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私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。 どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しくテレビ局へ応募
タイガーマスクの四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの元愛読者の彼

【売却済】 アントニオ猪木 本人使用 闘魂タオル

2018年11月04日 00時56分43秒 | プロレスグッズ

闘魂タオル 本人使用済み。

昭和62年(1987年)8月19日 新日プロ「サマー・ナイト・フィーバー・イン国技館」両国国技館 アントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明、星野勘太郎、武藤敬司対藤波辰巳、長州力、前田日明、木村健吾、スーパーストロング・マシンで使用され、リングから観客席に投げたもの。

アントニオ 猪木(アントニオ いのき、: Antonio Inoki, 1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー実業家政治家日本を元気にする会所属の参議院議員(2期)、日本を元気にする会代表。本名:旧リングネーム:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」(当初は「燃ゆる闘魂」)。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。元妻は、女優倍賞美津子。倍賞との間に娘が一人いる。1991年イラクシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン

プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。

新日本プロレス設立

日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンスタン・ハンセンハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

異種格闘技戦

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビア亡命したため、結局対戦は実現しなかった。

Wikipediaより

 

 

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【売却済】 UWA世界ヘビー級チャンピオンベルト 本人使用 本物

2018年11月04日 00時56分41秒 | プロレスグッズ

メキシコ製メーカー不明 第11代・第15代・第23代王者ドスカラスが所有していた本物

全長約1,210mm。

重量約2.8kg。

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無

ユニバーサル・レスリング・アソシエーション

ユニバーサル・レスリング・アソシエーションUniversal Wrestling Association)は、メキシコプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称であり本国メキシコではルチャ・リブレ・インターナショナルLucha Libre Internaciónal)で呼ばれることが多い。略称はLLI

歴史

1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサフランシスコ・フローレスベンジャミン・モーラらによって設立されて1月29日パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げしたナウカルパンエル・トレオを拠点にしていた。

日本では新日本プロレスユニバーサル・プロレスリング全日本女子プロレスジャパン女子プロレスアメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり日本とアメリカの選手が参戦。

旗揚げ当初はEMLL(現:CMLL)から人気選手のアニバルドクトル・ワグナーらを大量に引き抜いて一時はメキシコマット界で大人気を誇ったが、その引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより世代交代が充分に行えず、その後メキシコ国内で禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ずEMLLに大きく遅れをとることになってしまう。

1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷して1994年、社運をかけてAAAと対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになり1995年、ほぼすべての選手がAAAに移籍する大事件が起こり一気に弱小プロモーション団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けたが1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり身の代金を工面するためアレナ・メッサを売却することとなり常設会場を失い約22年の歴史に幕を下ろした。現在、UWA王座は日本とメキシコで定着しておりUWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。

2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた。

UWA世界ヘビー級王座

UWA世界ヘビー級王座は、UWAが管理していた王座である。

1977年、メキシコのLLIが創設。1975年、LLI旗揚げ戦でミル・マスカラスと引き分け試合を演じたルー・テーズを初代王座に認定。

LLIが新日本プロレスと友好関係にあった時代にはアントニオ猪木らも王座を奪取しており新日本の興行でも選手権試合が行われていた。

1995年、LLI解散後は王座のみ存続がしてCMLL管理下で選手権試合が行われていたがドクトル・ワグナー・ジュニアが王座を保持したままCMLLからAAAに移籍して長きに渡り防衛戦を行っている。

Wikipediaより

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【売却済】 UWA世界ミドル級チャンピオンベルト 本人使用 本物

2018年11月04日 00時56分40秒 | プロレスグッズ

 

イグナシオ・キンタナ製 第2代・第7代・第10代王者グラン浜田が所有していた本物

全長約1,050mm。

重量約0.8kg。

ストラップベルベット素材。

収納袋無。

刻印無

 

