先週の2009.07.24に記念写真の撮影に行って参りました............................
12時にPhotographyするということで1時間半前に出発し、余裕を持って待機しようと考えていたのですが時間というのは直ぐに過ぎるモノですね。
出先の駐車場で少し休憩しようと思っていたらそんな時間が無くて大変でした。
おいらの家から順調にいけば40分ほど、込んでいれば1時間ほどで到着する場所でのPhotographyでした。
昨年も撮りに行ったのですが、昨年はおいらが毎週集まっている場所で学校というか勉強会が2週間催されたんですな。
おいらの家からは車で5分程度あれば行ける所です。
しかし今回は事情が大幅に違います。
前回の事は下記に書いています。
頼まれ仕事 2008.07.11
詳細は書いていないのですが、自分の家から近い場所での作業ですのでResponseが早くできたのは当然のことです。
しかし今回は離れているのとおいらの町の集まりの主催をされている知人が参加していたということで相談しながら写真をChoiceすることになりそうです。
けっこう気が短い方なのですが、最近では他の人の方が気が短いな~と感じることが多くなってきました。
「何でこんな事で腹を立てるのだろう」と感じるようにもなってきています。
それに急ぐ必要性を感じなくもなってきています。
これは最近の人格形成が大きく影響しているのかもしれません。
さらに書くとおいらはPhotographyした写真を直ぐに渡すのは好きではないとこのBlogで幾度も幾度も書いてきました。
理由は
写真を見返す際の新鮮さが違う
という点でしょうかね。
即物的な考え方をしているとこういった思考にはなりません。
でも撮ったその日に渡すというのは1日で物事が終わってしまったという思考になります。
つまりEventを長期的に味わいたいのであれば其れを長引かせる為のFactorを加えるということにより作ることが出来ます。
「Time is Money」
という言葉があります。
これは「時は金なり」と訳され、
「貴重な自分の時間を有用に使うべきだ」
という意味に解釈され曲解すると
「何事も物事を早く行うべきだ」
という結論になります。
ところがおいらはこのような思考には同意しかねます。
思い出というのは時間と共に熟成されていくモノでもあります。
つまり時間を開けることによって思い出が熟成されるというわけです。
そしてそこに記念写真というFactorを加味すると鮮明な思い出が再構築され作り出すことが出来るわけですな。
人間の思い出というのは意外と適当なモノです。
というよりかなり適当であるといっても良いでしょう。
また記憶というのは新たなモノが上書きされていきます。
思い出す機会でもなければ過去のモノは過去のモノになってしまうという訳です。
人は忘れる生き物です。
これは良きにしろ悪しきにしろ働くものなんですな。
「延期される期待は心を病ませる」
という言葉もありますけどね。
記念写真というのは概ねで期間が開くモノです。
まあね。
昨年は当日に家に帰って急いで現像し、Retouchし、カメラのキタムラでPrintし、額に入れて集まり終了までに持っていくことが出来ましたが、今回は家に帰って現像、Retouchし、カメラのキタムラでPrintしても間に合わなかったというのもあるんですよね。
ということで距離が離れている時点で諦めていました。
おいらの意図が図らずも適応できたというだけのお話です。
思い出というのは非常に不安定なモノだということは上記で書きました。
しかし写真というのは安定した目に見える確定的なモノです。
写真は思い出の裏付けとなり心に刻んだ思い出を確りとしたモノにする作用があります。
2週間渡って行ってきたことが形となって具現化したモノだといっても良いでしょうね。
Cameramanは其れを機材などを提供して僅かばかりの手伝いをしただけだという事も言えますね。
参加していないのですからこれは間違いないでしょう。
物事というのは参加しなければ殆ど99%の割合ぐらいで解らないモノです。
つまり表面的な部分でしか見られないでしょうし、理解できないと言うことですね。
集まりに参加した人たちはその仲間内でしか心を開けないのはこの辺りに要因があるのでしょう。
おいらの中での「Time is Money」の定義は
・どの時間も大切で貴重なモノであること
・待つという時間も貴重な体験であること
・待ったものが到来した時の喜びは大きいということ
・待つ時間が適切な期間であれば其れは良い意味で貴重なモノとなること
などがあります。
人は毎日が貴重な時間であることを思いに留めて生活している人は少ないんですよね。
人間の時間というのは限られています。
その貴重な時間を思い煩いで占有されてしまうというのは勿体ないことです。
「人は可能であれば何時も楽しまなければならない」
と鬱病を経験した立場の人間としては思う訳です。
しかし過去のことを悔やみ、未来のことを心配して今を楽しみ損ねている人が如何に多いかを考えます。
それに考え無しに要求し、此方の意図を理解しようともしない人が多いのにはウンザリしますね。
おいらはおいらのPaceがありますし、おいらも一応は人間なのですから、人間らしく生きていこうと思います。
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PortraitのModel依頼を本格的に行っていこうと思っています。
一応はおいらが所属する集まりの子供たちから始めて大人たちにもその内にModelをして貰うかもしれません。
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