とりあえず、人の目の届く範囲で、倒れてはいない。
でも、それが本当に倒れていないという結論にはつながらない。
「外を探してくる」
栗栖氏が立ち上がった。上着を着た。
「歩いて行くの?」
「自転車で」
メインストリートにはもういないのは分かってる。裏道を探してみる、と言った。
「気をつけてね」
「うん」
「いなくても、1時間したら戻ってきて」
「分かった」
携帯電話を胸ポケットにさして、栗栖氏は出かけた。
一人になった家で、私はぽつんとしていた。
静かだった。二人とも死んでしまったらどうしよう、と思った。
事故は突然にやってくる。(ほとんどの)病気のようには時間はかけない。
ちゃんと感謝していただろうか、と考えた。
夕飯の準備をする気分にはなれなかった。
10分ほどたったろうか。
ドアノブをガチャガチャ、といじる音がした。
「ただいま」
ドアが開いた。
義父だった。
「あー遅くなった」
いつものニコニコ顔で、義父は上がってきた。
手には大きなビニール袋が2つ。
「どこ行ってたんですか」
言葉にトゲがないと言ったら嘘になる。でも義父は気付かないみたいだった。楽しそうに、
「これ、やる」
ビニール袋を私に差し出した。
「買ってきたんですか?」
受け取りながら、私はたずねた。たまに彼はスーパーで山ほど買い物をして、おすそわけをくれる。
義父はますます笑みを広げた。
「いいや。パチンコ」
「パチンコ!?」
私は固まった。
「久しぶりだ。3年ぶりだったかなあ。こっちへ来てからは初めてだよ」
「……」
そんな行き先は予想していなかった。長年一緒にいる息子でさえ思いつかなかったのだ。
「あ、これだけもらっていいか?」
「……どうぞ」
義父は景品がつまった袋から、輪ゴムの箱3つを取った。そして夕飯はまだのようだと感じたらしく、自分の部屋に引き上げていった。
2つのビニール袋には、レトルト牛丼9箱、レトルトカレー3箱、白砂糖2袋、カルメ焼き5個、男性用靴下3足、(それと持っていかれた輪ゴム3箱)があった。
私は栗栖氏の携帯に電話して、義父が戻ってきたよと伝えた。
栗栖氏は息をきらしていた。橋の上まで全力でこいで、上りきったところだったそうだ。
その日の夕飯は、温めたレトルト牛丼だった。
義父は「玉が止まらないんだよ」と自慢し、「心配するから、遅くなるなら電話してくれ」と頼む栗栖氏に、困ったように笑った。
「手が離せなくてさ」
私が切り分けたデザートのロールケーキは、義父の分だけ薄かった。
理由は分かると思う。
でも、それが本当に倒れていないという結論にはつながらない。
「外を探してくる」
栗栖氏が立ち上がった。上着を着た。
「歩いて行くの?」
「自転車で」
メインストリートにはもういないのは分かってる。裏道を探してみる、と言った。
「気をつけてね」
「うん」
「いなくても、1時間したら戻ってきて」
「分かった」
携帯電話を胸ポケットにさして、栗栖氏は出かけた。
一人になった家で、私はぽつんとしていた。
静かだった。二人とも死んでしまったらどうしよう、と思った。
事故は突然にやってくる。(ほとんどの)病気のようには時間はかけない。
ちゃんと感謝していただろうか、と考えた。
夕飯の準備をする気分にはなれなかった。
10分ほどたったろうか。
ドアノブをガチャガチャ、といじる音がした。
「ただいま」
ドアが開いた。
義父だった。
「あー遅くなった」
いつものニコニコ顔で、義父は上がってきた。
手には大きなビニール袋が2つ。
「どこ行ってたんですか」
言葉にトゲがないと言ったら嘘になる。でも義父は気付かないみたいだった。楽しそうに、
「これ、やる」
ビニール袋を私に差し出した。
「買ってきたんですか?」
受け取りながら、私はたずねた。たまに彼はスーパーで山ほど買い物をして、おすそわけをくれる。
義父はますます笑みを広げた。
「いいや。パチンコ」
「パチンコ!?」
私は固まった。
「久しぶりだ。3年ぶりだったかなあ。こっちへ来てからは初めてだよ」
「……」
そんな行き先は予想していなかった。長年一緒にいる息子でさえ思いつかなかったのだ。
「あ、これだけもらっていいか?」
「……どうぞ」
