人間には少なくとも一つは何かしらの物事を行いたいという願いがあるはずです..................
これは「欲求」という言葉で表されることが少なくないのですが、
深いモノから浅いモノまで
悪質なモノから健全なモノまで
時間が掛かるものからすぐに終えることが出来るものまで
高額なものから廉価なものまで
心から欲しているものから些細な願望まで
といった具合に様々な要因によって欲求は形作られています。
上記に挙げた要因というのはほんの一例で多様多岐にわたります。
こういったオギャーと生まれたその瞬間から人間は欲求の権化になるのですからな。
しかし欲求というものはSaveしなければ必要以上のものまで欲するようになりMoralの低下などにまで結びつくように成ります。
そういえば撮り鉄の方たちが報道で電車を撮影しているのを見かけたのですがね。
一人の写真を愛する人間としてはあれは見ていられませんでしたね。
情けなくもあり、心苦しくもあります。
撮り鉄にとっては「LAST RUN」を撮るというのは格別なことのようですがね。
乗務員に向かって「退け」というのは可笑しく滑稽な事のように思いました。
そうですね。
例えを書いてみるとご飯を作るとしますよね。
ご飯をつくるというのは本や雑誌などに掲載したりなどするために作る場合は別として殆どの場合に「食べる為」に作られます。
ご飯がMainではなく食べる人間がMainであるはずなんですよ。
ご飯というのはただ単に人間の生命維持活動の一環に過ぎないと割り切るとご馳走でも質素な食卓でも維持するという観点では価値が変わらないものと成ります。
その食べる人に向かって退けと言っているようなもので、しかもそれは居なければ活動に支障が出る人間に向かって言っているようなものです。
どちらかというと車掌さんが写っている写真の方が良いような気もしますけどね。
Shutter Chanceというのはこのような暴言を吐くような暇があれば構えていなければならないわけでしてね。
瞬間瞬間を最大限に生かす為には構え続けているはずなんですよね。
Best Shotを撮りたいのであれば最後の日という選択肢はまず無理だというのは明白です。
常日頃から撮り続けている人間にしか撮れないでしょうね。
ここで休み云々は無しです。
忙しいというのも言い訳でしか無いでしょうね。
それまで毎日のように走っている車両を最後にしか撮りに行かないというのは虫が良すぎるでしょう。
そしてその最後の日に邪魔なものを排除するというのはおかしな論理です。
その車両に強い愛着を持っている人間は少なくとも瞬間的に盛り上がるような人間ではなくそれを運転する人間であったりするでしょうからね。
そのような別れに水を差す様な暴言というのは考えられないな~..................
実際に接している時間というのが最も重要で大切な時間であると思うんですよね。
現役という意義はこの辺りにあるのでしょう。
いつまでも同じ状態で接し続けられるものというのは皆無と言ってもいいのではないでしょうか。
人間の体も8年で中身がほとんどそっくり入れ替わると言われています。
日々人間の思考もParadigm ShiftやInnovationにより新たにされ視点が変わったり価値観が変わったりしていきます。
このようなことを踏まえて考察すると見ることが出来たという事実、邪魔なモノが入っていようとも撮れたという事実を喜ぶべきだと思えてきますね。
Best Shotというのは撮り続けていなければ発現しません。
これは紛れもない事実です。
最終日に乗りに行くというのも日常生活の中でそれが一部となっている人間からすると迷惑になるでしょう。
そこに継続性が無いモノには発言権というのは発生しにくいとも取ることが出来るでしょう。
「なんちゃって」が何事も増えてきている昨今ですがね。
確かに形から入るというのは間違いではなく王道中の王道です。
しかしこれは少なくともMannerの上に成り立っていて初めて一端の人間と見られるということはどの世界でもあるでしょう。
初心者だからと言って馬鹿にされるのではなく、MoralなりMannerが悪いからこそ批判されるということを認識していないんですよね。
物事を行う上でまず最初にするべきことはその世界での礼儀なりMannerを知ることから始めねばならないでしょう。
築地の市場に外国人が入ってくるのが問題になっていますが、これは礼儀もMannerも知らないからこそ働いている人間の怒りを買うという応報を招いているわけです。
応報というのは全体ではなく、一部の悪質な人間によってもたらされるということを理解せねばならないでしょうね。
例え99人がとても礼儀が良くてもただ1人の失礼ゆえに悪い印象を与えてしまうというわけです。
人間の印象というのは悪い方が良く残ります。
これは心理的に仕方が無いことなのですがね。
誠心誠意99人が対応しても失礼な人間一人を無くすことが出来なければその集団は悪だとされる傾向はあります。
確かに教育上では平等でなければならないという概念を施されますがね。
人間というのは結局は本音と建前であれば「本音」の方を重要視するものです。
好みで見てはならない
偏見で見てはならない
第一印象で判断してはならない
という教育を受けても人間はIdentityがあります。
もしこれらを評価の対象から外すならば己のIdentityをすべて否定するということに成ります。
Identityというのは「人間そのもの」であると言ってもいいぐらいのものです。
それを否定するということは人格障害を起こしますからな。
上記のことを主張する人間は根本的に間違っているように思います。
これは結婚などを考えるとより重要だと分かるでしょうね。
「人を好きになる」
というのは全く同じではありません。
人によっては嫌いな人間もいる人間をす気になるのですから、明確に「自分の好き嫌い」で判断するということでしょう。
これを否定するようなものですからね。
少し書きたいことと外れましたのでまた別の内容の記事を書かねばなりますまい。
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