ティファナ製 カレンダリオ・アステカモデル 本人着用済みです。
着用写真、直筆サイン入り。
本人が着用した明確な日時、場所等は不明です。
エル・シコデリコ(El Sicodélico)のリングネームで知られるパブロ・ロドリゲス(Pablo Rodríguez、1940年 - )は、メキシコの元プロレスラー。
ミル・マスカラスの実弟、ドス・カラスの実兄であり、彼らと同じくテクニコの覆面レスラーとして活動したが、キャリア晩年はルードに転じた。長男のイホ・デル・シコデリコと次男のシコデリコ・ジュニアもプロレスラーである。
来歴
兄アロン・ロドリゲス(ミル・マスカラス)の影響で少年時代からボディビルに打ち込み、ディアブロ・ベラスコのジムでトレーニングを積んだ後、1968年にハリスコ州グアダラハラでデビュー。ボディビルで鍛え上げた肉体を武器に、アルゼンチン・バックブリーカーなどの力技を用いるヘビー級のパワーファイターとしてキャリアを積んだ。
1971年6月、マスカラスが主戦場としていたアメリカ西海岸のロサンゼルス地区に登場。マスカラスとの兄弟コンビでキンジ渋谷&マサ斎藤のNWAアメリカス・タッグ王座に挑戦し、マスカラスの抗争相手だったジョン・トロスとも対戦した。同年末、日本プロレスに来日し、ボボ・ブラジル、ザ・ストンパー、ジン・アンダーソンらと共に、年明け1972年1月の『新春チャンピオン・シリーズ』に参戦。「ミル・マスカラスの弟」として注目を集めたが、キャリア不足を露呈し戦績は芳しくなく、期待を裏切る結果となった。
以後、メキシコのEMLLを主戦場にしつつ、1973年からはアメリカ南部にも遠征。ジョージアではパンテラ・ネグラをパートナーに、ボブ・アームストロング、シャチ横内、ターザン・タイラー、ブッチャー・ブラニガンらとタッグマッチで対戦。2月27日に行われたジョージア・チャンピオンシップ・レスリング認定のNWAメイコン・タッグ王座決定トーナメントには、ビクター・リベラと組んで出場した。フロリダではロベルト・ソトとのコンビで活動し、クリス・マルコフともシングルマッチで対戦している。テキサス州サンアントニオでは再びマスカラスのパートナーとなり、ロサンゼルスでも抗争したエル・ゴリアス&ブラック・ゴードマンのインターナショナル・タッグ王座に挑戦するも、ここでも戴冠を果たすことはなかった。
その間にはロサンゼルスに居住し、宿敵ゴードマンの夫人の妹と結婚して2児(イホ・デル・シコデリコ、シコデリコ・ジュニア)をもうけ、1970年代後半にアメリカ合衆国のグリーンカードを取得、セミリタイアしてアイスクリーム・ショップを開業した。試合にも時折出場し、1980年にはテキサス州ヒューストンでのWCCWの興行にて、ジノ・ヘルナンデスやキラー・ブルックスと対戦している。
事業から撤退後、1984年にプエルトリコにて復帰、以降はメキシコシティに戻り、1986年は弟のドス・カラスとタッグを組んで活動、マスカラスを加えたトリオでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロ、エル・ブラソ、ブラソ・デ・プラタ)との3兄弟抗争も行われた。
1989年、ティフアナのWWAにてサンドカン&カオスをパートナーに世界トリオ王座を獲得[1][14]。1992年にはAAAの旗揚げに参加、当初はテクニコのポジションだったが、エース格のコナンと仲間割れしてルードに転向。以降、コナンとの抗争アングルが組まれマスカラ・コントラ・カベジェラも予定されていたが、競合団体EMLLの妨害でショーは中止となり、彼自身もAAAを解雇された。
当時の彼は体重が125kgにまで増加しており、その後も現役を続けるも古傷の右膝を悪化させ、1996年に引退した。近年はアメリカのサンアントニオに定住し、中古車販売業に携わっている。
Wikipediaより
セルヒオカサス製 本人使用済みです。