UWA世界ミドル級王座

UWA世界ミドル級王座は、UWAが管理していた王座である。

歴史

1975年、メキシコのLLIが創設。LLI解散後も王座のみ存続してWAR格闘探偵団バトラーツ新日本プロレスを渡り2002年、PABLOKAIENTAI DOJOに持ち込んでからはK-DOJO管理下に置かれている。

グラン浜田(グランはまだ、1950年11月27日 - )は、日本男性プロレスラー。本名は濱田 廣秋(はまだ ひろあき)。群馬県前橋市出身。身長167cm、体重90kg。その軽量な体を生かしてルチャリブレを活動の中心としている。また最も著名な日本人ルチャドールの1人とされ、日本およびメキシコにおいて顕著な活躍を残している。

娘のソチ浜田浜田文子もプロレスラーである(正確には、ソチ浜田は夫人の連れ子であり、浜田文子とは異父姉妹となる)。

身長も小さく、ルチャでの活躍とスタイルからシュート系の強さと無縁と思われがちだが、浜田自身は柔道ミュンヘンオリンピック候補選手であり、その気の強さも相まって昭和新日本プロレスの中でも有数の猛者であった。治安の悪いメキシコで成功した理由に、プロレスセンスの良さとシュートの強さが比例していた背景がある。

 

来歴

樹徳高校中央大学河合楽器製作所において柔道の選手として活動。1972年、友人の関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入団志願に向かう際に付き添いで同行し、関川とともに柔道での実績を買われて浜田も入団することとなる。

1972年3月6日大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目ともいわれた(190cm以上のキラー・カーンにも勝っている)。若手時代のちゃんこ番の際にカツ丼ラーメンなど出前をとった。

1975年メキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコでは、LLIを中心に活動し、1976年にはLLI参戦の最優秀外国人にも選ばれている。メキシコでのプロレス修行は1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。この時期既にメキシコに家族を持っていた浜田は、1995年まで日本とメキシコを往復する生活となる。メキシコに行った当時はスペイン語が喋れない、水質が悪い等、日常生活でも苦労したが、努力によりトップに立ち、4階級制覇という偉業を達成した。この浜田の活躍により日本とメキシコのルートができ、日本にルチャリブレが輸入され、現在に至る。

1980年代初頭、初代タイガーマスクの候補として名前が挙がりかけたが、新間寿によると「あいつはガニマタだからすぐにばれる」と実現には至らなかった。

1984年4月に第一次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。1986年ジャパン女子プロレスコーチに就任とともに、一時現役を引退する。1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生。その際に、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰する。

1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。1992年11月27日ザ・グレート・サスケみちのくプロレスを旗揚げした際に、浜田のみがユニバーサル・プロレスリングに残った。所属選手の大半がいなくなったユニバーサル・プロレスリングはその後FULLと改名したが自然消滅。浜田自身も1994年8月から古巣の新日本プロレスに登場するようになる。ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍の動きは、柔道経験者として似た経歴を持っていることから若手時代に目をかけてくれて、メキシコへの道を開いてくれた新間寿に対する義理を優先したものとされ、浜田自身、プロレス雑誌等でそのことを公言していた。

1995年、みちのくプロレスに入団。みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグでの試合が実現している。また2000年11月25日には、娘の浜田文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの旦那のペンタゴン組とのタッグ戦も実現している。

2001年にフリーとなり、再度新日本プロレスに登場。また大阪プロレスなど多くの団体にも出場するようになり、全日本プロレスではラブマシンズの一員として「リトル・ラブ・マシン」のリングネームで活動した。

2006年娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場した。入場曲とコスチュームは天才バカボン

2007年には久々にメキシコマットに登場、ペンタゴンとの遺恨を復活させた。同時に文子とのタッグも結成。

日本では、藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦している(所属選手と共にチケットに並んで似顔絵が描かれているほど)他、2008年にはアイスリボンにも不定期参戦。

