自分の行動の基準をいろいろと考えるのですがね.......................
おいらは他人と比較すると物凄く考えていたようです。
一つの行動に対して「何が人を有益になるのか」を第一にして行動してきました。
しかし人の行動というのは思考の深度をそれほど深くしなくても良いものであり、考えるよりも行動する方が大きな益になるということが良く分かるようになってきました。
人の行動の意味というのはそれほど深くは無く、殆どの人間がおいらの思考と比較するならば
考えていない
ということを実感しています。
最近おいらも考えずに行動するということが良くあるのですが、少なくとも頭をくぐらせてその物事を行うにあたっては人の益になるかどうかを基準にしています。
実行するにあたっては既に考えなくても良い状況になっているのだということを理解し、それ以上は考えないようにしています。
これは実行段階でも深く考え続けていて疑心暗鬼になり、自問自答し苦しみ続けているということが多かったおいらにとってはかなり楽になりました。
実行段階では余り考える必要が無くなってきているのだとも実感出来ています。
Blogの更新というしがらみを軽減することによっても大分に思考が変わってきているように思いますな。
思考力という点ではBlogは最強の自己分析Toolかと思われます。
欝を患っているおいらにとって絶大な効果があったことからも明白ですな。
しかしあまりのWeightを置き過ぎていると自分の世界に閉じ篭り過ぎてしまうということも理解できました。
Blogの更新を少なくしたのはこの辺りに理由がありました。
でも思考力が鈍ってきているということを痛感します。
実際にこれほど思考力というのは低下するのだろうかと思うほど考えずに行動してしまいます。
これはTelevisionを見ていて感じたのですがね。
今田耕司さんというお笑いTalentが「さんまのまんま」という番組に出た際のCommentが忘れられずに居ます。
年末か年始かに見たのですが、井上真央さんと一緒に玄関に居た際のことです。
井上真央さんが大きくて重そうな風呂敷に入れた荷物を抱えていました。
しかしそれを男性である今田耕司さんが持たなかった理由は
「自分が持つことによって便乗するのが嫌だった」
というような理由だったかと思います。
これはおいら自身が常々考えていて人が購入したものを人の家を複数の人数で伺う際においら自身が持っても良いモノだろうかということを考えていたんですよね。
そこに今田耕司さんの言葉を拝見したわけです。
こういった事というのは御土産だけではありません。
何かしらの物事を行うにあたっての基準にもなるはずです。
例えばおいらは写真を撮るのは人よりも慣れているはずです。
周りの認識も同様のようです。(これは最近、理解しました)
遠方の地から来られたお客さんがCameraをお持ちに成りますよね。
遠方に出かける際にCameraを持っていくPercentageはかなり高いですな。
90%程度の割り合いで持ってこられます。
そこにおいらが居合わせるとそのCameraを使って撮影するということになることが少なくありません。
しかし、「思い出」的にはどうなのだろうという話になります。
思いの力や思い出へのPower Balanceとしては他人に撮って貰うよりも自分で撮る方が強いはずなんですな。
特に写真というものは人に撮って貰うモノよりも自分で撮ったモノのほうが記憶が鮮明に残っているはずです。
深く知らない人間に撮って貰ったモノというのは撮影者の記憶も残っていませんし、撮った印象も小さいように感じます。
それに対して自分で撮ったものというのはずっと覚えています。
そう考えると迂闊に「撮りましょうか」と声を掛けづらく成りました。
少なくとも一枚は本人に撮って貰う方が良いという結論になったからです。
こういったことも考えすぎだと言われるのかもしれんな~.......................