平成19年(2007年)9月28日 メキシコ・アレナロペスマテオス ドスカラスjr.、リスマルクjr.組vsブルーパンテル、ペロアグアーヨjr組戦で本人使用。
着用写真、直筆サイン入り。
アルベルト・ロドリゲス(Jose Alberto Rodríguez、1977年5月25日 - )はメキシコのプロレスラー。サン・ルイス・ポトシ出身[1]。現在はアルベルト・エル・パトロン(Alberto El Patron)のリングネームでGFWに所属。
父は飛鳥仮面のニックネームで知られるドス・カラス。弟はWWE傘下のNXTに所属した経験があり、現在はIWRGなどのメキシコのインディー団体で活動しているエル・イホ・デ・ドス・カラス。伯父にミル・マスカラスとエル・シコデリコ、従兄弟にシコデリコ・ジュニアがいる。
来歴
プロレス
キャリア初期
14歳でレスリングを始め、体格に恵まれていたこともあり強豪として活躍し、2000年にはシドニーオリンピックのメキシコ代表に選ばれた。同年よりプロレスラーとなるために父であるドス・カラスの下でトレーニングを開始し、5月9日にメキシコのメジャー団体であるAAAにてドス・カラスがピラタ・モルガンとエル・テハノに襲撃されているところを登場して救出し、ドス・カラス・ジュニア(Dos Caras Jr.)としてデビューを飾った。
プロレスラーとしてのキャリアが間もないながらも2000年9月29日にはPPVであるVerano De Escandalo 2000に出場し、エル・アリブリヘ & ラ・パルカ & サングレ・チカナと組んでエル・コバルデ2号 & エル・テハノ & エスペクトロ・ジュニア & ピラタ・モルガンと8人制タッグマッチを行い勝利した。
2001年1月21日、ドス・カラスとタッグを組んでメキシコナショナルタッグ王座を保持し、因縁の相手でもあるエル・テハノ & ピラタ・モルガンにキャリア初のタイトルマッチを行うが敗戦した。10月14日、格闘探偵団バトラーツの格闘ロマン2001 〜YUKI-BOM-BA-YA〜にて村上和成に4分23秒、反則勝ち。
2002年11月17日、K-1、ドリームステージエンターテインメント、全日本プロレス共催のイベントであるWRESTLE-1に参戦。仮面貴族の隠し兵器であるサム・グレカラスと組んでカズ・ハヤシ & 太陽ケアと対戦し、ダブル・フライング・クロスチョップを繰り出すなど観客を盛り立てて勝利した。12月15日、ZERO-ONEに参戦し、同じ2世レスラーであるジミー・スヌーカ・ジュニアと組んで横井宏考 & 佐藤耕平と対戦して勝利。
2003年7月、ZERO-ONEに再び参戦。リスマルク・ジュニアと組んでOH祭タッグトーナメントに出場。同月13日、2回戦で小川直也 & 藤井克久と対戦するが敗戦した。
2004年1月4日、ハッスルの旗揚げ戦となるハッスル1に参戦。ソラールと組んでカズ・ハヤシ & 小島聡と対戦するが敗戦した。10月23日、再びハッスルに参戦。ハッスル6にてリスマルク・ジュニアと組んで出場。高田モンスター軍の一員としてエル・ハテナ・ドス(El Hatena Dos)、リスマルク・ジュニアはエル・ハテナ・ウノとしてコミカルなキャラクターで登場し、ハッスル仮面きん & ハッスル仮面ぎんと対戦するが敗戦した。
11月、メキシコのメジャー団体であるCMLLに入団。同月5日、エレア・パーク & ショッカーと組んでラ・フリア・デル・ノルテ(エクトール・ガルサ & ペロ・アグアヨ・ジュニア & タルサン・ボーイ)と対戦して勝利した。CMLLデビュー後、しばらくは6人制タッグマッチを中心に出場するが2005年よりタイトル獲得のチャンスの訪れ、5月10日にはCMLL世界ヘビー級王座を保持するウニベルソ・ドスミルに挑戦するが敗戦。27日にはCMLL世界ライトヘビー級王座を保持するウルティモ・ゲレーロに挑戦するが敗戦し、いずれも戴冠するに至らなかった。