義父は景品がつまった袋から、輪ゴムの箱3つを取った。そして夕飯はまだのようだと感じたらしく、自分の部屋に引き上げていった。
2つのビニール袋には、レトルト牛丼9箱、レトルトカレー3箱、白砂糖2袋、カルメ焼き5個、男性用靴下3足、(それと持っていかれた輪ゴム3箱)があった。
私は栗栖氏の携帯に電話して、義父が戻ってきたよと伝えた。
栗栖氏は息をきらしていた。橋の上まで全力でこいで、上りきったところだったそうだ。
その日の夕飯は、温めたレトルト牛丼だった。
義父は「玉が止まらないんだよ」と自慢し、「心配するから、遅くなるなら電話してくれ」と頼む栗栖氏に、困ったように笑った。
「手が離せなくてさ」
私が切り分けたデザートのロールケーキは、義父の分だけ薄かった。
理由は分かると思う。
警察署へ電話するのは、生まれて初めてだった。緊張した。
受付に事情を話すと、生活安全課へ回された。
そこで出た年配の男性に、あちこちに説明したのと同じことをしゃべった。ここがもう最後だった。
「うちの担当じゃないんじゃないの?」
男性がぼやいていた。受話器から口を離しても、よく響く声だった。たらい回しされるかな、と一瞬ヒヤリとした。でも受付はそちらへ転送したのだ。私のせいじゃない。
ぼやきはしたが、男性は調べてくれた。
「誰か、今日身元不明の人を保護したって報告、聞いてます? 救急車に乗せられたとか、そういうの」
男性は受話器を手でおおうとか、保留にするとかをしなかったので、大声で部屋の人に聞いているのが、はっきりこちらの携帯に聞こえた。
だれかが答えているらしく、しばらく無言になった。
義父の思い出が、いくつか頭をかすめていった。お菓子をダブッて買ったこと、暑くてシャツとパンツだけになっている姿、初めて会ったときのこと……
「あー、もしもし」
どうなのだろう、どうなのだろう。
「……はい」
「そういう人は、いないみたいですねえ」
「そうですか……」
たまらずに涙がこぼれた。保護されてないと分かって喜んでいいのか、いまだ行方不明だと悲しんでいいのか、分からなかった。
「もう少し探してみるといいかもしれない。――あと、そちらの地区の交番にも言ったほうがいいですね」
「あ、はい」
「交番からの報告は、ぜんぶうちがまとめてますけどもね。とりあえず今日は、市で身元不明の人の保護はありませんでした」
「分かりました……」
交番だよ、と男性は念を押して、私との電話を終わらせた。
受付に事情を話すと、生活安全課へ回された。
そこで出た年配の男性に、あちこちに説明したのと同じことをしゃべった。ここがもう最後だった。
「うちの担当じゃないんじゃないの?」
男性がぼやいていた。受話器から口を離しても、よく響く声だった。たらい回しされるかな、と一瞬ヒヤリとした。でも受付はそちらへ転送したのだ。私のせいじゃない。
ぼやきはしたが、男性は調べてくれた。
「誰か、今日身元不明の人を保護したって報告、聞いてます? 救急車に乗せられたとか、そういうの」
男性は受話器を手でおおうとか、保留にするとかをしなかったので、大声で部屋の人に聞いているのが、はっきりこちらの携帯に聞こえた。
だれかが答えているらしく、しばらく無言になった。
義父の思い出が、いくつか頭をかすめていった。お菓子をダブッて買ったこと、暑くてシャツとパンツだけになっている姿、初めて会ったときのこと……
「あー、もしもし」
どうなのだろう、どうなのだろう。
「……はい」
「そういう人は、いないみたいですねえ」
「そうですか……」
たまらずに涙がこぼれた。保護されてないと分かって喜んでいいのか、いまだ行方不明だと悲しんでいいのか、分からなかった。
「もう少し探してみるといいかもしれない。――あと、そちらの地区の交番にも言ったほうがいいですね」
「あ、はい」
「交番からの報告は、ぜんぶうちがまとめてますけどもね。とりあえず今日は、市で身元不明の人の保護はありませんでした」
「分かりました……」
交番だよ、と男性は念を押して、私との電話を終わらせた。
私は携帯を取った。
「電話してみる」
「どこへ」
「デパート。倒れた人がいないか、聞いてみる」
栗栖氏は反対しなかった。
最初は、本屋のあるデパートにかけた。
「受付でございます」
