太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』邪馬台国吉備説 論争参戦
「日本人の祖先が呉の太伯である」という記録は、大宰府天満宮蔵の国宝に指定されている古文書『翰苑』に記録されています。
「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。
倭人は太伯の子孫説の要点
魏は朝鮮半島の北部に楽浪・帯方郡という植民地を持っていました。
帯方郡から1万2千余里、離れたところに女王卑弥呼の邪馬台国がありました。
① 邪馬台国から来た使者たちは、「自分たちは太伯の子孫である」と名乗っていました。
② 邪馬台国の風俗を見ると、男は身分の高さに関係無く、皆入墨をしていました。
男は一定の年齢になったら全員が入墨をしなければいけない決まりがありました。
「文身點面 猶(なお)太伯の苗と称す。」『魏志』では「黥面文身」です。點面とは顔の入墨のことです。
③ 『史記』趙世家に「黒歯雕題」とあります。つまり「黒い歯をして額に入墨」をするのが呉人の風俗です。
お歯黒に使用していた黒い色素は、入墨にも使用されていました。
④ 『翰苑(かんえん)』にたどり着くことなしに邪馬台国説を発表している説は全て間違いです。
邪馬台国の決定条件は3点のみです。
① 太伯地名があること。
② 邪馬台国を証明する「2~3世紀の線刻人面絵画」が古墳より出土していること。
「黥面文身」については、設楽博巳氏(東京大学大学院考古学研究室教授)の論文『男子は大小となく皆黥面(げいめん)文身す-倭人のいでたち』と『イレズミからみえてくる邪馬台国』が一番重要です。
設楽博巳氏の古代の入墨研究により特徴的分布が確認されています。
2~3世紀の線刻人面絵画出土は吉備国のみです。
3世紀に愛知・岐阜・静岡に移動し、3~4世紀に群馬・千葉・茨城へ移動しています。
③ 「お歯黒伝承」があること。
香登の「お歯黒」に注目しました。
この3点の決定条件が有るのは吉備国のみです。
つまり、邪馬台国は「岡山県の平野部と瀬戸内海をはさんだ香川県の海岸部」となります。
『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国は見えません。
『翰苑』の「日本人の祖先が呉の太伯である」という記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。
このブログでは隠された地名、太伯の場所を明確にし、隠される原因となった江戸時代の厳しい「太伯論争」を明らかにしています。
『倭人は太伯の子孫説』の発想の過程を全て公開しております。
「日本人の祖先が呉の太伯である」という記録は、大宰府天満宮蔵の国宝に指定されている古文書『翰苑』に記録されています。
「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。
倭人は太伯の子孫説の要点
魏は朝鮮半島の北部に楽浪・帯方郡という植民地を持っていました。
帯方郡から1万2千余里、離れたところに女王卑弥呼の邪馬台国がありました。
① 邪馬台国から来た使者たちは、「自分たちは太伯の子孫である」と名乗っていました。
② 邪馬台国の風俗を見ると、男は身分の高さに関係無く、皆入墨をしていました。
男は一定の年齢になったら全員が入墨をしなければいけない決まりがありました。
「文身點面 猶(なお)太伯の苗と称す。」『魏志』では「黥面文身」です。點面とは顔の入墨のことです。
③ 『史記』趙世家に「黒歯雕題」とあります。つまり「黒い歯をして額に入墨」をするのが呉人の風俗です。
お歯黒に使用していた黒い色素は、入墨にも使用されていました。
④ 『翰苑(かんえん)』にたどり着くことなしに邪馬台国説を発表している説は全て間違いです。
邪馬台国の決定条件は3点のみです。
① 太伯地名があること。
② 邪馬台国を証明する「2~3世紀の線刻人面絵画」が古墳より出土していること。
「黥面文身」については、設楽博巳氏(東京大学大学院考古学研究室教授)の論文『男子は大小となく皆黥面(げいめん)文身す-倭人のいでたち』と『イレズミからみえてくる邪馬台国』が一番重要です。
設楽博巳氏の古代の入墨研究により特徴的分布が確認されています。
2~3世紀の線刻人面絵画出土は吉備国のみです。
3世紀に愛知・岐阜・静岡に移動し、3~4世紀に群馬・千葉・茨城へ移動しています。
③ 「お歯黒伝承」があること。
香登の「お歯黒」に注目しました。
この3点の決定条件が有るのは吉備国のみです。
つまり、邪馬台国は「岡山県の平野部と瀬戸内海をはさんだ香川県の海岸部」となります。
『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国は見えません。
『翰苑』の「日本人の祖先が呉の太伯である」という記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。
このブログでは隠された地名、太伯の場所を明確にし、隠される原因となった江戸時代の厳しい「太伯論争」を明らかにしています。
『倭人は太伯の子孫説』の発想の過程を全て公開しております。