2006年3月4日、闘龍門MEXICOに参戦。ワンデイトーナメントであるヤマハカップにリスマルク・ジュニアと組んでエントリーして決勝まで進出するもチャック・パルンボ & ジョニー・スタンボリーと対戦して敗戦し、準優勝に終わった。3月31日、2世レスラーのトーナメントであるラ・コパ・ジュニア2006に出場し決勝まで進出。エクトール・ガルサと対戦して勝利し、優勝。プロレスラーとしてのキャリア初のタイトルを獲得した。
2007年7月8日、CMLL世界ヘビー級王座を保持するウニベルソ・ドスミルに挑戦して勝利し、ベルトを奪取。CMLL世界ヘビー級王者となってからは2008年12月22日にウルティモ・ゲレーロに敗戦して王座陥落するまで1年に渡りベルトを守り抜いた。CMLL世界ヘビー級王座陥落後、タイトル戦線では後一歩というところまで行くも届かない状態が続いたものの2009年にはルードに転身して大活躍し、ストーリーラインを盛り上げた。6月12日、ショッカーとの3本勝負を行って敗戦したのを最後にCMLLを退団した。
WWE
2010年5月、WWEのダーク・マッチとハウス・ショーにて再びドス・カラス・ジュニアとして登場。7月からSmackDownにてアルベルト・デル・リオ(Alberto Del Rio)にリングネームを変更してプロモーションを行う。専属リングアナリカルド・ロドリゲスを従え、高級車を乗り回し、メキシコの貴族出身を自称する高慢なヒールとして登場し(スペイン王家の血を引くメキシコの大富豪とアナウンスされた)、8月20日の放送においてレイ・ミステリオから勝利を奪うという破格のデビューを飾った。翌週にミステリオを襲撃し負傷させ、アングル上で休場に追い込んだ。その後クリスチャンと抗争するが、クリスチャンが大胸筋断裂で実際に負傷したため、ミステリオ同様の負傷アングルで抗争は終決。入れ替わりに10月1日の放送局移籍記念のSmackDownにてミステリオが復帰、抗争が再開された。11月に2年ぶりに開催されたキング・オブ・ザ・リングでは、予選で専属リングアナウンサーのリカルド・ロドリゲスの援護もありビッグ・ショーにカウントアウトで勝利、1回戦でダニエル・ブライアンを破るが、2回戦でミステリオの邪魔が入りジョン・モリソンに敗れた。同年12月から新人発掘番組であるNXTシーズン4では、コナー・オブライアンやブローダス・クレイを指導するプロとして登場した。
2011年1月30日、Royal Rumble 2011のランブル戦で優勝し、WrestleMania XXVIIでの世界ヘビー級王座への挑戦権を獲得。4月3日、WrestleMania XXVIIにて王者であるエッジに挑戦するも敗退した。4月25日、ドラフトでRAWに移籍。6日後のExtreme Rules 2011ではエッジの引退によって空位になった世界ヘビー級王座の新王者を決定するラダー・マッチでクリスチャンと対戦し、クレイとロドリゲスを介入をさせるもエッジの援護により有利になったクリスチャンに敗戦。王座戴冠は果たせなかった。
7月17日、Money in the Bank 2011において8選手参加のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに勝利し、いつでもどこでもWWE王座に挑戦できる権利を獲得。8月14日のSummerSlam 2011ではCMパンクがジョン・シナを破り統一WWE王者となったが、試合後にケビン・ナッシュが乱入しパンクを襲撃。そこへデル・リオが登場して挑戦権を行使し、パンクをフォール。メキシコ人初のWWE王者となるが、再戦権を行使したシナと9月18日のNight of Champions 2011にて対戦し敗退、王座を失った。
Wikipediaより
アラーニャ・デ・プラタ製 本人着用済みです。
着用写真、直筆サイン入り。
本人が着用した明確な日時、場所等は不明です。