受付嬢の美声が耳に明るかった。
「家族がそちらに買い物に行ったのですが、まだ帰ってこないのです。そちらで今日、倒れた人がいたりしなかったでしょうか。あるいは気分が悪くなったような人が」
「少々お待ちください。確認してみます」
声がやや同情をおびた。
保留になり、軽やかな音楽が流れた。私は息をはいた。
カチッと音がして、受付嬢がお待たせしました、と言った。
「本日、ご気分が悪くなったお客様はいらっしゃいませんでした。救急車の要請もございませんでした」
「そうですか……」
栗栖氏はうつむいて畳を見つめていた。
「よろしかったら、館内放送でお呼び出ししてみましょうか」
と受付嬢は提案した。
どの店の店員に声をかけてもこちらに伝わるようにしますので、と彼女は請け合ってくれた。
「それでもいらっしゃらない場合は、また考えてみましょう。服装などの特徴を教えていただいて、警備の方で探してもらうこともできます」
「お願いできますか」
「かしこまりました。放送をかけてみます。いらしても、いらっしゃらなくても、後ほどそちらにご連絡いたしますので、お待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
ありがとうございます、と私は電話を切った。
「さすが大手デパートだな。フォロー体制が万全だ」
栗栖氏は感心した。
近所のショッピングモールにも電話してみた。
こちらは事務所のオジサンみたいな人が出て、館内放送で「自宅に電話するように」とアナウンスしますよ、とだけ言った。
「それで結構です」
私がオジサンと応対している間に、家の電話が鳴った。
栗栖氏が走って受話器を取った。
「はい、はい、はい……そうですか。ありがとうございました」
言葉の調子で、呼び出しに応えた者はいなかったと伝えられているのが分かった。
家の電話は、それきり鳴らなかった。
ショッピングモールの館内放送は、効果がなかった。
どちらにも、義父はいなかった。
「電話してみる」
「どこへ」
「デパート。倒れた人がいないか、聞いてみる」
栗栖氏は反対しなかった。
最初は、本屋のあるデパートにかけた。
「受付でございます」
受付嬢の美声が耳に明るかった。
「家族がそちらに買い物に行ったのですが、まだ帰ってこないのです。そちらで今日、倒れた人がいたりしなかったでしょうか。あるいは気分が悪くなったような人が」
「少々お待ちください。確認してみます」
声がやや同情をおびた。
保留になり、軽やかな音楽が流れた。私は息をはいた。
カチッと音がして、受付嬢がお待たせしました、と言った。
「本日、ご気分が悪くなったお客様はいらっしゃいませんでした。救急車の要請もございませんでした」
「そうですか……」
栗栖氏はうつむいて畳を見つめていた。
「よろしかったら、館内放送でお呼び出ししてみましょうか」
と受付嬢は提案した。
どの店の店員に声をかけてもこちらに伝わるようにしますので、と彼女は請け合ってくれた。
「それでもいらっしゃらない場合は、また考えてみましょう。服装などの特徴を教えていただいて、警備の方で探してもらうこともできます」
「お願いできますか」
「かしこまりました。放送をかけてみます。いらしても、いらっしゃらなくても、後ほどそちらにご連絡いたしますので、お待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
ありがとうございます、と私は電話を切った。
「さすが大手デパートだな。フォロー体制が万全だ」
栗栖氏は感心した。
近所のショッピングモールにも電話してみた。
こちらは事務所のオジサンみたいな人が出て、館内放送で「自宅に電話するように」とアナウンスしますよ、とだけ言った。
「それで結構です」
私がオジサンと応対している間に、家の電話が鳴った。
栗栖氏が走って受話器を取った。
「はい、はい、はい……そうですか。ありがとうございました」
言葉の調子で、呼び出しに応えた者はいなかったと伝えられているのが分かった。
家の電話は、それきり鳴らなかった。
ショッピングモールの館内放送は、効果がなかった。
どちらにも、義父はいなかった。
これでは電話が使えない。
いつから?
