(写真は、甲府城の「山手渡櫓門」)
”甲府城は武田信玄の城”、という誤ったイメージを
お持ちの方が多いみたいです。
実際には、甲府城は、武田氏が滅亡した後に、豊臣秀吉の
命により築城されました。
関東の徳川家康に睨みを利かせるための秀吉の重要な
戦略拠点でした。
江戸時代に入ると、当初は、徳川家の一門が城主となる特別な
城でしたが、1704年、祖先が甲斐出身の側用人・柳沢吉保
が城主となりました。
吉保が城主になると、城の整備が大幅に進み、城下町として
大きく発展しました。
しかし、吉保の子の吉里が大和郡山(現在の奈良県大和郡山市
周辺)に国替えになると、「甲斐国」は「幕府の直轄地」と
なり、「甲府城」は「甲府勤番」(注)の支配下におかれ
ました。
(注)「甲府勤番」:「甲府勤番」の職務は城の警備のみで、
その責任者が「甲府勤番支配」で3,000石でした。
江戸からの赴任は、甲州街道の険しい小仏峠と笹子峠を
越えねばないため不人気の職で希望者が無く、後には、
不良旗本の左遷の職とされるようになりました・・・
そして、享保年間の大火などにより、本丸御殿や銅門などが
焼失、甲府城の壮麗な姿は次第に失われていきました。
明治時代に廃城となり、城内の主要な建物はほとんどが
取り壊されました。
現在は、当時の城跡の一部が「舞鶴城公園」(甲府市歴史
公園)として開放され、鉄門(くろがねもん)や稲荷櫓
(いなりやぐら)などが復元されました。
JR甲府駅の南口を出て、駅前のヨドバシカメラの脇の道を
抜けると、もう直ぐに甲府城の入口です。
上の写真は、甲府城の火薬庫の建物の「煙硝蔵」(えんしょう
ぐら)の跡です。
写真は、平成16年に再建された「稲荷櫓(やぐら)」です。
城内の鬼門(北東)に位置することから、艮櫓(うしとら
やぐら)とも呼ばれ、武具蔵(ぶぐくら)として使われて
いました。
写真は、稲荷櫓の内部です。
(稲荷曲輪門)
(鉄門(くろがねもん))
上の写真は、「天守台」の石垣ですが、一つの石を二つに
割った「兄弟石」がいくつかあります。
(赤丸印の中の2個と、2個の黄丸印が兄弟石です。)
(赤丸印が一つの石を二つに割った石割りの痕)
(石割り:甲府城のパンフレットから)
(天守台)
(天守台からの眺め)
上の写真は「銅門(あかがねもん)」跡の当時の礎石です。
(銅門跡から本丸を望む:正面は天守台)
「山手渡櫓門」(やまのてわたりやぐらもん)
写真は、山手渡櫓門の内部です。
写真の「舞鶴城公園」の「内影松門」(うちかげまつもん)
から甲府城を出ます。
「舞鶴跨線橋」で「JR中央本線」を渡り、甲府駅の反対側に
出ます。
舞鶴跨線橋の上から眺めると、甲府駅の南口の「舞鶴城公園」
も北口の「山手御門」も、甲府駅の南北の各々のホームの
真ん前にあります。
という事は、中央本線は甲府城を迂回せずに、お城の真ん中を
突っ切って線路を敷いたんだ!
まあ、明治政府は徳川憎しだったから、迂回なんて配慮は
しなかったんでしょうね。
跨線橋の脇に、写真の「山手御門」があります。
山手御門の横には、上の写真の「甲府 時の鐘」と下の写真の
「甲州夢小路」があります。
甲州夢小路は、江戸時代から昭和初期までの甲府の城下町を
再現したものです。
観光バスの団体が来ていて、どの店も満員だったので、
ここでの昼食を諦めて駅ビルへ向かいます。
(甲州牛スペシャルステーキ丼:1,870円)