エル・イホ・デ・ドス・カラス(El Hijo de Dos Caras)のリングネームで知られるギジェルモ・ロドリゲス(Guillermo Rodriguez、1988年6月26日 - )はメキシコのプロレスラー。サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。
父は飛鳥仮面のニックネームで知られるドス・カラス。兄はドス・カラス・ジュニア、アルベルト・デル・リオのリングネームで活躍し、現在はAAAに所属するエル・パトロン・アルベルト。伯父にミル・マスカラスとエル・シコデリコ、従兄弟にシコデリコ・ジュニアがいる。
来歴
幼少時、レスリング一族という家系である事からレスリングに打ち込む。
2001年、兄であるドス・カラス・ジュニアが日本の格闘技団体であるDEEPに参戦する事になり、セコンドとしてドス・カラス・フトゥーロ(Dos Caras Futuro)のリングネームで初来日を果たす。以降、DEEPやPRIDEに参戦するドス・カラス・ジュニアのセコンドとして継続して来日した。
本格的にプロレスラーになる事を志し、ダーク・フェニックス(Dark Phoenix)のリングネームでトレーニングを開始。
WWE
2012年8月、WWEとディベロップメント契約を交わして入団。傘下団体であるFCWにて、メモ・モンテネグロ(Memo Montenegro)のリングネームでトレーニングを開始。11月8日、NXTにてビッグ・E・ラングストンとのシングルマッチにてプロレスラーデビューを果たすも一方的に攻められ最後にビッグ・エンディングを喰らいわずか30秒で敗戦。試合後にはラングストンのトレードマークとなっていたアンコールによるビッグ・エンディングをもう一度喰らい5カウントを数えられた。同月28日、エグザビアー・ウッズと対戦。執拗にヘッドロックで捕まり一度はクローズラインを決める場面を見せるが最後にオーナー・ロールを喰らい敗戦した。
2013年7月22日、WWEより解雇となった。
インディー団体
WWE解雇後、エル・イホ・デ・ドス・カラス(El Hijo de Dos Caras)のリングネームを継承。2013年9月6日、プエルトリコの団体であるWWL(World Wrestling League)のWWL Dream Matches Tourに参戦。ミル・マスカラス & シコデリコ・ジュニアと組んでシエン・カラス・ジュニア & マスカラ・アニョ・ドスミル & ウニベルソ・ドスミルと6人制タッグマッチを行うも反則勝利となり、同月8日では再戦を行いプロレスラーとしてのキャリア初の勝利を飾った。
2014年1月、ナウカルパンを拠点とするIWRG(International Wrestling Revolution Group)に入団。7月20日、IWRG Zona XXIにてIWRGインターコンチネンタルヘビー級王座争奪6wayラダーマッチに出場。ドクトル・ワグナー・ジュニア、エレア・パーク、マスカラ・サグラダ、ピラタ・モルガンといった歴戦のオールドスター達を相手に最後は天井から吊るされたベルトを取る事に成功し、キャリア初の王座を戴冠した。10月5日、IWRG Zona XXIにてIWRGレイ・デル・リング王者であるイホ・デ・マスカラ・アニョ・ドスミルと自身が保持するIWRGインターコンチネンタルヘビー級王座を懸けてダブルタイトルマッチを行い、最後にレイネーラを決めて勝利して二冠王者となった。