2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利した。

2009年4月15日、大阪でプロレス団体「MWF(メキシコ・レスリング・フェデレーション)」の旗揚げ戦を開催。

2011年11月27日、DDTプロレスリング後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定。

2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。セミファイナルで華名とシングルマッチを行い、勝利。

2017年、キラー・カーンとの対談で前立腺癌の手術をしたことを明かした。

 

Wikipediaより

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【売却済】 CMLL世界ヘビー級チャンピオンベルト 本人使用 本物

2018年11月04日 00時56分39秒 | プロレスグッズ

メキシコ製メーカー不明 第14代王者ドスカラス・ジュニアが所有していた本物

全長約1,170mm。

重量約3.6kg。

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無

CMLL

CMLLConsejo Mundial de Lucha Libre)は、メキシコプロレス団体

概要

CMLLの活動中心はメキシコシティアレナ・メヒコでの定期興行が有名である。かつてはEMLLEmpresa Mexicana de la Lucha Libre)と呼ばれていた。今日現存するプロレス団体において世界最古の歴史を持つことが特徴である。

1933年、EMLLとして設立。9月21日、アレナ・メヒコにて興行が開催されたのが団体の興りである。旗揚げ戦にはヤキ・ジョージ、ボビー・サンプソン、シクロン・マケイ、レオン・チン・アチウが参加。しばらくはアメリカから選手を呼び寄せて興行を行っていたが地元選手の育成が急務と判断したサルバドールは柔術の心得のある友人のゴンザレス・アベンダーニョ・アギーラルを呼び寄せてアレナ・メヒコでルチャリブレ教室を開校して、これが後のルチャリブレの基盤となっているという。

1931年サルバトール・ルタ・ゴンザレスがアメリカとメキシコの国境にあるエルパソでプロレス興行を見たことからメキシコでのプロレス興行を企画してメキシコシティの廃墟同然のボクシング会場「アレナ・モデロ」と賃貸契約を結び会場を修復して会場名を「アレナ・メヒコ」に変更。

1934年、アベンターニョの教え子たちがデビューして純国産のルチャドールが誕生。ほどなく観衆は増えて500人ほどのキャパシティしかない初代アレナ・メヒコは手狭でボクシング会場「アレナ・ナショナル」や闘牛会場「レオ・デ・コンデザ」にも進出している。

1940年、後にWWWA世界女子王座の創設者であるミル・レッドバーグも来墨している。

1938年、サルバドールが個人的に買った宝くじに当選して、その当選金を自社所有会場の建設に着手。

1943年、自社所有会場「アレナ・コリセオ」が完成。

1954年10月、アレナ・メヒコの改築工事にも着手(1956年に完成)。この時期にタルサン・ロペスが台頭すると1942年にデビューしたエル・サントを始め、カベルナリオ・ガリントゴリー・ゲレロブルー・デモンブラック・シャドーなども台頭して1940年代から1950年代にかけて最初の黄金期を迎えることとなる[1]。この頃はメキシコにはEMLL(CMLL)しか団体が存在しなかったため、ルチャリブレといえばEMLL、EMLLといえばアレナ・メヒコであったため、大衆からはルチャリブレやEMLLではなく「アレナ・メヒコ」と呼ばれることが普通だった。また、同時期にはNWAにも属してNWA加盟時に管理、運営を任されていたNWA王座のライトヘビー級王座、ミドル級王座、ウエルター級王座を一任された。

1975年UWAが旗揚げされてEMLLの独裁状態に嫌気が差した選手達が大量離脱したため、大打撃を受けた。1980年代はUWAの影に隠れるような停滞期に突入していた。

1990年、メキシコでは禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁となり、地元テレビ局テレビサによるEMLLの中継番組の放送が開始された[1]。テレビ放送開始にあわせて企画部長のアントニオ・ペーニャによってマスカラ・サクラダミステリオッソボラドールなどの新キャラクターが誕生して入場演出を豪華にするなど改革を行い、ルチャリブレはテレビを通して爆発的なブームとなった。同年、CMLL女子部を立ち上げた。

