(写真は、小仏峠からの下り坂)
「小仏宿」は、一つ手前の駒木野宿との「合宿(あいじゅく)」
で、本陣と脇本陣が無く、問屋1、旅籠11軒でした。
二つ以上の宿で、一つの宿の機能を持つ宿を「合宿」と言い、
甲州街道は、山あいの小規模な宿が多かったため「合宿」が
多くありました。
小仏宿は合宿なので、宿場としての業務は月初から15日迄
で、16日から月末は一つ手前の「駒木野宿」が担って
いました。
ただ、駒木野宿と異なり、小仏宿は、甲州街道の最大の難所
である「小仏峠」を控えていたので、宿泊客で賑わいました。
清流の小仏川に沿って、緩やかな坂道を上って行くと、
やがて、赤レンガ造りのJR中央本線ガードをくぐり、
小仏宿に入ります。
小仏宿は、急坂沿いの宿場町で、宿場に沿って、左手に
小仏川の清流が流れています。
次頁の写真中央の石垣が、名主の「鈴木藤右衛門」が営む旅籠
があった場所ですが、石垣の上の生垣から少しだけ「明治
天皇御小休止場」の碑が頭を出しています。(赤丸印)
現在は、僅かな人家が残るのみの「小仏宿」を後にして進み、
右手の高尾変電所を過ぎると、路線バスの終点の「小仏
バス停」があります。
大勢のハイカーがここで降車しています。
ハイカーのグループに前後を囲まれながら、緩やかな坂道を
上って行くと、やがて、「宝珠寺」(ほうしゅうじ)が
ありました。
宝珠寺の参道口には、上の写真の「馬頭観世音菩薩」の
大きな文字塔があり、その台石には、下の写真の様に
「小佛宿」と刻まれています。
かつては、この辺りまで「小仏宿」が続いていたらしいです。
宝珠寺から更に進むと、その先に「車止め」があり、
舗装道路はここ迄です。
車止めの先の土の道が、小仏峠の東登り口で、前頁の
Y字路を左に進みます。
Y字路を右に進むと、「景信山(かげのぶやま)」の登山道
ですが、このルートは閉鎖されていました。
急な坂で、息が上がります。
小仏宿から小仏峠への甲州街道は、九十九折(つづらおり)の
急坂が続く峠道です。
これまでの日光街道も奥州街道も平地だったので、急な山道を
歩くのは、中山道踏破以来で7年振りです。
歳のせいか、バランスを崩してフラフラします。
こんなハズでは・・・
中山道踏破のときの峠越えに比べれば、小仏峠越えは楽勝の
ハズなのですが・・・
(中山道踏破のときの碓氷峠越え、和田峠越え、十三峠越えに
ついては、各々「中山道を歩く :碓氷峠」、
息を弾ませながら、必死で樹間の急坂を上ります。
もう無理~、一休みしないと。
木の根っこに座って休んでいると、若いハイカーのグループが
追い越して行きました・・・
力を振り絞って、歩いて行くと、意外に早く小仏峠の頂上が
見えてきました!