2015年1月31日、トラルネパントラ・デ・バスを拠点とするUWE(Universal Wrestling Entertainment)に参戦。空位となっていたUWEタッグ王座をエル・イホ・デル・ドクトル・ワグナー・ジュニアと組んでエル・イホ・デル・エレア・パーク & イホ・デ・ピラタ・モルガン、ロス・トラウマス(トラウマ1号 & トラウマ2号)と3wayマッチで勝利して王座を戴冠した。3月1日、IWRG La Rebelion de los Juniors 2015にて2世レスラー達によるバトルロイヤルに出場して最後にイホ・デ・マスカラ・アニョ・ドスミルを脱落させて優勝を飾った。9月12日、プエブラを拠点とするPromociones R.A.に参戦。エル・イホ・デ・エスペクトロ・ジュニア & スティグマと組んで日本人ユニットのラ・フィエブレ・アマリージャ(OKUMURA & カマイタチ & 花岡大輔)と対戦するが無効試合となった。11月1日、IWRG El Castillo Del Terror 2015にてIWRGインターコンチネンタルヘビー級王座を保持するマスカラ・アニョ・ドスミル・ジュニアに挑戦。自身はヴェネノを、マスカラ・アニョ・ドスミル・ジュニアはカニス・ルパスをそれぞれセコンドに引き連れて対戦。試合途中にマスクを剥がされそうになるが耐えきり勝利してベルトを奪取した。
Wikipediaより
トムカラス製 本人着用済みです。
着用写真、直筆サイン入り。
本人が着用した明確な日時、場所等は不明です。
シコデリコ・ジュニア(Sicodélico, Jr.)のリングネームで知られるアーロン・ロドリゲス(Aaron R. Rodríguez、1976年6月13日 - )は、アメリカ合衆国・カルフォルニア州ロサンゼルス出身のプロレスラー。
父はエル・シコデリコ、兄はイホ・デル・シコデリコ。伯父はミル・マスカラス、ドス・カラス。従兄弟のドス・カラス・ジュニア、エル・イホ・デ・ドス・カラスもプロレスラー。
来歴
叔父のドス・カラスの指導を受け、1998年1月にメヒコ州ネツァワルコヨトルアレナ・サンフラン・パンティトランでデビュー。メキシコのインディー団体を経て1998年中ごろからAAAを拠点とし、ペロ・アグアヨ・ジュニアらが率いるロス・ジュニア・アトミコスのメンバーとなって活躍した。
2001年にCMLLと契約し入団。同年8月にベテランレスラーと若手レスラーがタッグを組んで争うトーナメントであるトルネオ・グラン・アルタナティバにオリンピコと組んで出場し、優勝を飾った。しかし、その後大した活躍をすることができず、2003年に退団。2004年1月4日にはハッスルに参戦し、マスカラス一族の一員として来日。ドス・カラス、ミル・マスカラスとタッグを組んでトム・ハワード & ダスティ・ローデス & スティーブ・コリノ組から勝利を飾った。2006年よりIWRG(International Wrestling Revolution Group)に参戦するが、渡米することを決意。同年、アメリカに渡りRCW(River City Wrestling)を経てNWAの加盟団体やChikara、TNAに参戦。
2007年6月、NWA加盟団体のトップレスラーと各国のフリーランサーで活躍しているレスラーたちが集結し、NWA世界ヘビー級王座を争うトーナメントであるReclaiming the Gloryに参戦。一回戦のラフネック・ライアンに勝利するが、続く準々決勝のクラウディオ・カスタニョーリに敗れた。同年7月8日、TNAにてインコグニートとタッグを組み、ジョーイ・ライアン & カール・アンダーソン組、ビリー・キッドマン & ショーン・ウォルトマン組とNWA世界タッグ王座をかけてトリプルスレットマッチで対戦するも奪取に失敗した。
2009年4月、WWEとディベロップメント契約し、入団。傘下団体であるFCWにてトレーニングを積み、リングネームをエスピラル(Espiral)に変更。アルベルト・バンデラスとタッグを組んで出場していたが11月にリリースとなった。
WWE解雇後は再びアメリカのインディー団体を中心に活動。同年2月にはNWA世界ヘビー級王者のブルー・デーモン・ジュニアと王座を巡り抗争するが、奪取するに至らなかった。
2012年9月、ZERO1の天下一ジュニアに参戦するが2回戦で脱落となった。
2013年4月、WWL(World Wrestling League)にて行われたZERO1メキシコ王座を懸けたフェイタル4wayマッチに出場し、アクセル、エル・イホ・デル・レイ・ミステリオ、オクタゴン・ジュニアと対戦して勝利し、王座を戴冠。