1992年、アントニオ・ペーニャが独立してAAAを設立して業界のトップに躍進。しばらくはアレナ・メヒコの集客が閑古鳥が鳴くほど悲惨な状態となるがテレビ中継による放映権料と自前の会場による最低限の経費でこの危機を乗り切り、1995年、AAAを離脱したルードにターンしたエル・イホ・デル・サントを獲得してネグロ・カサスの抗争で人気を博した。

2005年ミスティコ(初代)がデビューし大人気となり、ドクトル・ワグナー・ジュニアらを加えたメンバーにより団体は人気を取り戻してアレナ・メヒコに大観衆が詰めかけるようになった[1]。そして、この頃に団体名をCMLLに統一。

現在の社長はゴンザレスの孫であるパコ・アロンソ1980年に就任。

CMLL世界ヘビー級王座

CMLL世界ヘビー級王座は、メキシコプロレス団体であるCMLLが管理する王座である。

Wikipediaより

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【売却済】 レジー・パークス製 NWA認定世界ヘビー級チャンピオンベルト Ten Pounds of Gold 直筆サイン入 

2018年11月04日 00時56分38秒 | プロレスグッズ

メーカー名 レジー・パークス(刻印有)

仕様

• ベルト部分:本革(編み込み)、第51代NWA世界ヘビー級チャンピオン テリーファンク直筆サイン入、

• プレート部分: ネームプレート有

• サイズ: 約 121 cm 
• 重量:約2.2 kg

テリー・ファンク

テリー・ファンクTerry Funk、本名:Terrence Funk1944年6月30日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーインディアナ州ハモンド出身、テキサス州アマリロ育ち。

第51代NWA世界ヘビー級王者。実兄のドリー・ファンク・ジュニアとのタッグチームザ・ファンクス」でも活躍し、日本でも人気を博した。日本では「テキサス・ブロンコ」、「テキサスの荒馬」などの異名を持つ。

俳優として活動していたこともある。

来歴

プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共にレスリングの英才教育を受けながら育つ。ウエスト・テキサス州立大学アメリカンフットボール選手として活動後、1965年にプロレスラーとしてデビュー。父がプロモートしていたテキサス州アマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)にてキャリアを積んだ。

1970年6月、日本プロレスに初来日。1971年12月7日、ドリーとのザ・ファンクスジャイアント馬場&アントニオ猪木BI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加、以降、全日本プロレスの看板外国人選手となって活躍した。

アメリカでは、1973年2月10日にジョニー・バレンタインからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取[1]1975年12月10日にはジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった。以降、各地で防衛戦を続けたが1977年2月6日、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座陥落[2]

1977年12月に全日本プロレスで開催された世界オープンタッグ選手権にはドリーとのザ・ファンクスで出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの史上最凶悪コンビを退けて優勝。以降、1979年1982年世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝を果たした。

日本において絶大なベビーフェイス人気を博していた同時期、本国アメリカではレッドネックのワイルドさを強調したラフファイト主体のヒールとして活躍。ロサンゼルスではチャボ・ゲレロフロリダではダスティ・ローデステネシーではジェリー・ローラーサンアントニオではワフー・マクダニエルなど、各地のヒーローと流血の抗争を繰り広げ、業界誌の不人気部門(すなわち悪党人気部門)では常に上位にランキングされていた

日本での活躍

テリー・ファンクは1970年代後半から1980年代前半にかけて、日本のプロレス界で最も成功した外国人レスラーの一人である。1977年の「世界オープンタッグ選手権」決勝戦において、凶器攻撃を繰り返すアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの最凶悪コンビに「テキサス魂」で真っ向勝負を挑む姿に、男女を問わず熱狂的なファンが付き親衛隊も生まれた。

