(写真は、武田信玄の諏訪侵攻により、捕らわれ
自刃した「諏訪頼重」の墓)
今回は、早朝に新横浜からJR中央線に乗り、八王子駅で
特急列車・あずさ号に乗り換え、前回のゴールの
「茅野(ちの)駅」で下車します。
(JR茅野駅)
茅野駅の駅前広場には、写真の「姥塚(うばづか)古墳」の碑
があります。
明治38年、中央線の開通にともなって、茅野停車場が
設けられ、ここにあった古墳は取り崩されたそうです。
茅野駅前の交差点には、「諏訪大社上社」の大鳥居が建って
います。
上の写真の大鳥居の先の茅野駅西口の交差点は、Y字路に
なっているので、左手の道を進みます。
暫く歩き、「上原」の交差点で、国道20号に合流します。
ここ上原は、鎌倉時代には上原城の城下町で、ここを治めた
諏訪信満の代から頼重の代まで、諏訪氏の居城として、
政治、経済、文化の中心地でした。
上原八幡の交差点を過ぎると、諏訪盛重が鎌倉の鶴岡八幡宮を
勧請したという「上原八幡宮」があります。
江戸時代、高島藩主・諏訪氏の上原八幡宮への信仰は篤く、
参勤交代の際は、藩主はここで下馬し、道中の安全を
祈願した後に、駕籠に乗り換えたそうです。
やがて右手に「鍛冶小路」の標石(注)があり、その脇の小路
を入って行くと右手に、上原五山の一つだったという
次頁の写真の「金剛寺跡碑」があります。
(注)「○○小路」の標石:ここ上原には、上原城の
城下町だった時代の町名の「○○小路」の
表示石が多数設置されています。
更に直進して、JR中央本線を超えて、国道20号に
合流します。
「塔所小路」の上原城下の標石があり、更に進んで「上原北」
の交差点を通過します。
「渋沢小路」の標石があります。
やがて右手に「茅野上原郵便局」があるので、ここを右折して
国道20号から分かれます。
JR中央本線のガードをくぐると、次第に上り坂になります。
坂の途中には写真の「道標や常夜燈」があります。
大きな道標には、「右江戸道」、小さな道標には、「右江戸道
左山浦道」、常夜燈には、「右東京迄 左大門道」と刻まれて
います。
右手に「甲州道中」の標石がありますが、この辺りから、
茅野市から諏訪市に入ります。
やがて右手に「火燈(ひとぼし)公園」があり、その先の
右手に「頼重院」があります。
参道口には、「上原城主・諏訪頼重公廟所」の碑があります。
頼重院は、諏訪頼重の菩提寺です。
本堂の左手には、上の写真の「諏訪頼重の供養塔」が
あります。
1542年、諏訪氏の第19代当主の「諏訪頼重」は、武田信玄
の諏訪侵攻により、捕らわれの身となり自刃させられました。
頼重の家臣は、頼重の遺髪を持ち帰り、密かにここ頼重院に
葬りました。
これにより、諏訪家は断絶したかと思われました・・・
が、何と!、諏訪一族の生き残りの「諏訪頼忠」(頼重の
従兄弟)が、武田氏が滅亡すると挙兵して、諏訪の地を奪還
しました!
しかし、奪還したと思いきや、その後、徳川家康に仕えた諏訪
頼忠は、家康により、上野国の総社に所領を移されてしまい、
諏訪の地を奪われてしました・・・
しかし、しかし、更にその後、諏訪氏は、関ケ原の戦では
江戸城を守った功により、家康により諏訪の地を賜り、
見事に諏訪の地を取り戻したのでした!!
めでたし、めでたし。
う~ん、それにしても凄い執念です!!
頼重の供養塔の脇には、上の写真の新田次郎の句碑「陽炎
(かげろう)や 頼重の無念 ゆらゆらと」が建っていました。