2014年3月、WWLにてエル・イホ・デ・ドス・カラスとタッグを組んでWWL世界タッグ王座を保持するロス・マミートス(ミスターE & セクシーB)と対戦するが王座を奪取するに至らなかった。
Wikipediaより
着用写真、直筆サイン入り。
ドクトル・ワグナー・ジュニア
ドクトル・ワグナー・ジュニア(Dr. Wagner Jr.)のリングネームで知られるホアン・ゴンザレス(Juan Manuel Gonzalez Barron、1965年8月12日 - )は、メキシコの覆面レスラー。コアウイラ州トレオン出身。
実父のドクトル・ワグナーは、「殺人医師」の異名を持つルチャリブレの伝説的な覆面レスラー(ルード)で、実弟のシルバー・キングも著名なプロレスラー、元妻もロッシー・モレノで女子プロレスラー。また実子もエル・イホ・デル・ドクトル・ワグナーのリングネームで2010年1月29日にデビューしている。
経歴
1986年4月12日、20歳の時にメキシコのコアウイラ州トレオンのLLIでデビュー。1988年5月、新日本プロレスに参戦するため初来日(なお、1987年全日本プロレスに同名の選手が来日しているが、これはメキシコで既に素顔でファイトしていた弟のシルバー・キングがマスクを被って来日したものである)。
1993年の3月、4月と連続して初代CMLL世界タッグ王座・CMLL世界ライトヘビー級王座を獲得した。
1997年に再び新日本プロレスに参戦し、タッグマッチがメインだったが初参戦の頃よりもスケールの大きな試合をするようになり、選手達や日本のファン、マスコミの評価は一気に高まった。
1998年にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで準優勝、1999年1月4日にはIWGPジュニアタッグ王座を獲得するなど活躍。2001年1月には弟のシルバー・キングと共に参戦した。2002年にも参戦、2003年、2004年には全日本プロレスに弟のシルバー・キングと共に参戦した。
2017年8月26日、メキシコシティで行われたAAA『トリプレマニア25』における敗者覆面剥ぎマッチでサイコ・クラウンに敗北し、出身地、本名が明かされ、以降素顔でリングに立つ。同年9月4日以降はリングネームをレイ・ワグナーと改めている。
特徴
幼少の頃から、弟のシルバー・キングと共に父のドクトル・ワグナーによってルチャの英才教育を施される。このためプロレスに限らず、スポーツ全般を得意としている。
外見上は父のドクトル・ワグナーの白のマスクを継承して「殺人医師2世」を名乗っているが、日本ではルードというより実力派の覆面レスラーとして知られる。近年は多色の黒や赤のマスクやコスチュームを使用する場合も多い。
軽快な身のこなしで空中殺法を得意とする弟に対して、パワーボムやブレーンバスターなどの投げ技を用いたパワー殺法を得意とする。あまりにパワフルなため、プロフィールの体重98kgというのは嘘で、ジュニアヘビー級のリミットである100kgを超えているのではないかという噂が出たことがある。2001年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアでは、対戦したAKIRAが試合前のマイクパフォーマンスで「こいつの体はどう見ても100kg以上あるだろう。これに乗ってちゃんと測ってみろ」と言い、リング上に体重計を持ち込んだ。規定体重超過で失格にさせようと画策したものだったのだが、ワグナーは手渡された体重計でAKIRAを殴りつけ破壊、結局計量は行われなかった。
驚異的なスタミナを誇り、受け身の技術も高く多様なファイトスタイルに対応できる。難度の高い技の応酬も見事にこなすことから、ジュニアヘビー級の選手層の厚い新日本プロレスにおいても非常に高い評価を受けている。
Wikipediaより