大成功を収めた「世界オープンタッグ選手権」は、年末の興行は不振とされていた日本のプロレス界の定説を覆し、以降「世界最強タッグ決定リーグ戦」へと発展して全日本プロレスの看板シリーズとなった。日本では絶対的なベビーフェイスとして認識されているが、上記の通りアメリカでは地元のアマリロ地区以外では主にヒールとして活動していた。

ブッカーとしても敏腕で、1981年にはスタン・ハンセン新日本プロレスから全日本プロレスへの引き抜きにも成功した。同様にハルク・ホーガンとも契約書を交わすまで至ったが、ホーガンがこれを新日本に提示しギャラの上乗せを要求したため、ホテルでホーガンを殴ったとジャイアント馬場は語っている。しかし、テリー本人は自著などで暴行に関しては否定している。

なお、一度目の引退を発表したのは1980年で、突如「私の膝は皆が思っている以上に状態が良くない。動ける内に身を退きたいので、3年後の誕生日に引退する」と発言し、ファン、そしてプロレスマスコミを驚かせた。1983年の引退試合の前に来日したグランド・チャンピオン・カーニバルIIIには「テリー・ファンクさよならシリーズ」と副題がついていた。

NWA世界ヘビー級王座

NWA世界ヘビー級王座(NWAせかいヘビーきゅうおうざ)はプロレスのチャンピオンシップである。NWA(National Wrestling Alliance)本部の直轄するベルトで、1980年代末にNWAが衰退するまでは、世界最高峰といわれたタイトルである。

概要

1948年に設立された、新NWA(アライアンス)の初代王座にはオーヴィル・ブラウンがついた。1949年にブラウンと旧NWA(アソシエーション)の世界王者のルー・テーズによるタイトルマッチが行われるはずであったが、ブラウンが交通事故に遭い引退したため、テーズが第2代王者の認定を受けることとなった。

その後、新NWAはこの世界王座を正当化するためにフランク・ゴッチを初代王者とし、2代目以降は適当に過去の団体の王者をつぎはぎしてルー・テーズに至る系譜をつくりあげた。そしてルー・テーズは第38代王者として認定を受けた。以後はここからNWA世界王者の代数をカウントしていくこととなる

NWA世界ヘビー級王座は、ルー・テーズやジン・キニスキードリー・ファンク・ジュニアハーリー・レイスなどの実力あるレスラーたちの功績により、1980年代前半まで世界最高峰のベルトとして広く認知されるに至った。このタイトルを手にした者は全米各地(時には日本を初めとする海外)のNWA会員のプロモーターのテリトリーを転戦し、その地区のローカルチャンピオンと防衛戦を行わなければならず、かなりの体力と精神力が要求された。ただし、NWA王座は反則リングアウトによる勝ち/負けでは移動せず、またオーバー・ザ・トップロープは反則というルールが存在したため、それを利用してベルトの防衛を行うこともできた。

NWA王者は各地のスターレスラーと防衛戦を行う仕組みになっているため、実力差を見せつけるような試合はせず、苦戦しながらの辛勝や引き分け・反則負けなどで防衛を重ねていく。そこで、インサイドワークに長けたテクニシャンタイプが多く、反則防衛を多用するヒール(悪役)タイプのレスラーも少なくない。

NWA世界ヘビー級王座ベルトを獲得した日本人レスラーはこれまでに何人もいるが、NWA黄金期にこのタイトルを獲得したレスラーは、ジャイアント馬場(3度獲得)ただ一人である。ただし、いずれも戴冠期間は1週間以内で、NWA王者(ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス)の来日期間中にいわば一時的に王座を貸与されていたものであり、いずれも前王者との再戦・再々戦でベルトを奪還されている。