考え過ぎて頭がPunkするということはありません。
頭のCapacityというのは非常に大きなものですからな。
記憶力なども向上させるのは日々の反復に掛かっているということでしょう。
おいらは他人と比較すると物凄く考えていたようです。
一つの行動に対して「何が人を有益になるのか」を第一にして行動してきました。
しかし人の行動というのは思考の深度をそれほど深くしなくても良いものであり、考えるよりも行動する方が大きな益になるということが良く分かるようになってきました。
人の行動の意味というのはそれほど深くは無く、殆どの人間がおいらの思考と比較するならば
考えていない
ということを実感しています。
最近おいらも考えずに行動するということが良くあるのですが、少なくとも頭をくぐらせてその物事を行うにあたっては人の益になるかどうかを基準にしています。
実行するにあたっては既に考えなくても良い状況になっているのだということを理解し、それ以上は考えないようにしています。
これは実行段階でも深く考え続けていて疑心暗鬼になり、自問自答し苦しみ続けているということが多かったおいらにとってはかなり楽になりました。
実行段階では余り考える必要が無くなってきているのだとも実感出来ています。
Blogの更新というしがらみを軽減することによっても大分に思考が変わってきているように思いますな。
思考力という点ではBlogは最強の自己分析Toolかと思われます。
欝を患っているおいらにとって絶大な効果があったことからも明白ですな。
しかしあまりのWeightを置き過ぎていると自分の世界に閉じ篭り過ぎてしまうということも理解できました。
Blogの更新を少なくしたのはこの辺りに理由がありました。
でも思考力が鈍ってきているということを痛感します。
実際にこれほど思考力というのは低下するのだろうかと思うほど考えずに行動してしまいます。
これはTelevisionを見ていて感じたのですがね。
今田耕司さんというお笑いTalentが「さんまのまんま」という番組に出た際のCommentが忘れられずに居ます。
年末か年始かに見たのですが、井上真央さんと一緒に玄関に居た際のことです。
井上真央さんが大きくて重そうな風呂敷に入れた荷物を抱えていました。
しかしそれを男性である今田耕司さんが持たなかった理由は
「自分が持つことによって便乗するのが嫌だった」
というような理由だったかと思います。
これはおいら自身が常々考えていて人が購入したものを人の家を複数の人数で伺う際においら自身が持っても良いモノだろうかということを考えていたんですよね。
そこに今田耕司さんの言葉を拝見したわけです。
こういった事というのは御土産だけではありません。
何かしらの物事を行うにあたっての基準にもなるはずです。
例えばおいらは写真を撮るのは人よりも慣れているはずです。
周りの認識も同様のようです。(これは最近、理解しました)
遠方の地から来られたお客さんがCameraをお持ちに成りますよね。
遠方に出かける際にCameraを持っていくPercentageはかなり高いですな。
90%程度の割り合いで持ってこられます。
そこにおいらが居合わせるとそのCameraを使って撮影するということになることが少なくありません。
しかし、「思い出」的にはどうなのだろうという話になります。
思いの力や思い出へのPower Balanceとしては他人に撮って貰うよりも自分で撮る方が強いはずなんですな。
特に写真というものは人に撮って貰うモノよりも自分で撮ったモノのほうが記憶が鮮明に残っているはずです。
深く知らない人間に撮って貰ったモノというのは撮影者の記憶も残っていませんし、撮った印象も小さいように感じます。
それに対して自分で撮ったものというのはずっと覚えています。
そう考えると迂闊に「撮りましょうか」と声を掛けづらく成りました。
少なくとも一枚は本人に撮って貰う方が良いという結論になったからです。
こういったことも考えすぎだと言われるのかもしれんな~.......................
考え過ぎて頭がPunkするということはありません。
頭のCapacityというのは非常に大きなものですからな。
記憶力なども向上させるのは日々の反復に掛かっているということでしょう。
同じように考えるあなたも優しい人間ですね。
女性の自分からすると、
本当に大変だったら、お願いしますと声かけますから。写真の話もなるほどです。
はじめましてなのに・・失礼しました<m(__)m>
このような辺境Blogへようこそおいでくださいました。
今田さんの「心遣い」というのに共感して記事にしてみました。
女性からすると
「なぜ持ってもらえないのか」
という心境かと思われます。
しかし今田さんの気持ちがよくわかったんですよね。
たぶんですが、さんまさんが今田さんに
「何で持ってやらんのや」
と尋ねたんですよね。
もし今田さんは尋ねられねばこういう事を言わない人なんだと思われます。
さんまさんも良く気がつく方なので説明する事になったのでしょう。
しかしもし尋ねられなくても今田さんのStanceは変わらなかったと思われます。
同じようなことを経験してきましたからね。
おいらは万年金欠病でおいらがモノを購入して持っていきたいと思っていても出来ない期間が長かったものでしてね。
最近は車の支払いも終わりましたのでお土産も持っていくことが出来るようになりましたが、それまで荷物持ちをしていました。
でも実際に家や部屋の前にまで行くとやはり
「人様のモノを我が物顔で持っていくのはどうか」
我が物顔でなくとも自分が金を出していないモノを自分が持ち伺う人の前に立つことに違和感がありました。
そもそも私自身が購入したものだとしても他人に託けられたとする方が気持ちも楽ですしね。
人のためにどうこうするような人間でも無いとも思っていますし、現に自分自身のことを考えると感謝されるのに非常に違和感を感じるわけですよ。
読み返すのも手間だと思われますので、何度か書いている言葉がありますのでそれをここに添付しておきますね。
「奴隷が割り当ての事をしたからといって,その人は恩義を感じたりしないではありませんか。
ですからあなた方も,自分に割り当てられた事を全部したときには,
『わたしたちは何の役にも立たない奴隷です。わたしたちのしたことは,当然すべきことでした』と言いなさい」
という言葉です。
何事も強制されるでもなく、自然に当然のように物事を行えるというのは美しいことだと思います。
そこまで自分自身がなれていないことが情けなくも思いますね。
精進していきたいものです。
Commentありがとうございました。