「おととい、私、電話に出たわ。その時は使えてた。でも留守電のランプは消えていた」
「夕べかな」
昨夜、栗栖氏は床に置いてあった箱に足をひっかけて、転びそうになっていた。なんとかふみとどまって倒れなかったが。
箱は電話のすぐ下にある。線がぬけたのは、たぶんその時だ。
栗栖氏ははずれていた線を電話にはめ、留守電のボタンをセットした。
「ただいま、電話に出ることができません……」
機械の自動音声が流れた。
録音メッセージは、無かった。
「もし家に電話しようとしてたとしたら……」
しかし不幸な偶然で、線はぬけていた。
「私たちの携帯の番号は知ってるよね?」
「覚えてるのは家の番号だけだ」
私たちは顔を見合わせた。
義父はきっとどこかで倒れたのだ。
周りの人が発見して、うちに電話しようとして、でもつながらなくて今ごろ怒っているだろう。
義父は病院だろうか。
それとも、まだ発見されなくて倒れたままか。
もし意識がなかったら、自宅の電話番号を誰かに伝えることはできない。
もしかしたらすでに冷たくなっているかもしれない。
オヤジ狩りに遭った可能性もある。
嫌な想像ばかりが出てくる。
「いや、オヤジ狩りはないだろう」
栗栖氏が、一瞬だけ笑みらしき表情になった。
「裏道を知らないから、歩かないよ」
そう聞いても、気持ちは晴れなかった。
6時。いよいよ暗くなってきた。
私たちは雨戸を閉めた。いつもは義父がしてくれていた。アルミサッシはガタガタいい、嫌な音をたてた。
いつから?
「おととい、私、電話に出たわ。その時は使えてた。でも留守電のランプは消えていた」
「夕べかな」
昨夜、栗栖氏は床に置いてあった箱に足をひっかけて、転びそうになっていた。なんとかふみとどまって倒れなかったが。
箱は電話のすぐ下にある。線がぬけたのは、たぶんその時だ。
栗栖氏ははずれていた線を電話にはめ、留守電のボタンをセットした。
「ただいま、電話に出ることができません……」
機械の自動音声が流れた。
録音メッセージは、無かった。
「もし家に電話しようとしてたとしたら……」
しかし不幸な偶然で、線はぬけていた。
「私たちの携帯の番号は知ってるよね?」
「覚えてるのは家の番号だけだ」
私たちは顔を見合わせた。
義父はきっとどこかで倒れたのだ。
周りの人が発見して、うちに電話しようとして、でもつながらなくて今ごろ怒っているだろう。
義父は病院だろうか。
それとも、まだ発見されなくて倒れたままか。
もし意識がなかったら、自宅の電話番号を誰かに伝えることはできない。
もしかしたらすでに冷たくなっているかもしれない。
オヤジ狩りに遭った可能性もある。
嫌な想像ばかりが出てくる。
「いや、オヤジ狩りはないだろう」
栗栖氏が、一瞬だけ笑みらしき表情になった。
「裏道を知らないから、歩かないよ」
そう聞いても、気持ちは晴れなかった。
6時。いよいよ暗くなってきた。
私たちは雨戸を閉めた。いつもは義父がしてくれていた。アルミサッシはガタガタいい、嫌な音をたてた。