1980年代末、WWFの全米進出によってテリトリー制が崩壊し、NWA末期における最大の団体であったジム・クロケット・プロモーションズテッド・ターナーに買収されてWCWが台頭した後は、NWA王座は実質的にWCWが管理するようになり、その際はWCWの管理する一王座という扱いであった。そのため、その権威は大きく下がり、さらにWCWのNWA離脱と共にスター選手もNWAから離れたため、権威は更に大きく下落した。1990年代後半から2000年代初頭にかけてはインディー団体の一王座にまで権威は低下した。

2002年に入り、NWAとの業務提携によりTNAが王座を管理する権利を獲得(管理する期間は2014年まで)。以降実質的にTNAの王座となっていたが、2007年5月業務提携終了によりベルトの管理権を剥奪された

以降はROHなどアメリカのインディー団体や、メキシコのCMLLでタイトル戦が行われている。2008年10月25日にはブルー・デモン・ジュニアがメキシコ人レスラー、覆面レスラーとして初のNWA世界ヘビー級王者となっている。2013年よりNWAから新日本プロレスへ挑戦表明がなされ、新日本プロレスのビッグマッチでもタイトル戦が行われるようになった。2014年1月4日東京ドーム大会で小島聡が、日本人としては橋本真也以来の王座に輝いた。

また、WWE世界ヘビー級王座は元々WCW世界ヘビー級王座を復活させたものであるが、WCWの番組内でWCWとNWAの両王座が統合された経緯を根拠に同一のものと主張、あるいは意図的に混同し、NWA、WCW、WWEに至る世界王座のDVDを販売している

ベルトの改変

NWAが公式に初代ベルトとするものはルー・テーズが第2代王者に認定された際に持っていた物で、このベルト自体は1921年から使用されていた。1960年、長年の功績をたたえテーズに贈呈された後、UWFインターナショナルのプロレスリング世界ヘビー級王座に使用され、テーズも最高顧問に就任。

初代が贈呈された後、黒革の2代目ベルトが作成された。

3代目はハーリー・レイスが初めて王座奪取した1973年に角ばったデザインの物を作成。馬場が三度奪取した際のベルトはこのデザインのものである。このベルトは一時小橋建太に貸与されていた。

4代目は1986年にリック・フレアーが5度目の戴冠を果たした際に黄金に輝くベルトを作成。「ビッグ・ゴールド」(en:Big Gold Belt)、また「フレアー・モデル」と呼ばれる。このベルトはWCWでもそのまま使用され、NWA離脱後もWCW世界ヘビー級王座(のちにWWE世界ヘビー級王座)のベルトとなった。

そしてNWAがインディー系組織として再始動すると、レイス時代のものを復刻し現在に至る。

Wikipediaより

 

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【売却済】 ディヴ・ミリガン製 WWF世界タッグチャンピオンベルト レプリカ

2018年11月04日 00時56分37秒 | プロレスグッズ

ディヴ・ミリガン製。

全長約1,260mm。

重量約2.6kg。

ストラップ本革。

収納袋有。

刻印有。

WWE・世界タッグチーム王座

WWE世界タッグチーム王座(World Tag-Team Championship)は、アメリカ合衆国プロレス団体WWEにおけるタッグ王座である。
 

王座創設は1971年6月3日。ルイジアナ州ニューオーリンズで行われたとされる架空のトーナメント決勝戦において[1]ディック・ザ・ブルーザー&ザ・シークを破り優勝したとして、ターザン・タイラー&ルーク・グラハムが初代王者チームに認定される[2]。創設当時の名称は「WWWF世界タッグ王座」で、その後「WWFタッグ王座」、「WWF世界タッグ王座」、「WWE世界タッグ王座」と変遷し、WCWとの統合によるWCW世界タッグ王座との統一を経て2002年RAWスマックダウンのブランド分割以降は「世界タッグ王座」としてRAWにて管理されていた。