頂上のベンチで一休みして、早朝にコンビニで買った
オニギリを食べます。
木々の合間から、新宿の高層ビル群でしょうか?、都心の風景
が微かに霞んでみえます。
小仏峠は、地理的には、東京都八王子市の裏高尾町と、
神奈川県相模原市の緑区の境界に位置しています。
小仏峠の地名の由来は、ここに小さな仏様が祀られていた
ことによるのだそうです。
また、小仏峠は、多摩川水系と相模川水系の分水嶺でも
あります。
当初は、小仏峠の頂上に「関所」が設けられましたが、後に、
小仏宿の一つ手前の「駒木野宿」に移されました。
写真は、頂上ににある「地蔵尊と庚申塔」です。
また、何故か、山頂には陶器の狸が3匹います。
頂上のベンチで一休みしたあと、頂上周辺を散策します。
上の写真の左側は、朽ち果てた「青木茶屋」の跡で、その
横には下の写真の「三条実美歌碑」が建っていました。
「来てみれば 蚕飼ひ機織り いとまなし 甲斐のたび路の
野のべやまのべ」と、多摩や甲州が、養蚕、製糸、織物業で
賑わう様子を詠った句が刻まれています。
三条実美歌碑の右側には、上の写真左側の小さな
「峠の地蔵」と、写真右側の高い石碑の「明治天皇
小佛峠御小休所趾及御野立所碑」が建っています。
次頁の写真は、1795年建立の「高尾山道標」です。
この高尾山道標を左手に進むと、高尾山へ向かうハイキング
コースで、旧甲州街道は、この高尾山道標の右手の坂道を
下って行きます。
大勢のハイカー達は、皆、左手の高尾山へのコースへ
向かいます。
右手の旧甲州街道へのコースへ向かうのは、取り敢えずは、
私だけみたいです・・・
何か心細いなあ~・・・
でも、旧甲州街道は、思ったよりも、甲州古道の道標が
整備されているので、少し不安が和らぎました。
(甲州道中標柱)
急な坂道を、勢いよくどんどん下って行きます。
中山道以来7年振りの急な山道で、膝がガクカクします。
股関節炎の再発が心配です・・・
濡れ落ち葉に足を取られ、バランスを崩して、フラフラと
思い切り尻もちをついてしまいました!
痛っ!
こんなハズでは・・・
それでも、急な坂道を勢いよくどんどん下って行くと、
少し上空が開けて、次頁の送電線の鉄塔の下に出ました。
何の表示もありませんが、地図を見ると、この辺りが
「中峠茶屋」の跡らしいです。
やがて、土の道がコンクリートの階段になり、舗装路に
合流しました。
小仏峠の西登り口の標識があります。
「甲州道中標柱」の標識があり、「底沢バス停1.7キロ
相模湖駅3.7キロ」とあります。
この合流点を、上の写真の様に、ヘアピン状に、
右に回り込んで、坂を下りて行きます。
う~ん、次頁の写真の様に、この道の先では大規模な
工事で行き止まり?
何とか、工事現場の前を抜けられました・・・
左右にくねる甲州街道を進み、中央自動車道の高架を
くぐると、やがてT字路に突き当たります。
T字路の解説版によると、浄瑠璃や歌舞伎の「小栗判官と
照手姫」で知られている「照手姫」は、ここ小仏峠の麓の
「美女谷」の生まれで、その美貌が地名の由来だそうです。
照手姫の父は、北面の武士でしたが、不幸にも両親が相次いで
死去、その後、美女谷を出た照手姫は、数奇な運命を辿り、
東海道の藤沢宿で「小栗判官」と劇的な出会いをして、
常陸の小栗城で末永く幸せに暮したそうです。
旧甲州街道は、美女谷川を美女谷橋で渡ります。
次に、中央自動車道の高架をくぐりますが、その高架の橋脚の
手前の大きな石の上に、写真の明治16年建立の「馬頭観世音
文字塔」がありました。
旧甲州街道は、次頁の写真のJR中央本線の長久保のガードを
くぐりますが、地図によると、このガードの手前に、
「小原の一里塚跡」があるはずなのですが?・・・
う~ん、無いなあ~・・
あっ!倒壊した家の脇に、「小原の一里塚跡」の案内板の
切れ端が・・・
ありました。
日本橋から15里目(60キロ)です。
長久保のガードをくぐり、突当りのT字路を右折します。
底沢に沿って下ると、国道20号線に突き当たり右折します。
このT字路の左手の上の写真の底沢橋の脇に、「相模湖駅
2キロ」の看板もありました。
上の写真の底沢バス停を通過します。
あと一息で、次の「小原宿」です。
頑張って国道20号線を進みます。
小原宿の入口の上の写真の「小原の郷」が見えて来ました。
小仏宿から小原宿まで約7キロです。