうんですな。

まあ理想論でしかないことも解っていますし、期待する方が問題があるのだと言うことも解っています。
もちろん感じたことを自分の個人研究として思いにとめておくことで十分なのかも知れませんな。
おいらの場合は過去に学んだことから研究記事を見るようにしたいとか考えているだけなので余計なことを行っているのかも知れません。
協会の指針で必要なのは、研究記事の中で扱われる事だけで十分事足りると言うことを示しているのかもしれませんしね。
これ以上書くと僭越になってしまうでしょう。
っていうかもうすでに十分僭越の部類に入っていますね.........

「これだけで十分だ」と「これだけでは物足りない」という相容れない気持ちが複雑に交錯して押し問答を繰り返しています。
またLibraryを直ぐに使用可能な状態になれたらばもっと知識を増し加えることが出来るのにという感情が少なからずあります。
何とかならないモノでしょうかね~........

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