2009年4月5日のレッスルマニアXXVにて、WWEタッグ王座(スマックダウン管理)の王者チームだったカリート&プリモ・コロンジョン・モリソン&ザ・ミズを破り、RAWとスマックダウンの両タッグ王座を統一。以後、WWE統一タッグ王座として、本王座が封印される2010年8月16日まで認定されていた。

Wikipediaより

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【売却済】 YN製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分36秒 | マスクコレクション

本人使用

①平成16年(2004年)3月19日 サムライTV「生でGONG!×2」出演時着用
②平成16年(2004年)4月11日 BBMタイガーマスクカードセット「LEGEND OF TIGER」発売記念イベント時着用
③宝島社発行「80年代の小学生大百科」取材時着用
④講談社発行「週刊現代」取材時着用(佐山聡VS前田日明 20年ぶりの遺恨試合)
証明書、タグ付き、直筆サイン入り(ザ・マスク・オブ・タイガーと初代タイガーマスクの二ヶ所)、着用写真付き。

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【売却済】 ファーストタイガー製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分36秒 | マスクコレクション

ファーストタイガー製 本人使用済みです。
平成16年(2004年)10月24日 「ウルティモ・ドラゴン The Final Challenge」後楽園ホール 初代タイガーマスク、三代目タイガーマスク、四代目タイガーマスク組対獣神サンダー・ライガー 、ウルティモ・ドラゴン、ザ・グレートサスケ組戦でオーバーマスクとして本人使用
直筆サイン入り(ザ・マスク・オブ・タイガーと初代タイガーマスクと二ヶ所)。






 

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【売却済】 YN製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分35秒 | マスクコレクション

本人使用

2005年9月9日 dragondoor『Los Conquistandores』の試合にて使用(東京・後楽園ホール 初代タイガーマスク、グラン浜田組 VS ロス・プラソス オロ、ロス・プラソス プラタ組)。

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【売却済】 ファーストタイガー製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分34秒 | マスクコレクション

本人使用

2004年11月15日『12.5藤原祭り2004』記者会及び練習・同年9月とちぎテレビ『イブニング6』出演時にて使用。

証明書、ザ・マスク・オブ・タイガー&サミー・リー&タイガーマスクのトリプルサイン入。

他にラジオ番組出演や他の記者会見等、約半年間、多数使用されています。

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【売却済】 YN製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分33秒 | マスクコレクション

本人使用

2004年8月17日、東京ロフトプラスワン 新約武士道発表講演にて本人使用。

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【売却済】 YN製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分32秒 | マスクコレクション

本人使用

2005年11月16日 リアルジャパンプロレス『12.16レジェンド・チャンピオンシップ』記者会見にて使用。

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【売却済】 YN製 初代タイガーマスク 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分31秒 | マスクコレクション

本人使用

2015年3月1日(日) 第一交通産業グループPRESENTS 北九州ば元気にするバイ!'15

北九州芸術劇場 大ホール 初代タイガーマスク、筑前りょう太、ビリーケン・キッド組対阿蘇山、桜島なおき、藤田ミノルで本人使用。

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【売却済】 YN製 ザ・マスク・オブ・タイガー(初代タイガーマスク) 本人使用 直筆サイン入

2018年11月04日 00時56分30秒 | マスクコレクション
YN製 本人使用済みです。
➀平成15年(2003年)5月30日 映画「すてごろ」公開記念イベント出演時着用。
② 「紙のプロレスRADICAL №63」取材時着用。
③ 「チェアウォーカーWaWaWa 2003 Vol.14」 取材時着用。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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【売却済】 YN製 サミー・リー(初代タイガーマスク) 本人使用 直筆サイン入 

2018年11月04日 00時56分29秒 | マスクコレクション
YN製 本人使用済みです。
平成17年(2005年)1月27日リアルジャパンプロレス 『レジェンド チャンピオンシップ トーナメント』
第1回戦 対アレクサンダー大塚戦での入場時に本人使用。
証明書、直筆サイン入り(初代タイガーマスクと日付、場所)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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