当時物、本人納品用豊嶋製OJISANタグ付。
二代目タイガーマスク直筆サイン入り。
ゲジケジタイプ、オレンジラメ。
本人の使用・着用の有無は不明。
2代目
1984年8月26日、全日本プロレス田園コロシアム大会で、メキシコ遠征中だった三沢光晴が2代目タイガーマスクとしてラ・フィエラを相手にデビュー。1985年10月、ヘビー級に転向。
1990年5月14日、全日本プロレス東京体育館大会での2代目タイガー&川田利明対谷津嘉章&サムソン冬木戦の試合中に、突如としてパートナーの川田に自身のマスクの紐を外すよう指示し、自らの手でマスクを脱ぎ捨てて試合を続行。奇しくも自らマスクを脱いで最終戦で正体を明かしたアニメ「タイガーマスク二世」と同じ結末を迎えた。
- 得意技
- タイガー・スープレックス'84
- タイガー・スープレックス'85
- スーパー・タイガー・スープレックス
- タイガー・ドライバー
- タイガー・ドライバー'88
- タイガー・ドライバー'91
タイガーマスク(2代目)として活躍
1984年春、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出発した。現地で越中は『サムライ・シロー』、三沢は『カミカゼ・ミサワ』のリングネームで試合に出場していたが、数か月が経ったある日、三沢は馬場から国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクとしてデビュー戦のスケジュールは組まれていた。
同年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向。1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" にジャイアント馬場とタッグを組んで参戦し、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートに勝利したものの、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。4月20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。
タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。これでは、三沢が本来目指すプロレスを前面に出せないことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦して天龍源一郎とタッグを組み、長州力&ジョージ高野組と対戦。同年4月13日には日米レスリングサミットに出場し、ブレット・ハートとシングルマッチで対戦している。
全日本プロレス中継の実況アナウンサーだった倉持隆夫は、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している。タイガーマスクとなった三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた。
なお、全日本では「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス'84」といった具合に開発年がついている。ちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際に記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。
Wikipediaより