ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

甲州街道を歩く( 32-2:甲府柳町②:甲府城(日本100名城))(山梨県甲府市)  2021.10.17

   

(写真は、甲府城の「山手渡櫓門」)    


”甲府城は武田信玄の城”、という誤ったイメージを

お持ちの方が多いみたいです。

実際には、甲府城は、武田氏が滅亡した後に、豊臣秀吉の

命により築城されました。

関東の徳川家康に睨みを利かせるための秀吉の重要な

戦略拠点でした。

江戸時代に入ると、当初は、徳川家の一門が城主となる特別な

城でしたが、1704年、祖先が甲斐出身の側用人・柳沢吉保

が城主となりました。

吉保が城主になると、城の整備が大幅に進み、城下町として

大きく発展しました。

しかし、吉保の子の吉里が大和郡山(現在の奈良県大和郡山市

周辺)に国替えになると、「甲斐国」は「幕府の直轄地」と

なり、「甲府城」は「甲府勤番」(注)の支配下におかれ

ました。

(注)「甲府勤番」:「甲府勤番」の職務は城の警備のみで、

 その責任者が「甲府勤番支配」で3,000石でした。

 江戸からの赴任は、甲州街道の険しい小仏峠と笹子峠を

 越えねばないため不人気の職で希望者が無く、後には、

 不良旗本の左遷の職とされるようになりました・・・

そして、享保年間の大火などにより、本丸御殿や銅門などが

焼失、甲府城の壮麗な姿は次第に失われていきました。

明治時代に廃城となり、城内の主要な建物はほとんどが

取り壊されました。

現在は、当時の城跡の一部が「舞鶴城公園」(甲府市歴史

公園)として開放され、鉄門(くろがねもん)や稲荷櫓

(いなりやぐら)などが復元されました。

 

JR甲府駅の南口を出て、駅前のヨドバシカメラの脇の道を

抜けると、もう直ぐに甲府城の入口です。

 

 

上の写真は、甲府城の火薬庫の建物の「煙硝蔵」(えんしょう

ぐら)の跡です。

写真は、平成16年に再建された「稲荷櫓(やぐら)」です。

城内の鬼門(北東)に位置することから、艮櫓(うしとら

やぐら)とも呼ばれ、武具蔵(ぶぐくら)として使われて

いました。

 

写真は、稲荷櫓の内部です。

 

 

(稲荷曲輪門)

 

 

(鉄門(くろがねもん))

 

上の写真は、「天守台」の石垣ですが、一つの石を二つに

割った「兄弟石」がいくつかあります。

(赤丸印の中の2個と、2個の黄丸印が兄弟石です。)

   

(赤丸印が一つの石を二つに割った石割りの痕)

(石割り:甲府城のパンフレットから)

 

(天守台)

 

 

 

 

(天守台からの眺め)

 

上の写真は「銅門(あかがねもん)」跡の当時の礎石です。

 

(銅門跡から本丸を望む:正面は天守台)

 

 

「山手渡櫓門」(やまのてわたりやぐらもん)

 

 

写真は、山手渡櫓門の内部です。

 

写真の「舞鶴城公園」の「内影松門」(うちかげまつもん)

から甲府城を出ます。

「舞鶴跨線橋」で「JR中央本線」を渡り、甲府駅の反対側に

出ます。

 

舞鶴跨線橋の上から眺めると、甲府駅の南口の「舞鶴城公園」

も北口の「山手御門」も、甲府駅の南北の各々のホームの

真ん前にあります。

という事は、中央本線は甲府城を迂回せずに、お城の真ん中を

突っ切って線路を敷いたんだ!

まあ、明治政府は徳川憎しだったから、迂回なんて配慮は

しなかったんでしょうね。

 

跨線橋の脇に、写真の「山手御門」があります。

 

山手御門の横には、上の写真の「甲府 時の鐘」と下の写真の

「甲州夢小路」があります。

甲州夢小路は、江戸時代から昭和初期までの甲府の城下町を

再現したものです。

 

 

観光バスの団体が来ていて、どの店も満員だったので、

ここでの昼食を諦めて駅ビルへ向かいます。

 

 

 

(甲州牛スペシャルステーキ丼:1,870円)

 

 

 

   


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

ウォーク更家
tadaoxさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
よくご存じですね、そう、この甲府城の公園一帯の地名は「丸の内」です。
そうでしたか、行ったことがありましたか。

ええ、豊臣秀吉の築城とは意外ですよね。
甲府城の位置づけからすると、頼りになる柳沢吉保を城主にしたのは納得感があります。

兄弟石は、私も、現地の説明版とパンフレットで知った新知識です。
ウォーク更家
もののはじめのiinaさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
信玄は”人は城、人は石垣”ですから、甲府に天守閣を築く必要はなかつた訳で、確かに、武田信玄と天守閣を頂く甲府城が関係ないというのは、納得がいきました。

そうですね、甲州街道は、幕府が直轄地の甲府に逃げ込むための街道でしたから、寵臣の柳沢吉保が、その城を大幅に整備したのと話がつながりますよね。
tadaox
甲府城
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/97b626ae5fe20ccaaaf09f0af5d548c2
(ウォーク更家)様、おはようございます。
甲府城って、たしか「丸の内」という地番にある城ですよね。
もし、そうならぼくも行ったことがあります。
しかし、豊臣秀吉が築城したものとは知りませんでした。
柳沢吉保が城主を務めた件も。
いやいや、もっと、兄弟石や煙硝蔵のことも新知識です。
勉強になりました。ありがとうございます。
もののはじめのiina
人は城 人は石垣 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/2d642b6153ad39589a90237a89bce6e3
武田信玄の言葉に、
「人は城、人は石垣」がありますから、甲府に天守閣をいただいたお城があったとは知らなかったです。
その城を大幅に整備したのが、将軍徳川綱吉側近の寵臣だった柳沢吉保とは話がつながりますね。

いざ、江戸城に大乱が起きたときは、甲州街道を使って「幕府の直轄地」甲府に逃げ込む道でしたか・・・。

人は城人は石垣のつづきが、「人は堀、情けは味方、仇は敵なり」でした。

> 昔は、飛行船やアドバルーンを見ました
信玄は狼煙を上げて伝達しましたから、アドバルーンがあればこの上げ下げを用いたでしょうね。

ウォーク更家
お城からの眺め
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、どのお城の天守台も、最も城下町が良く見渡せる位置に築かれたんでしょうね。

戦国時代は、敵の移動がよく見える様に、平和な江戸時代は、城下町の発展して広がって行く様子を一望出来る様に、ということでしょうかね。
hide-san
お城
https://blog.goo.ne.jp
どのお城も
城下町が良く見渡せるように出来ていますね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「街道歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事